2019年6月27日木曜日
猛暑のボルドーでディスカッション
本日はディスカッションのために何年かぶりのボルドーへ
パリやトゥールでお世話になったマエル・ルモワン教授とのデジュネがあった
コルシカ料理を食しながら、哲学、文学、科学、言語、人生など、充実の2時間となった
今思い出すところをいくつか
哲学に固有の方法はあるのか
実は、この問いはわたしがフランスに渡る時のものでもあった
もしあるのであれば、それを学びたいと思っていたのである
しかし、2年間の講義の中ではそれを見つけることができなかった
その方法は自分が探索するしかないことを悟ったのである
わたしの場合、過去の哲学者の思索を漁ることであり、瞑想という思考方法であった
ルモワン氏も哲学固有の方法はないという点で、わたしの考えとほぼ一致した
その上で、条件として厳密さを加えた
これはわたしが言うところの論理のつながりの乱れの無さとも通じるものだろう
ハイデッガーだったか、デカルトだったろうか
哲学者は哲学の森を当てもなく歩き回っているという言い方がある
一生その中で満足している者がいる
その一方、そこから出て一つの目的に向けて歩みを進める者が出る
そして、その目的を達したと思ったら、再び鬱蒼たる森に戻ってもよいのだろう
現代の科学の哲学者は、自らのやり方で科学の問題解決に寄与したいと願っている
森から出ているのだろう
しかし、森の中と森の外の二つの環境が哲学者には必要ではないだろうか
自らを振り返ると、その一方だけでは満たされないものを感じてきた
ルモワン氏も同様の認識をしていることが分かった
森の中を捨て去るということは、ひょっとすると哲学者を辞めることを意味しているのかもしれない
ルモワン氏はトゥールにいたこともあるので、穴場を紹介してもらった
その場所はロワールにも近く、瞑想にうってつけの散歩道になるという
話を聞いていると、晩年のルソーが夢想者として散策した空間が浮かんでくるように感じた
戻ってから早速試してみたい
今回の滞在では、街に出るより身近で過ごすことがテーマになっている
このテーマにも合致するので、植物園のように面白いところであればよいのだが、、
タクシーの運転手によると、嘘か真か、昨日の昼は40℃になったという
それがまんざら嘘でもなさそうなのは、現在39℃になっているからだ
こう暑いと歩く気がしなくなる
そう言えば昨日の夜、SNCFから明日は水分の補給を忘れないようにというメールが届いていた
ということで、冷房の効いたカフェに落ち着き、今日のまとめをアップすることになった
ヴァカンス気分から抜け出るのは至難の業なのだろうか
2019年6月26日水曜日
真夏日にジャルダン・ボタニックで
天気予報を見ると、当地は今日から連日の真夏日のようだ
今朝はETVに行き当たり、須賀敦子、安部公房、パリの久野収、鶴見俊輔の特集を観る
この中で印象に残ったのは、須賀敦子の作家人生だ
彼女は20代からパリ、イタリアで過ごした後、40歳で日本に戻ってから20年は何も書かなかった
そして60歳から10年間書いたという
その前の何もしないように見える空白の時間が貴重だったということだろうか
午後、いつものようにジャルダン・ボタニックへ
歩いた後は砂煙が上がるほど乾燥していたようだ
カフェに落ち着き、以前に書いたものを読み返す
短い時間だったが、集中できたのではないだろうか
つまり、時間が消えたということである
周りは殆どヴァカンスだ
2019年6月25日火曜日
初日は植物園で
これまでは仕事がよくできるという理由でカフェを利用していた
アパルトマンに留まっていると注意が分散してしまうからだろう
しかし今回こちらに着いた時、アパルトマン周辺に留まっても何かができそうな気がした
ということで、今週からその可能性を試してみることにした
初日は近くにある植物園に足を延ばした
そこにあるベンチで瞑想してもよし、園内のカフェで手仕事をしてもよしである
午前中はオープン・カフェに落ち着く
新鮮な空気の中、滞っていたプロジェが少し動き出したように感じた
お昼に一旦戻り、夕方からベンチで朝の続きをやる
バカンスムード漂う園内で、いずれも短い間だったが、非常にいい感じであった
