2020年1月31日金曜日
実在論と反実在論(1)
今日からは、実在論(Réalisme)と反実在論(Anti-réalisme)がテーマとなる
まず、「形而上学的目覚め」と題された一節から
この世界に目をやると、そこには自然のものがあり、人工のものがあり、人間がいる
仕事場があり、出来事がある
やらなければならない義務があり、価値がある
しかし、これらは本当に存在しているのだろうか
この世界という時、それはわたしの世界であり、あなたはそこに入ることができない
その逆もまた言える
わたしの精神と世界は一つのものであると言った場合、世界は精神の外には存在しないことになる
これは観念論の世界である
わたしの精神に表れたもの以外には何も存在しないとなると、独我論の世界である
これらは形而上学の世界である
哲学者は存在の問題に興味を持つが、我々の精神や言語や概念から独立した実在には興味を示さない
デカルト以来の近代哲学においてこの興味が先鋭化し、現代哲学では我々を追い詰めている
第二次大戦後、ポーランドの哲学者ローマン・インガルデンは『世界の存在をめぐる論争』を出した
世界の存在を自問するというのは不可思議なことではないか
そもそも論争など存在しない問題ではないのか
しかし、哲学は未だにその答えを持っていないのである
我々の精神や言語や概念とは独立に世界が存在しているかという論争は、実在論と反実在論の問題である
それは同時に現代哲学の中心的な問題なのである
ハイデッガーは哲学にとってのスキャンダルについて、こう言っている
それはこの問いに満足のいく回答を出していないことではなく、その問いに向き合ってさえいないことである
しかし、このようなどこにも辿り着きそうにない問いに向き合うことに、一体意味はあるのだろうか
(つづく)
2020年1月30日木曜日
哲学と哲学史(6)
歴史的再構成(B)が既に出された問題を扱い、学説史(D)には殆ど哲学的意味がないと仮定する
そうであれば、それに代わるのはジャンル(A)の理性的再構成と(C)の精神史の間になる
これらは哲学と哲学史が相関するとする主張(2)と相互に依存するとする(3)の主張と相性が良い
クロード・パナッシオによれば、我々には説明的な語りと教義による再構築という方向性がある
前者は出来事がどのように繋がっているのかを説明することにより、一つのシナリオを提示する
後者の理性的な再構築では、オリジナルのテクストから教義の中身を再構成しようとする
そこで重要になるのが、方法論における要求でもある二つの原則である
一つは忠実さで、研究している教義を裏切らないこと
もう一つは妥当性で、過去の著作を読む理由が我々の哲学的問いに対する答えを見つけるためなのかという点
理性的な再構成は、哲学的重要性を正確に評価しながら、過去の考えをできるだけ合理的な形で提示する
歴史的再構築との違いは、現代的性格を十分に引き受け、そこから気を逸らさないようにすること
精神史との違いは、理性的な再構成に特有の立論と評価の次元にある
つまり、概念の発展の意味を表す歴史的な絵を描くのではなく、テクストにある議論を再構成するのである
その目的は議論の評価で、それが正しいのか間違っているのかをできる限り知ることなのである
まだ続きはあるようだが、このテーマはここで終わりにしたい
2020年1月29日水曜日
哲学と哲学史(5)
今日も昨日の続きを読んでみたい
テーマは、ジャンル(D)の学説史にはどんな価値があるのかについてである
学説史は一つのものの後に別のものが来るので、何かを知った印象を与えるためか人気がある
しかし、専門の哲学者の目には良く映らない
事実、学説史は歴史的、哲学的探求が成されないまま教義を単純に並べたものとして提示される
まず、学説史はジャンル(C)の「物語としての哲学史」と共通点がある
しかし、学説史の物語は(C)とは対照的に大きな物語がなく、退屈の連続でしかない
そこには思索の活力も、学説の発展に必要な理由が齎す哲学的な意義もない
従って、簡単に逸話に陥るのである
第二には、そこにあるのは現代の哲学的問題であるよりは、月並みなすぐに哲学的だと分かる問題である
例えば、人生の意味、善悪の区別、最良の政治体制というような問題である
「プラトン、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲル、ベルクソンにおける人生の意味」といった具合である
第三には、哲学的主張とそれが生まれた議論を分断する
それを支持する理由を挙げずに、結果だけを示す傾向がある
学説史家はアプローチの多様性や哲学的思考のダイナミックな性質に鈍感なのである
結局、学説史はこれといった理由のないテーゼのカタログに過ぎない
唯一の価値は、覚書になるということである
プイヴェ氏の学説史の評価はかなり低いようである
(つづく)
2020年1月28日火曜日
哲学と哲学史(4)
本日の話題はジャンル(A)の理性的な再構成で、哲学史を逆に辿るというお話になる
(A)のやり方を採る者は、過去の哲学者を理解するためには現代の問題から出発する必要があると主張する
アンソニー・ケニーによれば、ウィトゲンシュタインは中世のトマス・アクィナスの理解に影響を及ぼした
ウィトゲンシュタインは、内省により我々の心的内容に到達できるとする現代哲学の考えを批判した
ここで言う内省とは、内にある我々の信念、考え、感情、意志などを想像することである
目には見えない「もの」が精神の中にあり、それを掴むというイメージだろうか
ウィトゲンシュタインはそれとは異なり、我々には心的で感覚的で知的な能力を持つと考えた
精神を能力として捉えたのだろう
しかしそれは、我々の中に私というエゴがあり、それが信じ、考え、感情や意志を持つことを意味しない
彼は心身二元論も唯物論や物理主義も強く拒否した
精神は能力の総体であり、心的状態が集まる場ではないとする彼の考えがトマスの魂の哲学の理解を可能にした
ケニーによれば、デカルトの二元論の哲学が能力として精神を見るトマスの哲学を受け入れ難いものにした
その意味で、ウィトゲンシュタインを読むことはトマスの哲学理解の準備になるだろう
また、トマスの哲学の中に現代哲学の問題解決のヒントが見えてくることがあるという
(つづく)
2020年1月27日月曜日
哲学と哲学史(3)
今日は曇りだが、太陽が覗く穏やかな天候だった
向かいのグラウンドからは選手の掛け声や声援が聞こえてくる
春が来たかのようであった
