2017年8月30日水曜日

精神が蘇るという感覚



本日は久し振りに涼しかった
曇りで風があり、ほんの少し湿っていた
メランコリックな気分になりそうな時は、昔のメモに向かうには最適である

目の前にあったノートを取り出してみる
もう2年前になるテーズの最終段階のものが出てきた
今でも嫌な気分であるが、そこから少しは前に進んでいることが確認でき、ホッとする
もう一つのノートには、今考えている論文の資料になるメモが書かれてあり、驚く
結構、真面目にやっていたようだ

パソコンの中のファイルもそうだが、これまでのノートは外部記憶として貴重だ
それらは記憶を引き出す時に不可欠になるからである
引き出せなければ、記憶がないのと同じになる
記憶と付き合いながらそれについてさらに考える時、新しいものが顔を出すことがある
そしてそれが、「精神が蘇る」という感覚を呼び覚ます
この感覚は、何ものにも代え難い




2017年8月29日火曜日

自律的な精神の高まり




今日も暑い日である
当地の夏は7月がピークで、8月の終わりに残暑のような形で暑さが戻ってくるパターンなのか
こういう日は籠っているに越したことはない
いつもとは違い、比較的集中できている
外に出たいと思うのは、アパルトマンにいては集中できないと感じているからだ
籠っていてもそれができるということは、自律的な精神の高まりがあることを示しているのだろう
今日だけなのか、永続的なものなのか
もちろん後者であることを願いたいが、おそらく前者だろう






2017年8月28日月曜日

2Cellos を発見




今朝は、お隣さんの声で起こされた
目覚ましになることが判明
気分転換に植物園へ
残念ながら、例のお店は月曜はお休みであった
気持ちは静かなものである

その足でテクノのカフェへ
入ると、いつもとは違う情感を刺激する音楽が流れている
お店の人に訊くと、2Cellos というスロベニアとクロアチアの若者のデュオだという
その音楽を背景にプロジェに当たる







今日も夏らしい日である
観光地のような街中を初めて背広なしで歩く
少しは景色に溶け込んだのではないだろうか

これまでアナトール・フランスと呼ばれていた駅が9月2日から名前を変えるという
新しい名前は Porte de Loire
おそらく、ロワール川を中心に町を再活性化しようという動きに合わせたものなのだろう
他にも駅名を変えるところがあるようだが、いずれもこれまでの方がよく見える








植物園を散策



今日は窓を開けるとムッとする空気が入ってくる
30度くらいで、やっと夏らしくなってきた
予報によれば、今週はこんな感じらしい

夕方、植物園に足を延ばした
広くはないが、水鳥や魚などがいる池があったり、動物がいたりとそれなりに楽しむことができる
帰ってくるとじわーっと汗が出るという暑さである
園内にカフェのようなところがあったが、朝であれば気持ちよく仕事ができそうな雰囲気であった
近いうちに試してみたいものである

本日もこちらに来た当初のファイルを開けてみる
何とも懐かしい、、というより、愛おしい
少し育ててみたくなるものも見つかった
こういう感覚は科学ではなかなか生まれないのではないだろうか





2017年8月27日日曜日

一昔前に大テーマは出揃っていた



静かな一日であった
もう夜の9時には暗くなってきた
秋に一気に向かっているようだ

箱に収まっていた古いノートを見る
こちらに来る前に、自分の中にある大きなテーマのようなものは出ていたことが分かる
それはこちらに来て一旦忘れてしまっていたが、無意識のうちに追っていたのだろう
そして、この10年でその意味がより明確になってきたものがある
それは、この間に流れた時間が無駄ではなかったことを教えてくれる
静かだが深い悦びに繋がっている

夜、これまで眠っていたファイルに手を加える





2017年8月25日金曜日

大江健三郎と伊丹十三、あるいはストア哲学の重要性



今朝は雨の跡が残り、曇りが続いた
隣からは相変わらず激しい言い争いの声が聞こえてくる
病的ではないかと思えるほどである
静かな生活を欲している者の精神衛生にとって極めてよろしくない


Youtubeを流していると、大江健三郎のインタビューが出てきた
その中で、伊丹十三との興味深い対比が出ていた
伊丹十三は自分の映画がどれだけ観客を動員できるのかを異常に気にしていたという
それに対して、大江は作品が出来上がるまでは何度でも書き直す
そして、それが終わった後は売れようが売れまいが気にならないという

