2019年11月30日土曜日

いよいよ師走



知らない間に師走を迎えることになった
今や一年の内のどこにいるのか分からなくなるような感覚が生まれているので不思議ではない
絶対時間のようなものを体験しているのだろうか

そろそろ今年もまとめをしなければならない時期になったということでもある
2019プロジェを振り返る作業である
と同時に、2020の絵を描かなければならない

これらの作業は非常に重要だ
この生き物にはどのような癖があり、どの程度の機能があるのかが見えてくるからだ
つまりそれは、ソクラテスが言った意味での哲学にも通じる






2019年11月28日木曜日

思いがけない変化



寒さに厳しさが増してきた
しかし、バイカル湖で寒中水泳をするご老人たちの姿を見ていると、まだ大したことではない

実は暦が消えつつあるのだが、それにしてもまだ水曜だったのか、というのが昨日の感想
それだけ一日を十分に摘み取っているからなのだろうか
この一週間はなぜか朝から動き出すようになっている
朝から夜まで、しかも集中を切らさずに

これは驚くべきことである
それにもかかわらず、前に進んでいるように見えないのも驚きである

しかし重要なことは、集中の中にいる時間をどれだけ長く取れるかではないか
その間、永遠という至福の時を過ごすことができる
その中にいなければ気付き得ないことにも気付かせてくれる
そして、そこでは時間が流れていないので年を取らないことにもなる





2019年11月27日水曜日

生物における情報を考える




新しいエッセイが雑誌「医学のあゆみ」に掲載されました
 
エッセイ・シリーズ「パリから見えるこの世界」の第85回
 
  生物における情報の流れ、あるいは情報の定義は可能なのか
 
医学のあゆみ(2019.11.9)271 (6): 625-629, 2019





2019年11月24日日曜日

秋野亥左牟の在り難き生き方



今朝は在り難いものを見せてもらった
日美が秋野亥左牟(1935-2011)という芸術家を取り上げていた
初めての方だったが、その生き方には感じるところ大であった

第二次大戦敗戦直後に180度変わった教師の言葉に大人の社会に不信感を持つ
共産党に参加して扇動されるままに行動
しかし、後にそれは一部の跳ね返りの行動とされる

それから、母親の日本画家秋野不矩(1908-2001)と一緒にインドを訪問したのが転機になる
おそらく、人間の根源的な生き方に目覚めたのだろう
現代文明が浸透するそれまでの日本での生活がはっきり見えてきたのではないだろうか

それ以降、文明の垢(経歴や自尊心など)を剥ぎ取るように努めた
そして、旅に出、時には地に根を張る生活を続ける
後年は島で暮らしたり、絵を見せ、自らの体験を語る旅に出たりしていたようだ

亥左牟氏が語っていた「他の火にあたる」という言葉が紹介されていた
旅に出た土地で全身を晒し、それにより自らを変容させようとしたのではないだろうか
晩年は兵庫の里山で暮らし、76歳で亡くなった


先日、わたしの中に「まだ何も始まっていない」という感覚があると書いた
その中に、このような生き方への願望のようなものが含まれているのではないか
そんな思いとともに、在り難いが故に有難い人生を垣間見させてもらった日曜の朝である






2019年11月21日木曜日

朝はリラックス、夜は集中



単調な日常である
最近の傾向は、朝から動き出さないことだろうか
そう決めてやっているというより、何もしないで朝を味わいたいという欲求に負けているだけである
それで何の問題もないと考えるようになっている
その何もしない時間がひと日の後半へのエネルギーとして生きてくるようだ

もう一つの最近の特徴は、夕方から夜にかけて非常に集中力が増してくることだろうか
それが可能になる空間を見つけたことが大きな要因になっている
これは信じられない嬉しい変化である





2019年11月17日日曜日

ガラスが隔てるもの



この1週間ほど外の世界に出ていたが、非常に長く感じた
これは最近の感覚なのだが、時の流れがゆったりしているのだ
ひと月が数か月に感じる
より正確には、無限の中にいるような感覚と言ってもよいだろう

そして、再び静かな時間が戻ってきた
今朝、ガラス越しに外の景色を見ている時、ガラスが邪魔しているものに気付く
暫く前から感じていたことだが、ガラス窓を開けた時に見える景色の生々しさが失われているのだ
今日もその生々しさを味わうため、寒い中ガラス窓を開け放ち、久しぶりに紫煙を燻らす
朝日に漂う紫煙の美しさに気付いたのはパリにいた時だが、その至福の感覚は今でも失われていない
暫しのメディタシオンの時間となった




