2016年12月23日金曜日

アンプロヴィゼできた一日

  La Touraine rêvée, André Bauchant


午前中から旧市街へ
いつものカフェではマスターが冗談を言ってきた
気分が軽くなる
2時間ほどだろうか
予定をこなすことなく、雑務に追われた

カフェを出てアナトール・フランス広場の方に歩を進めると、上の写真にあるポスターが目に入った
通りを挟んで眺めていると、素朴派の画家という言葉が見える
丁度開館したばかりだったので、覗いてみることにした
庭師で画家のアンドレ・ボーシャンAndré Bauchant, 1873-1958)の展覧会であった

師を持たず、描きたい時に描きたいように描いたと語っている
作品は日本にもあるとのこと
なかなか味のある絵を残している
単に自然を描いただけではなく、歴史や神話も題材にしている
生涯で数千点を残しているという
日本でも好む人が多そうな感じの絵であった
撮影禁止だったので紹介できないのが残念である
晩年のお顔には内から滲み出る充足感のようなものが表れていた
会場となった建物もなかなか雰囲気のあるところだった

そこを出た後、リブレリーに寄ってみたが、画集などはあまり出ていないようである
街を歩いている時、素朴派と言えばアンリ・ルソーがいることを思い出す
この画家については最初のブログに書いたことは覚えている
その中に何人かこの流れの画家の名前を書いたことも覚えていた
早速調べてみると、そこにアンドレ・ボーシャンの名前があるではないか
ただ、その時には特に強い印象は残さなかったようだが、、

アンリ・ルソー展 HENRI ROUSSEAU ET LES ARTISTES JAPONAIS (2006-11-23)


なぜか非常に嬉しくなり、もう一軒のカフェに寄る
ここの店員さんも顔を覚えていたようで、親しげに話しかけてくる
更にボーシャンについて調べるも満足はいかず

帰りにアナトール・フランス広場に向かうと観覧車(la grande roue)が動いているではないか
気分が軽くなっていたせいか、高所恐怖症を押して乗ってみることにした
三回ほど回ったようである
途中、不思議な感覚に襲われる
自分の前には人はなかったはずなのだが、それが現れて驚く
一瞬どういうことなのか分からなくなっていた
以下に、40メートルの高さから見たロワール川の南側と北側の写真を一枚ずつ










2016年12月22日木曜日

逸民、陸沈者、高等遊民のことなど



その時々に考えたことや自分の中に入ってきたことを記す「断章」と名付けたワードファイルがある
ノートを持ち歩くことは減っていたが、こちらには書いていたことが分かる
年の瀬を迎え、今年の正月から読み返してみた
今年はこれまでで450ページを超えている
因みに、2015年を見てみると500ページを超えていた

書くことだけで、目に見えない効果はあるのかもしれない
しかし、読み返すことにより、思考過程や事実が意識に固定されることになる
それは考え直す機会を与えてくれるもので、哲学する機会にもなっている
これまでは前に進むことに追われていたため、読み返す余裕は持てなかった
今年の年末は少し違うようである

1月の10日分を読んだだけで、一つのことに気付いた
それは、そこに書かれてあることをその後に言ったりやったりしていることである
これには驚いた
詳しいことは意識に上っていないのだが、どこかに滲み込んでいるようである
それが出会った状況の中で無意識の中から出てくるのかもしれない
一旦覚えて、その後に忘れるという過程にも通じるのだろうか
現在のわたしの場合、最初に書くという摩擦がなければ、このようなことは起こらなくなっている
通り過ぎて見えなくなるだけである
その記憶を引き出す術もなくなる

それから日本語のビデオを観る(聴く)ようになっていることにも気付いた
すっかり忘れていたが、今年の元旦には小林秀雄のべらんめい調の講演を聴いていた
その日のメモには「逸民」や「陸沈者」などの言葉が見える
逸民とは俗世間を遁れて、隠れ住んでいる人、隠遁者
陸沈者とは表面上は俗人の中にあり、同様の生活を営みながらも隠者として暮らす人
『荘子』の雑篇・則陽に出てくる

どこか自分と重ねるところがあったのだろうか
勿論、大隠などではあり得ないのだが、、
そう言えば、この秋のSHEで、参加者から「高等遊民」と評されたことを思い出した
今ではあまり聞かなくなった懐かしい言葉である
こちらも高等とは言い得ないのではあるが、、





