2017年6月12日月曜日

作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び

      馬越恭平(1844-1933)



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第45回 作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び

医学のあゆみ (2016.6.11) 257 (11): 1187-1191, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年6月11日日曜日

研究者時代の諸先生と語り合う

   田村真理、菊池九二三、小林孝安の諸先生


一仕事終えた感じの翌日、もう一仕事するために仙台に来た
昔、同じ研究領域にいたお三方と旧交を温めようという魂胆である
田村、小林先生とは昨年も顔を合わせたが、菊池先生とは本当に久しぶりになる
先生は退職後は晴耕雨読の生活を送られているとのこと
私には答えることが叶わなかった哲学に関する質問も含め、存分に語っていただいた

ポイントだと思ったのは、今の日本人は忙しすぎる、という指摘であった
それは十分な思索がされていないということと同義になるだろう
忙しい中から豊かで深いものは生まれてこない
意識の第一層にしか止まれないからだ
静かな時間の中で生活されているからこそ見えてきた観察になるのだろう
そう想像することができるようになっている

それから、拙エッセイについてのコメントがあった
一つは、全体が音楽のように感じられるというもので、驚いた
さらに、読後に気持ちが平穏、平静になるという言葉があり、これにも驚いた
エピクロスやアリストテレスなどに言わせれば、それは人を幸福な状態に導いていることになる
そんな効果があるとすれば、まさに魂のお薬のようなものになるのではないか
信じられないことである
フランスでの「ゆったり、ぼんやり」の生活がどこかに反映されているのだろうか
私は内側からしか見ることができないので、外からどのように見えるのかは全く分からない
その意味では、貴重なお言葉であった

皆様お元気そうで何よりであった
改めて機会を作り、お会いしたいものである

明日、東京に戻る





2017年6月10日土曜日

第1回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる



今日の午後、日仏会館で第1回サイファイ・フォーラムFPSS(フィプシー)の会合を開いた
この会は科学者の側から科学を哲学し、科学を文化にしようとするものである
今回はこのフォーラムをどのように進めていくのかについて議論することが目的であった
実際には科学者の他に哲学者やサイエンスコミュニケーションの専門家などが参加された
東京、関東だけではなく、北海道、東北、関西からの参加があり、感謝の念に堪えない

会は自己紹介の後、呼び掛け人がこの会の趣旨について説明、それから自由討議に入った
趣旨はこちらにその大枠が掲げられているので参照願いたい
議論の詳細は近いうちに専用サイトに掲載予定だが、次の大きなテーマが確認された

まず、自然を探究する場合、科学に依存するアプローチが独占しているように見える
この点について、哲学・美学的アプローチも正当なものとして認めることを確認した
前者を「プロメテウス的態度」、後者を「オルフェウス的態度」と言う人もいる
これらの一方だけに依存するのではなく、二つの態度を同程度に尊重するということである

その上で、科学の存在意義、本質をどのように捉えるのか?
そこから、科学の進むべき道をどのように考えるのか?
それが現在行われている科学の姿とどれだけ乖離しているのか?
そして、これらの問いを基に新たな哲学を生み出すことはできないか?
その可能性を探索することである

この世界に存在する「もの・こと」は人間の幸福に資さなければならず、科学も例外ではない
人間が生きる意味の中に、幸福の追求が挙げられる
したがって、科学が目指すべき道として、人間の幸福に寄与することが挙げられる
しかし、その対象は人間を超えたすべての生物にまで広げる必要があるとの指摘があった
さらに言えば、すべての生物を取り巻く環境も含めた安寧・調和を忘れてはならないだろう
最終的な枠組みとして、このような見方を持っておくことの重要性が確認された

具体的には、当分の間、賛同者の方が各人の活動の中で感じていることを発表することにした
上のポイントを意識しながら、それぞれの発表について議論することになるだろう
また、欠席された方から有用なサジェスチョンをいただいた
それは、リアルな会に参加できない方々のためにバーチャルな場を作ってはどうかというものだ
例えば、Facebookなどに議論できる場を設け、常時意見交換ができるようにすること
これがリアルな会と相補的に機能するようになると、活動がより効果的になると想定される

