2017年11月4日土曜日

不思議な出会いの吉野山



吉野山散策の記事も3回目となった
どのような順序で歩いたのか分からないので、地図を頼りにその後を辿ってみたい
勝手神社から只管登っていたのだと思う
暫くすると、後醍醐天皇(1288-1339)の歌碑が現れた







さらに登って行き、展望台のようなところに入った時のことである
おそらく「花矢倉」と名付けられたところではないかと思うが確かではない
車で来られていた方が、途中まで一緒にいかがですか、と声を掛けてくれたのである
背広にワイシャツに革靴という登山ではあり得ない姿なのを見て、心配されたのかもしれない
これから先どれくらいあるのかもわからなかったので、ご一緒することにした

関西在住で、退職後に趣味の絵や山歩きで悠々自適の生活をされているとのこと
この辺りにもお詳しいようであった
色々な話題について話すことになったが、日本人の宗教観が特に印象に残った
わたしのように科学者の中で過ごしてきた者にはなかなか想像できないことだったからだろう

日常の暮らしの中で、日本人は宗教心に溢れていることを感じているという
現世と来世という観念があり、来世のために現世で功徳を積むという考え方の人が多いという
身の周りにそのような人を見掛ないとなかなか分からない現実である
日本人が無宗教という考えには賛成しかねるご様子であった

確かに、日本の至るところに亡き人を悼む碑があることに気付くようになっている
立派なものから目立たないものまで
今回も山奥まで実に多くのものを見ることができた
これも宗教心の表れと考えてよいのだろうか
科学の世界が寧ろ異質な世界なのかもしれない





まず、吉野水分(みくまり)神社に案内していただいた
重要文化財であり、世界遺産でもある
門をくぐって中に入ると、建物の古い佇まいと静かな空間が待っていた
心も鎮まる
暫しの間、その空気を味わう








案内には、こうある
「水を配る」天乃水分神(あまのみくまりのかみ)を祀る、大和の国の四大水分の一つ
平安時代から「御子守(みこもり)」と呼ばれ、子授け、安産の神として信仰を集めてきた
本居宣長(1730-1801)の父親もここで祈願したことから宣長を授かったと言われる
そのため、宣長自身「水分神社の申し子」として3度訪れているという




入り口近くに西行さん(1118-1190)の像があった
実は、この日最後に辿り着く予定のところが西行庵なのである
それにしても想定外の素晴らしい空間であった




水分神社を出て、ここ修行門まで送っていただいた
別の山に向かわれるとのことで、ここで別れた
振り返れば、かなり重要な場所で道案内をしていただいたことが分かる
最初の場所が「花矢倉」であれば、これも不思議なところで声を掛けていただいたことになる
改めて感謝したい

修行門とは、その名の通り、これから修行に出る者を送り出すところ
確かに、坂がさらに急になったように感じた
これから先は、明日にしたい







2017年11月3日金曜日

吉野山散策始まる



今回の吉野「散策」は、久し振りに写真をふんだんに使って振り返ってみたい
すでに触れたように、吉野駅からケーブルに乗る予定だったが故障中
乗り場に続く道をゆっくり歩き始める
最初は少し苦しいが、そのうち慣れてきて苦しさがなくなる




歩き始めは感覚も鋭く、すべてが新鮮に感じられる
自然の中に身を置いた状態を意識すると、次第に体が消えてくるのが分かる
せせらぎも耳に心地よく、精神を浄める効果がある
そして、この日は自然の中にあるいろいろな形を見ることができた
最近、この「形を見る」ということに悦びを感じていることが分かってきた




この辺りから散策が始まるのだ、という気持ちになってきた




直ぐに紅葉はこれからだと分かる







こういう形を見るだけでこころが穏やかになってくる




少しすると、黒門(くろもん)が現れる
金峯山寺(きんぷせんじ)の総門に当たり、吉野一山の総門にも当たるという
この辺りは、まだ散策の気分である
この先にはお土産屋さんや食事処が連なっている




直ぐに「銅(かね)の鳥居」が現れる
正式名は「発心門」とのこと
重要文化財に指定されているようだ 





そして、金峯山寺の「仁王門」が現れたが、修復中の模様
修験道の根本道場で、国宝と世界遺産に指定されている




更に進むと、やはり国宝で世界遺産の「蔵王堂」が現れる
丁度人が降りてきたところなので、中を見られるかどうか訊いてみる
はっきりした声で、見られますと答えてくれたので上がってみることにする