これまさにストア哲学の問題である
伊丹はストア哲学を知らなかったのではないだろうか
自分ではどうすることもできない、従って必要のない悩みを最後まで抱えることになった
大江は自分ができることの範囲を知り、それを実践してきたことになる
ご本人はそれを性向と見ているようだが、、

この問題は人生を生きる上で想像以上に重要であることが見えてくる





2017年8月24日木曜日

景色との距離、日仏比較



本日も午前中は曇りで、午後から快晴になった
朝からテクノのカフェに出かけ、少し読んでから帰ってきた
もう注文する前に飲み物が届くようになって久しい


先日、トラムから流れゆく景色を眺めている時のこと
どうしてこちらでは景色を快適な気分で眺めることができるのか?という疑問が湧く
この場合の快適とは、カラッとしたとかドライな感覚があるという意味になる
こちらでは、対象との距離が少し離れているような、他人事のような気がしているからではないか

それに対して日本では、じめっとしたというか、自分との距離が近すぎる感じがする
昔から見慣れた景色なので、それが知らず知らずのうちに中に入ってくる
あるいは逆に、 自分の中身が景色の中に溶け出していくような感じだろうか
そこに関わりを持たざるを得なくなるという感覚だろうか

フランスでは景色との間に明確な境界を作ることができるような気もしている
そのため、距離をとりながら客観的に観察できているように感じている
それは自己との対話をも容易にしているように見える
こちらでの感覚を軽やかと形容すれば、日本ではやや重苦しいとでも言うのだろうか

もちろん、日本に落ち着いて他の土地に行くと、外国のように感じるところがあるかもしれない
しかし、外国に出ると、その違いも誤差範囲に入ってくるように見える






新しいものに手が伸びる



今朝は曇りで、涼しい
どうもこのまま9月に入りそうな気配である
有難い

先日、新しいプロジェを二つ思い付いたが、目新しいためかそちらの方に手が伸びる
本来やるべきプロジェは進んでいるのかいないのか
まさにセラヴィである

午後から晴れ間が見え、少しだけ夏らしくなった




2017年8月23日水曜日

平均的な一日か

          19世紀初頭のトゥール


今朝は快晴
しかし、やや涼しい
毎日手入れされているグラウンドの芝生の緑が眩しい
意外に心を落ち着かせる効果があるようだ

昨年訪問した時は酷い暑さだったが、今年は非常に過ごしやすい
昨日、日本のニュースを見ていたところ、東京の8月は連日の雨だという
そういう年なのだろうか

今日は朝から出ることにした
朝のカフェは、やはり快適である
午後もう一軒に立ち寄り、5時間の比較的良い時間を過ごすことができた
帰りはやや暑さを感じた




2017年8月20日日曜日

18世紀のロワール界隈に遊ぶ



今朝、新たなプロジェと共に目覚めた
暇と時間を要することになりそうなので、息をするように進めたいものである

今日は晴れ渡り、風がないお蔭で非常に穏やかな気持ちになる
昨日も長い一日だったことを思い出す
十分に刈り取ったか?という声が聞こえる

散策がてら、買い物に出た
道すがら、将来この町を去ることになった時、この景色はどんな風に見えるのかという思いが湧く
これまで何度も経験してきたものとは違う感慨が浮かぶのだろうか
午後からは先日見たのと同じ綿雲が現れ、恰も永遠を描くように微動だにせず浮かんでいる


今日は18世紀後半のトゥールを眺めることにした
ロワールの向こう岸からの景色である
今ある大きな建物は殆ど出来上がっている
10年前に完成したばかりのウィルソン橋を挟んで、左の端にはトゥール城、サン・ガシアン大聖堂
橋の向こう側正面にはサン・ジュリアン教会、右にはサン・マルタン聖堂を思わせる建物が見える

橋を渡ったあたりは、今、アナトール・フランス広場となり、再開発が行われている
そして、今は左手にデカルト、右手にはラブレーの像が建っているが、その気配さえ見られない
当時、帆船が行き来していたとは知らなかった
川が今より生き生きしている
今度ロワールを観る時には過去が重なり、景色がこれまでとは違って見えるのだろうか





