目覚めて暫くすると、ある考えが巡っていた
まず浮かんだのは、おしゃべりすると思索が邪魔されるという日頃から感じていること
静かな日々を送っていると、そこにある時空間がすべて自分のものとしてあり、思考が繋がりをもって進む
深いところに居続けることができるのである
そこで声を出すということは、それが途切れるように感じられる
しかもそれを続けていると、思索の空間は確保できない
しかし、それが日常生活というものだろう
つまり、日常生活は思索とはかけ離れた世界なのである
こんな考えが浮かんだのは、昨夜寝る前に観たアーレントのインタビューが影響していると気付いた
これはネットで紹介されていたもので、流し始めて直ぐ、以前に観たことを思い出した
調べて見ると、もう8年近く前のことであった
ハンナ・アーレントさん、政治と哲学を語る(2013.8.22)
この記事では、アーレントの言葉を次のように纏めていた
「わたしは政治哲学者ではない、政治理論の専門家である。哲学と政治はそもそも緊張関係にある。それぞれ静的な思考の世界と行動の世界にあるからだ」
「わたしにとって最も重要なことは理解すること、その思考過程が最も重要である。何かを言うため、影響を与えるために書くのではない、理解するために書いている。読者がそのように理解してくれるとすれば、最高の満足である」
「第二次大戦中の経験から、インテリはあらゆることの解釈を捏造することを知った。そして、お互いを批判しない。インテリの中では協力するが、その外とは関係を持たない。それがインテリというものの本質であることがわかった。それ以来、インテリの世界には一切関与しないことにした」
「わたしは英語もフランス語もやるが、ドイツ語は何物にも代えがたい。豊かな仕事は母国語からしか出てこない」
「ヤスパースが話し始めるとすべてが明快になる。彼ほど話すことに無条件の信頼を置いている人間を見たことがない。彼は自由と繋がる理性という概念を持ち合わせていた。その理性が実践されている現場に居合わせることができたのである」
今朝浮かんだ考えに合致する言葉が、このインタビューにはあったのだ
それは、喋ることは行動である、という何気なく吐いた言葉であった
行動と思索は対立するのである
その前に「哲学と政治は対立する」というフォルミュールについて語っていた
その意味は、哲学が政治に対して批判的なことを言う可能性があるからではない
思索と行動はそもそも対立する世界にあるからという根源的な理由からであった
細かいことを言えば、人と話すことによって発見することも少なくない
その場合でも、日頃の思索の蓄積があると発見も倍増しそうである
ところで、ハイデッガーは思索も行動であると言ったが、これはどう解釈すればよいのだろうか
理論と実践を分けるべきではないという意味だろうとは思う
思索なしの行動は人間のものではないと言いたいのかもしれない
歴史を見ると、思いなしによって人間は行動するが、それが間違っていることが少なくなかった
そうすると、真なる思いなしと偽なる思いなしを見極める必要がある
真なるものを判定するのは並大抵のことではない
自分でそう思ったではダメなのである
ひょんなところから認識論の世界に迷い込んでしまった