2019年11月15日金曜日

学友との恒例のデジュネ



本日はこのところ恒例となった学友とのデジュネがあった
お二方ともまだ仕事をされているようだが、そろそろ引き時が頭に浮かぶことがあるという
スポーツ選手などはその時期は早いが、人間である以上その時はいずれ誰にでも来る
難しい判断になるのだろうか
その割にはお元気そうであった

話題はいつものように何が出てくるのか分からない
最初は最近亡くなった後輩の話が出ていた
私と食事中に亡くなったという話を聞いたとのこと、人の噂は当てにならない
私は長いお付き合いだったので感慨深いものがある
周りに気を遣う人であった
私のエッセイは客観的に(第三者の作品として)読んでくれていたようで、コメントは参考になった
と同時に、元気を与えてくれるものが多かった

それから日本の古い美術の素晴らしさも話題に出ていた
私の方は、訪れたことのある古寺の仏像の印象などを語る程度
それとは別に、日本に帰ると観る番組として新日本紀行を挙げ、日本の古層にある風景に言及
都会にいると非現実に見えるかもしれないが、現実である

日本と言えば、最近の政治の体たらくは一体どこから来ているのだろうか
批判的な目を持つことだけがその機能のはずのマスコミが全く駄目になっているからか
昨日の丸山氏ではないが、それでなくても「もの・こと」をしっかり見ることが苦手な我々である
歯止めが利かなくなるのは当然の帰結か

その根には、考えなくなっている我々の日常があるのではないだろうか
数字がすべての基準として幅を利かすようになり、我々は考えなくなってきた
この傾向は新自由主義が入ってくる以前の20世紀中頃には明らかになっていた
実証主義的思考が優勢になってきたことと関係があるように見えるのだが、、
ハイデッガーではないが、計算的な思考には強くなったが、真の意味での思考ができなくなっている
考えることができる人間が増えなければ、根本的には変わらないような気がする
それとは別に、変わらなくてもよいという考え方も根強いように見える

冒頭の引退の話を突き詰めれば、人間としての引退もいずれ訪れる
それは突然のこともあるだろうし、だらだらと引きずることもあるかもしれない
いずれにしても先のことを心配しても始まらない
その厳然たる事実を認めた上で、日々励むしかないのだろう
あるいは、それを真に認識できれば、励まざるを得なくなるだろう
そんなところでお開きとなった







2019年11月14日木曜日

「丸山健二さん トークイベント」に顔を出す



今日は神保町界隈で時を過ごす
夜、作家の丸山健二さんがトークイベントをやるというので、お話を聴くことにした
東京堂書店の6階ホールが会場であった

タイトルは本人のご指名で、最近作の題と同じ「人の世界」
現在75歳で、過去50数年第一線でやってきたが、このような例は少ないと言っていた
よく出ていたのは、現在の出版界の厳しいお話だった
新作は書いているが、出す出版社がないという
昔はマンガなどで儲けた分で文学を出すところもあったが、今はないようだ

丸山氏によれば、文章そのものを冷徹に見ると、日本文学の主流は幼稚で自己愛に溢れている
人の世界の生々しさから目を逸らしているが、それは本当の文学なのかと言うのだ
夏目漱石が未だに最高峰と言われるが、その後の文学者は一体何をやっていたのか
丸山氏に言わせれば、近代文学を始めた人としてはそれなりだが、漱石も大したものではない
まだまだやるべきことがあるという

日本文学が駄目になったのは、小説を商品として扱うようになったからだとの見立てである
作家と編集者、時に評論家などが相互依存の関係になり、事情で仕事をするようになっているようだ
丸山氏は表現の可能性を求めて、新しい文体を開発するのに5年は費やすという
日本にそんな人はいないと言われたと話していた

自分が会得したものをこれからの人に教えるべく塾を開いているという
1から20までのレベルがあり、芥川賞などは2-2.5程度
ピアノで言えば、「猫踏んじゃった」のレベルとのことで厳しい
氏は15位まで行っていると見ていたが、最近最高レベルは30位ではないかと考えているようだ

昔から作家はその気になってポーズを取ったり、酒を飲んだりしていた
今でもそういうところがあるのだろうか
丸山氏は、本当の文学者は酒ではなく、牛乳を飲まなきゃ駄目だと言っていた
その真意は分かるような気がする
文学にとって重要なのは、自分を見る目、人を見る目、正確に生々しい姿を見る目だという

最後に会場から、海外の作家では誰を評価しているのかという質問があった
それに対して、ホフマンスタールの『騎兵の物語』は凄いが、『影のない女』はいただけないとのこと
それから、マルグリット・デュラスの作品(『夏の雨』??)を挙げていた