今日のテーマは「太陽の下に新しきものなし」なのか、あるいは「大きな物語としての哲学史」なのかである
つまり、哲学の歴史に新しいものはないのか、時代を画す哲学が織り成す物語が哲学史なのかの問題である
昨日、哲学の歴史的再構成(B)は、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)と相性が良いと書いた
しかし実際には、(B)は哲学と哲学史が同一であるという主張(4)とも相性が良い
哲学史の重要なテクストを検討すると、殆どすべての問題は過去の哲学者が考えていたことが分かる
歴史の中でその問いに対する回答も提示されている
今日の哲学は、歴史の諸相で他の形を採ってすでに表れていたものを再検討することである
現代の哲学者が何らかの主張をした場合、哲学史家は「誰某がすでに言っていますよ」と指摘するだろう
(この感覚は、哲学に入ったかなり早い時期からわたしの中に生まれたものと共通する)
つまり、哲学において新しいものがあると考えるのは単純すぎるだろう
しかし、すべての主張や見解が哲学史の中にないのではないか
従って、不変の哲学的問いにより良い解を与えるために哲学するというのはナイーブである
哲学は哲学史である
哲学者の対象は、議論を評価しながら検討する主張や見解ではなく、テクストである
過去の哲学者はテーゼを述べ正当化するというが、実際にはテクストを読んでいる
それをさらに明確にし、変形し、再解釈しながら
テクストを検討するしか哲学に残されていないとすれば、哲学は完成したと言えるだろう
フランスでの哲学教育はこの姿勢を採っている
哲学史に依存しない現代哲学という考えに全く意味を与えていない
哲学を教え哲学するということが、重要な哲学者のテクストに没頭することになっている
この姿勢は哲学史を大きな物語にするというジャンル(C)と全く異なっている
(C)では、哲学史が急展開に次ぐ急展開のシナリオのようになっている
(C)の主張は、現代哲学は歴史の物語の中でしか理解できないというものである
従って、哲学と哲学史が独立しているという(1)の主張とは合致しない
寧ろ、哲学と哲学史が相互に依存するという(3)の主張と相性が良い
さらに、哲学と哲学史は同一であるとする(4)の主張を想定するやり方でもある
これは哲学者が提起する議論や主張ではなく、議論や主張についての物語から構成される
過去の哲学者は歴史的状況に捕らえられているため、自身を理解する最良の立場にはいないと考えている
哲学と哲学史が相関するという(2)の主張は、ジャンル(C)では難しいようだ
(つづく)
2020年1月26日日曜日
哲学と哲学史(2)
今日も終日快晴
午後から街に出るもデモのためトラムが止まっていたため早めに戻った
今日も「哲学と哲学史」の続きを読みたい
歴史的再構成というジャンル(B)が最も相性が良いのは、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)である
哲学的概念の歴史的再構成は哲学史である
これは哲学に対して自立している
なぜなら、過去の哲学者の知が現在の問題をどのように解決するのかを示すことが目的ではないからだ
ローティによれば、このやり方は二つの形を採る
一つは、研究する著者の時代のコンテクストや行われていた論争を強調すること
アラン・ド・リベラの言葉を使えば、「哲学的考古学」となる
もう一つは、哲学体系の研究を中心にした歴史をまとめること
マルシャル・ゲルーや V・ゴールドシュミットなどの仕事を指すために用いられた「構造的歴史」に当たる
哲学的考古学は、哲学的主張が属する領域の中でどのように生まれたのかを理解するものである
基本的な考えは、文章は他の作品から借用した文章によって解釈することである
文章を構成する言葉を参照して解釈することではない
過去の哲学的主張は我々が問う問題に対する回答ではない
つまり、過去の哲学者が歴史を超えた不変の問いに対する回答を出したという視点はない
その哲学者が提出した問いに導いた問題意識の地平が何であったのかを明らかにすることである
もう一つは、哲学史における構造的方法である
哲学者の教義は個別に理解すべき主張の合計ではない
それは関係性を持つ体系で、全体への参照なしには理解できないものである
ある著者のテクストを読むということは、その体系全体の中での意味を理解することである
テクストが表現する思想よりは構造に重点を置く
歴史家の対象はテクストであり、著者が考えたことではないのである
いずれの場合も哲学史が哲学的テクストの科学になっている
現代的な哲学的問いに対する回答を探すのではなく、テクストの中身を明らかにすることになっている
勿論、そうすることにより哲学的に考え、現代的問題に近づくことができる
しかし、そこには時代錯誤や内容の改変の危険性がある
結局のところ、現代哲学と哲学史は別物で、独自に発展可能である
(つづく)
2020年1月25日土曜日
哲学と哲学史(1)
またプイヴェ氏の『現代哲学』を読み進むことにしたい
事の成り行きとは言え、面白い展開である
今回のテーマは哲学と哲学史の関係
現代哲学とは瞬時のものなのだろうか
少なくともフランスでは、哲学研究は哲学史の重要な一部を構成している
過去の哲学者を読むのが教育の大部分を占め、現代の哲学者はなおざりにされる
哲学は過去とどのような関係を結んでいるのか
哲学教育において、哲学史がこのように主要な位置を占めるのは当然のことと言えるのか
哲学史の理解の仕方の多様性は、現代哲学の多様な局面を照らし出すことを可能にしている
哲学史と哲学の関係についての研究は、現代哲学とその問題点の研究と何らかけ離れていない
20世紀の哲学者が過去の哲学者との関係をどのように考えていたのかを検討すること
それが現代哲学に関するメタ哲学的省察を可能にするのである
哲学と哲学史に関して4つの主張がある
1)哲学と哲学史は全く独立している
2)哲学と哲学史は関連しているので、現在の研究と過去の哲学者に共通する問題を検討する
3)哲学と哲学史は相互に依存している
4)哲学と哲学史は一つのものである
リチャード・ローティによれば、哲学史の語り方には4つのジャンルがあるという
A)理性的な再構成
過去の哲学者の議論を現代の問題に当て嵌めるように再構成する
B)歴史的再構成
重要なことは研究される教義に対する忠実さで、歴史的コンテクストや元々の論述を研究する
C)精神史