2016年12月20日火曜日

日光浴と哲学



古代ギリシャの犬儒派の哲学者ディオゲネスは日光浴を日課にしていた
そのことは知っていた
しかし、それは自分もこれまでやってきたことであると気付いたのは、初めてである
つまり、ディオゲネスがやっていたこととの繋がりで見たのは初めてという意味である
わたしの発見である
そこにあるのに気付かないことは日常茶飯事だが、それを自分に意識させることが大切である
そのために敢えて記載することにした

わたしの場合、日光浴をやっている時に瞑想とか省察というアイディアが浮かんできた
考えるということがどういう運動なのかについて、一つの理解に達したと思ったのである
ディオゲネスがなぜ日光浴をしていたのか
それは分からない
ひょっとすると、いや、間違いなく、その時彼は哲学していたのであろう

日光浴は哲学に必須だったのである
これがやや強引な今日の結論だろうか





サイファイ研の来年を思い描く



来年から始める予定のベルクソン・カフェサイファイ・フォーラムFPSSのサイトの背景を新しくした
不思議なもので、これだけで訪問した時の気分が全く変わってくる
その場で展開することが以前と変わってくるのではないかという期待感まで生まれてくる
見かけではなく中身だという見方もあるが、見かけは意外に大事なのか

来年はこれまでの3つのカフェに上の2つが加わることになる
これらの活動のぼんやりとした絵を描いてみた
どうなるのか予想もできない
ただ、学生という振り返れば大きかった縛りがなくなったのでそれほど心配はしていない

人間の営みをテオリアとプラクシスに分けるとすれば、これらは後者に当たるだろう
前者についても考えていることがある
新しいプロジェが加わることになるので、来年はその様子を見る年になるだろう
昨日も書いていたようだが、飽きやすく気の多い性分なのでいろいろ工夫が必要のようだ
ただ、そんなことを言っているようでは「こと」は進まないのではないか

こういう有無を言わせぬ考えは、仕事をしていた時の発想が息を吹き返しそうな徴候なのだろうか
それだけは避けたいものである
来年はこの推移を見る年にもなりそうだ




2016年12月18日日曜日

食べたくなるように料理する



昨日、トゥールに戻った
僅か1日空けただけだが、戻った時は実に新鮮である
次第に、その感覚は薄れるのではあるが、、

パリに住んでいる時、狭いアパルトマンは足の踏み場もないほど本で溢れていた
そのためだと思うが、その中に入ると自らの脳が身の回りにあるという感覚があった
意識の中では脳の中に住んでいるように感じていた
それで「仕事」が捗ったかと言われれば答えに窮するのだが、、

こちらではスペースが広がったためか、開放感がある
脳の中に住んでいるという感覚からは程遠くなっている
それをよいもの、健康なものとも感じてきた

昨夜のこと、別のテーマに絞って当分やってみてはどうかというアイディが浮かんだ
これまでの沈滞した気持ちが浮き上がって来るのを感じ、早速関連資料を集め始めていた
それが溜まってきた時、これまでとは違い、精神が何かには囲まれている感覚が生まれてきた

大きな構想を持つことは大事である
しかし、それを前にして眺めていると手が付けられなくなる
昔来た道である
「当分は」ということで、小さな断片にして集中するのが「こと」を前に進めるにはよいのだろう
しかもその時に一番しっくりくる断片にするのがポイントではないか
自分が食べたくなるように料理することが大切、ということである

それで本当に前に進むのかを確かめるのが来年ということになりそうである





2016年12月17日土曜日

パリで用事を済ます



今日はパリで用事があり、早朝から出かける
数か所に立ち寄らなければならなかったので、全体の流れを頭に入れてから出かけた
実にスムーズに「こと」が進んだ
これまでにも触れているが、こちらが向かって行くのではなく、周りが流れていくという感覚である
そのため非常に良い感じで「こと」を処理しているという気分になる

夕方には哲学に興味を持っているという音楽で留学されている方のお話を聞く
音楽の中にも外に向かうものと精神の中に入るようなものがあるようだ
明快に聞こえるものと闇の中に入るようなものとでもいうのだろうか
音楽は科学とは違う精神の領域を使うと大雑把に考えていた
しかし、その中にも科学的なものと哲学的なものがあるということなのだろうか
いずれにせよ、そこまで突き詰めてこれまで聴いてこなかった
音楽は科学を進める精神にも目に見えない影響を与えている可能性がある
哲学についても同じことが言えるかもしれない
領域を厳密に分け、それ以外を排除するという立場には落とし穴があるということは言えそうだ