次回は10月の土曜日(14日、21日、28日のどれか)の開催を予定している
詳細が決まるまでには時間がかかりそうだが、はっきりし次第公表したい

今後の活動にご理解、ご協力いただければ幸いである


会のまとめ




dimanche 11 juin 2017

一夜明け、一つの重要なことに気付いた

昨日の会で、同じ研究所にいても言葉を交わしたことがなかった、との言葉をいただいた
その状態がよい訳ではないが、研究をしていると、このようなことは稀ではない
専門家とは専門の中に閉じ籠り、その外での議論にあまり意味を見出さないことが多いからだ
しかし、10年以上の時を経て、言葉を交わすことになる
それは、専門を超えた知である哲学を介してであったのだ
つまり、哲学には人間を結びつける重要な機能があることが見えてくる
これが有用な機能でなくで何であろうか

ただ、それを可能にするためには、哲学あるいは哲学者が変容する必要があることも見えてくる
現在の大学における哲学は、ある分野の専門家になることを人に強要している
しかし、それは科学者のような一般の専門家を作ることと何ら変わりがないのではないか
そうではなく、哲学者はその状態から抜け出さなければならないだろう
哲学が本来持っている専門を超えた側面を身に付け、それを生きる必要があるのではないか
これは専門性を排除するものでないことは言うまでもない 
それが成されなければ、上で挙げた重要な機能も果たせないことになるだろう
「人を結び付ける存在としての哲学者」の待望である

科学の問題が明らかになると同時に、哲学の課題も見えたように感じた朝である






第5回カフェフィロPAWL、無事終わる



今夜は第5回になるカフェフィロPAWLを開催した
今回の準備も最後まで形が決まらない苦しいものになった
参加された方は2回以上の方が殆どで、哲学との関係を模索されている方が新たに加わった
「哲学 X フランス」の検索から辿り着いたとのこと
模索の先に光が見えることを願いたい

今日はこれまでになく、どこかゆったりとした空気の中、自在に話題は広がったのではないだろうか
お陰様で、準備の苦しさが次第に和らいでいくように感じられた
ただ、参加された方の受け止めは分からない

今回のテーマも個人的な興味から選んだ「ソクラテスの死」とした
半世紀以上前に読んだ本を取り出し、記憶にある像とのギャップを味わうといういつもの試みだ
そこに大きなズレを感じれば感じるほど、頭の中を吹き抜ける涼風の心地よさが増す
西欧文化の根にあると言っても過言ではない紀元前399年に至る出来事を自分なりに振り返った

その過程でソクラテスあるいはプラトンが実践した哲学という営みの原型が現れてくるようであった
それは現代では忘れ去られているように見えるものだが、わたしには非常に身近に感じられた
ソクラテスが街に出て問いかけたテーマは、すべて本質的な問題であった
そういうことができたのは、魂の空間が広く深かったからではないだろうか
日常に溺れていると魂の空間を開拓できず、細かな問題にしか目が行かないからだ

さらに、死をどのように捉えるのかという永遠のテーマに一つの解が出されているようでもあった
永遠の魂と滅び去る肉体との二元論を説くプラトン描く哲学者ソクラテスの生と死
ソクラテスにとって、肉体は真理に導く魂の活動を妨げるもの以外の何物でもなかった
哲学者の仕事は魂から肉体を排除することだ、とまで言っている
換言すれば、哲学者の最後は死者同然になることなのである
その状態は、永遠の魂と共に真理の世界を彷徨う喜びを感じることになる
そういう人間がそもそも死を恐れるだろうか

唯物論者にかかれば、あり得ない世界になるだろう
ここ10年ほどの生活を振り返れば、体を削ぎ落すようなものになっていたことが見えてくる
そこから見ると、哲学の祖と言われる人物の見方には違和感を覚えなくなっている
その意味で、『パイドン』は実に興味深い読みとなった

