日本の近代に関する本を読んでいる時、よく分かるというか、共感するところに出くわす
まさに想定外の出会いであった
まず、19世紀イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジェットという人の分析が紹介されている
前近代と近代を分けているのは、「慣習による支配」か「議論による統治」かであるという
慣習とは身分とか内向きに環境を支えているものだが、必ずしも全否定しているわけではない
対する議論による統治は単なる行動愛が支える、一人が勇ましく決める政治と対極にあるもの
それは熟考による時間をかけた議論による政治だという
その前提になるのが、多くの時間を日の当たる場所に寝そべること、単なる受動性だという
ここに痛く感心した
これは私がこの10年余りの間にやってきた「ゆったり、ぼんやり」そのものだったからである
そしてそれこそが、考える上で最も重要なことだと思うようになってきた
哲学の前提だと考えるからである
それがどんなものなのかを説明しているこんな一節がある
同時代人が夢想者と考えた人々、同時代人の関心を引かないことに注目していたために嘲笑された人々、噂にいう星を見ながら井戸に落ちた人々、無用だと信じられた人々がもたらしたものであるメディアで目立つことが横行する現代において、最も欠けているのがこれではないだろうか
さらに「あとがき」にも興味深い認識が出ていた
それは「青春期の学問」に対する「老年期の学問」の在り方である
若い時の学問は狭い領域で競い合う性格が強い
しかし、老年期においてはより広い視点からの研究が求められるのではないかというのだ
言わば、general theoryを目指すような研究である
これもよく分かる指摘である
ここでも「ゆったり、ぼんやり」が欠かせないのだ
ということで、中間にある本題は後回しとなった
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