ゆっくりと絵の中を散策



穏やかな週末の一日、ゆっくりといろいろな会の準備、並びに新しいプロジェに当たる
それから、上の絵の中を散策する
16世紀、17世紀、19世紀にフランスに占領されたピネローロ
この絵は17世紀の占領状態を描いたもの

この辺りを歩くにはそれなりに時間がかかるが、全く飽きない
それだけではなく、贅沢な気分になる
タイムマシーンで未来からやって来た人間になるのである
週末にはもってこいだ

それから、今年初めのブログ記事も読んでみたが、忘れているものもある
感動の程度が落ちてきているのだろうか






2017年8月18日金曜日

パリカフェの開店迫る



今日は朝から冷たい雨
これまでのところ、どうにでもしてくれとか、すべてを投げ出したくなるような暑さと湿気はない
凌ぎやすい夏となっている
冬も比較的過ごしやすかったので、有難い土地柄である

午後から晴れ間が見え始めたので外に出た
着くころには青空が広がっていた
書きなぐったままであった断片を少しまともな形にする
怠惰に堕しがちな身としては、こういうちょっとしたことが意外に難しいのだ


ところで、初めてのパリ開催になる略称パリカフェが2週間後に迫った
どれだけの方が興味を示すのかが全く見えない中での開店案内だった
それ以前に、この情報をどのように拡散するのかが問題になった
長い庵暮らしの身には、ブログとツイッターしか思いつかなかった
ただ、フランスの方にどれだけ届くのかは未知数である
以前にも触れたように、パスツール財団のフェースブックに案内を掲載していただいた
フランスに届けるためには、こちらの方が効果がありそうだと考えたからである

幸い現在までに複数の方が参加を申し込まれているので、実際に店を開くことはできそうである
申し込みをされた方の中には、情報を拡散していただいた方もいる
改めて感謝したい
講師としては、エピクテトスに倣い、自らの力の及ぶところだけに注意を集中したい
それはすなわち、しっかり準備することである
テーマは「科学と哲学について考える」で、大風呂敷を広げることになる

共に考えてみようという方の参加をお待ちしています





初めての日本からのお客様をお迎えし、トゥール観光

       久永眞市先生(首都大学東京)


本日はトゥールに来て初めての日本からの訪問客になる久永先生をお迎えした
パリの学会前の時間を取ってトゥールを訪問していただいた
今朝パリに到着されたばかりなので、お疲れだったのではないだろうか
フランスでは時間の流れが違うと感じるとのことであった

まず町中をゆっくり走る観光バスに乗り、目ぼしいスポットを見る
バスと言っても子供が乗るようなやつである
以前に旧市街などで見かけたことはあるが、今日初めてそのルートを知ることになった
なかなか趣のある町であることも発見
貴重な時間となった

観光は40分ほど
終点前で降り、小さな公園のようなところに出ているレストランでデジュネ
少し雨に降られたが、それほど影響はなかった

食後の散策がてら、お城の美術館 Jeu de Paume
今日はWilly Ronisの他に、Judith Wolfeという人の作品が展示されていて、興味を持つ
殆ど写真に収めた

それから、近くの美術館で2時間ほどたっぷり味わう
写真撮影がOKなので、非常にありがたい
このような規則になっている時、心の広さのようなものを感じることが多い
4-5年前に来た時の記憶が少しだけ蘇る

十分に堪能した後、駅前のブラスリーで今日一日と人生を振り返る
その中で、こんな指摘があった
日本で何もしないで過ごすのとこちらで同じことをやる間には想像以上の違いがあるのではないか
日仏の往復の中で似たようなことを感じていたので、当たっているのかもしれない


1時間ほど休んだ後、夕方のTGVでパリに戻られた
学会では学生さん3名が発表されるとのこと
実り多き滞在になることを願いたい


    Judith Wolfe,  Nomade 1 (2002)






2017年8月17日木曜日

精神が行動の人に



本日は明るい一日
午前と午後の二度外に出る
午前中、新たなプロジェを思い付く
そして、午後からそれに当たっていた

昨日ゆっくりしたせいか、思いも掛けないことを思い付いたものである
本来のプロジェに影響が出るのではないかとも考えられるが、どうだろうか
これまではぼんやりすることが仕事のような感覚があった
しかし、これからは精神が行動の人になるのだとすれば、それほど影響はないのではないだろうか