参加された皆様に改めて感謝したい


会のまとめ





2017年6月7日水曜日

体の手入れと魂の手入れ、そして恐るべき記憶の力



今回の滞在中、テレビを観ることが多かった
フランスではゼロなので、無限に多いのだが、、
そこで気付いたのは、特にBSでは体の健康に関するものがかなりの割合を占めていることだった
異常な割合になるのではないか
その一方で、魂の健康に関するものはほぼ皆無
そこに意識が行っていないということなのか
単にそれは商売にならないということなのか

魂の手入れに目が行っていないためか、普通の番組からも頼りないものしか伝わってこない
大切な問題を真剣に扱うところが見られないのだ
それが日常から排除されている印象が強い
そんなに浮かれていてよいのか、という感想が湧いてくる
あるいは、テレビとはそういうものなのか

中に音楽のCDの宣伝があった
それを聴いていると、殆ど全てを覚えていることに驚く
この他にもいろいろなジャンルの音楽が記憶に蓄えられているはずである
その総量を考えると、改めて人間の記憶の凄さを感じないわけにはいかない

そこにあるのだが、普段はそのことに気付かない
そういう記憶を折に触れて引き出すことが、魂の手入れにとって良いのかもしれない
「過去を現在に引き戻す」のである





2017年6月6日火曜日

一日を二度生きる



意識だけではなく、体の反応としても3週目でやっと元に戻りつつあるようだ
それにしても長くかかったものである
この間、一日の中に散らばる睡眠を取っていた
目覚めた時が朝で、頭の中はすっきりし、それまでのどんよりとした意識とは変わっている
やる気も出てくる

これは一つの発見かも知れない
眠気を催したり、やる気がなくなった時には、一寝入りすればよいのである
そうすると新たな一日が始まる
新鮮な気持ちで歩み出すことができる
若き日のアリストテレスのように眠気を押してまでやるのは、駄馬にとっては非生産的だろう 

いずれにせよ、こうすると無理をしないで一日を二度とは言わず、三度でも生きることができる
本当にそうなのか、フランスに戻ってから試してみたいものである





2017年6月4日日曜日

一つの偶然は必然で、それは奇跡である



昨日、今回最初のカフェがあった
いろいろな方が、いろいろの場所から参加された
それは全くの偶然で、ある時間と空間を共有する
その人たちでなければ創り出せなかった時間と空間が、そこに現われる
いつものように、振り返ってみるとそれは必然としか思えない
それしかあり得なかったと見えるからだ

ある出来事に出会った時、それを振り返ることが大切だ
その出来事の本当の意味は一瞬では理解できないからだ
何度も振り返ることにより、新たな意味が現れるからだ
その意味を手繰っていくと、このような出来事に出会うことが一つの奇跡に見えてくる

さらに、考えてみたい
われわれが生きているということは、日々が新しい出来事との出会いである
それを振り返ることにより、その出来事に意味が与えられ、奇跡になるのだ
こうして生きていることこそが奇跡であることが見えてくる





2017年6月3日土曜日

第3回サイファイ・カフェSHE札幌、無事に終わる



今日は小雨降る中、またお忙しいところ、会場の札幌カフェにお集まりいただいた
中には関東から参加された方もおられ、感謝したい
また、カフェの社長さんも参加され、積極的に議論をリードしていただいたのは有難かった
ビル内に掲示されていたポスターを見て参加されたとのことで恐縮している
この時間が皆様にとって無駄ではなかったことを願うばかりである

今回は、治癒するとは何を言うのかがテーマであった
その前段として、病気、病理、正常、異常、健康などについて、歴史的に振り返った
医療現場の経験が豊富な方もおられ、かなり具体的な問題も提起されていた
現場の話と理論的な話がうまく絡んでくると、さらによく見えてくることがあるのではないだろうか
単に医学の領域だけではなく、日本社会のいろいろな領域の問題も俎上に上がっていた
個別の問題を全体に繋げることが哲学だとすれば、意義深い議論になったと言えるだろう

次回は10月6日(金)18h30~、同じ場所での開催を予定している
テーマは未定だが、今日のような議論が展開することを期待したい
最後に、改めて参加された皆様にお礼を申し上げたい


