2017年6月18日日曜日

アンジェイ・ワイダ監督 『残像』 を観る



今日も週末気分で、朝の内、少し離れた領域を読む
午後から街に出て久し振りに歩く
体が重く、汗をたっぷりかく
しかし、その後、その昔よく入ったことがある昭和の香りがする食堂でデジュネ
日本ではしっかり食べている
寧ろ、食べ過ぎと言った方が正確か

それから古本屋街を散策
アンジェイ・ワイダ監督の遺作と銘打ってある 『残像』(Powidoki)を観る






この手の映画はこれまで何度も観てきたように思う
国家権力にかかると人間一人の命など吹っ飛んでしまう
それがいかに優れた才能であっても
あるいはそれ故に国家は狙うのか
これは洋の東西を問わない
バディウ氏が言うように、それは哲学的状況である

先日のSHEで取り上げたヘッケルは、政治は応用生物学である、と言った
そういう人の言葉がナチスによって利用され、彼の責任を問う人さえ現れた
例えば、国家を有機体に例えて、生物学の成果を当て嵌めようとする人がいるとする
生命体は一つひとつの細胞よりは全体の命を第一にしている
全体の統一を維持するために、細胞死を誘導することさえある
したがって、と言って、この原理を社会に当て嵌めることは正当だろうか
安易に行われることがあるこのやり方には注意を要することが分かる

社会の中の問題は文化の側が考えなければならないのではないだろうか
そこでは国家権力との距離を文化の側が取ることが求められる
そこから自由である必要があるのだ
今日の映画では、政治と芸術の融合などと言っていた
イデオロギーのない芸術など存在価値がない、というわけである
文化活動が国からお墨付きを得たといって喜んでいるのはどうなのか
本来的には野にあってやるべきことのはずである


帰りは雨に中った





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