久し振りのパリだが、メトロは無料であった
どうも大気汚染対策のようで、車に乗らずメトロを利用して、ということらしい
今日のようにパリの街を動き回る時にはありがたい対策であった
明日にはトゥールに戻る







2016年12月15日木曜日

フーヴァー大統領再び



昨夜読んだ前ブログ記事にこれがあり、当時の記憶が蘇る

歴史家としてのハーバート・フーヴァー大統領 (2012.6.28)

そこで取り上げられていたのは、1000ページに垂んとするこの大作
Freedom Betrayed: Herbert Hoover's Secret History of the Second World War and Its Aftermath
Editor: George H. Nash (Hoover Institution Press, 2011)

記事で感じるところがあったのは、FDRとの対立とフーヴァー(1874–1964)に対するシンパシー
それと晩年の日課である

彼は1933年から亡くなる64年までニューヨークのウォルドーフ・タワーズの一室に住み続けた
70歳で妻を失う
80代の日課は、毎朝5時半に起き、食事をする以外は書き続けたという
その結果が85歳からの5年間で7冊、そしてこの大著を残して 90歳で亡くなっている
毎日雲を見て無駄に過ごしている身からすれば、見習いたい集中力とスタミナである






2016年12月14日水曜日

最後は昔の自分に会う



昨日も朝から街に出た
いつものカフェでメモを読み、計画を描く
この過程が一番楽しい
そのため、なかなか実行に移らないのが難点だ
この日もそうはならなかった

帰り、もうすっかりお馴染みになった景色を遠目に眺める
この町は街中でも空が高く広い
それが改めての感想であった
この空を眺めていると、何もしたくなくなる
買ったばかりの本を路上の席で陽の光を一杯に受けながら暫く読む
至福の時間だ
しかし、これでは物足りなかったのか、アパルトマンに戻ってからも秋の空を味わい尽くす

アナトール・フランス広場、ロワール川沿いには小さなスケートリンクができていた
そこで中年女性が一人で誰に気兼ねすることもなく、音楽に合わせて滑っている
写真でそれを伝えられないのが残念である
予想を裏切る自由な体の動きを見ていると、こちらも気分が晴れてくる
それが凝り固まった心を解放してくれるのだろう





夜、前ブログ「パリの断章」を読み返す
読み始めはいつも新鮮で、驚きに満ちている
昔の自分に会う緊張感がある
よくこの世界に身を晒していたことを確認し、真面目な学生でなくてよかったと改めて思う
ルソーの 「孤独な散歩者の夢想」 に感じるところが多かったという記事がある

もうすぐ300歳になるルソーさんの夢想から (2012-7-17)

それは今でもよく中に入ってくる
ひょっとすると、当時よりももっとよく入ってきているのかもしれない

最後は、いろいろなところに散らばってある音楽ビデオとそれに繋がるものを味わう
こちらの小さな演奏会のビデオなどを観ていると、ヨーロッパを感じることが多くなっている
これも至福の時間である





2016年12月13日火曜日

「わたしの真理」 への道、あるいは人類の遺産と共に考える



雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします

第39回 「わたしの真理」への道、あるいは人類の遺産と共に考える

医学のあゆみ (2015.12.12) 255 (11): 1140-1144, 2015

お目通しの上、ご感想を頂ければ幸いです

よろしくお願いいたします






2016年12月12日月曜日

周りとの垣根を低くする



こちらに来てから4-5年は意識的にフランス語の中にいた
それは、世界がぼんやりとした、夢のような、恰も繭の中にいるような至福の時間であった
その後、徐々に英語が侵入し、現実に戻されるような感覚が生まれた
今ではフランス語と英語が混在しても気付かないことがある

また、学生という縛りがあったためか、読むものは哲学に集中していた
リブレリーに行っても向かう先には哲学セクションがあり、他のところには殆ど足が向かわなかった
気の多い身としては、学生になったことの利点がここにもあったと言えなくもない
学生が終わったことで、徐々にではあるが哲学以外への垣根が少し低くなっているのではないか
昨日、小説を読みながらそう感じていた


本日は午前中から街中へ
比較的良い読みができた

昼には大学に寄り、わたしを受け入れてくれた研究者と久しぶりに顔を合わせる
近くのレストランでデジュネ
わたしの諸々のプロジェを話し、これからの大まかな予定を決めた