会のまとめ





2017年5月31日水曜日

1年ぶりの学友との語らい




今夜は学生時代の仲間に顔合わせの機会をセットしていただいた
有難い
殆どの方とは1年ぶりだが、皆さんお元気そうでほっとする
ただ、よくよく聞いてみると、いろいろな変化が身の回りに起こっている
また、伝え聞く話の中には大きな変化を経験している方もいるようで、複雑な気持ちになる

そんなことを別にすると、いろいろな人物をネタにしながら語り合うのは面白い
それぞれの人物評が興味深い
テレビで顔を見る寺島実郎氏を小学校から知っているという人が話をしていた
時間軸で人物を見ると、人間の本質のようなものが見えてくるようでもある

自分では全く意識していないが、数字を示されると新たなステージに入ろうとしていることに気付く
しかし、「人生は数字ではない」 が学生時代からのモットーであった
少し引いて見ると、これまで通りの認識でよいのではないか
何のことはない、そんなところに落ち着いた

いずれにせよ、次の帰国の折にも是非お会いしたいものである





2017年5月29日月曜日

子供たちに伝えられていた哲学精神



先日エンジンをかけたはずだが、この間アイドリング状態から抜け出せなかった
二週間の間、フランス時間のままであったことになる
時間的な余裕があることにして、休養を欲していたのかもしれない
向こうでは見られないテレビを観て、食べて寝るだけなので体重も増加気味
今週から動き出したいものである

昨日のこと
イタリアの美術教育家を招いて子供たちに美術を教える番組が流れていた
先生は美術の技術を超えるものを伝えようとしていた
1週間の間に子供たちがどのように変化していくのかを見るのは興味深かった
大人もそうだが、子供も見知らぬ人との交流、自己表現が苦手であることが分かる
しかし、一旦溶け込んでしまうと身内に対する表現に変わるのだが、、

その中で先生が重要なことを言っていた
自分の外と内を観察して、そのことについて考える時間を持つようにすること
これまでに蓄えたことを思い出し、繋ぎ合わせ、想像力を働かせること
自分を観察することをしない人間は、批判に向き合うことのできない弱い人間になる
それから、自分の作品を言葉で説明できるようにすること
これらを実行できれば、個人だけではなく、社会も国も大きく変わる可能性がある
その前に、このことを意識できなければ何事も始まらない
しかし、その認識も実行も至難の業であることを経験してきた
これらはわたしが考えている哲学の基本になることと通じているのに驚く
そこにヨーロッパ精神のようなものを見るのはわたしだけだろうか? 
子供の時からこのような態度で歩んでいると、どんな大人が出来上がるのだろうか?


それから、先日も触れたが、テレビではヨーロッパの紹介映像が目に付く
フランスの世界遺産、ドイツロマンチック街道、ルクセンブルク、パリのシネマなどなど
いずれも記憶を刺激するものであった
そして、いつも感じていることだが、日本から観るヨーロッパは何と美しいことか






2017年5月24日水曜日

取り敢えず、エンジンをかける



概日リズムが狂ったままで、まだ完全には戻っていない
時差ボケか、単なるボケなのかは分からないのだが、、、
その昔は数日で回復したのだが、今回は1週間を超えている
これも経年変化か?

日本に戻ると、日常的なことが頭に上り、深く沈みこむことが難しい
向こうにいると、どっぶりといろいろな問題に入り込むことができる
頭の中がすっきりする、あるいは透明になるという感覚だろうか
なぜなのか分からないが、そういう特徴を利用して生活していることになる
日本では、今回も少しだけ活動的に動き回りたいものである

とにかく、今日から普通のペースに戻すことにした
院生の時には帰国しても図書館に落ち着くなど、努めてもできなかったが、今は違うようだ
精神状態が大きく変わっている
初日はエンジンをかけるところで終わったようだ






