2018年1月12日金曜日

哲学者になるとは?



昨日の午後、それまで陽の光が見えていた空が急に曇り、やや激しい雨となった
そんな中、それまでラグビーをやっていた幼稚園児が止めるかと思ったが、続けていた

今朝シャッターを開けると、もう小学生がグラウンドの周りを走っている
それを見ているまだのんびりしたい人もそろそろ動き出してはどうか
そんな声が聞えた
ということで、徐に新たなプロジェに向き合うことにした

その一つに形而上学について改めて考えてみるというのがある
これまでにいろいろなものを読むうちに、自分の中でのイメージはできつつある
そのイメージをより明確な形にできないかという魂胆である
まず、昨年マルセル・コンシュ氏から推奨されたご本人の『形而上学』を読むことにした

第1章では、「哲学者になる」とはどういうことなのかを論じている

普通の人は、仕事をして社会における役割を果たしている
自らの状況や人間とは何かなどの問いには向き合うことなく
それに対して哲学者は、社会から距離を取り、孤独の中にいるという選択をする
哲学者と哲学研究者との違いもここで明らかになる
哲学研究者とは学生の相手をするという社会的な仕事をしている普通の人なのである
コンシュ氏によれば、哲学とは社会の要求に応えるものではないという
人間の問題とは、もの・ことの全体における人間の意味である
現実の政治的決断や歴史には何の関係もない

それから、哲学とは宗教が思考に影響を与えないところでのみ存在し得るとしている
そのような状態にあったのは、古代ギリシアしかない
子供の精神を縛ることなく、自由に思考できるようにしていたからである
前もって与えられた「真理」がなかったのである
その意味では、哲学者になるということは、古代ギリシア人になるということである
近代の哲学は、デカルトもカントもヘーゲルも「神学化された」哲学であった
しかし、宗教との和解は哲学と真理を犠牲にしたのである

哲学者は次のようなものから離れなければならない
欲望、名誉、金銭、栄光、意見、幸福、気晴らし
ただ、哲学者の孤独は人がいる中での孤独である
自分自身との会話があり、過去や現在の哲学者との会話もある
ご本人もいろいろな哲学者について書いてきた
しかし、読み過ぎると人文科学や博識の中に入り込み、哲学者から離れることになる
勿論、研究することを否定しているのではない
哲学的活動を阻害するものから離れよ、と言っているに過ぎない





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