哲学者は哲学を科学者に伝えるだけでは不十分であるという考えをお持ちのようであった
それでは何が必要なのか
それは、科学者と対等に議論して科学に貢献することだという
哲学に籠っていては駄目で、外に開かれていなければならないということなのだろう
勿論、哲学の領域でも仕事はしなければならないのは言うまでもないのだが、、
結構高い要求水準である

また、科学や哲学を外に知らせることの重要性も話題になっていた
インターフェースにいるわれわれのような人間の仕事になるという点で認識を共にした
しかし、それは非常に難しい仕事であるということについても
試行錯誤を繰り返すしかないのだろうか

ところで、日本文化がフランスの日常に入っているという話も出ていた
小学生の娘さんとの会話で、日本のことをよく知っているのに驚いているという
学校で習うわけではないようなのだが、どこからか情報を得ているのだろう
ご本人の時代とは大きく違っているようだ
玉露をお好みの方の娘さんは玄米茶を好んでいるとのこと
このような傾向はどの国にも起こっているのだろうが、少しだけ驚いた


久し振りに「きりっとした」一日になってきた
まだ半日残っている






『イヷン・イリッチの死』 を半世紀ぶりに読む



大学に入った年の冬に読んだことになっているこの本を読んでみた
昭和3年初版のものなので、『イヷン・イリッチの死』 となっている
こちらに来てから、この本が医学倫理の教科書などで必読書のように扱われていることを知った
そのため、いつだったか日本の本棚にあるものをこちらに持ってきていたのである
いずれ読もうと思ったのだろう
その前に仏訳も手に入れていたのだが、いずれもなかなかその気にはならなかった
文学に目をやる余裕がなかったとも言える

最近感じることは、若い時の読書は単に字面を追っていただけではなかったのかということである
今回半世紀ぶりに読んでみて、書かれてあることがよく分かるという感覚が生まれている
当時は今とは違い全身で何かを掴んでやろうと思いながら読んでいたはずである
しかし、その結果は理解というより、そうなのかなという感想に留まっていたのではないだろうか
その後の人生経験や特にこちらに来てからの読みの体験が理解に導いてくれているのだろう

読み始めてすぐ、ロシアの人名が何とも言えない懐かしさを呼び起こしてくれる
そう言えば、学生時代には第三外国語としてロシア語を取っていたことも思い出す
当時は周りが緑で溢れるような、訳もなく希望のようなものが一面に広がっているような感じがした
この小説にもあるように、若き日の喜びは次第に詰まらない、疑わしいものになっていくのだろうが

死を前にして、主人公の中にはこういう疑問が芽生える
「もしもおれの・・・意識的生活が本当にすっかり間違っているとしたらどうだろう?」
それまで現世で求めたものは悉く間違っていたのではないか
仕事も家庭も生活も社交も・・・





2016年12月10日土曜日

8年後の九鬼周造



前の前のブログ「パリから観る」で九鬼周造に触れたことがある
こちらに来た翌年の春のことになる

バッハ、そして九鬼周造という人 Bach, et qui est Shuzo Kuki ?  (2008-05-02)

そのことを思い出したのは、今日暇を持て余している時、九鬼の随筆集を手に取ったからである
上の記事にもあるが、私のブログには九鬼的なものがあるというようなコメントを頂いたことがある
8年前当時のことである
記事の中で引用したところを読んでみた
しかし、今ではそれほど感じなくなっている

今回随筆集をぱらぱらとやってみて、8年超の経験が齎したと思われる影響を感じることができた。まず第一に、固有名詞を含めたいろいろな言葉が自分の身近に感じられるようになっていることである。それから、九鬼が随筆を書く時には自分が入るような主題の扱い方をするというところが印象的だった。当時はエッセイを書いていなかったので特に感じなかった。しかし、2012年から自分で書き始め、振り返ればそこに同じ性向を見ることができるからである。また、例えば「書斎漫筆」などを読んで、哲学や哲学者に対する見方にも同質のものがあることに驚いた。

デカルトの『方法序説』に対して、「学問に対する真摯な態度と思索に対する熱烈な激情とが全編に漲っている」という評価をしていること。ベルクソンの『形而上学入門』は、「哲学とはいったいどこまで徹底的にものを見るのであるか」を知るために極めて適切であると見ていること。前々回のカフェPAWLで取り上げたエピクテトスの『遺訓』を影響を受けた本として挙げていること。そして、エピクテトスよりはエピクロスにより多く導かれていたとあること、などである。ただ、エピクロスの特徴を「享楽の哲学」と形容しているところは少し気になったのだが、、。