2017年5月22日月曜日

「文体は思想である」 ということの意味



「文体は思想である」 という表現を聞いたことがある
このテーゼはいろいろな人がいろいろな言い方で語ってきたものと思われる
古くはセネカが 「文体は思想の衣である」 と言っている
"Le style est le vêtement de la pensée." (Sénèque)
新しい考えなどこの世に殆どないという一例だろう

実は、この言葉を聞いた時、それがどういうことを意味しているのか、よく分からなかった
しかし、今回日本での時差ぼけの中で分かったような気がした
おそらく、一つの意味が

それは翻訳のことを考えている時に起こった
ここに外国語の文章がある
それを日本語に置き換えるのが翻訳だが、経験から訳文は殆ど無限に可能であることが分かった
まず、一つの単語にどのような訳語を選ぶのか、である
それは訳者の日本語世界と文章の捉え方などに依存してくる
それだけでもかなりのオプションがあり、それを各文章で考えなければならないのである
途方もないバリエーションが可能であることが分かる

もう一つの要素に文体がある
それを考えた時、次のようなことが頭を巡ったのである
一人のフランス人がフランス語という言語世界の中で自らの思想を展開している
その表現はフランス語世界の中での一つの階層のようなものに属しているはずである
表現に至るまでに著者の頭の中で起こっている思考の襞の複雑さのようなものの表れになる
単語をどのような入れ物に入れるのかが文体で、それを選んでいるのは著者である
もしそうだとすると、文体は必然的にそれを選んだ人の思想を表すことになるだろう
それが意識されているか否かにかかわらず
これは宣長の意と姿の対比にも通じる
意の思想もさることながら、姿にも思想が表れることを意味している
そこに芸術家の真骨頂が発揮されることになる

翻訳の難しさを感じたのも、まさにこの点であった
ある階層にあるフランス語を同じレベルにある日本語に置換しなければならないのである
それは可能な作業だろうか
事実だけを伝える文章の場合には 「意」 だけが問題になるので比較的容易だろう
しかし、文学作品などは至難の業に見える


それまで分からなかったこと、気付かなかったことが見えてくる一瞬がある
それはまさしくわたしにとっての発見なのだが、昨年春の帰国時にも同じようなことが起こった
それまで薄々感じてはいたのだが、明確に意識されていなかったことに言葉が与えられたのである
そして、そこから一つの世界が広がった
これからも注意深く観察していきたいものである




2017年5月21日日曜日

サイファイ研究所ISHEから催し物のご案内



サイファイ研ISHEの今年前期の活動をお知らせいたします
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


第3回サイファイ・カフェSHE札幌
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月3日(土) 16:00-18:00
  札幌カフェ(5階会議室)
  
  テーマ: 病気が治るとはどういうことか
  ポスター 

第5回カフェフィロPAWL
  <「生き方としての哲学」の流れにある哲学者の考えを振り返る>

  2017年6月9日(金) 18:30-20:30
  ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
  
  テーマ: ソクラテスの死が意味するもの
  ポスター

第1回サイファイ・フォーラムFPSS
  <科学者を中心に科学の外から科学を考え、科学を文化にする>

  2017年6月10日(土) 13:45-16:15  
  日仏会館(509号室)
  
  テーマ: フォーラムの方向性について
  ポスター 

第11回サイファイ・カフェSHE
  <科学を哲学や歴史の視点から考え直す>

  2017年6月16日(金) 18:30-20:30
    ルノアール・飯田橋西口店(2号室)
    
  テーマ: エルンスト・ヘッケルの科学と人生
  ポスター

  なお、2017年6月17日(土)の会は都合により中止といたしました。
  ご了承の程、よろしくお願いいたします。

第1回ベルクソン・カフェ(2回シリーズ)
  <フランス語のテクストを読み、哲学する>

  (1)2017年6月24日(土) 16:00-18:00
    恵比寿カルフール(A会議室)

  (2)2017年7月1日(土) 17:00-19:00
    恵比寿カルフール(B会議室)

    (開始時間と会議室が異なっています)
     1回だけの参加でも問題ありません
  
  テクスト: Pierre Hadot, « La philosophie comme manière de vivre »
        (「生き方としての哲学」) 
        Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)  p. 289-304
   
