2020年2月29日土曜日

2月を振り返って



2月も明日で終わる
今年は閏年であったことに気付く
ぼんやりと振り返ってみたい

何かを仕上げたという感覚はない
一つのプロジェを追う過程で、そのプロジェを支えるもう一つの重要な仕事が浮かび上がってきた
そのためそちらに重点を移したが、その進行がまだまだということになる

最近の方針は期限を切るのではなく、満足がいくまでやるというものに変わってきている
基礎となる仕事が終わるまで他のものも先には進めないということになるだろう
いくつかプロジェを並行して進めることができるほど器用ではないことが分かってきたからだ

こちらに来る前、日本で思い描いていた絵を思い出してみる
それに照らしてみると、かなりゆっくりした歩みになっている
それでよいのだろう

重要なのは、まず経過で、その後に結果が来る
その逆になると、精神的に落ち着かなくなり、良いことは何もない
これが身に付くまでに何と長い時間を要したことだろうか 

さて、3月はどんな経過を辿ることになるだろうか







2020年2月28日金曜日

エピステモロジー(9)



認識論的正当化(3)

ウィラード・クワインが「ゲティア問題」を説明するために出した例は、単純明快である
1918年11月7日、大新聞が間違って休戦を宣言した。しかし同日、二人のスポーツマンが小さな帆船でバミューダ諸島に集まるためボストンの海にいた。船にはその日の新聞はあったが、ラジオはなかった。4日後、戦争が終わっていると思いながら目的地に着いた。丁度戦争は終わったところだったので、彼らが知っていることは正確であった。しかし、彼らの信念は知識とは言えない。なぜなら、その基礎になっていたことが間違っていたからである。
p = 戦争は終わった、とする
ヨットマンがバミューダ諸島に着いた時、
(1)p は正しい、(2)ヨットマンは p を信じている、(3)彼らは正当な理由でそれを信じている

我々は多くのことを正当な理由から信じている
自分の名前、自分が生まれたところ、知っている大部分のことは証拠を基にしている
さらに終戦を知ったのは証拠によってであり、それ以外では知り得ない
自分が休戦に調印したのであれば別であるが、
クワインが描いた状況において、どうして彼らが終戦を知っていると言うことができるのだろうか

ゲッティア問題とは、知識の定義(信念、真実、正当化の三条件を満たす)が知識には導かないことを示すことである
1963年以降のエピステモロジーのかなりの部分は、この問題を論じることであった
ゲティア問題について出されたすべての反論や解答を検討するのは、長くうんざりするものだろう

それがどんなものであったのかを示すための例がここにある
演繹的閉包性(deductive closure)の原理はゲッティア問題の間違った前提であると言った人がいる
この原理については既に触れている

 S が p であること、p q に導くことの信念が正当化され、S が p から q を演繹するとする
 その場合、S は q であることを信じることが正当化される
 
事実、ヨットマンは新聞が休戦を宣言したという p から q を演繹して戦争は終わったと信じたようである
しかし、演繹的閉包性の原理は正しいのだろうか
この問題に関して、分析哲学者たちは重箱の隅をつつくような解析をした



(つづく)










2020年2月26日水曜日

エピステモロジー(8)



認識論的正当化(2)

1963年、エドマンド・ゲティアAnalysis誌に「正当化された真の信念は知識か」という論文を発表した
3ページの論文ではあったが、知識の分析哲学に影響を与えた

先に掲げた知識の定義から出発しよう
それに対する反例を見つけることができる
ゲッティアは論文でいくつかの例を挙げているが、その一例について見てみよう

スミスとジョーンズは、ある会社の採用面接にきた
スミスは「ジョーンズが採用され、彼のポケットには硬貨が10枚入っている」(a)という証拠を持っているとする
スミスはこの事実から「採用されるのは、硬貨が10枚ポケットに入っている者である」(b)との命題を信じている

しかしスミスは知らないが、実際に採用されるのはスミスであり、スミスも10枚の硬貨を持っていると想像してみよう
その場合、「採用されるのは硬貨が10枚ポケットに入っている者である」という命題(b)は正しい
しかし「ジョーンズが採用され、彼のポケットに硬貨が10枚入っている」(a)という命題は間違っている