わたしはおそらく20歳を境に文学を読まなくなったので、深いところまではよく分からない
しかし、先日の科学の会に比べると、「分かった感」には雲泥の差があった




2019年11月13日水曜日

「これからの微生物学」シンポジウムで科学の言葉を再考する



昨日の午後は『これからの微生物学』出版を記念してのシンポジウムに参加した
会場は国立国際医療研究センター(NCGM)の大会議室だった
最初、間違って奥の方まで行ってしまったが、若手の研究者が親切にも会場まで案内してくれた
これで最近の若者を特徴付けることはできないだろうが、気持ちの良い対応であった

シンポジウムの初めに訳者として紹介され、ほんの一言、本の宣伝をさせていただいた
トップバッターはパスツール研究所のパスカル・コサール教授
専門のリステリア菌について、未発表のものも含めた最新の成果が発表された

聴衆として彼女が頭に置いていたのは、この領域の専門家だったと思われる
そう理解したのは、明日の岡山は聴衆が違うので調子を変えると言っていたからだ
今日は普通の学会発表と全く同じであった
分野違いの専門家や一般人は理解できなかったのではないだろうか

哲学に入ってから感じているのは、科学の発表は分かり難いということである
科学に溢れる専門用語や略語はまさしく身内にしか通じない隠語で、普通の人の理解を妨げる
同じ略語は分野が変わると全く意味が変わることもある
しかも脈絡の説明をできるだけ短くして、事実に集中する
したがって素人には、相互の関係が分からないまま事実が羅列されるだけに見えるのである
今回もそのことを痛感していた


科学の内容を如何にプレゼンテーションするのかは大問題である
その昔に読んだイギリスの免疫学者ピーター・メダワーの言葉が今も鳴り響いている
それは次のようなものである

 優れた科学者が時に分野違いの雑誌を目にすることがあるかもしれない
 しかし、そこに何が書いてあるのか理解されなければ大きなチャンスを失うことになる
 
当時は狭い範囲の人をイメージして書いていたので、そんな人もいるのかという感じだった
しかし今は、優劣は別にして、異なる分野を覗く人になっている
この言葉は、できるだけ多くの人が理解できるように書くよう努めよ、という忠告である
自分の仕事をできるだけ広いパースペクティブの中に入れて捉えよ、ということだろう
それは言葉遣いを易しくすることと同じではない
この問題は科学に限らず、あらゆる専門について言えることで、哲学も例外ではない
わたしにとってもこれからの大きな課題になりそうである


シンポジウム後半では、現在の大問題である薬剤耐性(AMR)が議論された











2019年11月11日月曜日

デジュネの後は平凡な一日



今日は半世紀前からのお知り合いと東京を眺めながらのデジュネとなった
これまで通りイタリア語の習得に余念がないと受け止めた
また、わたしの中には「まだ何も始まっていない」という感覚がある
その言葉を発した時、「まだ何かやり始めるつもりなのか」と完全に呆れられてしまった

その後はプロジェに当たる平凡な一日
人生とはそんな歩みの積み重ねなのか





2019年11月10日日曜日

パスカル・コサール教授との会食、そして講演会のリマインダー



日本パスツール財団の渡辺さんのお誘いで、パスカル・コサール教授と夕食をご一緒した
気さくなお人柄で、今日日本に着かれたばかりとのことだったがお元気であった
彼女の著書『これからの微生物学』を訳したご縁でいろいろなお話を伺うことができ、幸いであった
明日から講演が続くようだが、わたしが関係している会のご案内を再度しておきたい


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日本パスツール財団と国立国際医療研究センターの共催でシンポジウムが開催されます

これからの微生物学 ー 我々は微生物といかに付き合うべきか?
 
日時: 2019年11月12日(火)14:00 ~ 17:50


会場: 国立国際医療研究センター 研修棟5階 大会議室
   (〒162-8655 東京都新宿区戸山1-21-1)




プログラム 

参加は無料ですが、日本パスツール財団への申し込みが必要になります 

参加申込書 

宛先: 一般財団法人 日本パスツール財団 事務局
    中村 日出男 /  大谷 恵子
    TEL: 03-6228-5361    FAX: 03-6228-5365
    E-mail: jimukyoku@pasteur.jp

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2019年11月9日土曜日

第6回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる



本日の午後から第6回FPSSが日仏会館で開催された
今回は新しい方を含めた多くの皆様の参加があり、活発な議論が進行していた
いつものように時間が足りなくなるくらいであった

話題は以下の二つであった
(1)武田靖氏の「科学と技術の本質的な違いについて ― 実践者の立場から」
(2)武田克彦氏の「神経心理学からみた意識について」
要旨はこちらにあり、発表のまとめと参加者からのコメントを同じページに載せる予定である


お忙しい土曜の午後の時間を割いて参加された皆様に改めて感謝いたします
暫くの間は未発表の賛同者を中心に発表していただくことを考えております
次回も主宰者の方から話題提供をお願いする予定です
無理のない範囲でご協力いただければ幸いです