   参加予定者にはあらかじめテクストをお送りします

  ポスター



サイファイ研究所の活動にご理解のほど、よろしくお願いいたします






2017年5月20日土曜日

再びの嬉しい繋がり



まだ時差ぼけのようである
昨日の偶然は、藤田哲也(1920-1998)という気象学者についてのドキュメンタリーであった
若い時にアメリカに渡り、後にアメリカ人になった方である
その後半を観ることができた
ウィキによれば、去年の再放送のようだ
そこで印象に残った言葉は次のもの

「言いたいことを言え。半分間違っていても半分正しければその人生には価値があったことになる」

当初は全く受け入れられなかったが、後に実証されることになる新説を出した経験を持っている
飛行機事故の原因となるマイクロバーストの発見である
そのアイディアは、若い時に長崎で行った原爆被害の調査であったという
この点を強調したこともアメリカ人研究者に抵抗感を持たれた原因になっていたのではないか
今ではその対策として飛行場にアンテナが設置され、この種の事故は殆どなくなったという
英語での講演が流れていたが、議論好き、論争好きという印象を持った

博士は退職後、糖尿病で入院を余儀なくされる
友人の話によると、生きる意欲を失っていたので目的を持たせようとしたという
目的として勧めたのが病状の記録で、それに対して純科学的な記録を残している
おそらく、博士の目的は科学の中に限定されていたのではないかと想像させる
それ故、立派な業績を上げることができたとも言えるのかもしれないが、、

このエピソードには最近のエッセイで触れたこととも関係する重要なことが隠されている
それはどこか他のところにある目的に向かうこととそのものだけのために進むこととの違いである
そのものだけのために進むという中の最強のものは、生きることが目的になることだろう
それができれば、科学を失っても意欲を失うことはなかったのではないだろうか

もう一つ改めて見えてきたことは、アメリカの科学者の一般的な考え方の特徴である
それはあくまでも科学の中での思考を重視することである
それ以外を認めない "no nonsense"の世界なのである
今のわたしには非常に窮屈に感じるところでもある


これは今朝の番組だっただろうか
映画の鈴木清順(1923-2017)監督の言葉が印象に残った

「一期は夢よ、ただ狂え」

これも最近のエッセイ、さらには前回の記事と「狂」繋がりである
時差ぼけも悪くない
興味深い出来事が続いてくれた





2017年5月18日木曜日

日本から見えるヨーロッパ精神




久し振りにテレビのある生活に戻ってきた
観るものを選ばなければ、頭の中は大変なことになるだろう、といつもの感想が浮かんでくる
それは、本来われわれが持っている空間を十分に使うことができなくなるという危惧である
厄介なことは、普通の生活の中ではこのことに気付くのが至難の業であるということだ

さて、昨夜、時差ぼけの睡眠から目覚めた時、あるドキュメンタリーが始まったところだった
わたしのテーマになって久しい「偶然は必然である」が浮かび、観ることにした
それは、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のモデルについてのお話であった
この絵はダ・ヴィンチが最後まで手放すことがなかった3点のうちの1点である
アルプスを越え、終の棲家となったアンボワーズまで持って行ったものである

番組には絵画の科学的分析をするフランス人研究者、イタリアの服飾研究家と歴史家が出ていた
まず、彼らの対象に向かう態度に形容し難い余裕のようなものがあることに改めて気付く
それは歴史が齎すものなのだろうか
それ以上に、歴史について振り返るという性質が齎すものなのかもしれない
省察であり、哲学的態度であり、言葉の重視である
それは日頃から感じていることだが、そこにヨーロッパらしさのようなものを見るようになっている
そして、それを好ましいものと考えるようになっている

ドキュメンタリーには、これまで知らなかったことが出てきて、それ自体でも楽しめるものであった
しかし、それ以上に、事実や科学を超えるところにも目が行っている研究者の姿が見えてきた
特に、最後に出てきたイタリアの老歴史家の姿は心打つものがあった
もう少しで、北斎のように「狂」の字が入る境地に至るのではないか
そう思わせる愉快さを感じた


前回の帰国でもヨーロッパに関する番組が少なくないことに驚いた
おそらく、それだけ要求があるということなのだろう
歴史ある日本などは、ヨーロッパにより近いものを感じているということなのではないだろうか
それがマジョリティではなさそうではあるのだが、、、




2017年5月14日日曜日

外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第44回 外国語との付き合い、あるいはなぜ外国語を学ぶのか?