おそらく、まだ新鮮だからそれができているのだろう
どのように展開するのか、暫く様子を見ることにしたい

2019年6月22日土曜日
見事な快晴の朝
今朝は見事な快晴である
グラウンドではこれから何かの大会だろうか
セットアップが進んでいる
久し振りの買い物兼散策に出ることにした
実に気持ちがよい
何がこの感覚の違いを生み出しているのだろうか
未だに分からない
カラッとした天候も関係しているのだろうが、それだけではなさそうだ
自分の身に纏わり付いたものすべてから解放されているからだろうか
そのすべてを意識しなくてもよい環境にいると言い換えてもよいかもしれない
それがこころを軽くしているのだろうか
いずれにせよ、この生にとって欠かせない感覚となっている
そのことを確認した週末の朝
2019年6月21日金曜日
無事トゥールに戻る
今日の午後、無事にトゥールに戻った
いつもの静かな町が待っていた
空港やTGVにはどこかヴァカンス気分が漂い、それはそのままこの町にもあるようだ
その気分に合わせたくなるのだが、どれだけ抗うことができるだろうか
2019年6月20日木曜日
今回の日本滞在を振り返って
ほぼ4か月に及ぶ日本滞在が終わりに近づいている
日本に着いた時にはまだ翻訳の仕事をしていたことを思うと、長い滞在であった
今の段階でいくつか気づいたことがあるので、ここに書き留めておきたい
一つは、時の流れに関することである
このような日程を、実際には不可能だが、仕事に終われている時に実行したと想像する
そうすると、結構せわしないものになっていたのではないかと思われる
しかし、今回はそのようなことにはならなかった
一日一日に打ち込んでいるので、先のことが全く気にかからなくなっているのだ
そのためかどうかわからないが、時の流れが非常に遅く感じられる
一日が長いのである
何かに追われるという感覚もなくなっている
ゆったりと流れる時に、ただ身を任せているだけなのである
もう一つは、精神と肉体の関連に関することである
時の流れに身を委ねているが、あるいはそのために、ダラダラすることがある
そのまま一日を終えると、体が冴えないのである
しかし、ほんの数時間でも集中した精神活動をすると、その後は体がシャキッとしてくる
何度か試したが、いつも体が蘇り、それによって今度は精神も高揚してくるのである
驚くべき効果である
これからも注目したい問題となった
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jeudi 20 juin 2019 à Paris
日本からパリの機内で、精神と肉体との関係について新たな考えが浮かんできた
こういうことである
ダラダラしていると肉体が冴えないと言ったが、その時の肉体の状態は分からないのではないか
どこか冴えないと精神が感じ取っていると言った方が正確ではないだろうか
明確な症状がある場合は別だが、肉体の全体的な調子は精神が感じ取っているわけである
精神活動をすると、肉体が元気づくように感じられるということは真実である
肉体の物理的な状態は分からないが、そう感じることに大きな意味があるように見える
というところで、今日のところは収めておきたい
2019年6月18日火曜日
フランスから帰国された友人とのディネ
今日はフランスでお世話になった友人とのディネがあった
もう6-7年になるだろうか
フランスのことをいろいろ教えていただいた
今回は研鑽を終え日本に帰国されたので、新しいお話を伺うことができればと考えていた
お仕事の内容が異なっているので、参考になることが多かった
お忙しい中、お時間を割いていただき感謝したい
これからもこのような機会が生まれることを期待したい
2019年6月10日月曜日
なぜ読書が魂の鍛錬になるのか
この週末、新たな繋がりが見え、一つの塊となった
以前から気付いていることだが、自分の考えるようなことはすでに深く考えられている
これは古典などを読むうちに見えてきたことである
逆に言うと、自分の考えを知るためには古典を読まなければならないことになる
読書が欠かせないのだ
今回のベルクソン・カフェでは、「読むことを学ぶ」というエッセイを読んだ