つまり、
①(b)は正しい
②スミスは(b)を正しいと信じた
③スミスが(b)を正しいと信じたことは正当化される

しかし、スミスは(b)が正しいことは知らなかった
なぜなら、スミスは自分のポケットにある硬貨の数は知らず、ジョーンズの硬貨の数による信念だったからである
従って、先の知識の定義は間違いである 


(つづく)









2020年2月25日火曜日

オーギュスト・コントの部屋を見つけることできず



昨日は用事がありパリへ
その合間を縫って、前回訪問した時に思いついたが未解決のままになっていた問いを探ってみた

オーギュスト・コントは1831年から17年間、市民に向けて天文学の講義をしていたという
1798年1月19日生まれなので、33歳から50歳までに当たる
記録によれば、毎週日曜日、3区の区役所の一室を使ったことになっている
その部屋を見ることができないかということであった

前回、3区の区役所に行き尋ねたところ、3人目で答えに辿り着いた
コントの時代の3区区役所は現在の2区の区役所だというので、早速そこに行ってみた
そこには結婚式場に隣接して確かに会議室はあったが、出来たのがコントが講義をしていた後なのである
前回はそこまでで引き上げることになった

よくよく記録を読み直してみると、3区区役所と言われるところの住所が書いてあるではないか
昨日はそこを探すべく行ってみたが、現在の2区区役所とは目と鼻の先
しかし、それらしいところはない

近くにあった図書館に入って訊いてみたところ、フランス革命で(?)破壊されたかもしれないという
現在の2区区役所はノートルダム・デ・ヴィクトワール教会に隣接しているので、そこで訊いてみた
記録にある住所は教会前の短い通りで、もうないのではないかという
その答えに人間の営みあるいは歴史の流れに潜む無常さを感じながらもその場を後にした


振り返れば、日本では何の意味も持たなかったコントだが、その後不思議な縁が生まれた
フランスに渡る前、パリに来た時にコントのポスターをどこかで見て写真に収めたことはある
しかし、その程度であった
それが、パリに来て1年くらいで出会った彼の三段階の法則が「科学の形而上学化」に導いた

そして、3・11の後の止むに止まれぬ気持の発露が現在に繋がるISHEの原点となった
しかしコントは既に、今で言えば「サイエンスカフェ」のようなものをやっていたことになる
しかも膨大な時間を割いて

こちらは後から気付いたことだが、そこにも深い繋がりを感じるようになった
それが、今回オマージュを捧げる意味で探索してみようと思った理由のような気がしている










2020年2月24日月曜日

エピステモロジー(7)



認識論的正当化(1)

例えば、知識とは正しい信念、正当化された信念であるとする
その場合、信念を構成しているものと正しいということが意味するものを説明しなければならないだろう
しかし、この根本的な問題を脇に置き、正当化の条件について集中してみよう

正しいのか間違っているのか、信念は現実的な理由のために正当化され得る
A が真実を語っていると友人の B が信じるのは、A が嘘をついていると考えることが悍ましいからである
B の正当化は現実的なものであり、感情的なものでさえある

しかし、それは認識論的正当化ではない
我々は欲求、感情、利益に依存することなく、そのもののために真理を求めることができる
我々は必ずしも満足することがないとしても真実に辿り着くことで喜びを感じることができるのである

ポストモダンの哲学者の中には、これに異議を唱える者もいる
しかし、本当に異議申し立ては可能なのだろうか


(つづく)








2020年2月23日日曜日

エピステモロジー(6)



懐疑主義の挑戦(5)

懐疑主義の挑戦においては、知る人の知の活動を問題にする
つまり、それが何であれ、どのようにしてそれを知ったと主張できるのかを自問するのである
それに対する歴史的エピステモロジーでは、社会全体の現象としての知識の形成と発展を問題にする
同様に、宗教、芸術、文化、スポーツなどについても語るが、それは個人や個別の対象についてではない

懐疑主義の挑戦における知は、次のように定義される

 S が p であることを知るのは、次の場合で、次の場合だけである
 1.p は真である(真実の条件)
 2.S は p を信じている(信念の条件)
 3.S には p を信じるのに十分な理由がある(正当化の条件) 