 医学のあゆみ (2016.5.14) 257 (7): 803-807, 2016

お暇の折にでもお読みいただければ幸いです

よろしくお願いいたします






2017年5月12日金曜日

現象学事始め、あるいは二種類の反省



今日は夕方、急に雨が降り出し、雷が鳴り続いていた
昨日から空の様子がおかしいようである


フランスに渡る前、フランスの哲学教師をやっていた方から仏版ブログにコメントが届いた
そこには、ブログに溢れる活力は現象学的なものの反映であるとの診断が書かれてあった
さらに、私はフッサールやハイデッガーを愛するために生まれてきたとのお告げが添えられていた
このことは以前に触れたようにも思う
しかし、その意味は分からないままである

最近、移動の時にフッサールの『デカルト的省察』を読み始めている
やはり、日本語がピンと来ず、難しい
このような領域は、自分が同じような経験をしていなければ分からないことが多い
それ故、若い時から哲学をやる難しさを想像している
ただ、今日読んだところは言いたいところが分かったような気がした
一次意識と二次意識、あるいは意識の三層構造とも関係しそうに見えたからではないかと思う

それは反省というものにも二種類あるというところであった
一つは日常の出来事について反省するという意味での反省で、われわれが時々行うものである
「直進的」という言葉で表現されている

もう一つはそれとは別で、そこで起こったことや反省していることについて反省するものである
そういうものが存在するのかどうかということについての反省も含む
この場合、根源的な問いかけになるため、フッサールがエポケーと呼んだ過程が必要になる
「判断停止」と訳されていた

我流の解釈では、一度立ち止まって、存在するもの、経験したことを考え直すということだろうか
存在しているものは確かに存在しているのだが、それを現実ではなく現実の現象と捉えるのである
そこに一つのクッションができ、現実を少し離れたところから見る客観性が生まれるように見える
「もの・こと」により深く迫ることができそうである

日常における反省とエポケーを伴う現象学的な反省では記述のされ方も異なってくるだろう
そして、後者により最初の体験の意味が異なってくる可能性さえある
つまり、「関心を持つ」自我の上に現象学的自我が存在するという「自我の分裂構造」を採っている
前者が世界に関わりを持つ自我であるのに対して、後者は「無関心な傍観者」としての自我である

このテーゼがよく理解できるのは、その構造が自分の中にもあることが見えるからである
最初の仏版ブログにその傾向が現れていたということなのだろうか?
そのことには気付かなかったが、あったのかもしれない
自分が書くものの特徴については、なかなか分からないものである
これからも折に触れて、フッサールさんの考えを「反省」してみたい




突然の嵐



本日は曇り時々雨で少々冷えた
昨日発見したところで午前中過ごす
質素なところなので、意外に集中できる
久し振りに勉強しているような気になる

これも久しぶりに夕方から外出
午前中に浮かんだところを纏めるためにいつものカフェへ
あくまでも第一段階だが、 それなりにできたようだ
この地道な営みがこれから求められるのだろう

ところで、カフェに入った途端、もの凄い雨と風が吹き荒れた
窓の外は白くなり、景色は見えず
それほど長くはなかったが、マロニエの花は落ち、辺り一面が真っ白になっている
一瞬の変化の中にいるのもなかなか味があった

今日はそのカフェからのアップとなった








帰り、幾分水かさが増したように見えるロワール沿いを歩いてきた
緑滴る大木の下を水溜まりを避けながら
そんな中を歩いている人を何人か見かけた
素晴らしい気分であった
晴れた夕暮れにあの川沿いで過ごすのも悪くないだろう