読むということは事実を追うような読み方をすることではない
そうではなく、一つひとつの前で立ち止まって、反芻し、瞑想することである
読書は魂の鍛錬になるのだという
魂の鍛錬とは真の自分に迫るための方法である
これだけではまだ本当のところが明らかにされていないのではないか
そこで隠されていたものは何だったのか
読書と魂の鍛錬を結びつけるものが、実は冒頭の観察にあることに気付いたのである
わたしにとっての発見である
それはどういうことなのか
ソクラテスの時代から、自分を知ることが哲学の、さらに言えば生きる目的であった
冒頭で、自らの考えは過去人の思索の中にあると言っている
だとすれば、自分を知る最上の方法は読書になるのではないか
つまり、過去人の声を聞くことが魂の鍛錬になる理由がそこで明らかになる
事実だけを集める読みではそこには到達できないことも見えてくる
2019年6月8日土曜日
第190回日仏生物学会での特別講演を終える
本日は午後から東京女子医大で第190回日仏生物学会が開催され、その特別講演に招かれた
午前中は最後の調整を行ったが、いつものようにいくらやっても限がないという状態だった
会は定刻に始まったが、途中で時間がかかっていることに気付き、徐々にペースを上げた
そのため、最終的にはひどくオーバーすることもなく収まったのではないだろうか
哲学的な講演は今までなかったとのことだが、いろいろな質問が出ていた
例えば
科学者が哲学者と話すとしても共通の言語がないので理解できないが、その点をどう克服するか
哲学は科学の後を追っているだけで、科学に貢献することはあるのか
科学を取り巻く広い知の世界の存在を教えるには、どのような方法があるのか
免疫と神経の関係はよく見られるが、免疫の生体機能における位置をどう見ているのか
科学の成果の発表(PR)をより有効なものにするためには、どこに注目すべきなのか
などなど
一般演題の発表後にプレゼンテーション賞の投票があったのには驚いた
研究者も大変な時代に生きているようだ
意見交換は懇親会でも続き、このような会では初めての二次会まで経験することになった
時間とともにゲストであることを忘れて持論を展開することになり、内心「これはいかん」
しかし、このような話は重要だという重鎮からの声に救われた
また、わたし自身にとってもかなり幅広い問題について議論できたのは幸いであった
今日でわたしの春季の公式活動がすべて終わったことになる
一つだけ開催を断念したISHE関連の会はあったが、それ以外は無事に終えることができた
そのことを寿ぎたい
2019年6月5日水曜日
雨の一日
久し振りに朝から遠雷を聞き、暫くしてから雨になった
かなり激しく屋根を叩く音も久し振りだ
庭は緑豊かになり、雨のお陰で瑞々しさを増している
思わず写真に収めたくなった
今日は一日中雨だろうか
いつもは外に出ているが、偶には家で過ごすのも悪くないかもしれない
2019年5月30日木曜日
朝の時間は自らの思索に
あやふやな記憶だが、ニーチェは次のようなことを言っていたように思う
ーー 朝の新鮮で貴重な時間を他人の本を読んで過ごすほど愚かで勿体ないことはあろうか。自らの思索に使うのだ!ーーこの言葉が頭に浮かんだからそうしたのではなく、その後で彼の言葉が浮かんできたのである
というわけで、今朝は久しぶりにのんびりと思索の世界に遊んだ
かなりいい時間となったのではないだろうか
見慣れた凡庸な景色がどこか美しいものに見えてきた
主観とは恐ろしいものである
2019年5月28日火曜日
第5回ベルクソン・カフェの二日目、終わる
今夕は、第5回ベルクソン・カフェの二日目が開催された
夕方から雨になった中、参加された皆様に感謝いたします
テーマは「読むことを学ぶ」で、今回も概略を話してから始めることにした
初回に4頁を終え、今回は5頁の予定だったので心配したが、不思議なことに終えることができた
最初に全体を俯瞰するので時間を取るのだが、その方が早く終わるという意外な効果である
これからもこのやり方を採用することにしたい
今回の後半もほとんど古代哲学の特徴、特に魂の鍛錬について議論されている
