2018年7月9日月曜日
『ゲッベルスと私』 を観る
やっと精神的余裕が出てきたようだ
今日は先日のFPSSで紹介されていた映画『ゲッベルスと私』を観に朝から出かけた
いやはや暑い
会場に入るとほぼ8割の入りで、混んでいる
月曜の午前中のためか、ほとんどすべてがシニア
その中に入っているはずなのだが、どこか別世界を見るように感じていた
以下に映画の印象を思いつくまま
人生がその皺に刻まれた103歳の女性が、驚くほどしっかりと語る
ゲッベルスの秘書として働いていたという
原題は A German Life となっている
1936年あたりまではベルリンは素晴らしい街だったという
まだ外国人が来ていて、中には日本人らしき人もいたという
異質な人間に触れる悦びを感じたようだ
最初はユダヤ人の下で働いていたが、恋人の友人の紹介でナチスに入る
そして1942年に宣伝省での職を得る
ゲッベルスは上品で、常に自制心があり冷静だった(一度だけ怒鳴ったことはあったが)
しかし、大衆の前で演説する時には別人になり怒鳴り立てていた
彼ほどの役者はいないと見ている
ヒトラーもそうだが、彼の演説も理性ではなく感情に訴える
ロマンチックな考え方が批判される大きな理由はそこにあるのだろうか
個人的にはロマン主義的な傾向を全否定することはできないのだが、、
彼女は当時のことを振り返り、深く考えずに生きていた、浅はかで愚かだったという
義務を果たそうとして仕事をしていただけで、仕事の中身には関心がなかった
これは枠の中での考えとその外から見る視点を得ることができるのかという問題になるだろう
渦の中にいて流されていたので、色々な行動の理由を説明できないともいう
強制収容所という言葉は知っていたが、矯正するための施設くらいにしか思っていなかった
よもやあのようなことが行われていようとは想像もできなかった
国中がガラス製のドームの中にあり、国が隔離された収容所のようになっていた
また、国が平気でデータを改竄することも語られている
この世には神も正義も存在しない
美と醜、白と黒というように明確に分けることができないものがある
一色に染まっているものはないということだろう
今の人は、当時理性に適ったことができたのではないかと言う
しかし、それは絶対にできないと断言する
おそらく、そうだろう
それをするには命をかけなければならないからで、実際にそういう人達を見てきたという
枠の外からの思考とそれを支える強靭な意志がなければ難しいだろう
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