昨日からフランスに渡ってからのブログを読み始めた
プロジェでもない限り、なかなか読むことにはならなかったものだ
もう14年も前のことではあるが、漫然と生きていた時代とは異なり、心象風景がはっきり蘇ってくる
ただ、それらを通り過ぎた現在から見ると、個々の記録は例えばマスター1年目という大きな塊の一部に埋もれている
今の日常の中では何か関連したことでもない限り、そこ(底)にあるのにそれ自体が浮かび上がることはない
つまり、ブログのような生データが残っていなければ、永遠に記憶の底に沈んだままになる
これは恐ろしいことであり、何と勿体ないことだろうか
豊かな内的世界を見たり構築したりすることなく、現実の流れの中だけでこの生を終えていくことになる
そう考えると、このプロジェはわたしに貴重な機会を与えていることが明確になる
ミシェル・セールさんではないが、パソコンに収められたデータはまさに自分の頭を切り取ったものなのかもしれない
その伝で行けば、わたしも毎日、切り取った自分の頭と対峙していることになる
体に付いている頭からは引き出すことができない「ひと・もの・こと」を求めて
そして、目の前にそれらが現れれば、体に付いた頭にも同じものがあることを確認できる
つまり、すぐに引き出せるところにはないが、脳は全てを覚えているのである
そう確認する時、脳の持つ想像を遥かに超えた恐るべき力にただただ感嘆するだけである
それを引き出すのは我々の力に掛かっているが、そこにはトリックが必要になるということだろうか
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