哲学書は師が弟子を変容させ、自己実現させるように教育している学派から生れる
従って、モノローグの外観を採っているが、その中にダイアローグの要素を持っている
個別の状況における個別の回答を出している
さらに、読む人の精神の進捗状態に合わせて書き方を変えたようである
そのため、全体を通してみると矛盾も出てくる
後世の哲学史家はその点に驚いているという
彼らは元々の哲学が新しい生き方、世界の見方を教え、人間を変容させるものだったことを見ていなかった
そこには中世以来、哲学から魂の鍛錬が抜き取られ、キリスト教の僕となったことがある
純理論的な概念をキリスト教に提供する立場になったのである
その影響が現代にも及び、理論化の傾向はさらに先鋭化しているという
哲学が再び生き方や世界の見方に関わるようになるのは、ニーチェ、ベルクソン、実存主義からである
「魂の鍛錬」のエッセイ冒頭に、ジョルジュ・フリードマンの言葉を引用している
20世紀に如何に魂の鍛錬を実践するのかという問いに関するものである
ヴォーヴナルグは、本について次のように語っている
「真に新しく、真に独創的な本は、古くからの真理を愛するようにしてくれるものである」著者アドー氏は本エッセイで、西欧には魂の鍛錬の豊かな遺産があることを言いたかった
そして、本エッセイをヴォーヴナルグが言う「真に新しく、真に独創的に」したかったようである
やっと最後になって、読書に直接関連することが出てくる
アドー氏はこう言っている
「我々は‘読んで’人生を送っていますが、最早読むことができなくなっています。つまり、立ち止まり、我々の心配事を解放し、自分自身に還り、細かいことや新しいことを探究することは脇に置いて、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることができなくなっているのです。これは魂の鍛錬ですが、最も難しいものの一つです」彼が考える読書とは、静かに瞑想し、反芻し、テクストに語らせるようにすることであった
そして、ゲーテの次の言葉でこのエッセイを締め括っている
「読むことを学ぶためには時間と労力を要するということを人は知りません。そのためにわたしは80年を要しました。そして、そのことに成功したかどうかさえ分からないのです」
議論の中で、ヨーロッパが持っている文化に関する問いかけがあった
このエッセイではヨーロッパの深い「教養」とでも言うべきものを感じる
しかし、そのようなものは現在ではどうなっているのだろうか
新しい状況に対する新しい思想や方向性は出されているのかという疑問だろうか
それから、「自己を実現する」とはどういうことなのか
「自己を超越して自己を永遠のものにする」ということは何を言うのか
もう少し思索を深めなければならない点も提起された
また、このエッセイを読んでいると、古代の哲学に誘われるように感じるという声も聞こえた
詳細なまとめは、近いうちに専用サイトに載せる予定です
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今日で今年前期のすべての活動を終えたことになる
この全体についても折に触れて纏めることになるのかもしれない
ISHEの活動に参加されたすべての皆様に感謝いたします
次回は今年の秋になる予定です
今後ともご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします
2019年5月27日月曜日
一瞬の光を生きるには、やはり哲学か
相変わらず暑い一日だったが、日中は比較的集中して仕事ができたようだ
そして、夜は30年来のお付き合いになる大野、丹野両博士との夕食会となった
このところ毎年お会いしている
お二方とも現役で仕事をされているので頭が下がる
わたしの方から、そろそろ別の世界に足を踏み入れては、とお勧めしたのだが難しそうだ
現世には現世の解けない繋がりがありそうである
ただ、人生はあっという間だという点では一致したのではないだろうか
ウラジーミル・ナバコフはそれを次のように表現した
「われわれの存在は二つの永遠の暗闇の間にあるほんの一瞬の光にしか過ぎない」
