2016年6月23日木曜日
二元的な自己
久し振りに朝の空を味わう
まさに千変万化であった
雲の動きには心を躍らせる何かがある
この雲はあの画家が見ていたものではないかというものに何度も出会ったことがある
それは嬉しい発見である
昨日、意外にも仕事が捗った
何故か分からなかったが、朝の空を見ながら次のような説明が浮かんできた
それはそれ以前の発見とどこかで繋がるもののような気がしてきた
どこかに移動する
以前であれば、自分が能動的に歩いてそこに向かうという意識があった
疲れるのである
ところがこちらに来てから、自分が歩いているのではなく周りが動いているという感覚になった
つまり、そこでは受動的な意志しか働くなくなっていることに気付いたのである
人に連日のように会う
以前であれば、自分が能動的にそこに向かって行くという意識であった
努めて行事を乗り越えるという感覚があった
しかし、こちらも自分とは別の何かが受動的にそこに向かっているという感覚になっている
実に自然に「こと」が過ぎて行くのである
仕事をする
以前であれば、自らが肩に力を入れて「こと」に当たるという感覚であった
そうすると、なかなかうまく進まない
自分が先に出ているからではなかったのか
ところが、昨日は何かが違っていた
それは、自分の意志で何かをやるという感覚ではなかった
「自分」とは別の「意志はないが自然に力を発揮するエネルギーのような何か」をうまく使っていた
そういう感覚の中にいた
それが自然に「こと」を進めてくれたと感じていた
仕事をしているのは自分ではない
その何かにやってもらえばよいという感覚である
したがって、全く疲れないのである
これらをどう解釈するのか?
これまで「自分で」と考えていたものが実は一つの自分ではなかったのではないか
もう一つ、この生が本来的に持っている意志を欠く、能力だけを具えている迸りのようなもの
しばしば自分の意志により隠されているもの
それが表に出るように仕向けること
フランス語で l'élan とでも言うべきものにすべてをやってもらうこと
そのためには、自分の意志のような邪魔者を排除することが必要になる
これこそがすべての現象を説明するメカニズムではなかったのか
つまり、どういうことなのか?
普通、意志が宿るところを自己だと思う
それはよいのだろう
しかし、それだけではない
もう一つ、意志がないだけに掴みようがない、エネルギーと能力だけを持った何かがある
それも自分の中にあるので自己と呼んでもよいだろうし、もう一つの何かとしてもよいだろう
そして、その何かに働いてもらうためには、最初の自己による調節機能が極めて重要になる
いまのところはこう理解しておこう
これはわたしにとっての大発見のように見えてきた
今朝の空が齎してくれた贈り物だったのか
夏来る
朝の内は久しぶりの青空が広がっていた
しかし、午後から曇り始め、夕方には雨が少し降っていた
この変わり易さはパリのもの
今日は朝から籠って仕事
主観的には今一つだったが、終わってみればこれまでにないほど捗っていた
どうしたことだろうか
夕方からカルチエラタンに出る
これまでにないほど蒸し暑い
カフェではポルトガル対ハンガリーのサッカーが流れていて五月蠅い
そう言えば、昨日のメトロでも大騒ぎをしていた
もう夏である
2016年6月22日水曜日
出来事が周りを過ぎて行く
今日は朝から事務処理を済ませるために外に出る
その合間に仕事をする
久し振りのカフェはやはり気持ちを羽ばたかせる
なぜそうなるのか
一つの説明は以前に思い付いたのだが、それだけだろうか
まだそのメカニズムを理解したとは言い難い
日本最後の10日間ほどを振り返ってみた
毎日人に会っていたあの時期である
と言っても先週までのことである
これまでであれば、その予定を見ただけで向かって行かなければならないという気分になっていた
気分を盛り上げなければならなかった
エネルギーをこれから消費しなければならないとどこかで思っていたのである
それが今では気持ちが全く違っている
それは積極的にこちらが動くというよりは受け身のままでいるという状態である
つまり、自分は何もしなくても出来事の方で勝手に動いて行ってくれるという感覚に近いのである
これはどこかに移動する時に感じるようになった感覚と同じである
今回もこの感覚の中にいて、以前であればハードだと思った日程も風のように過ぎて行った
ただ、これは精神の中でのことで、肉体がどう感じているのは知りようもないのだが、、、