歴史的人物を結び付けて劇的な物語を作り、どのように我々が現代の問題を考えるようになったのかを示す
パラダイムとなるのはヘーゲルの作品で、ハイデッガー、フーコー、アラスデア・マッキンタイアに見られる
D)学説史
タレスとかデカルトに始まり、伝統的な哲学的問題について考えた哲学者を経て同時代人で終わる
この場合、予め哲学の根本問題として決められた問題を扱う
(つづく)
2020年1月23日木曜日
リズムを崩す旧市街のカフェの不在
昨日は一日中申し分のない快晴
午後から今回は初めてとなる南の方のカフェに出かける
以前は何でもなかったのだが、1か所に長居するのが少々気になり出している
それでも3時間くらいだっただろうか
時間の割には前に進んだという感覚はないが、それでよいのだろう
3-4つのプロジェを並行させようとすると、腰が浮ついてきてどれも駄目になるということのようだ
やはり、地道に一つ一つ片づけていくのがよさそうだ
これまで何度も経験している繰り返しになるのだが、、
今日も午後から外に出て、旧市街のカフェの様子を見に行った
今年に入ってから店を閉めたままである
状況を説明する張り紙もない
ひょっとすると、閉店にしたのかもしれない
この店がないために一日のリズムに乱れが生じていることに気付く
暫くの間、適応のプロセスを経験することになりそうである
早く開いてくれないだろうか
2020年1月22日水曜日
再びの分析哲学と大陸哲学(4)
本日も快晴、朝は久しぶりにファドを聞きたい気分
もう9年前になるが、パリで発見した音楽を只管流しながら、暫しの間ポルトガルを想う
ファド歌手アナ・モウラを聞く(2011.3.6)
本日も昨日の続きで、第五の問題である哲学と真理および解釈の関係を検討したい
大部分の伝統的な哲学者と同様に、分析哲学者も哲学を真理の追及として理解している
真理に至るために、前提から結論に至る正しい立論を行う
そこでは論理学や数学のような演繹が使われることは稀で、推論の正確さや有効性が問題にされる
哲学では、次のような問いに関する真理の探究が行われる
例えば、実在の究極の要素は何か? 道徳的価値は実在するのか? 我々は自由なのか?
出来事の間に因果関係は存在するのか? 世界は創造主を想定しているのか?
知るとは何を言うのか? 美的判断は客観的なのか? ・・・
神の存在について、分析哲学者は次のように立論する
1)神が存在するとすれば、それは全知全能で道徳的にも完璧である
2)神が全能であれば、悪を排除できる
3)神が全知であれば、悪の存在を知ることができる
4)神が道徳的に完璧であれば、悪を排除したいと思うだろう
5)しかし、悪は存在する
6)もし悪が存在し、神も存在するとすれば、次のことが言えるだろう
神は悪を排除できないか、その存在を知らないか、排除したいと思わないことになる
7)これは前提に反するので、神は存在しない
このような議論から導き出される真理に大陸哲学者だけではなく、どれだけの人が納得するだろうか
寧ろ、過去の哲学者がなぜこのような問いを出し、現在でも問われているのかを問うことだろう
このような形而上学的問いを解釈することが重要であり、元の問いに答える振りをすることではない
真理の探究としての哲学に代わるものとして、人間の現象を解釈する哲学がある
例えば、9・11でツインタワーが破壊されたことは何を意味するのかという問いである
分析哲学者の思考は次のように進むだろう
政治的な大義のために無垢の人を殺すのは正当なことなのかと問い、論理的立論をもって答えるだろう
この現象の奥に潜む哲学的で時に形而上学的な深い意味を探るところに思考は向かわない
このような論理的解析一辺倒の傾向は、哲学が衰退の一歩手前まで来ていることを示している
ドゥルーズとガタリは哲学は概念を創出することだと言った
しかし、分析哲学者は概念の分析はするが、大部分は概念の創出は考えていない
概念の創出にどれだけの意味があるのかを問うことも重要である
ドゥルーズとガタリは、哲学は真理ではなく、興味深く、人目を惹く、重要なカテゴリーから成ると言った
しかし、これらは哲学的概念と言うにはあまりにも相対的な性質である
結局のところ、明晰で、正確で、厳密という表現はそれほど悪いものではないだろう
2020年1月21日火曜日
再びの分析哲学と大陸哲学(3)
この週末は春を思わせるような感じもあったが、今日は快晴ながら寒さが増しているようだ
これからひと月くらいが一番寒い時期になる
今日も分析哲学と大陸哲学の方法論の違いを深堀りした部分の続きになる
第四は、分析哲学と大陸哲学にそれぞれ対応する「字義通り」と「メタファー」との違いについてである
分析哲学は字義通りの論述に打ち込み、言葉の定義を前もって行う
対する大陸哲学はメタファーを用い、主要な言葉に哲学的意味を与え、正式な定義を滅多にしない
読者が言葉の意味を少しずつ理解するようになるのを待つのである
分析哲学の極には物理学があり、大陸哲学の極には詩がある
科学的な言説は現実を字義通りに記述し、詩はメタファーも含めて新しい言葉を発明する
ただ、科学的言説にはメタファーが溢れ、詩人の中にはメタファーを信用しない人もいるのだが、
ということで、実際の哲学はこの二つの極の間に位置する
そして、論文、対話、詩、エッセイ、書簡、瞑想、告白、セミナー、警句、物語などの様式を採る
(つづく)
2020年1月20日月曜日
再びの分析哲学と大陸哲学(2)
今日は雲一つない快晴だった
朝はのんびりと紫煙を燻らし、煙が窓の外に出ていくその様を眺める
いつまで見ていても飽きない
さて、本日も昨日の続きを纏めておきたい
分析哲学と大陸哲学の特徴として挙げたものについて、分析を深めている
昨日の記事の最後のリストを参照していただきたい
まず、それぞれが重視する「立論」と「見方」の違いである
分析哲学は単純な命題から出発する
その命題に有利になるような単純で厳密な立論をし、対抗する命題を論理に基づいて批判する
その上で、最初の命題を結論へと誘導する
読者はそれを検証するが、重要になるのは立論の正当性だけである
分析哲学における価値は、命題の意外性、独自性、衝撃性ではなく、立論の確かさの中にある
他方、大陸哲学は最初に複雑な命題を投げ掛ける
解釈学の中に入り、しばしば歴史的な現実のイメージを修正する方向に導く
最終的な目標は、検証可能な明確で限定的な命題の提示ではなく、歴史的現実の全体的な見方を示すこと
一般的に受け入れられている考えを覆し、思想における有益な転換を引き起こす