我々の生が一瞬の光であることを理解するためには、「永遠」に思いが至らなければならない
そして本当の理解に達すると、それに合った生き方を模索しなければならないことになる
そうすると、やはり最後は哲学しかなさそうである
人類の知恵に学び、そこから飛翔するのである
貴重な一夜となった
またの機会を待つことにしたい
2019年5月26日日曜日
西田幾多郎記念哲学館を訪問
本日は、かほく市にある西田幾多郎記念館を訪問
少々交通の便が悪く、車がなければ大変だろう
記念館は斜面を生かした作りになっており、丘の上から見下ろすように建っていた
中も視点を微妙に変えるだけで新しい空間を味わうことができるようになっていた
安藤忠雄氏の作品とのこと
展示は工夫されたものになっていて、ゆっくりした語りをバックに見ることができた
ここ10年くらいの全的生活のせいか、西田の言いたいところが分かるようになりつつある
昨日の大拙と併せると、わたしの全的生活は、実は禅的生活だったのではないか
そんな考えも浮かんできた
ビデオも要を得たもので、参考になった
それから西田の書を改めて見ながら、自らの考えを書にすることの意味を考えていた
内容さえしっかりしていれば、どのような文字で表しても良いということではないだろう
自らの思想を書にする過程で、その行為が更なる思索を誘発しそうな感じがする
それによって、その内容がより深いものになることはないだろうか
自分の中に沁み込むような新たな姿に変容することはないだろうか
それを確かめるためには、実践するしかないのかもしれない
書斎の「骨清窟」が記念館の横に移築されていたが、扉は閉じていた
書棚を見ながら、ラインスブルフのスピノザハウスを訪問した時の光景が浮かんできた
もう7年前になるが、スピノザが1661年から1663年まで借りていたところである
その書棚が当時のままではないと思うが、蔵書は多くなかったと読んだ記憶がある
西田も、ある人の核になるもの(骨)を掴むことが重要で、後はその応用になると考えていた
従って、全集を集めるような趣味はなかったと書いている
それにしても、いろいろな書斎を見ると触発されるものがある
フランス人作家の書斎も全く別の刺激を与えてくれる
2019年5月25日土曜日
鈴木大拙と室生犀星を訪問
本日は金沢まで足を延ばした
兎に角暑い
その中を冬物の背広で歩く
体の水分を入れ替えるには良さそうだ
まず、鈴木大拙館を訪問
わたしの中では、現在の歩みに入る前の2006年に出遭いがあった
鈴木大拙 DAISETSU SUZUKI, GRAND PHILOSOPHE BOUDDHISTE(2006.1.8)
この記事にあるように、彼が描くことになった人生の絵が大きいことに感動したのである
難しいことではあるが、こうありたいと思わせるものがあったのだろう
今日は、最初は静かだったが、次第に国際色豊かな訪問客が増えてきた
中にゆっくり池を眺めながら時を過ごすことができる場所がある
その池には鯉?が1匹だけ?いるのではないだろうか
時折、飛び跳ねるような音がしていた
あるいは、人工の仕掛けだろうか(写真を見ても生き物の気配を感じない)
暫しの間、その空間を愉しんだ
大拙館を出てから歩いて室生犀星記念館に向かった
地図は見ていたはずなのだが、犀川を挟んで反対側を探していた
見つからないはずである
犀星の詩を読んだのは学生時代で、その後は忘れていた
しかし、この町に来て再び触れてみようという気になった
ノスタルジックな気分を味わいたかったのだろうか
ビデオが充実していて、それを見てから展示室へ
出生が不幸だったので若い時は苦労したのだろう
そのためか、日本風の古い建物を想像して出かけたが、モダンな建物で意表を突かれた
ただ、後年は立派な家を構えたようなので、それほど違和感はないのかもしれない
詩集を読み返すと、記憶に残っているのがいろいろと出てくるのかもしれない
すぐに思い出すのは、これである
ふるさとは遠きにありて思ふもの交通機関の発達により、当時のふるさとの距離感は想像できなくなっている
そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
