2018年6月16日土曜日

第13回サイファイ・カフェSHE、終わる



本日はISHEの活動の第二ピークの初日で、朝から準備に明け暮れた
残念ながらエンジンをかけようとしてもなかなか動き出さず
最後まで苦労したが、現時点での限界までできたように思う
ということは、さらに読み込まなければならないということでもある

今日は3名の方が欠席となり、静かな語りができたのではないだろうか
プラトンの『テアイテトス』を読むというテーマで、知識とか科学について考えた
この中で、これまで聞いたことのあるお話の元がここだったことを発見
このような経験には、いつも頭の中をすっきりさせる効果がある

例えば、有名なソクラテスの産婆術(マイエウティケー maieutikē)がそれである
プラトンはソクラテスに次のようなことを語らせている
母親パイナレテは由緒ある厳しい産婆で、自分も同業だ。対話の結果、自分の中にうまく表現できないようなものがあり(何か生み出すべきものがお腹にあり)、それが気がかりになった時が陣痛である。母親との違いは、男たちのための取り上げ役であり、肉体ではなく精神のお産を見とるところである。⇒ 「魂の産婆役」。自分は問いかけるが、何の知恵もないので自分の判断を示さない。それが非難の的になっているが、産むことはしないようにと神に定められている。自分の精神から出たもので、知恵のある発見は何もない。対話者は交わりが進むと驚くほど進歩し、自分の中から自分で見事なものを発見、出産する。
それから、知識についての検証の合間に、これまた有名な余談が出てくる
そこでは、司法と哲学の世界の違い、すなわち、一般職業人と自由人の違いが語られる
その違いがよく分かるようになって久しいのだが、
家来育ち(法廷などを徘徊して育った者): 時間に限りがあるので、せわしない言論しかできない。その上、思うことについて言論する自由を与えられておらず、相手から監視されている。したがって、彼らの精神は矮小で不正直なものになる。自由闊達さがなくなり、成長して大成することのない奴隷の境遇にある。ついには了見の少しも健全なところを持つことなしに大人になり、それを自分たちは、智慧者になったとか、人から一目置かれるような人物になったと思っている。
自由民育ち(知恵の探究などというものに暇を使うよう育てられて来た者): 知恵の探究者は時間の余裕が不断に具わっていて、言論も悠々閑々と行われる。真実を求めているので時間などに頓着しない。周りに裁判官も監督するような者もいない。
さらに、哲学者というものについてもソクラテスに語らせている
この哲学者像はわたしが描く姿に近いものがあり、途中で吹き出したところがあった
こんな具合である
丁度タレスが星度推考をして上を眺めていた時に穴に落ちて、トラキア出身のおどけ女に「あなた様は熱心に天のことを知ろうとなさいますが、ご自分の面前のことや足元のことにはお気づきにならないのですね」といって冷やかされたという、丁度その通りのものなのである。なぜなら、この種の者は近くの者や隣の者について、それが何をしているかはおろか、それが人間であるか、何かの畜類であるかということさえほとんど知らずに済ましているのであって、知ろうと研究に苦心しているのは、寧ろ、そもそも人間とは何であるかというような本性に属することである。そのため、足元のことや目前のことについて言論しなければならなくなった時、あらゆる行き詰まりを演じて大衆の嗤笑を受けることになる。
本題の知識についての検討は、近いうちに専用サイトにまとめる予定です
お忙しいところ、お時間を割いて参加していただいた皆様に感謝いたします
SHEの活動にご理解いただければ幸いです
よろしくお願いいたします





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