2019年12月31日火曜日

依然、霧の中



朝、シャッターを上げるとこの景色が広がっていて、小さな驚きとなぜか喜びを感じた
変化が齎す喜びだろうか
昨日の写真とほぼ同じところなので、比較すると興味深い

昨夕の景色からは何かが明らかにされ、それが目出度く終わりを告げるような印象を受けた
しかしそれは錯覚で、まだまだすべては霧の中なのだと言われているような今朝の眺めである
新しい年も目の前の霧を払い除ける作業を続けなければならない

そんな解釈が浮かんできた今年最後の朝である





結局、今日は一日中霧の中であった
明日は晴れてくれるだろうか












久し振りの至福の時間



今日は快晴だった
朝の強い光を浴びて紫煙を眺める
至福の時間だ

同じことを日本でやってもこの感覚は得られない
自らに纏わりついている地上の要素が、こちらではどこかに飛んでいくからではないかと疑っている
やらなければならない諸手続きを済ました後は何もやる気が起こらず、その時間を味わっていた

夕方、散策に出た時は地平線に沿って薄っすらと色づいているだけだった
しかし、アパルトマンに戻ると、その色はさらに濃くなっていた
地上の時間は流れている





2019年12月29日日曜日

何とかトゥールに戻る



パリ最終日の昨日は日本からのお客さんをソルボンヌ近くのレストランでお迎えした
もう十数年振りではないかと思う
わたしがこちらに来た経緯やこれまでに考えてきたことなどを中心にお話することになった
又の機会を期待したい


そして昨夜、トゥールに戻った
今回はストのお陰で、久しぶりにパリの観光客としてゆっくり過ごすことができた
そのためか、日本から戻ったという感覚がない

それはよいのだが、天国の後には地獄が待っていた
まず、大きく重いスーツケースを持ってメトロの階段を上下するのを甘く見ていた
前回も気付いていたのだが、まだ大丈夫だろうと思って突進した
途中で数名の方から声がかかったが、断って一人歩いた
それはなかなか厳しく、殆ど失神寸前だった
歩いている時から、次回は必ずタクシーを、という声が聞こえた

艱難はトゥールに着いた後も待っていた
交通機関が真面目にストをやっているではないか
これは予想していなかった
タクシーもストをやっているかと思うくらい、いくら待っても来ない
仕方なく、歩いて帰ることにした

平地を歩く分には問題ないと思ったからである
予想通り、30分ほどの歩きで23時前にはアパルトマンに辿り着いた
何が起こるか分からない

しかし今回も、こころの揺れが全くないのだ
外から見るとストレスがかかっているような状況だが、それが見られないのである
この10数年の経験はどうも本物らしい


この間、スーツケースの扱いについて考えていた
何年か前までは、二回りくらい小型のものを使っていた
その時は、あんな大きなスーツケースでよく移動していたものだと思っていた

それが何かの切っ掛けで、紙の資料を多く持っていくことにして以来、大型のものに切り替えた
そして、よくあんな小さなものを使っていたなぁと思っていたのである
今回の経験から、再び小さなものにしてはどうかというアイディアが浮かんだ

大きなものと決めてしまっていたので、入れられるだけ入れるというだらしなさが生まれる
小さなものと決めれば、入れるものを選別することになるだろう
そうすれば、移動にもそれほどの負担が掛からなくなるのではないか

次回の参考として考えておきたい






2019年12月28日土曜日

映画 J'accuse を観て、最近の傾向を確認する



昨日も朝から外に出て、最近の頭の中を整理する
これから読むことにしているメチニコフの『感染症における免疫』の構成を眺める
それから、先日のシネマで見付けたロマン・ポランスキー監督の J'accuse を観ることにした

言うまでもなく、ドレフュス事件を題材にした映画である
タイトルは、エミール・ゾラ L'Aurore 紙に発表した『私は弾劾する』から採られている
主役は、ドレフュスがスパイではなくエステルアジであることを突き止めたジョルジュ・ピカール
ドレフュスもピカールも弾劾されるが、最終的に名誉が回復され、ピカールは戦争大臣にまでなる
映画にはゾラも顔を出していた