この言葉には真理が宿っているようだ
こちらは終始静かな館内であった
わたしのように同時代で一度触れている人には何かを呼び起こす可能性はあるだろう
しかし、そうでない人には話題も感情の面でも繋がりを見出せなくなっているのかもしれない
2019年5月26日(日)
ネットを見ていたところ、犀星のふるさとの詩は解釈が割れているようだ
まず、作者がどこにいるのか、東京なのか金沢なのか
それによって、最後のみやこがどこになるのか変わってくるという
冒頭の言葉もわたしのようにそのまま読む人もいるが、裏の意味があるという人もいる
金沢に帰って詠んだ場合になるのだろうか
故郷に来ても受け入れられないので、遠くから眺めている方がよいというニュアンスを見る立場だ
短い詩でも作者の真意に迫るのは難しそうである
ただ、素人の目から見れば、作者を離れて読むことがあってもよいのではないか
そんな考えが浮かんできた日曜の朝
2019年5月23日木曜日
旧知の研究仲間と会食
今夕は昔の研究所からお付き合いいただいている武田克彦氏のお誘いを受け、久しぶりの語らいに出かけた
このところ稀ではない地図を見ても道が分からないという症状のため苦労したが、何とか辿り着いた
武田氏は神経心理学の権威であるはずなのだが、そんな素振りはお見せにならない
まず最近の発見について伺った
歴史に還ると意外な発見が眠っているようである
また、昔の論文を読むと、主観を排除した現代の論文では看取できない何かを感じることがあるという
古代ギリシアにすべての根源が眠っている(はずである)
わたしなど、プラトンの考え方に同化しつつあるのだが、どうも信用されていないようだ
そうなったとしてもまだ10年先でしょ、というような感じであった
ただ、「魂の鍛錬」という概念については興味を共有されている印象を持った
丁度、第5回ベルクソン・カフェで取り上げているテーマである
今日は久し振りに日本酒を次々勧められたせいか、必要以上のことを話したかもしれない
しかし、そういう日があってもよいのではないだろうか
突き詰めれば、この人生、その瞬間しかないのだから
これはエピクロスだろうか
お隣からはパリの話題が出ていたり、さらにそのお隣からは小林秀雄を論じる声が聞こえたり
なかなか面白そうな空間であった
本日は、今日を刈り取ることができたようである
2019年5月22日水曜日
レモ・アンツォヴィーノさんのコンサートを聴く
Remo Anzovino (1976- ): compositore, pianista
今夕は古い友人に誘われ、イタリアのレモ・アンツォヴィーノさんのソロピアノコンサートへ
日本初のコンサートだという
会場はイタリア文化会館(Instituto Italiano di Cultura - Tokyo)のアニェッリホール
ほぼ満席の状態であった
演奏された作品はすべて自作だったのではないだろうか
実はイタリア的なリズムやサウンドが流れてくるのではないかと思って出かけた
とは言っても、イタリア的とはどういうものなのかは分からないのだが、、
日本的なものとは違う何かをどこかで期待していたようである
しかし、全体の情緒が非常に日本的で、日本の音楽家の作品のように聞こえたのである
あるいは、わたしには異質なものとは聞こえなかったと言った方が正確だろうか
挨拶の中で、今回の音楽は日本の影響を受けたと言っていたようなので、そのせいなのだろうか
いずれにせよ、普段とは異なる雰囲気の中で、久しぶりのコンサートを味わうことができた
幸いなことであった
今夕は古い友人に誘われ、イタリアのレモ・アンツォヴィーノさんのソロピアノコンサートへ
日本初のコンサートだという
会場はイタリア文化会館(Instituto Italiano di Cultura - Tokyo)のアニェッリホール
ほぼ満席の状態であった
演奏された作品はすべて自作だったのではないだろうか
実はイタリア的なリズムやサウンドが流れてくるのではないかと思って出かけた
とは言っても、イタリア的とはどういうものなのかは分からないのだが、、
日本的なものとは違う何かをどこかで期待していたようである