2016年6月20日月曜日
涼しいパリに戻る
昨日の夜、パリに戻った
随分と揺れるフライトだった
途中、キャーという声も上がっていた
暫くして、その揺れを舗装されていない山道を行くバスの揺れと比較してみた
そうすると、そんなに驚くほどのものではないことに気付き、少し落ち着く
後半は静かな飛行だった
久し振りのパリは東京、大阪に比べると随分と涼しい
そしてなぜか集中できる
日本語の雑音が消え、自らの中に容易に入ることができるからだろう
暇な時間に耐えられるようになったこと、より正確にはそこに喜びを見出せるようになったこと
これはフランス滞在の大きな遺産と言えそうだ
日本でそれを掴むのは難しいようにも感じた
ただ、一旦そのやり方が身に付いてしまえば、場所は問わなくなるのではないだろうか
午後から雨になった
バルコンに出て、久し振りの雨音を味わう
気持ちが鎮まり返る
2016年6月18日土曜日
明日、パリへ
今回は久しぶりに長い滞在だったが、本日が最終日
明日、パリに向かうことになる
少し離れている間に、パリでもいろいろなことが起こっているようだが、、
これまでの日本滞在は数週間だったので、ほとんど人に会う時間になっていた
しかし今回は、仕事の中に沈んでいた長い時間と人に会う短い時間が交錯していた
浮き上がった状態での多様な人との語り合いは、多くのものを残したはずである
これからその影響を振り返ることになるだろう
今回、こちらでやるべき翻訳の予定はほぼこなしたと思っていた
しかし、見直しを始めると、それは不完全そのもの
以前のものはそれをやっていないので、間違いや読み難さなどに溢れていることだろう
これからさらに見直し作業を続ける必要がある
夏に向けての時間は、この仕事を中心に回ることになりそうである
翻訳という作業には想像以上のエネルギーが求められることを思い知らされている
何事も勉強、ということか
2016年6月17日金曜日
三ノ宮で今回最後の歓談
本日も大阪と三ノ宮で仕事をする
連夜の歓談で疲れが溜まってきたのか、途中眠くなる
一度やっただけで見直しがない場合、間違い、見逃し、勘違いなどが溢れていることが分かる
これまでは後から見直すつもりでいたが、最初にやっておいても時間的には変わらないのでは
むしろ、初めに気を入れて誤りを正しておいた方が自分の癖も分かり、その後の参考にもなる
かえって時間の節約にもなるような気がしてきた
夜は長いお付き合いの方との歓談となった
大阪大学の後、現在は神戸学院大学で研究科長をされているとのこと
いろいろな問題があるのだろう
お忙しい合間を縫って時間を割いていただいた
近況交換をしたあと、時の流れに任せた雑談となった
それが心地よい年になってきたということか
なにせ「あらセヴ」である
来年には仕事が終わるようなので、ゆっくりされるよう願いたい
明日、東京に戻る
神戸で昔の研究者仲間と語り合う
今日は雨の中、大阪と三ノ宮で仕事をする
夜は彼の地で昔同じ研究領域だった神戸大学のお二方と歓談した
久野氏はもう少しで完全引退とのことだが、的崎氏は研究科長でお忙しそうであった
久野氏ご自身の音楽活動の映像やこれからの予定などに触れ、驚く
本質は音楽家ではないだろうか
時間がたっぷりあるようで、いろいろなことを考えておられる
そのためか、兎に角次々と話題が出て、結局閉店の10時まで盛り上がっていた
現世の話が多いので、わたしは殆ど聞き役ではなかっただろうか
例えば、日本、中国、ヨーロッパ経済の話から科学研究が金に支配されている現状
日本が関わったアジアにおける歴史と日本人によるその認識
大学ランキングに踊らされる大学
東南アジア諸国の大学との交流とそこから見える日本人の特徴
本当の議論が行われない環境
その間に、いろいろな研究者の話も出ていた
この他にもあったが、いまは思い出さない
何かの機会に浮かんでくるだろう
具体的に生きている世界の話に触れると、わたしの生活がかなりいびつなものに見えてくる
その視点から見ると、長い間よく耐えたものだといういつもの感慨が浮かんでくる
お忙しいところお時間を割いていただき、お二方には改めて感謝したい
2016年6月15日水曜日
「あらセヴ」、あるいは枠組みの擦り合わせ
本日は暑い中、外で仕事をする
二軒目のカフェに落ち着いてメモを取ろうとした時、手帳がないことに気付く
一瞬昨年のブリュッセルが蘇ったが、一軒目に忘れてきたと確信
すぐに戻ったところ、丁寧に保管されていてホッとする