殆ど偶然が人生を決めている
それが分かると、その偶然をどこかで待つような気持ちが生まれる




2017年8月15日火曜日

11年振りの空海



早朝、どんよりとした曇り
暫くすると雨が降り出し、遠くに雷光と雷鳴が聞える
外を観ながら流していたYoutubeから空海の話が聞えてくる
以前に聞いたことがある内容だったので日付を見てみると2005年となっている
空海について書いた記事を思い出し、調べると2006年の正月になっている

その時はこの言葉に反応したようだ
「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて 生の始めに暗く   死に 死に 死に 死んで 死の終はりに瞑し」  
『秘蔵宝鑰 』(ひぞうほうやく) 
以下、このように続いている

この言葉を聞いた時、すぐにウラジーミル・ナボコフの自伝の最初の文章を思い出す
ロリータ』の著者だ
"...our existence is but a brief crack of light between two eternities of darkness. Although the two are identical twins, man, as a rule, views the prenatal abyss with more calm than the one he is heading for." 
Vladimir Nabokov,  Speak, Memory: An Autobiography Revisited 
(われわれの存在は二つの永遠の暗闇の間にあるほんの一瞬の光にしか過ぎない。その暗闇は双子のように違いはないのだが、一般的に人はこれから向かう暗闇よりは生まれる前のそれを心安らかに見ることができる。)
すでに全ページが黄色に変色した1987年版を開いてみると、次の書き込みがあり楽しくなる
「1999年10月30日土曜、衛星放送。早坂暁氏によれば、『生まれる前も暗く、死んだ後も暗い』 というようなことを空海も言っている」  
ショーペンハウアーの『知性について』のなかにも次のような表現がある
「それで、ただわれわれの一生が短いだけではなく、われわれの認識も誕生以前にさかのぼったり、死後のかなたを見晴らしたりすることができずに、全くこの短い一生の間に視野を限られている。してみれば、われわれの意識は、一瞬の間だけを夜陰を明るくする稲妻のようなものである」
一瞬の生 LA VIED'UNE FRACTION DE SECONDE (2006.1.3)


今回反応したところは、少し違った
「虚空尽き  衆生尽き  涅槃尽きなば  我が願いも尽きん」
夢枕獏氏の解説はこうだ
「宇宙が消え、生きとし生きるものが消え、涅槃が消えた時、自分の願いは尽きる」という意味だが、空海はそれはあり得ないと考えていたので、彼の目指すところを永遠に続けるという意味になる。したがって、彼の精神は今も宇宙に満ち満ちている。
もう一つ反応したのは、儒教と道教と仏教の違いを『聾鼓指帰』(ろうこしいき)で語っているところ
空海はこう見ていた
儒教は人間社会という枠の中の話で、道教は個人レベルの話。しかし、仏教は個人を超えて、他の人や宇宙にも考えが及んでいる

 空海の思想の中にストア哲学にも通じる世界観があるように感じた





フランス10年目が終わるこの時期に



今日は朝から快晴で気分も盛り上がる
アパルトマンの前の木はたくさんの実をつけている
春先に見た美しい花は豆リンゴ?だったことになる
そう言えば、パリでも近くの路上にこの実が沢山落ちていたことを思い出す
その時は上の方を見ることにはならなかったが、、

午後から空一面に綿雲が現れ、そこで微動だにしない
空にも平和な静寂が訪れたといった風情だった
街に出て、昨日閉まっていたカフェに入る
こんな考えが巡っていた

これまでのように大上段に構えて事を始めるようとすると、なかなか始められない
気が付いた時に小まめに事を片付けていくという方が捗るのではないか
何度も気付いていることに改めて思い当る
要するに、やれてなかっただけなのである

これは他のことにも当て嵌まりそうだ
つまり、これまでの静かな時間の中で、わたしにとっての問題点は出尽くしている
さらにぼんやりとした時間の中に遊ぼうとするのではなく、そこから出てやるだけではないのか
求められているのは、ベルクソンの神秘主義者ではないが、広い意味での開かれた行動
そんな心持ちになってきた

丁度、フランス10年目を終えようとする時期に当たる
それは、これから新たな10年が始まるということなのだろうか?