これは最近の傾向なのだが、昔は感動しただろうと思われるものにも余り感じなくなっている
テレビなどのドキュメンタリーを観ても同様で、心底感心するものが少なくなっている
おそらく、史実や現実の方がもっと重いはずだという感覚があるからだろう
そして、映像はその表層をなぞっているものにしか見えなくなっているからではないだろうか

自分の中にしっかり刻み込まれるためには、自分の頭と体を動かさなければならない
本を読み、資料に当たり、そこから広がる世界を自らが構築し直すことが欠かせない
その基本を理解するようになったため、作られた映像では物足りなくなっているのではないか
この映画もそんな思いと共に淡々と観ていた













2019年12月27日金曜日

映画 "Une vie cachée" を観る



昨日の朝は、パンテオンが見えるカフェから始まった
少しだけ肌寒く、小雨交じりになる
このような時期、プロジェから離れて思いのままに思考を羽ばたかせるのもよい

午後から、テレンス・マリック(1943- )監督の Une vie cachéeA Hidden Life)を観る
初めての監督だが、哲学に造詣が深いとのことで興味を惹かれる
2011年の The Tree of Life のトレーラーを観たが、もう少し調べてみたいと思わせてくれた

映画を観た感想を思いつくまま
まず、画面のすべてをしっかり捉えているという感覚があった
それはそのすべてを既に観ているという感覚から生まれているように感じていた
兎に角、山岳地帯の景色が雄大で美しく、生活も伸びやかなので気持ちが広がる
そして、カットとカットの間が厳密ではなく、景色が変わるところに自由を感じた

主人公のフランツは自分が悪だと思うことはできないという内なる声に従い、死の判決に従う
それにより親や妻や子供たちに辛い思いをさせることになることを知っていても
もう少し待てば普通の生活(simple life)が戻ってくるかもしれないというのに
simpleという言葉の意味を思い知らせてくれる

本人以外には理解するのが難しい判断である
妻はいつの日か、そのことの意味が分かる日が来るのかと問う
結局のところ、人はなぜ生きるのかという問いに行き着くのではないだろうか

タイトルの由来となったジョージ・エリオットの詩がエンディングに出てきた
“The growing good of the world is partly dependent on unhistoric acts; and that things are not so ill with you and me as they might have been, is half owing to the number who lived faithfully a hidden life, and rest in unvisited tombs.”
世界の善が増えているのは、一部ではあるが歴史に表れない行為に依っている。事が我々にとってそれほど酷いものにならない訳の半分は、目立たない人生を忠実に送り、誰も訪れない墓に眠る人たちのお陰なのである。
そのことを折々に思い出し、確かめる必要があるのだろう

日本では来年2月から「名もなき生涯」というタイトルで公開されるという













2019年12月26日木曜日

相変わらずのカルチエ・ラタン散策



昨日も朝から近くのカフェで時を過ごす
手に入れたばかりの技術に関する本のあとがきに目を通す
執筆から30年以上を経ての回顧である

それによれば、執筆当時は大陸哲学の影響を受け、観念論的、文学的傾向があったという
それから、ジルベール・シモンドン(1924-1989)を読み、分析哲学をやるようになる
そして決定的だったのが、生命倫理の現場に関わるようになったことである
科学者や他の領域の研究者と交わることにより、科学技術や功利主義に対する見方が変化してきた
功利主義の中にある最大多数の最大幸福や個人の開花を重視する考え方などを評価できるようになった

カフェを出た後、セーヌ方面まで足を延ばす
ノートルダム大聖堂は上の写真のように、想像していたよりはましであった
リブレリーが閉まっている中、ブキニストはセットアップを始めていた