徐々に何かが進行中だ
夜、若い友人とのディネとなった
普段型に嵌った頭の中で暮らしているためか、新鮮な世界が広がった
ただ、そのためお互いが理解するまでにかなりの言葉が必要なこともあった
それぞれの枠組みに想像できない違いがあったからでもある
必要な時には徹底するのが良いのだろう
何かに対する時、ものを観る時には先入見なしにやるようにしているとのお話も出ていた
それは重要なことなので、わたしも見習いたいものである
また、「えにし」を大切にしているという
これは偶然のように見えても必然ではないかと見ようとするわたしの考えとも近い
フランス語で言えば、Tout est lié !
すべては繋がっていると見ているからだ
途中、「あらセヴ」という音が聞えたような気がした
そんな言葉があるのかどうか知らないが、致し方ない
ただ、その響きは悪くなかった
2016年6月14日火曜日
記憶の彼方からカオティックな若き日が
今日は打って変わって晴れ渡り、暑い日であった
午後、大阪に入る
夜はオーケストラの先輩お二方とそれぞれの現況をネタに話し込んだ
お一人は同窓会的な集まりに積極的に参加され、講師などをされながら社会と関わっておられる
持参された資料と写真がそのことを物語っていた
もうお一方は上下関係が出やすく、年齢がものを言う集まりには違和感を持っているご様子
そのような会に若い人が参加しないのは当然に見えるが、上の人はそのことに文句を言う
心に負担がかかることは避けたいとお考えのようであった
わたしもどちらかというと後者のタイプになるのではないだろうか
昔の団員の話が一つ出ると、そこから次々に記憶が引き出されるという連続であった
これはデフォルト・モード・ネットワークを活性化しているのではと思いながら話に参加していた
命を絶った人も含めて、20代には実にいろいろな人にいろいろなことが起こっていた
人生が落ち着くまでには不安定でカオティックと言ってもよい状態にあったことが見えてくる
もし彼らが生きていたとしたならば、何をやっていたのだろうか
今回、当時の写真を一枚持参した
実はその写真がどういう機会に撮られたのか、はっきりとは覚えていなかったものだ
そこに写っている方がその日を跨ぐ数日の様子を覚えておられ、当時が蘇った
好奇心旺盛で、この世が輝いて見えた時代のことである
そのことから推測できる通り、そこに写っているわたしは全くの別人であった
お二方とも体に悩みを抱えているとのことで、そのあたりの話題も一通り出ていた
身体に起こることはもう避けられない話題になるのだろうか
ただ、その悩みは人生の一部として受け入れなければならないのかもしれない
話をする人が変わると違った過去が浮かび上がってくる
いろいろな人と会うことがこの生を豊かにすることに繋がることが分かる
日本での時間も少なくなって来た
できるだけ有効に使いたいものである
2016年6月13日月曜日
雨の中、人生の先輩と語る
雨と風が強かった本日、新しい方とお話をする機会に恵まれた
大学附置の工学系の研究所を退職された後、東京を離れて農業をされている方である
研究職を離れた後、所謂仕事をせずにこれまで来たわたしは、その道の後輩ということになる
そのような外的共通点の他に哲学的な思索への興味においても共通するところがあると想像した
工学系の仕事は産業との連携なしには成り立たないようで、明確な目標が設定される
今や多くの領域でそのような傾向が増しているのではないだろうか
実際にそのようなお話を伺うと、わたしのような人間には勤まりそうもない
目的にはどこか嫌悪の気持ちがあるからだろうか
ところで、退職後の道を選ぶ時、人生で初めて自分で決断したという意識があった
それまでも自分で決断したとは思っていたが、振り返ると大きな流れの中でのことだったからである
そのことをお話しすると、やはり同じような感覚が退職時にあったとのこと
そういう道にいられるということは、やはり幸かなと言わなければならないのだろう
ただ、さらに長い時間軸で考えると、今回のことも大きな流れの中でのことと思う日が来そうである
夕方には雨はあがった
2016年6月12日日曜日
「意識の第三層」の重要性について語る
武田克彦先生
今夜は以前の研究所でご一緒した武田先生のお宅にお呼ばれした
わたしが東京を離れて9年になるが、帰国の折にやっているSHEやPAWLに参加されている
そのため on & off でのお付き合いが続いている