2017年8月14日月曜日

ベルクソンの神秘主義者



このところ、朝はいつも曇っているが、午後に晴れ間が見えるという状態が続いている
今日も同様で、午後からAssomption(聖母の被昇天)前の静かな町に出た
行きつけのカフェが閉まっていたので新しいところへ

最近気になっている言葉に mystique(神秘主義者)がある
山に籠って只管瞑想しているような人を想像するが、一体どういう人のことを言うのだろうか

アリストテレスによれば、最も善きものはその存在にとって本性的で固有なものである
人間の場合、それは精神生活を全うすることだという
それは同時に幸福を齎すことになる
幸福を表す言葉「エウダイモニア」には、神に祝福された状態という意味がある
ダイモーンは神と人間との仲介者を指す
つまり、知的活動だけを生涯に亘って続けることは、神に祝福された状態にあることを意味する
それは人間を超えた「神的生活」とも言えるものになるのだろう

ベルクソンの言う神秘主義者も人間ではあるが人間を超えた存在を指している
神と接することができる存在ということになる
アリストテレス同様、そのような人間が存在し得ると考えている
ただ、ベルクソンは思索だけの神秘主義者を認めない
物理的制約を背負っている人間が、その限界を乗り越えて行動をしなければならないという
その行動は神的とも言えるかもしれない
行動を通して社会に開き、それが創造へと向かう可能性を神秘主義者に見ていたのだろうか




2017年8月11日金曜日

本日も降ったりやんだりの一日



本日も落ち着かない天気だった
お陰様で、行きと帰りの歩いている時だけ雨に濡れた
今日も比較的よく集中できたのではないだろうか
所謂物理的な時間が意識から消えていたという点で

それにしても涼しい日が続いている
このまま行ってくれると天国である





2017年8月9日水曜日

雨が降ったり止んだりの一日



このところ凌ぎやすい日が続いている
アパルトマンにいると涼しいくらいだ

昨日、今日と朝起きると雨の跡が残っていた
昨日は夕方雨が降り、その後青空が覗いた
今朝は落ち着いていたが、雨が激しく振り出した
暫くすると青空が見えたので、旧市街に出ることにした

先日見つけたカフェに入った途端、土砂降りになった
3時間ほど落ち着いてから出た
すぐに帰るのは早すぎるので、リブレリーへ
何冊か手に入れ、カフェを代えて暫く読む
ここでも休み始めると雨が降ってきた

今日は雨が降ったりやんだりの一日
雨に濡れた石畳も悪くない
夕方、明るくなってきたので帰ることにした

ところで当地の夏、外に出なければ快適だが、最後までこの調子なのだろうか
そうであれば素晴らしいが、もう少し様子を見てみたい




2017年8月7日月曜日

ちょっとした捕り物、そしてヘンリー・ミラーのフランス語を聴く



昨日はちょっとした捕り物があった
扉を開け、机に向かっていた
暫くして後ろを見ると、自分の家のように座っている猫がこちらを見上げているではないか
以前にバルコンに来ていた猫だ
それとなく外に出てもらうように優しく扱うと、何とか出て行ってくれた

更に暫くすると、バルコンの仕切り越しに若い女性が顔を出し、自分の鼻を指さしている
それはわたしの!ということだろう
例の騒音を出す老夫婦とは反対にお住いの若夫婦になる

早速、猫を捕まえようとしてバルコンに出ようとしたが、すぐに入って来ようとするので諦める
そこで、バルコンのシャッターを閉じて、好奇心をそそると思われる中が見えないようにしてみた
それから10分程してシャッターを開けると、例の女性が同じように顔を出し、親指を上げている
上手く確保できたようで、ホッとした


今朝は事務手続きがあり街に出た
少し早く着いたので、建物向かいの路上のテーブルに座り、コーヒーと共に読み物をする
朝の屋外の何と気持ちの良いことか
すいすいと入ってくる

用事はこれまで何度も書いているように、パリとは比較にならないほどの快適さのうちに終わる
周辺を散策、本当に久しぶりのカフェに落ち着き、読み進む
お昼になったので、もう少し歩き、いつものカフェでデジュネ
その後、さらに読んでから帰ってきた
今日は帰りだけ歩きになった





帰宅後、記憶を刺激されたのか、ヘンリー・ミラーのフランスでのインタビューを観る
外国人のフランス語を耳にすると、臆せずに話さなければならないという気にさせてくれる