しかし、全体の情緒が非常に日本的で、日本の音楽家の作品のように聞こえたのである
あるいは、わたしには異質なものとは聞こえなかったと言った方が正確だろうか
挨拶の中で、今回の音楽は日本の影響を受けたと言っていたようなので、そのせいなのだろうか
いずれにせよ、普段とは異なる雰囲気の中で、久しぶりのコンサートを味わうことができた
幸いなことであった
2019年5月21日火曜日
第5回ベルクソン・カフェ、初日終わる
今夕は第5回ベルクソン・カフェであった
残念ながら、参加予定のお二方から参加できなくなった旨の連絡が直前に入った
激しい雨の後、参加された皆様に改めて感謝したい
今回のテクストは、ピエール・アドーの「魂の鍛錬」というエッセイにある「読むことを学ぶ」
元々の論文は1974年に出たものなので45年前の作品になる
これまでアドーさんの作品を読んできたせいか、以前より理解しやすくなったとの声が聞こえた
それでも難しいところに出くわす
もっと違った表現ができるのではないか、という声になる
内心、自分の日本語のようだとも思ったのだが、、
今回のエッセイは読書を扱っていると思ったが、少なくとも今日のところ出てこない
まず、古代に各派で実践されていた魂の鍛錬の多様性と違いが紹介される
そして、表面上の多様性の下には根源的な一致があることが指摘される
方法としては、説得のための修辞と弁論術、内言の習熟、精神の集中
目的は、自己の向上と自己実現
自己実現は現代でも使われている言葉だが、その実体は違うようだ
それから哲学的回心(哲学的目覚めとでも言うべきもの)を境にした変化が記述される
回心の前は自分自身ではなく、従って真に生きていない
回心後はその状態から抜け出し、真の生活に近づき、自らを向上し変容させる
その生活とは具体的にどういうものなのか
大雑把に言うと、出来合いの価値から離れ、人間の本性である理性に合致した生である
魂の鍛錬をプロティノスは「自分自身の像を彫刻する」と表現した
絵画が加える芸術であるのに対して、彫刻は取り除く芸術であることに起因している
余分なものを取り除き、既に大理石の中に存在している像を露わにする作業である
つまり、自分自身でないものを取り除き、本質的なもの、自分自身であるものに還るのである
幸福とは、自立、自由、自律から成るが、それは自分に還ることによって達成されるという
そのためには既存の価値から解放されなければならず、理性を働かせるしかないのである
これから先の詳細は専用サイトに載せる予定である
そちらを参照していただければ幸いである
今回参加された方の中に仏教に詳しい方がおられ、東西の比較が話題になった
仏教が目指すところと共通するところがあるようなのである
これから注目すべき点が増えたことになる
2019年5月20日月曜日
東京のエッフェル塔とセーヌ川を発見
今日、総武線で秋葉原から両国方面に向い墨田川を渡る時、パリの情景を思い出した
パリのメトロ6番線でパッシーからビラケム(Bir-Hakeim)に向かいセーヌを渡る時の眺めだ
その景色をパリで最初に見た時には驚きをもって眺めたが、それと完全に重なったのである
つまり、スカイツリーがエッフェル塔で、墨田川がセーヌ川である
それぞれを単品として見ても気付かない関係性がそこにある
事実、これまでスカイツリーがエッフェル塔だなどと毫も思ったことがなかった
余りにもよく似ていて多くの人が見ている景色なので、すでに言われているかもしれない
しかし重要なことは、自分で発見することである
2019年5月19日日曜日
久し振りの New York State of Mind
テレビでマンハッタンのタクシードライバーがニューヨークについて語っているのを観る
今でこそ遠くに感じるニューヨークだが、奥の奥にはまだその空気が息づいていることを感じる
40年ほど前にその中で生活していた時の気分が蘇ってきた
本当に久しぶりのことである
フランスにいてはこういうことは起こらないのではないか
ニューヨークの歌でも聴きたくなってきた
当時、聴き、歌ったものは数え切れないはずなのだが、、
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