観光客気分でゆっくり歩き回る
12世紀のサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会でコンサートがあるとのことで、中を見る
こじんまりした素朴な感じのするところであった











2019年12月25日水曜日

散策、ソルボンヌあたり



昨日の午後、ソルボンヌ界隈をゆっくりと散策
兎に角、学生時代を思い出させることが至るところに刻み込まれている
しかし、何の感傷もない

上の写真は「医学のあゆみ」エッセイシリーズを始めた時に使ったものとほぼ同じ場所からのもの
ただ、当時のものは緑と人が溢れ、夏の生気が漂っていた(こちらから)
もう8年前になる
そしてそこには、当時は何の意味もなかったオーギュスト・コント像がはっきりと写っている

そのエッセイシリーズもこれから9年目に入る
当時は1-2年の予定だったので、ただただ驚くばかりだ
ただ、自分の中では8年前はすぐ横にある
この感覚は、人類の歴史についても言えそうだ
初回のタイトルにある「人類の遺産に分け入る旅」がこれからの人生をどう見ていたのかを示している

ソルボンヌ広場に面した哲学専門書店Vrinで数冊
それからコンパニー書店でも暫しの間遊び、数冊
ただ、昔のような目に入るものに対する抑えることのできない熱は感じられない
静かだが、敢えて言えば成熟した興味のようなものが確実にそこにある

右のコラムを見ると、最近読まれた記事の中にロンサール(1524-1585)に関するものがある
そのロンサール像がコレージュ・ド・フランス前のオーギュスト・マリエット・パシャ広場にある
すっかり苔生していた











2019年12月24日火曜日

クリスマス・イヴのパリ



パリの朝は8時頃から明るくなり始める
道が雨のためか光っているが、いまは降ってはいない
早速、街に出ることにした

8時半には朝市が始まっている
クリスマスシーズンだからかもしれない 
昨夜、クリュニーのあたりを通った時にもシーズン恒例の小さな小屋を沢山見かけた

初めての朝は、サンジェルマンのカフェに落ち着く
イヴの朝は静かで、読書をする中年女性とメモを書いているアメリカから来た女性だけだ
今回、期せずして至福の時間を味わうことになった

今日の予定をぼんやりと思い描く
これは一日を彫刻する作業と言えるだろう
アファナシエフから霊感を得た表現で言えば、こんな感じである
無限に広がる平野を前にして、こころの底から湧き出る欲求を拾い上げてその方向に進む

日本から来たばかりなので、少しだけパリを観光地として味わうことができているのだろうか
新鮮である
トゥールから来た時にはそうはならない
これからもフランスに入る時には、気分が向けば試してみたい

今朝はそのカフェからのアップとなった









無事にパリ到着



本日、東京を出て無事にパリに着いた
そう言えば、クリスマスシーズンであった
いろいろなところで飾り付けがされていた
それにしても、年の瀬を迎えているという感覚がないのはどうしたことだろうか

今回久しぶりにJALに乗ったが、食事にかなり力を入れているような印象を持った
それから、これまでであればシートベルト・サインが出るような揺れでも一切オンにしなかった
結構揺れることもあったが、結局一度もランプの点灯はなかったのではないだろうか
その方が落ち着いていられるようにも感じたが、どうだろうか





2019年12月21日土曜日

ゼネストで予定が狂う



来週からフランスの予定である
そんな折、SNCFからメールが届いた
現在進行中のゼネストのため、空港からトゥール行きのTGVがキャンセルになったとのこと
調べてみると、来週一杯は1-2本は出ているもののすべて満席

これまで、またやってると横目で見ていたが、実生活への影響を想像できるようになっている
兎に角、やる時は徹底的にやるという国民性を見る思いである
結局、来週一杯はパリで過ごすことにした
こんな予期せぬ出来事にも何か意味があるのではないか、というのがいまの受け止めである

それにしても、このような事態に遭遇してもこころは全く動かず平静なのだ
この世界のすべてを何もなかったかのように受け入れるという態度である
何年か前に気付いたことで、自分で言うのも何だが、殆ど悟りの境地ではないだろうか