以前にも触れたが、わたしのフランス語には英語アクセントがあると言われることがある
こんな風に聞こえているのだろうか
まあ、ここまで来れば、アクセントなど気にせずにやるしかないだろう
こちらに来る時には、キッシンジャーの英語のようなフランス語が夢だったのだから






2017年8月5日土曜日

デカルトの人生




" et il y a justement huit ans, que ce désir me fit résoudre à m'éloigner de tous les lieux

où`je pouvais avoir des connaissances, et à me retirer ici, en un pays... où parmi la foule

d'un grand peuple fort actif, ... sans manque d'aucune des commodités qui sont dans les villes

les plus fréquentées, et j'ai pu vivre aussi solitaire et retiré que dans les déserts les plus écartés. "


「そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、

この地に隠れ住む決心をした。・・・ わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある

便利さを何ひとつ欠くことなく、 しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、

孤独で隠れた生活を送ることができたのだった」 (谷川多佳子訳)






静かな金曜日



本日はほぼ終日曇り
翻訳の最初の校正がやっと始まった
昨年9月に脱稿しているので、ほぼ1年が経過したことになる
そのため新鮮な気持ちで向き合えそうである

今日はその他、ネット上にあった日本語の文章を読む
いくつか参考になることがあった
と同時に、日本語がすんなり入ってくるので、思考が流れてしまいがちであることも分かる
一語一語辿るフランス語の場合との大きな違いだ

10年以上前のノートを読み直す
こちらに来る前の精神状態が書かれてあるが、忘れていたことも少なくない
当時から枠を取り払って思考を巡らせることをやって来なかったことに気付いていた
瞑想という言葉を使っていたが、その中身はよく分かっていなかったはずである
それが分かったと感じるまでに10年掛かったことになる

それから、思いも掛けない人と思いも掛けない言葉を交わしていたりする
体重を減らさなければ、などという記述もある
そして、何とその時の体重が今より10キロも少なかったことに驚く
10年後は同じ言葉を発する気にはならないようだ







2017年8月4日金曜日

トロティネット初日



午後からトロティネットで街に出た
何年振りだろうか
いつもの半分くらいの時間で辿り着いた
バランス感覚と脚力が落ちているのがすぐに分かる
いま自転車に乗れるだろうか?と思わせるほどであった
筋力の衰えも明らかで、すぐに疲れる
交互に脚を代えていた
注意しなければならないのは、道のちょっとした凸凹で大きくバランスを崩すことだ
それに耐えるだけの脚の力がなくなっているのだろう

パリでのこと
道の凹に前輪が引っ掛かり、巴投げを食らったように前に転がったことがある
一瞬何が起こったのか分からない、という状況であった
こちらでは慣れるまでゆっくりと行きたいものである

今日も女子高生が五月蠅かったが、やるべきことには集中できた




2017年8月3日木曜日

三日目も歩く



三日目はどうなるのかと思ったが、昼過ぎから重い腰を上げた
そして何ということか、今日は往復が歩きとなった
バス停までとバス停からの歩きが煩わしいものに感じられたからのようだ
直ぐに目的地に向けて歩き出す方がすっきりするということだろう
精神がdeboutの状態になったきたのだろうか

そもそも交通機関がないと思えば、どうということはない
歩くのが嫌であれば、街には出かけないだろう
帰りには、このところ使っていなかった trottinette を出してみても面白いのではないか
そんなアイディアが浮かんでいた

カフェでは夏休み中の女子高生のグループが来ていて、少々五月蠅かった
夏真っ盛りというところだろう
しかし、こちらの集中力が落ちることはなかった





2017年8月1日火曜日

本日は旧市街まで歩く



本日は旧市街まで歩いた
意外に早く着いた
バスの待ち時間やバス停から歩く時間を入れると、余り変わらないのではないか
適度に汗をかき、途中これまで知らなかったお店も現れ、精神的には昨日より良かった

今日も路上の席に座る
いつものカフェだが初めてのことだ
観光客が横を通る
外気がわたしの受容体を刺激する
今、教会の鐘がなったところだ

セダンテールなライフスタイルから脱却できるだろうか
まだ二日目だ


本日もそのカフェからアップした