2016年12月8日木曜日

ちょっとした言葉が・・・



午前中から外に出る
旧市街のプレスで手に入れた雑誌をカフェで暫く眺める
ちょっとした言葉が思索を誘発する
これはこちらに来てから全く変わらない
日常の中でこのような時間を得ることは、日本ではなかなか難しい
おそらく、このためにこちらの時間を欲しているのだろう

旧市街から街中へと歩を進める
リブレリーにも寄る
いつもより人出が多いようだ
フェットの雰囲気が溢れている
その雰囲気に押されるように、本日は街中でデジュネ
久し振りだ

今日はまだ半日残っている
これから何を摘み取ろうか、というところだろうか









2016年12月7日水曜日

思考の硬度



世に情報は溢れていると言われる
情報に溺れないように、というような声もよく聞く
誰もが情報に飢えているように見える
それを追いかけているうちに人生は終わってしまうかのようである

問題は情報の先、知識の先にあるはずだ
その先にその人間が持っているものが現れることになるのではないだろうか
サイファイ研の「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」である
その移行に関わるのが思考である
哲学と言ってもよいだろう
そこで問題になるのが、その質である

「思考の質」
これは現代フランスの哲学者ジャン・リュック・マリオンさんの言葉として知ったのではなかったか
わたしが敢えて言い換えるとすれば、思考の硬度、密度とでもなるだろうか
思考に知識は重要だが、それだけでは不十分だ
知識を並べても思考にはならないからである
知識とは別の何かが必要になるということを感じ取ったのは、こちらに来てからであった
それ以前には思考というものをよく理解していなかったということでもある
考えていなかったのである
日本では知識の量と思考の質の間の区別が意識されていないということを意味しているのだろうか

いずれにせよ、わたしの歩みは思考の質を高めることに向けられているようである









2016年12月6日火曜日

勢いのあるロワール



昨日は朝から旧市街へ
人の少ないこの時間も嫌いではない
このところ空は晴れている

カフェでの座る場所も決まってきた
プロジェに入るために周辺を少しだけ読む
いつものように、すぐには中に入って行けないようだ
気が付いたら3時間

街中を散策し、途中リブレリーへ
一冊だけ手に入れて、もう一つのカフェで2時間ほど読む
いろいろなところに広がるような感覚が生まれる

帰りに久しぶりにロワールの流れを見る
やはり、夏と比べて水量が多く、流れが速い
以前の観察に間違いはなかった

飛行機雲が次から次と気持ちよく現れてくれる一日だった







2016年12月5日月曜日

なぜ読むのか?



研究者として仕事をしている時、忙しいから人のものを読まなかったのだろうか?
どうもそうではないような記憶が蘇ってきた
他の人の考えよりも自分の考えが重要だと思い、意識的に外からの声を避けていたのではないか
そのため、何かを読んでもなかなか中に入って来なかった
それがさらに読むことを遠ざけていた可能性がある
勿論、根底には忙しさのために自らの中を十分に観ることができていなかったことはあるだろう

それが変わったと思ったのは、こちらに来る数年前
自らの存在の危機のようなものを感じたこともあったのだろう
いろいろな模索が始まった
その辺りから、言葉というものに対する感受性が異常に亢進したように思う
人の言葉がよく入ってくるようになったのである
勿論、人による程度の差はあるのだが、、

そしてこちらで気儘に読む中で、自分の考えなどは知れていることに気付くことになった
自分が考えているようなことは、すでに、しかもずっと深く考えられていることが分かったのである
そこで自分ができることは何なのか?

それは自分の中に在るものと共振するものを読み、すでに在ると思われるものを深めること
この過程は中に在るものの形をより明確に掴むことにも繋がる
そして、そこで得られたいろいろな要素を繋ぎ合わせること
すなわち、考えること
それを繰り返すうちに、これまでにないものが現れるのではないか
そんな期待を持ちながら只管歩むこと

しかし、実際には先のことはどうでもよいと思っているフシもある
なぜならば、その営みの中に深い悦びがあることを感じることができるようになっているからである
それは14世紀に吉田兼好がすでに感じていたことでもある


「ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人をともとするぞ、こよなう慰むわざなる」

"To sit alone in the lamplight with a book spread out before you, and hold intimate converse with men of unseen generations -- such is a pleasure beyond compare."
(Yoshida Kenko Essays in Idleness)

« Solitaire, sous la lampe, c'est une joie incomparable de feuilleter des livres et de se faire des amis avec les hommes d'un passé que je n'ai point connu. »
(Urabe Kenkô, Les Heures Oisives)