檜皮葺(ひわだぶき)がこれまでに見たことのない色合いでなかなか良い
歴史の中に引き込まれるように感じる
ただ、残念ながら写真ではその色合いを感じ取ることができない 







村上義光が親王のために忠死したところが蔵王堂だったようで、境内にその碑があった
暫しの時を蔵王堂で過ごした後、更に歩き始める







人はあまり歩いていない
そんな中、知らない人が店の前を通るのである
お店の人が声を掛けてくれるが、その調子が何とも言えないのだ
相手の領域を邪魔しないように、しかしその中に入ることができるように
恰も両者のインターフェースを微かに振動させるように挨拶するのである
こちらも同じように答えるようにした




役行者が開基したと言われる東南院が現れる
修験行者の暫しの憩いの場になる宿坊だったようだ





中に多宝塔がある




庭には芭蕉の句碑があった

   砧打ちて我にきかせや坊が妻

『野晒紀行』に収められているようだ





坂道の途中には、いろいろな色と形のお店が目を楽しませてくれる




勝手神社の鳥居が見える



 


嬉しいことに、この日は7-8回この雲に出会うことができた
ひょっとすると、今回の滞在で初めてのことかもしれない




さらに歩みを進め横を見ると、先ほど通ったばかりの蔵王堂があんなに遠くに見える
これには驚いた
しかも心地よい驚きであった

アリストテレスの言う最高善とはどのようなものだっただろうか?
それは、何かのためにすることではなく、そのことをすること自体が目的になっているものである
何かのためにあることをするのは、価値としては落ちることになる

普段、座ってばかりいる人間にとっては、とんでもない山道を歩いている
しかし、歩いている時にはどこかに向かおうという気持ちが消えている
「いま・ここ」だけに意識が集中している
それ自体が目的になっているのである
その時、苦しみは感じない
どこかに向かうためにいま歩いていると思うと、それだけで苦痛になる

そしてその時、ニュートン的な時間も消えている
何時間歩いたのかということも気にならなくなる
そんなことは意識に上らなくなっているのである
これは実に気分の良いことであった
ベルクソンの言う「持続」に近い感覚が生まれているのではないだろうか
まだ旅の半ばだが、今回の道行を支えていたのは、実はこのメカニズムだったことが見えてくる

明日も続く






2017年11月2日木曜日

吉野山へ、あるいは「地図はそれが表す土地ではない」



いつものように突然、吉野山へ行きたくなった
初めてである
おそらく、久し振りに体を使ってみたいという気分になったからだろう
ただ、なぜ吉野山なのかは分からない

ということで、朝から吉野に向かった
奈良からだと1時間半ほどかかる
車中ではアリストテレスを読んでいた
駅名がわたしにとっては不思議な響きに聞こえ、少しだけ外国にいるような気分になる
あるいは、日本の奥の奥に入り込んだような気分だったのだろうか
それ故、外国のように感じたのだろうか

日本の田舎は本当に長閑である
フランスの田舎とも異なり、非常に自分に近い、家の中のような感じがする
対象化できないのだ
吉野の駅は写真のように小柄なヨーロッパの駅のようで、不思議な気分がした
そこからロープウェイがあるはずだったが、春から故障しているとのことで運休中
バスが出ているようだったが、最初から歩くことにした

出る前に漫画の地図をざっと見て、予定のようなものを立てていた
吉野山散策のような気分であった
地図は真っ平らに見えたからだ
「地図はその土地ではない」 とは、アルフレッド・コージブスキー(1879-1950) さん、よく言ったものである 
これは散策ではなく、登山であると気付いたのは途中まで行った時であった
そこで折り返すわけにもいかず、最後まで歩き続けた

その経過は明日以降にしたい










2017年11月1日水曜日

吉田秀和さんの姿勢と観察、あるいは中原中也



探しものではないものが現れる時、しばしば大発見をする
この偶然が何ものにも代え難いことを知って久しい
Youtubeに吉田秀和さん93歳の時の「言葉で奏でる音楽」という特集が現れた
それを観ていて驚いたことがある