第二に、「直接的な哲学」か「婉曲的な哲学か」の問題があった
婉曲的なやり方は、哲学的な問題を歴史やそこに登場する哲学的人物、文学や絵画までも動員して論じる
分析哲学者は哲学的問題提起が歴史性に依存せず存在していると信じているように見える
大陸哲学者はこの傾向を否定的に見ている
問題がどのように扱われてきたのかを知るために、過去の哲学者のテクストから始める傾向がある
それが正しいかどうかを知るためではなく、その時代になぜそう言ったのかを理解しようとする
第三に、「明晰さ」と「深さ」の違いについてである
分析哲学者は明晰さ、正確さ、綿密さを目指す
命題に始まる論理の流れから結論に至る過程でなぜこれらが重要になるのか
命題が明晰さを欠けば、何を言いたいのか分からず、その後の議論ができなくなる
厳密で正確な立論の過程は詭弁の要素を排除することができる
(昨今の政治状況を見れば、よく理解できる――大きく見れば哲学的視点の欠如になるか)
綿密さとは、明晰さと正確さのために哲学的省察を要素に分解することである
例えば、分析哲学者は知の定義を次のようにした
S が p(ある事実)を知っているということは、次の条件を満たしたときだけである
a) p が真である b) S が p を信じている c) S が p を信じるに十分な理由があるこのように定義を分解することにより、必要条件、十分条件が見え、反例を見つけやすくなる
しかし、この3条件で十分なのだろうか
大陸哲学者は存在や世界についての全体的な見方を提供しようとする
人生、愛、死、欲望、快楽、身体、思想、政治、善、悪、などを論じる
そして論理的解析の見かけ上の明晰さを批判し、真の明晰さを求める
論理学者や数学者に求められる厳密さではなく、哲学に特有の厳密さを要求する
それでは、深さとは何を言うのだろうか
空間的に言えば、深いということは底にあるもの、他のものを支えているものを意味する
根を張っているという意味では、高く成長する力を含意している
哲学者は表面的なところに留まるのではなく、意味を探求する
「もの・こと」について深い解釈を与えるのが哲学者の専門性である
ニーチェが「事実はない、あるのは解釈だけだ」と言ったように
大陸哲学者と分析哲学者の違いを、「文学的」と「科学的」に分けて考えることもできる
前者は作家で作品を残すが、後者はある問題についての専門家である
大陸哲学者は社会の問題について自分の立場を表明し、大衆やメディアに認められる
分析哲学者は仲間内の学問的な議論に参加し、その著作は大衆向けではない
(つづく)
2020年1月19日日曜日
再びの分析哲学と大陸哲学(1)
今朝は晴れ上がり、向かいの芝には霜が降りていた
昨日の続きをもう少しやってみたい
わたしの場合、ある学生が言ったという自分で発見することを重視してきた
鬱蒼とした哲学の森をガイドを手に進むのではなく、気分の赴くまま歩き回るのを好んできた
効率性とは対極のやり方である
このやり方を採用すると自分なりの発見があり、それが無上の喜びとなっている
哲学を分析哲学と大陸哲学に分けて考える見方がある
2013年、前ブログに「思想の重要性、あるいは大陸哲学と分析哲学」と題する記事を書いた
そして2016年には「ドーバー海峡が分けるもの、あるいは分析哲学と大陸哲学」というエッセイを書いている
医学のあゆみ (2016.8.20)258(8): 815-819, 2016ロジェール・プイヴェ氏の本にもこの二つの哲学について考察しているところがある
必須ではないかもしれないが、現代哲学を考える上で参考になる問題だと考えてのことのようだ
今日はその中からいくつかのポイントを纏めておきたい
プイヴェ氏は、フランスのおける哲学は大陸哲学とほぼ同義になっていると見ている
分析哲学は、1920年代から英米の哲学者が哲学は命題を論理的に解析するものだと考えたところに由来する
一方の大陸哲学は、分析哲学者がそれ以外のやり方をしている流れに対して使ったものだと言われる
二つの流れは必ずしも地理的分布に依存するのではなく、あくまでも方法論の基づくものである
著者がそれぞれに属すると考える哲学者を挙げているので、以下にリストアップしたい
分析哲学
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925;ドイツ)
チャールズ・サンダース・パース(1839-1914;アメリカ)
ウィリアム・ジェームズ(1842-1910;アメリカ)
エトムント・フッサール(1859-1938;オーストリア生まれ、ドイツ)
バートランド・ラッセル(1872-1970;イギリス)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951;オーストリア生まれ、イギリス)
ルドルフ・カルナップ(1891-1970;ドイツ)
ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(1908-2000;アメリカ)
ネルソン・グッドマン(1906-1998;アメリカ)
ピーター・ストローソン (1919-2006;イギリス)
ドナルド・デイヴィドソン(1917-2003;アメリカ)
マイケル・ダメット(1925-2011;イギリス)
デイヴィド・ルイス(1941-2001;アメリカ)
ソール・クリプキ (1940- ;アメリカ)
大陸哲学
アンリ・ベルクソン(1859-1941;フランス)
ウィリアム・ジェームズ(1842-1910;アメリカ)
エトムント・フッサール(1859-1938;オーストリア生まれ、ドイツ)
マルティン・ハイデッガー(1889-1976;ドイツ)
ジャン・ポール・サルトル(1905-1980;フランス)
モーリス・メルロー・ポンティ(1908-1961;フランス)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951;オーストリア生まれ、イギリス)
ガストン・バシュラール(1884-1962;フランス)
ジル・ドゥルーズ(1925-1995;フランス)
ハンナ・アーレント(1906-1975;ドイツ生まれ、アメリカ)
エマニュエル・レヴィナス(1906-1995;ロシア生まれ、フランス)
ジャック・デリダ(1930-2004;フランス)
ミシェル・フーコー(1926-1984;フランス)
