2017年1月3日火曜日

宮沢賢治の輪郭に初めて触れる



今日も曇り時々雨
届いたばかりの本を内と外で読む
なぜかパリでは日本からのパックをうまく受け取ることができなかった
そのため注文することを止め、帰国の折に仕入れていた
しかし、この町では数日で部屋の前に届くので、少々お高くなるが注文するようになってきた
恰もすぐそこの日本から届けられたように、とでも言いたくなるようなタイミングなのである
それが気に入っている

内で読んだのは、真木悠介(見田宗介)氏の『自我の起原』の補論
百年後に残っている唯一の日本文学と言う人もいる宮沢賢治の作品を読んだことがなかった
お恥ずかしい話ではある
その賢治の人生について真木氏が次のような分析をしている
今日の発見となった

まず、賢治を鋭い倫理的資質を持った人間として捉えていることに目を見張る
賢治は人間の生活を労働、性欲、思索の三分説で考えていた
その上で、この三つを一度に成立させることはむずかしい
とすれば、労働と思索を取るために性欲を抑えることにする
さらに、自分の子供だけが大切という愛の連鎖を断ち切らなければ、真実の場所には立てない
彼が独りであることに固執したのは、自閉ではなく、寧ろ自分を開くことへの戦略だった
家族という共同体の愛/エゴイズムはあらゆるナショナリズムの元素態である
このようなナショナリズムからコスモポリタンとして亡命しぬくことが賢治の禁欲の眼目であった

わたしなりに纏めると、賢治の理想とする生活は自らが極限まで開かれた状態にあること
至福が遍く行き渡るようにするためには、その状態が欠かせないと考えたのだろう
彼の人生はその状態に至るために費やされたと言えそうである
彼はディオゲネスだったのである

「あとがき」にあった真木氏の次の言葉の真意にも共感せずにはいられない
「虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青々とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。」
訳知り顔の語りではなく、真剣な語り、率直な語りをわたしも見てみたいものである


午後からは外に出る
昨日とは打って変わって今日の街は生き返ったようになっていた
昨日は閉まっていたいつものカフェで、もう一冊を2時間ほど読む
いまのところ、新しいことは出て来ていない
こちらは何か出てきた時に取り上げてみたい





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