2019年12月19日木曜日

今年を振り返る



昨年から今年にかけて大きな内的変化を経験している
その中身を振り返ってみたい


昨年の後半あたりから、一日が長く感じられるようになってきた
当時の記述を読むと、その感覚がいつまで続くのかと疑問符を付けて見ていた節がある
しかし、今年一年を通してその感覚は維持されていた

今年の終わりに向けて、この感覚は一週間、さらには一年にも及ぶようになっている
例えれば、一年がこれまでの二年くらいに感じられるのである
ということは、一体どういうことになるのだろうか


それから、仕事をする時の心構えが決まってきたようである
長い間、仕事に取り掛かることに困難を伴っていた
ここで何かを纏めなければならないという思いが強くなり、逆にやる気が失せるのである

おそらく今年、考え方が大きく変わり、仕事をすることに全く抵抗を感じなくなってきた
それは次のようなことである
何かを纏めようなどと力むのではなく、ある時間を自らの思考空間に遊ぶと考えるのである

このお陰で精神的に楽になり、進捗状況とは関係なく、仕事をすることが楽しくなってきた
これが仕事をすることの神髄だと理解したからではないだろうか
それは同時に、期限を切って何かをやるという考え方そのものを疑うことに繋がったのである


これらすべては、期せずして自らの観察を続けてきた結果ではないかと考えている
静かな時間や瞑想的な生活が齎したものではないかと考えている
これから先に新たな段階が続くとすれば、それは一体どのようなものになるのだろうか

いずれにせよ、これからも観察を続けることになるだろう
何せ、J'observe donc je suis. がわたしのドゥヴィーズなのだから






2019年12月17日火曜日

サイファイ研ISHEのプロジェクト2019を振り返る



2019年の終わりが見えてきたので、今年のISHEプロジェクトを振り返ることにした
このようなプロジェクトを始めたのは2016年からだが、いつも半分くらいの出来という感触である
今年もその例外ではない

メインのプロジェクトと考えているものについて、この秋は集中するつもりでいた
各種カフェをお休みにしたのもそのためである
しかし、その過程で見えてきたもの
それは、これまでやってきたはずなのだが、本当にやっていたのかという訝しい感じであった

次々に問題に気付き、全く満足できないのである
いろいろなことをやっている時には、問題に意識が集中せず、流されてしまっていたのではないか
このような状態に陥りやすいことに注意しながら、これからはことに当たりたい
最終的には、自分が終わったと思うところまでやることになりそうである

ISHEサイトに今年のプロジェクトの詳細を纏めた






2019年12月14日土曜日

人間ワレリー・アファナシエフを観る



昨夜、こんな低いところに、こんな大きな満月が!と驚いた
しかし、その大きさも卵の黄身のような黄色も再現できていない
月を撮ろうと思う時、いつもわたしのカメラに感じるフラストレーションである


昨日の朝、NHK-BSでロシアのピアニスト、ワレリー・アファナシエフ(1947-)の特集があった
冒頭は見逃したが、大半を観ることができた
もう10年以上前になるが、ピアノに留まらない芸術活動に関わっている人として知った
当時はピアノの演奏を聴いた程度だったが、この特集ではいろいろな側面を見ることができた

この芸術家を支えているのは、詩的な感性と哲学的な思考だろうか
音楽の中のことだけではなく、音楽という人間の活動について考えている
この二つの対比は非常に重要で、多くの場合、後者が欠けているのだ
そして、自然を含めた外界に対する鋭い観察眼だろう

印象に残る言葉が次々と出てきたが、例えばこんな具合である

ロシアにいる時には自由はなかったが、西側に出れば手に入ると思っていた
しかし、そうではなかった
商業主義が支配していたのである
そこで重視されるのは芸術ではなく、売るための話題性である