両方の流れに属している人にジェームズ、フッサール、ヴィトゲンシュタインがいる
興味深かったのは、フッサールとヴィトゲンシュタインの年代による変化である
前期に分析的傾向があり、後期に大陸的傾向が増してきたというが、分かるような気がする
この二つの流れの先駆者的な存在もリストアップされている
分析哲学
ルネ・デカルト(1596-1650;フランス)
ジョン・ロック(1632-1704;イギリス)
ジョージ・バークリー(1685-1753;アイルランド)
デイヴィッド・ヒューム(1711-1776;スコットランド)
トマス・リード(1710-1796;スコットランド)
イマヌエル・カント(1724-1804;ドイツ)
ベルナルト・ボルツァーノ(1781-1848;チェコ)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873;イギリス)
大陸哲学
ルネ・デカルト(1596-1650;フランス)
イマヌエル・カント(1724-1804;ドイツ)
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762-1814;ドイツ)
フリードリヒ・シェリング(1775-1854;ドイツ)
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831;ドイツ)
セーレン・キェルケゴール(1813-1855;デンマーク)
カール・マルクス(1818-1883;ドイツ生まれ、イギリス)
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900;ドイツ)
先駆者の中にも二つの流れに属している人がいる
デカルトとカントである
このような事実は、分析哲学と大陸哲学が実質では違いがないのではないかという疑問を誘発する
これに対して、両者の内容は異なるだけではなく対立するとプイヴェ氏は見ている
その特徴は以下の通り
分析哲学
① 立論を優先する
② 問題提起に対して直接的に迫る
③ 明晰さ、正確さ、綿密さ
④ 論述の字義的表現を重視する
⑤ 哲学に真実性を求める
大陸哲学
① 見方を優先する
② 問題提起に対して婉曲的、歴史的に迫る
③ 視野の深さと広さ、そして全体性
④ メタファーに訴え、文体に力を入れる
⑤ 哲学に解釈性を求める
このテーマについての考察はまだ続いているので、さらに触れることになるだろう
2020年1月18日土曜日
現代哲学とは
ロレーヌ大学のロジェール・プイヴェ著 Philosophie contemporaine (2008, 2018)を手に取った
哲学の教科書は好きではないが、著者の個人的な経験や見方が織り込まれていたからだろうか
少し目を通してみることにした
ここで、イントロに書かれてあることを簡単に纏めておきたい
まず、哲学とは何であり、どのようにするものなのかということについて触れている
結論は予想される通り、誰もが同意する考え方はない
いくつかの例を挙げている
一人の学生が、問題について省察し、自分自身が何が真であるのかを発見することが哲学だと言う
それに対して、哲学はプラトン、デカルト、カントのテクストの中にあると教師が答える
しかし、他の教師はフーコーやデリダの著作が重要だと言う
さらに、フッサールだと言う教師、ドイツ解釈学を挙げる教師もいるという具合できりがない
このような状況は哲学を学ぶ人を混乱させ、時に失望させる
鬱蒼とした哲学の森で迷子にならないためのサバイバルキットとして本書を執筆したようである
それでは、現代哲学とは何を言うのか
一つは、それがいつ生まれたのかという時代的な問題になるが、決めるのが難しい
ある人はフッサールの『論理学研究』(1900-1901)を挙げ、別の人はウィーン学団の結成だと言う
またある人はニーチェの『道徳の系譜』(1887)から現代哲学が始まったと言う
プイヴェ氏はポーランドの哲学者カジミェシュ・トヴァルドフスキのルヴィウ大学での開講講演だと言う
現在のウクライナにある大学における無名の哲学者の講義を挙げている
あるいは、フライブルク大学でのハイデッガーの講演を挙げる人もいるだろう
要するに、人によって変わるのである
もう一つの基準は、時代を画した作品、新しい潮流を生み出した作品は何かという点である
現代に属していても時代遅れの哲学者はいる
プイヴェ氏ご自身は、過去との断絶は大きな要素ではないと考えている
哲学は時代とともに変わらないものを扱うもので、時代について意味を与えるものとは見ていない
その上で現代哲学の特徴を挙げるとすれば、大衆化しているということ
それまでのように一握りの専門家のものではなく、本や雑誌、セミナー、カフェなどが世に溢れている
本書が目指したのは百科全書的なものではなく、読者の研究や省察に寄り添うものであること
今、哲学をやる際の最良の方法を探るものを目指したという
著者によればフランスの哲学教育がローカルなものになっているので、国際的視点を取り入れた
20世紀から21世紀にかけての哲学のメタ哲学を目指したと言っている
そして次のように問い、哲学の存在意義を確認する
現代哲学は過去の哲学の模倣をしているだけではないのか
純粋科学が哲学を置換してしまったのではないのか
哲学は消滅しようとしているのか、あるいはすでに消えてしまったのではないか
それに対して、科学や技術にはできないことがあり、そこに哲学が関わる余地があると考えている
精神を開き、広くて深いものの見方を提供するのが、技術社会における哲学の力だと言っている
ウィルフリド・セラーズが言うように、哲学は「もの・こと」を全体として見ること
そのために、それぞれがどのように関係しているのかをできるだけ広く理解することである
換言すれば、それは形而上学ということになる
過小評価され、時に排除された形而上学だが、哲学の核心にはこれがあり、消えることはないと見ている
ここまでの捉え方は、わたしの中に出来上がってきたものと殆ど重なっている
2020年1月16日木曜日
カフェでの出来事
昨日は曇り時々雨で、今日も再びの曇り
昨日は午前中から街に出たが、中心部でデモをやっているので路線変更があった
わたしにとっては都合の良いところで下車できた
今日も午前中から街に出たが、旧市街のいつものカフェはまだ閉まっていた
来週あたりから開くのか、実は店を閉じてしまったのか
まだ分からない
ということで、中心街の今年新たに発見したカフェに落ち着く