まず、「S が p であることを知る」という命題知がある
「S がパリを知る」という直接知でも「S が自転車の乗り方を知る」というやり方を知るのでもない

懐疑主義の挑戦をする哲学者が検討するのは、特にその正当化の条件についてである
歴史的エピステモロジーの側は、知の歴史性、社会的・政治的条件を捨象してはその検討はできないと言うだろう
S の知は、歴史的発展のある時点における知識を定義するものに対応している
それは我々の間で同意された規範以外の何物でもない合理性についても当てはまる

こちら側の哲学者は、知識は実践であり、社会的規範によって有効とされる認識行動であると言う
知が形成され、発展し、議論される社会的・政治的実践の部分を引き離すことはできない
すでに出来上がった現実や合理性や真理は存在しない
彼らにとって、知識は社会的産物なのである


(つづく)







2020年2月22日土曜日

エピステモロジー(5)



懐疑主義の挑戦(4)

科学的精神の形成』のバシュラール、『科学革命の構造』のクーン、『方法への挑戦』のファイヤアーベント
彼らは知識についての省察を科学史における科学理論の研究と結び付けた
これらの理論の形成のされ方や歴史における異議申し立てと取り替えられ方について自問したのである

彼らはまた、そこから引き出される教訓についても検討した
クーンにとっての科学的進歩は、科学革命と呼ばれる断絶により区切られるものである
一つの科学分野は安定期にパラダイムに応じて発展する

パラダイムとは科学のコミュニティがその時点で受け入れている理論的枠組みのことである
例えば、16世紀前半のコペルニクス天文学は2世紀のプトレマイオスのパラダイムと断裂する科学革命になる
つまり、天動説から新しいパラダイムである地動説への大転換であった

科学史において重要な問題になるが、この変動の複雑な様相である
どのように、なぜ根本的な概念の意味が変わるのかについて検討されるのである
20世紀初頭にはアインシュタインの相対性理論により根本的な変化が新たに起こった

このような歴史的・社会学的視点から見ると、知識の概念は懐疑主義の挑戦における意味と同じではない
懐疑主義の挑戦において、S が p を知っているかどうかを知ることが問題であるが、S とは誰なのか
取り敢えず、それを知る人としておこう
その S の特徴としての知識に興味が持たれるのである

反対に、歴史的エピステモロジーの知識は、知る人に特徴的なことではない
それは、ある時点での知、科学的実践や体制、社会生活への影響などを包むすべての歴史的現実を指している
ここで本質的なことは、社会的な現実としての知の状態や危機を通り抜ける活力を記述することである
異なる流れの間の闘いや科学知の社会的・政治的意味などを


(つづく)







2020年2月21日金曜日

エピステモロジー(4)



懐疑主義の挑戦(3)

懐疑主義の挑戦は、我々が何かを知ると信じる理由を確認することである
現代の哲学者(特に英米の哲学者)には、この問題を真剣に受け止める人たちがいた
彼らは知識が成り立つ条件を示すことで、この問いに答えようとしてきた
ジョージ・E・ムーアバートランド・ラッセルなどは、その例になる

これに比べ、大陸の哲学者はこの問題に興味を示さなかったことを認めなければならない
ハイデッガー、メルロー・ポンティ、サルトル、ドゥルーズ、デリダなどは、この問題を真に検討していない
彼らは古典的な哲学のやり方を受け入れているようである

大陸哲学者は、今日の哲学的検討は別の形を採ると判断する傾向がある
昔の哲学者は哲学的思想の発展により乗り越えられるというものである
知識が可能であるかを知ることより、この領域の問いを解決するという哲学者の主張を解釈することが問題になる

彼らは懐疑主義の挑戦における詳細な解析より、知識についての政治的、科学的省察に興味を示す
特に、知識の制度化に関する歴史的、社会学的省察に惹き付けられる
制度化が採る社会的形態やその政治的、社会的体制との関連を解析する

この問題を医学の分野で提示したのが、ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』になるだろう
ミシェル・フーコーの著作の大部分はこの方向性のものである
知識の哲学をするということは、S が p を知る条件を理解することではない
そうではなく、科学知の全現象を社会・政治史の発展の中に置き直し、権力の問題点を理解することである


(つづく)