2012年には先生が主宰された日本神経心理学会で教育講演を依頼された
その会で聞いたお話の中にその後の思索に大きな影響を与えることが含まれていた
改めて感謝したい
今日は奥様の「哲学的で簡素な」料理をいただきながら、いろいろな話に花が咲いた
特に重点が置かれていたのは、先日触れた「意識の第三層」の重要性についてであった
それは日常生活と職業生活がない状況で働く意識で、人間の精神性と深く結びつく領域である
この領域の貧困が現代を特徴付けているのではないかという点では考えが一致した
そこからその層に関心のある人との接触を増やしていく必要があるのでは、という点でも一致した
それから決まりきった考えに揺さぶりをかける必要性についても話が出ていた
「意識の第三層」についての考察は、7月上旬の「医学のあゆみ」誌に出る予定である
ご批判をいただければ幸いである
今夜は以前の研究所でご一緒した武田先生のお宅にお呼ばれした
わたしが東京を離れて9年になるが、帰国の折にやっているSHEやPAWLに参加されている
そのため on & off でのお付き合いが続いている
2012年には先生が主宰された日本神経心理学会で教育講演を依頼された
その会で聞いたお話の中にその後の思索に大きな影響を与えることが含まれていた
改めて感謝したい
今日は奥様の「哲学的で簡素な」料理をいただきながら、いろいろな話に花が咲いた
特に重点が置かれていたのは、先日触れた「意識の第三層」の重要性についてであった
それは日常生活と職業生活がない状況で働く意識で、人間の精神性と深く結びつく領域である
この領域の貧困が現代を特徴付けているのではないかという点では考えが一致した
そこからその層に関心のある人との接触を増やしていく必要があるのでは、という点でも一致した
それから決まりきった考えに揺さぶりをかける必要性についても話が出ていた
「意識の第三層」についての考察は、7月上旬の「医学のあゆみ」誌に出る予定である
ご批判をいただければ幸いである
2016年6月11日土曜日
人生の第四コーナーを意識する
丹野正隆、大野秀樹の両先生
本日は30年来の友人との意見交換となった
お二人ともまだ仕事をされており、感心する
大野先生は図書新聞に毎月書評を書かれているとのこと
本を読むのは大変な様子だったが、終わった時には達成感があるようだ
厭世人から見ると、現世の中にどっぷり浸っておられるという印象
それはそれで面白い世界のようである
ただ、前回との違いとして感じたことがあった
それは時間が限られてきたと感じるようになると、新たに考えることが出てくるのでは、ということ
また、人生のエッセンスは意外と単純なところにあるのではないか、という考えも浮かぶ
いろいろなことを考えさせられる一夜となった
別の予定があった中、お集まりいただき、改めて感謝したい
本日は30年来の友人との意見交換となった
お二人ともまだ仕事をされており、感心する
大野先生は図書新聞に毎月書評を書かれているとのこと
本を読むのは大変な様子だったが、終わった時には達成感があるようだ
厭世人から見ると、現世の中にどっぷり浸っておられるという印象
それはそれで面白い世界のようである
ただ、前回との違いとして感じたことがあった
それは時間が限られてきたと感じるようになると、新たに考えることが出てくるのでは、ということ
また、人生のエッセンスは意外と単純なところにあるのではないか、という考えも浮かぶ
いろいろなことを考えさせられる一夜となった
別の予定があった中、お集まりいただき、改めて感謝したい
若き日のエピソードに驚く
昨夜は学生時代の友人お二人とのディネがあった
お二人ともまだ仕事から足を洗っていないようである
普通は褒められるべきことなのかもしれない
しかし、「仕事は人間を駄目にする」と敢えてコメントさせていただいた
その意味はご理解いただけたと思うが、なかなかそうは問屋が卸さないようだ
自分のことは見えないものである
昨日も若い時のエピソードを紹介され、それは本当に自分なのかと疑った
話をさせてもどこか変わっていたらしい
二十代半ば、友人が亡くなり弔辞を頼まれた
突然のことだったので最後まで考えが纏まらず、ぶっつけ本番になってしまった
文章にすることがなかったので中身は忘れていた
しかし、友人の一人はその内容を覚えていてくれたのだ
わたしの中ではいつも自然なのだが、問題となりそうな言葉が含まれていたという
逆に、それだから記憶に残ったのかもしれない
最近、意識の第三層についてエッセイを書いた