掃除をしていた店員さんが「ボナペティ」と声を掛け、微かにほほ笑んでくれた
顔を覚えられたようである
そこで、こちらに来る前から社会とは隔絶した生活をしていたのではないかという思いが湧く
フランスに渡り、その度合いがさらに増してきただけではないかということである
そういう見方を採るとすっきりしてくることが少なくない
今日も2軒のカフェを梯子した
その2軒目で、隣に座った男性から「教授ですか?」と声を掛けられた
資料を前に置いてパソコンに向かっていたからだろうか
ご本人も読み古された数冊の本を前において読書をしていた
わたしの専門や現在の研究内容について話をする
その方はパリ生まれで、トゥールに来てから50年だという
どうもジャーナリストのようで、現在はコレージュ・ド・フランスで神経科学を勉強しているという
スタニスラス・ドゥアンヌ教授のところに通って4年になるようだ
その他の話題としてはカルロス・ゴーンさんのこと
それから、日仏のカップルが離婚した場合に問題になっていることがあるという
日本人女性が親権を持って日本に帰るため、フランス人男性が子供に会うことができないというのだ
昨年、子供の拉致としてこちらのマスコミで大きく取り上げられたようだ
このカフェでのもう一つの出来事は、視界が開けるようなアイディアが浮かんだことだろうか
どのような展開になるのか分からないが、その方向で試してみたい
2020年1月14日火曜日
昏睡状態にビブリオセラピー
昨日と今日は、曇り時々雨の空模様
昨日は籠っていたが、今日は午後から外に出た
旧市街に行ってみたが、今日も馴染みのカフェはお休みであった
仕方なく中心街に出てカフェを2軒梯子
途中の店で見た雑誌に、入院患者に本を読んで聞かせる仕事をしている人の紹介があった
読書療法(Bibliothérapie)と言うようだ
注意を惹いたのは、昏睡状態の患者にも同じようにやっていること
外からは意識がないように見えても、外界の情報を受容しているのでは、と思ったことがある
本人がどのような意識状態にあるのかは、本当のところ分からないのではないか
その魂を和らげる方法があるとすれば、幸いなことである
日本ではどのようにやられているのか興味が湧いた一文であった
2020年1月12日日曜日
「すべては繋がっている」再び、そして今年の修正
Grüne Spitze (1932) - Wassily Kandinsky
昨日触れたティモシー・モートンの2010年の本The Ecological Thought が仏訳されたという
アメリカで働くイギリス人哲学者である
この方の言葉に「すべてはすべてと繋がっている」というのがあるという
わたしも共有する感覚で、偶然にも出たばかりの拙エッセイでも取り上げた
ただ、彼の場合は人間や生物を超えてプラスチックからプルトニウムまでのすべてと繋がるのだ
そこから、我々の行為は気候変動や種の絶滅や温室効果に関わっているというところに導かれる
生物を超えて政治に至る
そこまで繋がっていると言うのだろう
それから「我々は時代の終わりにいるのではなく、始まりにいる」という言葉もあるようだ
この感覚は重要ではないだろうか
コンテクストは違うが、わたしが言う「まだ何も始まっていない」という感覚とどこか似ている
ところで、自分の意見を持つことは簡単である
我々はそれを日常的にやっている
しかし、他の人を説得して、それを理解させることができるかどうかは別の問題になる
そこでは科学や哲学的、論理的議論を用いる必要があるのだろう
自らを振り返ると、説得の過程が弱いように感じる
瞑想と称して唯我の世界に遊んでいることが多いので、そこまで至らないのだろう
それを改めるには過去の蓄積を「勉強」し、そこから材料を選び出す作業が欠かせない
天空から地上に降りなければならないのだ
何だか科学者の時代に逆戻りするようで、少々味気なくなるようにも感じる
今年はこのあたりの修正をしたいものだが、できるだろうか
昨日触れたティモシー・モートンの2010年の本The Ecological Thought が仏訳されたという
アメリカで働くイギリス人哲学者である
この方の言葉に「すべてはすべてと繋がっている」というのがあるという
わたしも共有する感覚で、偶然にも出たばかりの拙エッセイでも取り上げた
ただ、彼の場合は人間や生物を超えてプラスチックからプルトニウムまでのすべてと繋がるのだ
そこから、我々の行為は気候変動や種の絶滅や温室効果に関わっているというところに導かれる
生物を超えて政治に至る
そこまで繋がっていると言うのだろう
それから「我々は時代の終わりにいるのではなく、始まりにいる」という言葉もあるようだ
この感覚は重要ではないだろうか
コンテクストは違うが、わたしが言う「まだ何も始まっていない」という感覚とどこか似ている
ところで、自分の意見を持つことは簡単である
我々はそれを日常的にやっている
しかし、他の人を説得して、それを理解させることができるかどうかは別の問題になる
そこでは科学や哲学的、論理的議論を用いる必要があるのだろう
自らを振り返ると、説得の過程が弱いように感じる
瞑想と称して唯我の世界に遊んでいることが多いので、そこまで至らないのだろう
それを改めるには過去の蓄積を「勉強」し、そこから材料を選び出す作業が欠かせない
天空から地上に降りなければならないのだ
何だか科学者の時代に逆戻りするようで、少々味気なくなるようにも感じる
今年はこのあたりの修正をしたいものだが、できるだろうか
2020年1月11日土曜日
これからの形而上学
本日もどんよりとした曇りだった
気が滅入ると言いたいところだが、沈んで考えるには丁度良い
午後から買い物に出た
が、買い物をする前にブランジュリーのカフェで書いたものを読むということをやってみた
この流れは初めてのことである
夜、Manifeste métaphysiqueという本を読む
形而上学宣言である
プラトンの古典的な二元論の形而上学ではなく、分離していないものから始める形而上学を目指している
プラトンの場合、必然により静的で閉じた「全」が存在するのに対し、新しい試みは過程や関係性を重視する
開いた「全」でダイナミックなものだという
二元論とは、対立を余儀なくされるものを提示し、それを基に世界を見ることである
超越的なものと内在的なもの、あの世とこの世、内と外、土地の者と移住者、、
両者の間に戦いが内在している
この見方を捨てるということなのだろう