2020年2月20日木曜日

エピステモロジー(3)



懐疑主義の挑戦(2)

デカルトが『省察』の中で行ったように、私と私の信念、そして悪い霊しかないと想像してみよう
もし世界が私が信じるように存在し、あらゆる外的なもので満たされていれば、悪い霊は私の信念の原因になる
この懐疑的仮説をアップデートしてみよう

信念を持つ「私」を容器の中に入った脳とその心的状態に、悪い霊をニューロン刺激を制御するコンピュータに換える 
p を「冷蔵庫に牛乳がある」というような普通の信念であるとすると、このように推論できる

1.もし S が p を知っていれば、p は疑いようがない
2.懐疑的仮説が p は確かではないことを示す
3.その場合、S は p を知らない

懐疑主義の挑戦は、経験に基づくいかなる命題も疑いから逃れることはできないとするものである
命題 p が疑わしくなることがある
他の命題 q があり、S がそれを否定する有効な理由を持っていない場合である

例えば、S が容器に入った脳であったり、q が「S は悪い霊に騙された」であったりする場合
命題 q は、p に一致するという信用を完全に破壊するか、明らかに弱めるのである
これを「認識価値」(epistemic value)とか「保証」と言う

そうすると、S は p の信念における正当性を失い、p を知っているとは言えなくなるだろう
S が懐疑的仮説は真面目に取り上げるべきではないとする正当な理由を持っていないとする
その場合、懐疑主義の挑戦が知に関するすべての思い上がりと最も一般的な我々の信念の認識価値を叩くのである


(つづく)







2020年2月19日水曜日

エピステモロジー(2)



懐疑主義の挑戦(1)

懐疑主義とは、我々は自分が思っているよりずっと少ないことしか知らないという考え方である
部分的には、我々はある問題(将来のことなど)について知っていることは少ないということ
一般的には、我々は思っているよりも知っていることは少ないとなる

懐疑主義を突き詰めれば、我々は何も知らないということになる
あるいはモンテーニュのように、「クセジュ」(わたしは何を知っているのか)と問うものである
なぜなら、知らないということを認めることは、さらに知ることはできないということになるからである
従って、我々を取り囲むすべての未知のものの異様さが不安にさせる
あるいは反対に、認識に関するバカげた自惚れを放棄することに導く懐疑主義の心地よい平静に満たされるのである

懐疑主義は非常に古い哲学的態度である
古代ギリシア人(ピュロン主義やアカデメイア派など)がこの言葉を残してくれたのである
中世においてはあまり広がらなかったが、知られていなかったわけではない
16-17世紀には、宗教的信仰についての論争においてよく顔を出すようになった
どのようにして間違ったものから宗教的な真の知を識別するのかといった問題においてである
宗教改革対抗宗教改革の論争におけるエラスムスカルヴァンの対立において、懐疑主義の議論がよく使われた

懐疑主義はモンテーニュの思想の中心を成している
それはデカルトによって洗練され、反駁された
しかし、デカルト自身はピエール・ガッサンディトマス・ホッブスマラン・メルセンヌにより批判された
この考え方は、ピエール・ベールにより百科事典に取り上げられた
懐疑主義を現在の形にしたのは、デイヴィッド・ヒュームである
トマス・リードは常識を擁護し、カントは知識の可能性を擁護した
しかし、懐疑主義の挑戦を退けるには十分ではなく、懐疑主義は現代哲学に蘇っている


(つづく)







エピステモロジー(1)




知識の哲学はエピステモロジー(認識論)と呼ばれている
フランスでは20世紀初め、英語と同様に知識の哲学とされたが、後に「科学の哲学」になった
この変化は、レオン・ブランシュヴィックガストン・バシュラールジョルジュ・カンギレムの影響による
フランスだけその意味が異なるのである
フランス流エピステモロジーは科学的概念や理論の歴史的発展の研究、言わば科学の哲学的な歴史研究である