日常生活や職業生活を離れた時に見えてくる精神世界のことである
わたしの第三層は貧弱だったことに気付き、フランスでの生活になった
そのような言葉では理解していなかったのだが、、
しかし、その友人に言わせれば、わたしの中に昔からその層を感じていたという
誰でも若い時にはそのような世界があるのではないかと思う
それが職業生活の中に追いやられると、この層はどんどん薄くなっていく
それを回復するのが、これからのような気がしている
最後にわたしの話を聞いたお一方は、目指すところはディオゲネスだろうと診断した
当たらずとも遠からずというところだろうか
だんだんそんな気がしてきた
いずれにせよ、面白いエピソード満載の一夜であった
両君にはお時間を割いていただき、感謝したい
2016年6月5日日曜日
偶には昔の世界を
25年ぶりにこの店を訪れた
5年ほどお世話になった研究室のメンバーと顔を合わせる前の時間を使って
四半世紀も経つと、町もいろいろと変わっていた
まず驚いたのが駅と駅前の景色
その昔はいかにも田舎の駅という印象だったが、モダンな建物と広場に一変していた
このような時、変わらないものなど何もないということをいつも感じる
それは、すべては忘れられて行く、という感慨にも繋がる
実はもう一軒顔を出したいと思っていた店があったが、その姿はなかった
このお店、テレビの「孤独のグルメ」で取り上げられていた
昔はよくお世話になっていたのではないかと思う
客層が変わって来たのかもしれないという印象を持った
昔と同じ心持ちにはどうしてもなれないものだ
そこに一抹の寂しさを感じる
店のご主人とおかみさんに挨拶する
わたしの顔には見覚えがあったようだ
名前を名乗ると、「ああ、・・ちゃん」との返答
昔はそう呼ばれていたのだろう
研究室を主宰されていた片桐教授も80歳になられるが、お元気であった
院生や研究生だった皆さんもすでに還暦とのことで驚く
驚くのは自分の年を忘れているからだろう
いろいろな世界に手を伸ばして人生を楽しんでいる様子も垣間見ることができた
お忙しい中、時間を割いていただいた皆さんに改めて感謝したい
偶には昔の世界を訪ねてみるものである
今回もいろいろな発見があった
2016年6月2日木曜日
Université Sorbonne Paris Cité 学位授与式のビデオ届く
ソルボンヌ大学パリ・シテ(USPC)の学位授与式のビデオが届いた
参加できなかった人にもその時空間を味わってほしいとのこと
この組織は2014年にパリの大学、研究所などを纏めて一つのコミュニティにしたものである
それまでにいくつかの統合の動きがあり、現在は以下の組織が加わっている
École des hautes études en santé publique (EHESP)
Institut d'études politiques de Paris (Sciences Po)
Institut national des langues et civilisations orientales (Langues O)
Institut de physique du globe de Paris
Université Paris-III « Sorbonne Nouvelle »
Université Paris-V « Paris-Descartes »
Université Paris-VII « Paris-Diderot »
Université Paris-XIII « Paris-Nord »
Centre national de la recherche scientifique (CNRS)
Institut national d'études démographiques (INED)
Institut national de recherche en informatique et en automatique (INRIA)
Institut national de la santé et de la recherche médicale (INSERM)
Institut de recherche pour le développement (IRD)
式ではテーズに向き合った人たちがそれぞれの経験を語る時間をたっぷり取ってある
外国からの人も少なくなく、いろいろなフランス語が聞ける
何より皆さん真面目に研究していた様子が伝わり、自らを振り返る