米国ライス大学のティモシー・モートンという哲学者の " hyperobjet " という概念を引用している
エコロジーの現象やバイオスフィアのように明確な形が掴めないもの
粘着性があり何にでもくっつく
何かと確実に関係しているのかどうかも分からない
ものとの関係を考え直さなければならなくなる
今日読んだところにはこんなことが書かれてあった
2020年1月10日金曜日
『これからの微生物学』から見えるこの世界、そして科学の言葉再び
2020年1月8日水曜日
雨の石畳
昨日は小雨が降ったり止んだりの暗い一日だった
それでも午後から2時間ほど外に出た
いつもの旧市街のカフェはまだ閉まっていた
今日も小雨が降っている
旧市街のカフェは今日もお休み
始まるのは来週からだろうか
結局、先日リストに入れたカフェに落ち着いた
旧市街に向かう石畳、雨に濡れて美しい
日常的に石畳を歩いていることが何らかの影響を与えているのではないか
例えば、内に向かう力を後押ししているというような
何度も書いたような気がするが、気に入っているカルティエだ
2020年1月7日火曜日
「何という偶然!」の朝
昨日は朝から申し分のない快晴
ガラスの扉を全開にして、外の空気を入れる
朝、アパルトマンの状態を調べるために、不動産屋さんが顔を出した
パリではこういうことはなかったのだが
その女性は部屋に入りポール・リクールなどの名前を見つけ、あなた哲学者ですか?と訊いてきた
ouiと答えると点検どころではなくなり、フランスの哲学の状況から日本の状況まで話題が広がった
そして、わたしも何度か会ったことがあるここの大学の哲学科の科長と知り合いだという
まさに「何という偶然!」というわけである
不思議な盛り上がりを見せたランデブーとなった
そう言えば、わたしがエピクテトスという哲学者を知ったのも修理に来たパリの若者からだった
浴槽の修理でエピクテトスを知る(2008年9月29日)
なぜか気分がよくなり、街に出ることにした
旧市街から始めようと思ったが、殆どの店が閉まっている
丁度通りかかった若い女性に訊くと、今日はエピファニー(公現祭)だからでしょう、とのこと
暫く歩くと開いているところも少なくなく、以前に入ったことがあるカフェに落ち着いた
当時は気付かず、それ以降入るのを避けていたが、ウィフィが繋がることを発見
よい集中ができたので、これからも立ち寄りたいカフェのリストに加えた
この時期のロワールは、上の写真にあるように水かさが増し、流れも激しくなっている
2020年1月6日月曜日
ゴリオ爺さんの像、そしてシェリングの『ブルーノ』
昨日の午前中は曇りだったが、午後から晴れてきたので街に出た
2軒のカフェを梯子、それぞれ2時間ほど充実した時を過ごした
さて、今日のバルザックの人間像はゴリオ爺さん(Le Père Goriot)
昨日も書いたように、今のわたしには何の意味もないので、像だけを味わっておきたい
ただ、これらの像には現代を生きるモデルがいて、確かにその人たちによく似ている
作者のイマジネーションの為せる業ではないようだ
昨日の像もそうだったが、どこか現代的な感じがしたのはそのせいではないだろうか
その意味では、やや物足りなさを感じる
ところで、昨日バスが来るまで時間があったので、本棚のシェリング著『ブルーノ』を手に取った
決められた時間の中では集中力が高まるようだ
僅か10分くらいだったと思うが、この対話編は非常によく入ってきた
このようなことはパリでも経験している
最初のカフェで続きを読んだが、この手のものとしては以前より理解しやすくなっている
冒頭では真理と美の関係が論じられている
真理はそれ自体が美だという人と真理を美の上に置く人が出てくる
時間に依存しない「絶対的真理」という言葉も出てくる
不完全性は原因結果の法則が直ちに原理であるとする見方にのみ起こるという言葉も
これは科学的な世界のことを言っているのではないか
そうだとすれば、完全性、絶対性に至るには科学を超えなければならないことになる
まだほんの始まりである
読了後に感想が浮かんできた時には改めて書いてみたい
2020年1月5日日曜日
バルザックの『人間喜劇』像、本日はラスティニャック
先日外出した折、昨年11月に除幕式が行われたバルザック像を見に出かけた
トゥールに再びバルザックの像が建つものとばかり思って、楽しみにしていたのである
トゥールのバルザック像(2019年8月30日)しかし、公園に行ってもそれらしいものが見当たらない
観光案内で確かめると「コメディー・ユーメン」の像ならありますよ、とのことで状況を理解した
バルザックの『人間喜劇』に出てくる5人の人物像が雨に濡れて建っていた
上の写真を見ていると大きな像をイメージするが、いずれも小さな像で親しみが湧く
バルザックの人生には感じるところ大である
しかし、バルザックの小説は Le Médecin de campagne(田舎医者)のCDを聴いたくらいだ
ということで、公園に建っている人物像は殆ど意味をもって迫ってこなかった
今日取り上げたのは、『ゴリオ爺さん』に出てくるという法学生のラスティニャックの像
どうも落ちぶれた貴族の出ながら野心家のようで、形容詞的にも使われるようになったとのこと
像を作った彫刻家の二コラ・ミルエ(Nicolas Milhé)さんも次のように語っている
「バルザックの作品に登場するラスティニャックのような人物は現代でも我々の中にいる」トゥールを舞台にした作品もあるようなので、いずれ原作を読んでみたいものである
他の4人については、追って紹介することにしたい
2020年1月4日土曜日
芝生の緑
昨日の朝は曇りだったが、南西から北東に向けて雲が速く流れていた
予想した通り、昼前には晴れ上がってくれた
午後、街に出て集中できそうな場所を探すも見つからず
空も再び全面的に曇ってきた
アパルトマンに戻ると、今年初めてのラグビーの練習をやっていた
夜の練習が始まる前にライトアップされ、緑が鮮やかに浮き上がっているのに目を見張る
普段は真っ暗闇なのでそう感じたのだろう
ただ、いつものように写真ではそれが再現できていない
このカメラ、特に夜の景色が苦手のようだ
そして今日は朝から晴れ渡り、飛行機雲も健在だ
向かいの芝生には白いものが降りている
その上で早速練習が始まっている
久し振りに気持ちも晴れ上がってきた
2020年1月3日金曜日
「パリから見えるこの世界」2018 のご紹介
本日でまだ新年三日目である
昨日は終日曇りで、朝のうちは雨が降っていた
