田中美知太郎の『
人間であること』所収の「哲学にとって現代性とは何か」を読む
哲学には決まった対象がないので、どの時代のどんな問題についても考えることができる
そこで問題になるのが、現代の問題を扱う際の理由をどこに見出すのかという問いである
ヘーゲルは『法の哲学』の序文で、次のようなことを言っている
我々は時代の子なので、その理解は時代の制約の中にある
その外に出られると考えるのは妄想である
それ以来、哲学は現代の問題を扱わなければならないとされているという
田中はそのことを問い直すためにヘーゲルの真意を探る
ヘーゲルは現実国家を理解することが重要で、あるべき姿を語ることではないと考える
彼は「ミネルバのフクロウは黄昏に飛び立つ」と書いた
哲学は出来事が完結した後、アポステリオリに考えるものだという主張である
何かが終わってから始まる営みが哲学だという見方である
従って、あるべき世界を語る時には「こと」は終わり、間に合わないというのである
これに対して田中は、歴史が絶対的な完成を見ることはないと言う
従って、我々は時代と相対関係にある
哲学の保守的現実肯定は続くが、その中でも先を見つける方向に我々を促すと考えている
ヘーゲルは言う
時代の中にあってその実体を知ることは、時代を越え、その外に出ることになる
それを受けて田中はこう解説する
時代の実体を知ることは、その実質には何も加えない
しかし、知ることにより時代の実体に含まれていなかった新しいものを加えたことになる
つまり、それによって哲学は時代を越え、その外に出ているのである
その具体例として、ヘーゲルはギリシア哲学がキリスト教に引き継がれたことを挙げている
ギリシア哲学の中に含まれていた可能性が後に現実になったと捉えている
その場合、哲学がアプリオリに何かを提示できることを意味している
田中は言う
時代を越えて新しい可能性をひらくことは、時代に徹し、時代の終結となることで可能になる
歴史の完結については、議論が多い
田中が厳しく批判するエンゲルスは、歴史は完全な国家という形では終わらないと言った
プラトンは、理想国家は地上に見られず、天上に存在するだけなのかもしれないと言った
ヘーゲルは、現実には存在しない理想に向けての無限の接近という考えには組しなかった
歴史における完結は、歴史の中のすべて(=国家・社会)が完成するということである
それは天国が地上に実現するということで、神は無用となる
神の国は地上にはないからである
ヘーゲルが無神論者だと非難された理由である
逆の言い方をすれば、理想や絶対的なものは歴史や現実の中には存在しないことになる
現実に存在しないからと言って、絶対的なものが存在しないという根拠にはならないのである
そもそも別のところにあるからだ
そうだとすれば、と田中は問う
常に理想に近づくための運動であり、準備段階にしかいない我々の生に満足できるだろうか
寧ろ、不確実な未来に縛られた生き方を止めなければならないのではないか
もし現在の時代で完結を願うのだとすれば、現代のうちに理想を求めればよいのである
ヘーゲルはこう言った
理性的なものは現実的なもので、現実的なものは理性的なものである
我々の経験は現在において完結しているので、それを理解することが哲学の仕事になるだろう
ただ、絶対的なものも自然も歴史化されない
従って、現代の理解は進めるが、現代に囚われるのを戒めなければならないと田中は言う
時事問題が哲学の試金石などというデマに惑わされる必要はないのである
最後に「現代哲学」と「現代の哲学」との違いを指摘している
現代哲学とは、現代に見られる現象、一つの流行としてものである
それは、マルクス主義であり、実存主義であり、分析哲学などである
現代を理解するための一つのやり方であり、適切なもの、有効なものである保証はない
そのような中に入って考えることは、実は考えていることにならない
それは、ジェルファニョンが言っていた「考え方を知っている思想家」になることだろう
それでは「現代の哲学」とは何を言うのだろうか
それは、現代が対象として先にあり、諸々の哲学を利用して理解するものになるのだろうか
現代を理解するためにイズムの奴隷になるのではなく、主人になるような哲学とも言えるだろうか