2016年12月4日日曜日

「一日を摘む」 という感覚



ホラティウスに 「その日を摘め」 という有名な言葉がある
Carpe diem である
パリの学生時代のほとんどの日はこの感覚の中にいたのではないだろうか
文字通り 「今日一日をどう摘むのか」 という問いとともに動いていたようにも見える

言葉では知っているが、それが実はどういうことを意味しているのかを知らないことが多い
それが分かったと感じる瞬間がパリ生活には溢れていたように思う
「わたしの発見」 である

それほど意識はしていなかったが、何かを理解したというこの感覚は大きな悦びだったはずである
それは目に見えないところで大きな影響を与えていたはずである
この感覚もあの興奮状態を支えていた可能性がある

そして、ここトゥールに移っても 「どうこの一日を摘むのか」 という感覚がどこかに残っている
やはり、わたしはエピクロス主義者なのだろうか




2016年12月3日土曜日

あの興奮状態のわけ



一夜明け、ある本を読んでいる時、一つのことに思い当った
フランス生活の最初の6年がある種の興奮の中にあったのはなぜなのか?
それまで日本で科学を職業にしていた人間がフランスで哲学に入った、と総括してみる
そうすると、あれほど長期に亘る興奮状態を維持できた一つの理由が見えてくる

まず、それまでの拘束された状態から解放されたという自由の感覚があったのではないか
その上、その間日本とフランス、科学と哲学という二つの緊張関係の中にいたことがあるだろう
それが時とともに日本と科学を相対化できるようになり、緊張が薄れて行ったのではないだろうか
日本と科学に身を置いていたために生まれるものの見方が薄められてきたように感じる
まさにこのブログのテーマとも重なるものである

ある意味では、今は日本で科学を始める前の精神状態に戻ったようにも感じる
何のことはない、職業、専門に入る前の学生時代の状態に近いのではないだろうか
そう言えば、最近のエッセイでも学生について触れていた

最初の学生時代が今のような精神状態にあれば、その後の人生は大きく変わったのではないか
そんな思いも湧いてくる
それは叶わぬ願いであることは知っているが、それほど大きな影響を与えたパリの学生生活
しかし、今ではあの興奮状態を再現することさえできなくなっている

今、全く新しいフェーズに入ってきたということだろう




メモが向こうから寄ってくる



パリに行ってから6年間ほど、毎日ノートに何かを書いていた
どこに行くのにもノートを手放さなかった
そう務めたのではなく、内なる欲求からそうせざるを得なかったのである
外から入ってくる情報だけではなく、内で起こる変化なども新鮮で仕方なかったのだろう
こんなことは生まれて初めてのことであった
それが6年も続いたということである
驚きである 
そのこと自体が哲学するということだったのかもしれない

既に触れていると思うが、不思議なもので、ある時点からそのような気が次第になくなって行った
おそらく、これまで新鮮に感じたものに慣れてきたのだろう
それと同時に、気持ちも落ち着いてきた
日本にいる時と似たような状態になってきたのである
今年はそのフェーズの1年目だったと言えるのだろうか
自分なりのプロジェを進める時が来たとも言えそうである

昨日、溜まったノートの一冊を何気なく取り出してみた
それは4年前のもので、ページを開いて驚いた
何と、今やっているプロジェそのものについての4年前の考えが出てきたのである
そこには忘れていた興味深いメモがあった
忘れているが、それを見ると書いたことは思い出すといういつものメカニズムである
こういうちょっとしたことが精神に活力を与える
集中力が一気に増した

今、宝とともにいることを実感する





2016年12月2日金曜日

飽きやすい人には、いくつものプロジェを



今年も最後の月になった
年の初めには、今の時期このような場所でこのような心境になっているとは想像もできなかった
まあ、それはいつものことではあるのだが、、
しかし、今年は大きな変化があった年と言えるのだろう

午前中はぼんやりして過ごす
頭の中をゆったり構えさせるこの時間がわたしにとっては不可欠のものになってしまった
それが次への集中を生み出すこともある

午後から旧市街へ
いつものカフェで3時間ほど集中できた
周りに元気な学生さんが溢れていることも集中させる要因だ
それと久しぶりのプロジェであったことも大きい
飽きやすい性向の人間には、いくつものプロジェを持たせることが良いのかもしれない
それを回すので飽きる暇がなくなるのである

この時期の夜空の藍の深さは何とも言えないものがある
暫し見入る
そして、目に入ったか細い弓張り月が美しかった