形式に終始するのではなく、人間が出ている開かれた式という印象を持った
2016年5月30日月曜日
翻訳の生活
このところ、比較的規則正しい生活をしていた
今年に入ってからプロジェの一つにした翻訳の仕事である
当初はなかなか進まず苦労したが、少しずつ著者の文体や言葉の選択に慣れてきたようである
始める前に想像していたペースに近付きつつある
翻訳とは結局のところ日本語の問題であるということに改めて気付かずにはいられない
そして、この作業には膨大なエネルギーを要するということも
どうも今年の前半はこれに取り掛かりっきりにならなければ終わらない様相になってきた
丁度この時期、空き時間のような形になっていたので好都合であった
2016年5月19日木曜日
SHEとPAWL、それは一夜限りの知的共同体であり、句会だった
今回の滞在は比較的長い
テレビを観る時間も増えている
殆どの番組は時間潰しのためのもの
切り取られた知識が垂れ流されている
それに止まらず、感情のレベル、刺激と反応の世界で騒いでいるだけのものが多い
これだけを観ていると大変なことになりそうだと思うが、日常生活の中にいると気付かないだろう
それから健康に関するものが異常なくらい多いという印象を持った
宣伝は殆どそれだが、普通の番組にも目立つ
病気の神経症と言ってもよいかもしれない
わたしと同年代の人が集まると、この話題が出ないことはない
他に話題はないのだろうか
そんな中、ここ三日間は朝のBSで芭蕉や俳句についての再放送をやっていた
初日に何気なくチャンネルをひねると芭蕉の革新性などが扱われた番組が流れていた
お蔭で、朝の出足が遅れるということになったが、そのどこが悪いのだろうか
昨日はイギリスの女性が十数年前に辿った奥の細道を歩き直すという1997年の番組があった
Lesley Downer というジャーナリストとなっていたが、いまは小説家として活躍しているようだ
芭蕉を心が旅人の人間と見ていた
その中に、東北の田舎でも芭蕉の時代から句会のようなものが開かれている様子が出ていた
それを観ながら、句会というものは「一夜限りの知的共同体」とでも言える営みであると思った
参加者はお互いにフラットな関係の中にいて、詠まれた対象やそれぞれの句を評するのである
それぞれの経験の違いは問題にならない
それぞれが自由にものを言い合い、その後に宴席が続くのである
句会の特徴をこう見た時、わたしが主宰しているSHEやPAWLにも繋がると思えてきた
つまり、SHEやPAWLは「一夜限りの知的共同体であり、句会」だったのである
今朝はパリの女子高校生を相手にパリで句会をやるという番組だった
これは以前に観たことがあった
パリの女子高生の大人びた態度と柔らかな感受性に改めて感心する
俳句などはフランス人の感受性にも合っている、理解されるのではないかと思いながら観ていた
それにしても日本のテレビで観るフランスはどうしてこうも美しく見えるのだろうか
と同時に、フランスやヨーロッパに関する番組が少なくないことにも今回驚いている
2016年5月12日木曜日
そこで生きていたのか!
庭の芝生が一雨ごとに緑を増している
タンポポが朝は閉じていることを発見して感動する
その程度にしか自然を観ていなかったのだろう
庭にいろいろな鳥が寄って来る
名前は分からない
芝生を嘴でつついている
何かを食べているのだろうか
先日、生ものの残りを投げてみた
暫くしてみると、きれいになくなっていた
そして今日、固くなったお菓子を投げておいた
暫くしてみると、まだ残っている
固すぎたのかと思い、砕くために降りてみた
取り上げてみると、無数の蟻さんたちが群がっている
こんなにたくさん生きていたのか、と感動する
彼らの好物だったようだ
それから砕いたものを置いておいた
夕方帰ってみると、跡形もなくなくなっていた
目には見えていないが、生きものたちは間違いなく活動していることを確認した
それを観ている方は生きているのだろうか
その確認は取れていない
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vendredi 13 mai 2016
今朝、どのようにお菓子がなくなるのか観察した
すると、大きな塊はカラスにそのまま持って行かれることが判明
なぜか、がっかりする
小鳥たちに食べてもらいたかったという思いがあったのだろう
何でお前さんが、という気分である
2016年5月11日水曜日
われわれは一人なのか?