そんな気分でバスを待っている時、完璧な虹が現れた
最初にこの町に来た時に見た途中が欠けているものとは違う 
夜の9時過ぎの虹、こういう時に限ってカメラを持参していなかった
何かのご褒美だったのだろうか






2017年5月10日水曜日

興味深いスピンオフ



今朝、最近発見した近くの郵便ポストに投函
そのポストと同様、以前からそこにあったレストランに気付く
これまでそこをカフェ代わりに使おうという考えさえ浮かんでこなかった
そこで暫く読んでみたが、使えそうである
こんな近くにこんなところがあるとは思いもよらなかった
こういう盲点を発見するのも楽しみになっている
実はそれが余りに多くなっているので、楽しみは尽きないのだが、、


ところで、今回のフランス大統領選の後、日本の政治状況が浮かんできた
日本は今沈滞の中にあるという
その沈滞と並走しているように見えるのは、皮肉と揶揄と諦念と時に罵倒の類になるのだろうか
今の問題と真正面から向き合い、新しいビジョンを提示するような人が見当たらない

一見、この沈滞を打ち破るために立ち上がっているように見えるものもあるが、訴えかけてこない
それはおそらく深い思索のなかから生まれてきたものではないからではないか
出てくる言葉の背後に何かを感じないのである
そう感じたのは、マクロンが少なくとも言葉の上でその方向を向いているように見えたからだろう

この状況を打ち破るにはマクロン的な人物の登場が求められるのではないか
外から見れば1年ほど前には殆ど無名だったというくらいの若い人材、隠れている人材である
既存の野党が機能しない状態では、その枠を超えた思考をする人が必要になるのではないか
そのような人材が出るだけの余裕、スペースがいまの日本にあるのだろうか
悲観的状況をものともせず、既存の勢力を取り込み進むだけの力量を持つ人物は現れるのか
そんな夢想とでも言うべきものが浮かんできた

これは離れているからこそ浮かんできたものかもしれない
と同時に、今回、大統領選のカバーをしていなければ、こんな夢想も生まれなかっただろう
そう考えると、面白いスピンオフと言えるのかもしれない






哲学者ポール・リクールとエマニュエル・マクロン



フランス現代の哲学者にポール・リクール(Paul Ricoeur, 1913-2005)がいる
彼は自らの仕事を偉大なテクストを読み続けることと考えていた
巨人の肩の上の小人に例えながら
この哲学者とマクロンの意外な接点を知ることになった

マクロンはリクールの助手をしていたという
その時に前世紀について学び、歴史を考えることを学んだと選挙前に出した本で述べている
さらに、リクールについてESPRIT誌に論文も書いている
タイトルは、La lumière blanche du passé. Lecture de la Mémoire, l'histoire, l'oubli
リクールの『記憶、歴史、忘却』を読んでの考察になるのだろうか
この本にはマクロンへの謝辞も書かれているという

それ以来、リクールと関係のあった次のような人に深い影響を受け、変容して行ったと語っている
 
 オリヴィエ・モンジャン(Olivier Mongin, un écrivain, essayiste et éditeur français, 1951-)
   ESPRIT誌の編集長を1988年~2012年まで務めた
 フランソワ・ドス(François Dosse, un historien et épistémologue français, 1950-)
 カトリーヌ・ゴールデンシュタイン(Catherine Goldenstein
 テレーズ・デュフロー(Thérèse Duflot)


特に選挙戦後半だが、彼の主張には意外と背骨となっているものがあるような気がしていた
彼の中にある進歩への信仰や自由の尊重、フランスやヨーロッパへの強い思いの背後にあるもの
言わば、啓蒙思想そのものを推し進めようとする力になっているもの
それは文学や哲学の素養に裏打ちされているのではないか
さらに、痛みの癒しや和解という言葉の背後にはリクールの哲学が反映されていたのではないか

単なる政治・金融の技術だけではなく、そこから距離を取ることを可能にする文学や哲学からの目
彼はそれを持っていて、それが彼を動かす力になっていた可能性がある
これから調べなければならないが、興味深い視点を得ることができた