自宅の庭で、作家の堀江敏幸氏と対談している
まず、椅子に座っている姿勢である
体が上の方に向くように、悪く言えばふんぞり返ったように座っている
これはわたしの普段の姿勢だとすぐに気付く
それはふんぞり返っているのではなく、空を仰ぎ、全世界を自分に呼び込むような感覚なのである
その全体を捉えたい、その全体の中でいまの話題を語りたいという姿勢である
吉田氏の場合はどうか分からないが、おそらくそうなのではないかと勝手に想像していた

もう一つは、その中で語っていた内容である
高等学校の時に好きだった独文の先生がいたという
阿部次郎の弟、阿部六郎(1904-1957)である
その先生からニーチェを知ったようだが、さらに重要なことを感じ取ったという
それは、人々が生きている世界とは違う世界があるということ
そして、その先生は世の中で活躍している人たちとはどこか違う別の世界を持っていたこと
さらに学ぼうと思い、阿部六郎宅に下宿までしたようだ

人の世の中を生き抜いている人では、そのことに気付けない
そこから離れた目を持っていなければならないからである
真の芸術家の視点とでも言うべきものが必要になるのだろうか
これは人間にとっても、社会にとっても非常に重要なことだと考えるようになっている
先日の「超世俗的」ともどこかで繋がっている

それから、聴いたことを正確に言葉で伝えるという仕事についての観察である
それは非常に難しいことだが、難しいが故に面白いと思ったという
同じことは、自分の頭の中にあることを正確に言葉に移すことにも当て嵌まるだろう
外国語を日本語に移し替えることだって同じである
殆ど不可能な作業なのである
そこに挑み甲斐のある仕事だと思った理由があるのだろう

阿部六郎宅に下宿していた時のエピソードとして、中原中也が出てくる
中也は最初のブログで何度か取り上げたことがある
少し長いが、その中の一つを以下に再掲してみたい


2006年11月14日

記念館にて中也を想う PENSER A CHUYA AU MUSEE MEMORIAL

 

 



雨が止むのを待って県立美術館を離れ、歩き始める。バスが来たので目的地に行くのか運転手に訊いてみるが、よく理解できない。待ってくれているのでとにかく乗り込む。近くの老婦人に聞いてみる。「中也さんのところでしょう。温田温泉ですよ。」 と言って、まるで知り合いのことを語るように教えてくれた。気持ちよく、流れる景色を眺めていると、10分ほどで中原中也記念館に着いた。

中原中也 Chûya Nakahara(1907年 明治40年4月29日 - 1937年 昭和12年10月22日)

こじんまりしているが、手入れが行き届いていて美しい。中に入ると、正面で中也さんが迎えてくれた。東京に出た18歳の時に写真館で撮ったといわれる有名な写真が。

温田温泉で医院を開業していた父謙助 (30歳)、母フク (27歳) の長男として結婚7年目に生れる。「奇跡の子」 として大切に育てられる。小学校では勉強に打ち込んでいたようだが、次第に文学に興味を持ち始め、5年の時には短歌会に顔を出すようになる。それから次第に成績が落ち始めたようで、中学の時落第。うるさい父親から逃れるために落第し、京都の立命館に転校。17歳の時広島出身の女優の卵、長谷川泰子と運命の出会いの後、同棲をはじめる。その時期に富永太郎からランボーやボードレールを紹介されている。

彼の人生には、いろいろな人が顔を出す。

小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平
諸井三郎
古谷綱武
吉田秀和
青山二郎
坂口安吾
太宰治
北川冬彦
草野心平
萩原朔太郎
伊藤静雄
など

特に小林秀雄とは、中也が泰子と上京後に出会い、三角関係になり、彼女が小林の元に去るという事件以来、深い関係が生れる。今回、上京してからアテネフランセや東京外語大学でフランス語を本格的に勉強していたこと、また亡くなる年にも関西日仏学館に申し込みをしていたことなどを知る。ランボオの訳詩も展示されていた。

彼の人生は子供の時から死に取り囲まれていた。8歳の時、三歳年下の弟亜郎が亡くなる。中也は毎日、蓮華の花を摘んできては、「あーちゃんに」 と言って、仏様に供えていたという。また4歳下の恰三を24歳の時に結核で失う。「亡弟」 という小説を書いている。

それから自分の長男、文也も失う。これが相当応えたようだ。日記を見ると、文也に向けた男親の愛情に溢れる記述が見つかる。
「文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書き込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだって、僕の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやったんだ。」 (昭和11年7月24日)

文也が亡くなってから遺体を抱いて離さず、葬式の日以来位牌の前から離れなかったという。文也の霊に捧げた 「在りし日の歌」 の原稿を小林秀雄に託す。中也の死後出版される。

   わが半生

私はずいぶん苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果たして価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労してきたことであった!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持ちの、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

        La Moitié de Ma Vie

     J'aurai eu jusqu'ici bien des peines.
     Quelles peines, direz-vous ?
     Je n'ai aucune envie d'en parler.
     Quant à la question de savoir si ces peines avaient
     Quelque vertu ou n'en avaient pas,
     Cela ne vaut même pas le coup d'y penser !