また、懇親会ではこれからの会の構成や進め方についてのご意見が聞こえてきました
正式なコメントとして届いた段階で、今後の運営に生かしていきたいと考えております
今後ともご理解、ご協力をいただければ幸いです







 

2019年11月4日月曜日

庭の朝露と共に今日を思う



本日は見事な快晴
今朝はこれまでになく寒いように感じた
庭の朝露が日の光に輝いて美しい
枯れた草の中にもまだ花を咲かせているものがある
植物の逞しさを見る思いだ
さて、今日はどんな日になるのだろうか




2019年11月1日金曜日

哲学にとっての現代性



田中美知太郎の『人間であること』所収の「哲学にとって現代性とは何か」を読む

哲学には決まった対象がないので、どの時代のどんな問題についても考えることができる
そこで問題になるのが、現代の問題を扱う際の理由をどこに見出すのかという問いである

ヘーゲルは『法の哲学』の序文で、次のようなことを言っている

  我々は時代の子なので、その理解は時代の制約の中にある
  その外に出られると考えるのは妄想である

それ以来、哲学は現代の問題を扱わなければならないとされているという
田中はそのことを問い直すためにヘーゲルの真意を探る

ヘーゲルは現実国家を理解することが重要で、あるべき姿を語ることではないと考える
彼は「ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ」と書いた

哲学は出来事が完結した後、アポステリオリに考えるものだという主張である
何かが終わってから始まる営みが哲学だという見方である
従って、あるべき世界を語る時には「こと」は終わり、間に合わないというのである

これに対して田中は、歴史が絶対的な完成を見ることはないと言う
従って、我々は時代と相対関係にある
哲学の保守的現実肯定は続くが、その中でも先を見つける方向に我々を促すと考えている

ヘーゲルは言う

  時代の中にあってその実体を知ることは、時代を越え、その外に出ることになる

それを受けて田中はこう解説する

  時代の実体を知ることは、その実質には何も加えない
  しかし、知ることにより時代の実体に含まれていなかった新しいものを加えたことになる
  つまり、それによって哲学は時代を越え、その外に出ているのである

その具体例として、ヘーゲルはギリシア哲学がキリスト教に引き継がれたことを挙げている
ギリシア哲学の中に含まれていた可能性が後に現実になったと捉えている
その場合、哲学がアプリオリに何かを提示できることを意味している

田中は言う

  時代を越えて新しい可能性をひらくことは、時代に徹し、時代の終結となることで可能になる

歴史の完結については、議論が多い
田中が厳しく批判するエンゲルスは、歴史は完全な国家という形では終わらないと言った
プラトンは、理想国家は地上に見られず、天上に存在するだけなのかもしれないと言った
ヘーゲルは、現実には存在しない理想に向けての無限の接近という考えには組しなかった

歴史における完結は、歴史の中のすべて(=国家・社会)が完成するということである
それは天国が地上に実現するということで、神は無用となる
神の国は地上にはないからである
ヘーゲルが無神論者だと非難された理由である

逆の言い方をすれば、理想や絶対的なものは歴史や現実の中には存在しないことになる
現実に存在しないからと言って、絶対的なものが存在しないという根拠にはならないのである
そもそも別のところにあるからだ

そうだとすれば、と田中は問う
常に理想に近づくための運動であり、準備段階にしかいない我々の生に満足できるだろうか
寧ろ、不確実な未来に縛られた生き方を止めなければならないのではないか
もし現在の時代で完結を願うのだとすれば、現代のうちに理想を求めればよいのである

ヘーゲルはこう言った

 理性的なものは現実的なもので、現実的なものは理性的なものである

我々の経験は現在において完結しているので、それを理解することが哲学の仕事になるだろう
ただ、絶対的なものも自然も歴史化されない
従って、現代の理解は進めるが、現代に囚われるのを戒めなければならないと田中は言う
時事問題が哲学の試金石などというデマに惑わされる必要はないのである

最後に「現代哲学」と「現代の哲学」との違いを指摘している
現代哲学とは、現代に見られる現象、一つの流行としてものである
それは、マルクス主義であり、実存主義であり、分析哲学などである
現代を理解するための一つのやり方であり、適切なもの、有効なものである保証はない
そのような中に入って考えることは、実は考えていることにならない
それは、ジェルファニョンが言っていた「考え方を知っている思想家」になることだろう

それでは「現代の哲学」とは何を言うのだろうか
それは、現代が対象として先にあり、諸々の哲学を利用して理解するものになるのだろうか
現代を理解するためにイズムの奴隷になるのではなく、主人になるような哲学とも言えるだろうか