今日のBSニュースで地球外生命体の可能性を示唆する結果が発表されたことを知る
宇宙探査機ケプラーの望遠鏡は、これまでに1284の惑星を発見したという
これはこれまでに知られていた惑星の2倍に当たる
さらに興味深いことは、その中の9個はhabitable zoneにあるという
太陽のような中心となる星から生命体の存在に適した距離にある星が9個あったということである
地球外生命体の存在の可能性が増したことを意味している
2018年からはジェイムズ・ウェッブ望遠鏡で更なる探査が続けられるという
一昔前には、この宇宙に他の生命体がいる確率はほぼゼロであるという言説が流れていた
それ故、地球は尊い星であるという議論に向かっていたようだ
同様のことは生物という存在についても起こっている
人間を最上の地位に置き、それぞれの生物に階層を認めるという見方があったし、今もある
しかし、生物相互の間に見られる違いは、見かけほどではないことが明らかになりつつある
境界がぼやけているのである
漆黒の闇が巨大な空虚ではなく、そこに生命体がいるかもしれないというこのニュース
その生命体がどのような形を取っているのかはわからない
しかし、その可能性が見えただけで、パスカルが感じた慄きは和らいでくるように感じられる
2016年5月1日日曜日
カート・ヴォネガットさんから岩崎航さんに、そしてキェルケゴールへ
昨日、ヴォネガットさんの以下の言葉をツイートした。
「作家が相手にしているのは、全世界の人びとでもなく、十人でも、二人でもない。作家が頭においているのは、ただ一人の読者なの」(カート・ヴォネガット)昨夜、テレビを観た後、以下のようにツイートした。
夜、岩崎航という筋ジストロフィーを患っている詩人のドキュメンタリーを観る。その中に、結局のところ自分に向かって書いているというニュアンスの言葉があった。ヴォネガットさんが「一人の読者に向かって書く」という時の読者とは、自分自身ではないのか。そんな考えが浮かんだ。
岩崎さんの話を聞きながら、朝読んだ言葉の意味が分かったような気がしたからである。ヴォネガットさんの真意は分からないのだが、、、。このような繋がりで分かったように感じることが多くなっている。それは自分の発見になるので、いつも嬉しいものである。
そして今日、岩崎さんご本人から、このツイートに「いいね」が入っていて驚いた。
昨日の番組を観ながら、岩崎さんの生活は謂わば精神だけの生活といっても良いのではないかと感じていた。これは比較にはならないが、わたしの8年余りのパリ生活は日本にいた時と比較すれば日常生活と職業生活のない世界で、日本から見ると精神の世界にいたように感じるようになっている。その世界に入らなければ見えてこないものがあることも分かってきた。
今読んでいるキェルケゴールは「直接性」と「間接性」という概念で、この辺りの事情を語っている。直接性というのは、日常生活と職業生活の一部で経験するところのもので、現世の価値を絶対的なものとして生きることを指し、間接性とは普遍的、絶対的な価値を規範に「もの・こと」を観、考える生活で、現世における価値を享受するにしてもそれを相対化できる視点で生きることを意味している。直接性の中には振り返るという運動はなく、謂わば刺激と反応の中に生きることである。それに対して間接性においては、常に反省という運動が組み込まれている。これは一概には言えないかもしれないが、多くの人は直接性の中に生きているのではないかと想像される。
岩崎さんの生活をキェルケゴール流に言うとすれば、ほとんどが間接性の中にあると言えるのではないだろうか。 この間接性こそ、キェルケゴールによれば、信仰に繋がるもののようである。
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