     Mais j'aurai eu bien des peines.
     Oui bein des peines en somme !
     Et voici que, maintenant, ici-même, devant mon bureau,
     Je ne trouve plus que moi.
     Sans broncher, j'allonge mes mains, les regarde, et c'est bein là
     Tout ce que je peux faire.

        Dehors ce soir, les feuilles des arbres frémissent.
        Soir de printemps, aux lointaines émotions.
        Et voilà que, doucement je meurs !
        Oui, je reste assis, et je me meurs.


亡くなる3ヶ月前に阿部六郎宛に手紙を送っている。

「小生事秋になったら郷里に引上げようと思います。なんだか郷里住みといふうことになってゴローンと寝ころんでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」 (昭和12年7月7日)


四行詩 

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Quatrain

Pour toi il est mieux de rentrer dans une chambre paisible
Laissant derrière toi les feux éclatants des nuits de la ville
Pour toi il est mieux de prendre le chemin du retour
Et d'écouter tranquillement les murmures de ton cœur


弟の思郎氏が中也の最後をその著書 「兄中原中也と先祖たち」 に書いている。

「母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。『おかあさん』 という声がでた。一層奇跡を思う。もう一度 『おかあさん』 と呼んだ。中也は自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして 『僕は本当は孝行者だったんですよ』 といい、『今に分かるときが来ますよ』 とつけ加え、数秒おいて 『本当は孝行者だったんですよ』 といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れて落ちた。」

長男が亡くなった1936年に次男愛雅が生まれている。しかし、その翌年10月に中也が亡くなり、さらにその翌年1月には生まれたばかりの愛雅が亡くなっている。それが彼の死後であったことがせめてもの救いである。


    歸 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    椽の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯れ木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路傍 (ろばた) の草影が
    あどけない愁 (かなし) みをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置きなく泣かれよと
    年増婦 (としま) の低い声もする

あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ


        Retour

    Sec les piliers et secs les jardins
    Aujourd'hui il fait beau
       Sous la terrasse une toile d'araignée
       Bouge langoureusement

    Les arbres morts respirent dans la montagne
    Qu'il fait beau aujourd'hui
       Au bord des chemins l'herbe dessine
       Une ingénue tristesse

    C'est mon pays
    Un vent frais s'est levé
       Pleure sans hésiter
       Me dit à voix basse une femme plus âgée

    Oh  toi qu'as-tu fait.....
    Me dit le vent qui vient souffler


二階の資料室に上がり、CDに入っていた母親フクさんの思い出話を聴く。

中学から詩にのめり込んだ中也の成績はどんどん落ちていった。本を買ってやるから駄目だというようなことを先生からも言われ、本から遠ざけるようにする。すると、彼は本屋に入り浸るようになり、帰りが遅くなったという。そして帰ってくる時は、遠くから 「今日は本屋に寄ったんじゃありませんからね」 と言ってから家に入ってきたという。そんなこと言わなくてもいいのに、という感じで遠くの息子を懐かしむように語っていた。

この話はフクさんの回想録 「私の上に降る雪は ― わが子中原中也を語る」 の中にも出てくるのかもしれない。

今回、中也の詩にいろいろな人が曲をつけ、いろいろな人が歌っていることを知る。諸井三郎が曲をつけるのはわかるが、大岡昇平も作曲している。また、友川かずき、伊藤多喜雄、おおたか静流、小室等、そして五木ひろし、石原裕次郎までもが歌っているのには驚いた。

来年は中也生誕100年、没後70年に当たる。記念行事が予定されているようだ。

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フランス語訳は以下の本からです。
Nakahara Chûya « Poèmes » traduit du japonais par Yves-Marie Allioux (Philippe Picquier, 2005)