現代は本物の芸術、天才を必要としていない
普通の人よりちょっとだけ優れた人を売り出し、それを次々に消費していけばよいのである
現代に真の芸術を生み出す力はないとも言っていた
先日の丸山健二さんも、同様のことが芥川賞などで行われていると語っていた

アファナシエフさんは、現代人が重んじるのは事実であって、精神ではないと言っていた
これは科学時代の現代の本質を突いた言葉である
科学は精神を拒否して事実に拘るので、現代の重い症状は必然なのである

彼は若い時、友人から能の音楽を紹介され、感銘を受けたという
そこに懐かしさも感じたようだ
また、日本の古典文学にも共感
例えば、源氏物語や吉田兼好のように世俗を離れて自由を得た文人の作品などに

さらに、日本の自然(京都嵐山の映像があった)にも感じるところがあったようだ
しかし、そこに留まりたいとは思わないとのこと
なぜなら、そこで感じたものは自分の中に常にあるものだから

あることの本質的なものを掴んでしまうと、それが存在するかしないかはそれほど重要でなくなる
その存在は本質として自分の中に常にあるからだ
そういう感覚はわたしの中にもある

芸術は過去への回帰がなければ駄目だとも言っていた
過去の参照、追憶、、
ブラームスは追憶ほど大切な感情はないと言ったと彼は指摘していた
これはフランスで生活するようになってからのわたしの感覚に近いものがある

モスクワ音楽院のレッスンで、学生に話していたこと
目の前に広い空間を意識し、そこから音が生まれ出る様を表現するようなイメージで
これは言葉についても当て嵌まりそうなイメージである
さらに言えば、生きるということに関しても

その他、静寂を聞くとか、時の流れは見ることはできないが、聞くことはできるという言葉もあった
そして、「絶対的真理」という言葉を耳にした時、この人の知的姿勢が見えたような気がした
孤独の中で、一体何に耳を傾けてきたのだろうか


番組は10年ほど前のもので、当時はベルサイユに居を構えていた
現在は72歳でベルギーに移り住んでいるとのこと

濃厚な時間を味わった





2019年12月13日金曜日

科学における形而上学の役割を再考する



エッセイシリーズ「パリから見えるこの世界」の第86回のご紹介です

 「形而上学とは、そして科学におけるその役割を再考する」
  医学のあゆみ(2019.12.14)271 (11): 1255-1258, 2019 

形而上学をどのように理解して実践にまでもっていけばよいのか
科学が捨て去った形而上学に何らかの役割はないのか
これらの問いを考え、形而上学に新たな意味を見出そうとする試みについても触れています

図書館や書店などでお目通し頂ければ幸いです
なお、1年を経過したものについては ISHEのサイトに公表しています
よろしくお願いいたします





2019年12月11日水曜日

来年のプロジェを考える



来年に向けてプロジェをぼんやりと考えていた
今の段階でのアイディアを先日サイトにアップしたが、今日新たな考えが巡っていた
それは特に記載する必要もないだろう

殆どのプロジェは期限を切ってのものではなく、ゆっくり進めるものばかりである
その意味ではアップの必要もないのだが、忘備録として書き留めておくことにした

それとは別に、カフェやフォーラムはISHEの定期的な活動として続ける予定である
今年は後期の活動が滞ってしまったので、来年はそうならないようにしたいものである
これからも皆様のご理解とご協力をいただければ幸いである






2019年12月6日金曜日

舘野泉さんの病気と音楽



NHK-BSでピアニスト舘野泉さんの特集を観る
まだ観たことのないものだったので、この偶然に感謝
時間が消えるよい朝となった

病気の後に間違いなく世界の見え方が変わったと思われる
今は音楽と共にゆっくり在ることの幸せを味わっているようであった
「音楽とは生きること」というのが、辿り着いた境地
ある意味で、この間ずっと哲学してこられたのではないだろうか
また、自然と共に生きている様子もなかなかよかった

番組が病気の意味を再び考えさせるものとなった