雨が収まったところで、こちらに戻って初めて街に出た
バス・トラムともストは元旦までで、普段通りに戻っていた
午前中の人通りは少なかったが、午後から多くなっていた
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「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ「パリから見えるこの世界」の2018年分をアップしました
それ以前のものはサイファイ研究所 ISHE のサイトに掲載されています
お暇の折にでもお目通しいただければ幸いです
(64) 啓蒙主義と反啓蒙主義、あるいは我々を分断するもの
医学のあゆみ(2018.1.13)264 (2): 202-206, 2018
(65) 瞑想生活から省察生活へ、あるいは新しい内的均衡への移行
医学のあゆみ(2018.2.10)264 (6): 562-566, 2018
(66)プラトンの『パイドン』、あるいは魂の永遠を考える
医学のあゆみ(2018.3.19)264 (10): 930-934, 2018
(67) パウル・カンメラーとウィリアム・サマリン、あるいは科学を歪めるもの
医学のあゆみ(2018.4.14)265 (2): 182-186, 2018
(68) 翻訳という作業、あるいはエドゥアール・グリッサンという作家
医学のあゆみ(2018.5.12)265 (6): 539-543, 2018
(69) ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること
医学のあゆみ(2018.6.9)265 (10): 911-915, 2018
(70)静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの
医学のあゆみ(2018.7.14)266 (2): 184-187, 2018
(71)最初の外科医アンブロワーズ・パレ、あるいは癒しの哲学と驚くべき活力
医学のあゆみ(2018.9.8)266 (10): 815-819, 2018
(72)反骨の医者パラケルスス、その自然哲学と錬金術
医学のあゆみ(2018.10.13)267 (2): 176-180, 2018
(73)風土と人間、あるいは土地を選ぶということ
医学のあゆみ(2018.11.10)267 (6): 488-492, 2018
(74)ハイデッガーによる「テクネー」、あるいは技術から現代を考える
医学のあゆみ(2018.12.8)267 (10): 800-804, 2018
2020年1月2日木曜日
吸収の10年から解読の10年へ
元旦の昨日は霧こそ出ていなかったが、終日しとしと雨が降っていた
昨日書いたように、2010年代を振り返る余裕はまだない
ただ、2007年にフランスに渡ってからの10年ほどとそれ以降には大きな変化があることに気付いている
大学院を正式に終えたのは2016年で9年に亘る学生生活であった
その間は外の世界に身を晒し、只管吸収する時間だったように見える
これは意識してそうしたというより、この存在の内から自然に湧き上がる不思議な力によるものだった
それは生まれて初めての経験で、止めようとしても止められなかったのである
おそらく、異文化と異分野になるフランスと哲学がわたしを大きく包んでいたからではないだろうか
そして学生生活が終りを迎えるあたりから、吸収したものを解きほぐしたいという欲求が生まれてきた
具体的な形として外に出すということである
これはそれまでしようと思ってもできなかったことだった
外に向かう欲求が内に向かう集中を圧倒していたからだと想像している
最初の試みは2018年に翻訳という形となり、その翌年の2019年にも続いた
これらは自ら意図したことではなく、そのような流れに導かれたからである
それから2018~2019年にかけては、自分の考えを論文にして問うということを初めてやってみた
この経験はこれからも折に触れて試してみたいと思わせてくれるほど、多くのものを齎してくれた
そしてフランス生活13年目に入った今年は、一体どんなものが出てくるのだろうか
気が散りやすい性分としては予想もできない
ただ、これまでよりも深いところに沈むことができる集中が生まれているのを感じている
それを頼りに進むしかなさそうである
2020年1月1日水曜日
2010年代最初の思索、あるいはエネルゲイア再び
2020年が明けた
2010年代を振り返る余裕はまだないが、わたしを大きく変えたことだけは言えるだろう
今できることは、2010年代最初の正月には何を考えていたのかを振り返ることくらいだろうか
2007年秋にフランスに渡っているので、フランスでの3回目の正月に当たる
当時のブログは「A VIEW FROM PARIS パリから観る」だった
最初のブログ「フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE」の続編である
わたしのブログ生活は、2005年2月16日の以下の記事で始まったことが分かる
「私は如何にしてフランス語にのめり込んでいったのか? - 2001年春」当時、ブログをやっている人はそれほど多くないという印象を持ったことを思い出す
因みに、現在のブログは「パリの断章 Mémentos à Paris」を挟んで4代目に当たる
15年もの間、ブログという場所を通してこの世界を観、考えてきたことになる
さて、10年前の記事はエネルゲイアに関するものだった
「永遠を視野にエネルゲイアを取り戻す(I)」(2010.1.1)このテーマは2012年から始まった連載エッセイ「パリから見えるこの世界」第17回でも取り上げている
「永遠を視野にエネルゲイアを取り戻す(II)」(2010.1.2)
「アリストテレスのエネルゲイア、あるいはジュリアン・バーバーの時間」(医学のあゆみ 245: 895-899, 2013)これらの記事は自分にとって非常に印象深い思索の跡で、今読み返してもなかなか読み応えがある
そして、そこに書いたことは今、確実に現実の日常に降りてきている
その変化はこの世界を豊かに生きる上で極めて重要なものであると感じている
哲学は、深いところで我々の生活を変える力を持つ(「役に立つ」)営みなのである
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