ただ、これから扱うのは、一般的な知識の問題で、科学に限定された知識ではない
エピステモロジーという言葉をごく普通に使われている意味で用いる

A: パリ行きの始発は何時に出るか知っていますか
B: はい、6時15分に出ます

どのようにAは知ることができるのか
どのような条件があれば、AはBがそれを知っていると考えることができるのか

この二つの疑問は簡単そうに見える
哲学者はそこに問題点を探してきたし、認識論研究者は今も答えを出そうとしている

今日の哲学者たちは先人の議論を取り上げてきた
時にプラトンやアリストテレスにまで遡ったり、独創的な見方を提示したり
あるいは、知識の可能性、正当性、広がりの問題を改めて再考したりして


(つづく)







2020年2月18日火曜日

実在論の擁護(4)



そのため、言語的・文化的相対主義はその頂点にある
それが、形而上学的・認識論的「絶対主義」からの解放として提示された反実在論に導くのである
しかし、人間が多様な範疇の様式を展開したとしても、それが現実と対応しないということではない
その多数性は、現実が相対的であることも、一方から他方に途切れず容易に移行することも意味しない

グッドマンが提示した「グルー」の謎は、次のような一つの議論である
事実に反する可能性を明確にし、我々がなぜ「グルー」を用いないのかを自問するものである
少なくとも哲学的可能性においては、恰もそれができるかのようにすべては終わるのだが

それが反実在論の誘惑の一つの源泉である
論理的可能性は、とくに精神にとって素晴らしいことである
しかし、「もの・こと」が起こったかもしれないようには起こらない時、考慮する必要がある
可能性への誘惑によって、現実感覚を失わせてはならない 

実在論のある形態は、範疇の様式に恣意的なものが何もないことを前提とする
様式は多様で、科学や日常生活や芸術において同じものではない
文明や文化に応じて強調されるところも異なってくる

現代哲学において、反実在論が栄え、今日の優勢な考え方、人文社会科学におけるウルガタになっているかもしれない
しかし実在論は、予想に反して降伏しなかったのである








2020年2月17日月曜日

実在論の擁護(3)



信頼性主義、外在主義、認識に関する目的論を含む認識論モデルを適用すれば、反実在論の排除が可能ではないのか
そうなれば、精神と現実が完全に分離しているとする考えは、あり得ないものになるだろう
近現代の哲学者が言うほど、「もの」そのものを表象しないことがあり得ないことにはならなくなる

検証されるべきは、おそらく表象という概念そのものである
知識とは、現実の忠実な表象ではなく、現実への帰属の仕方である
人間は取り囲んでいるものを知り、理解する能力を持っている
それは全体としてアリストテレスやトマス・アクィナスが考えたことである
同時にそれは、哲学が長い伝統と結び付いていることを示している

一方に、現実に向き合っていることを知っている主体の表象主義的モデルがある
その現実に主体は辿り着くことができない
なぜなら、主体は表象や主体的範疇や社会の中で歴史的に構成されたものの中に閉じ込められているから

他方、信頼性主義は全く異なるモデルを薦める
現実が我々に向き合うのではなく、我々が我々のやり方で現実に帰属するのである
我々の人間性を特徴付けているのは、現実を知る能力である

そのことは、我々の概念と現実とが逐一対応するという考えを意味しない
寧ろ全体的には、我々の概念は現実の中に我々が存在していることに誘発される
つまり、概念が現実から生まれるのである

概念的枠組みは間違いなく複数で、異なる言語での対応が不可能であることの中に、この複数性がある
一つの言語のある言葉が他の言語に直接的に対応するものがないという事実がある
このことは結局、異なる言語の話し手は、用いる言語で作られた別の宇宙に生きていることを示している


(つづく)







2020年2月15日土曜日

広げるのではなく深め、そして後に広げる




自分の精神の動きに一つの癖があることに気が付いた

何かに興味が湧き、それに当たっているとする
その時、それは自分にとっては一時的なもので、次に進むための過程に過ぎないと考えている
そうすると、できるだけ早く「いま」のことを終わらせて先に行きたいという気持ちになる
そこに落ち着いてじっくり事に当たるということをしなくなるのだ

実は、哲学に入り、科学の時代を振り返った時にそのことに気付いていた
しかし、昔より改善されてはいるものの、今でもその傾向がここにあることを認識したという訳である
この気付きは何を教えることになるのだろうか

それは、この人生においてできることは限られているということ
従って、広げるのではなく、深める方向に進まざるを得ないということである
そして、広げたいのであれば深く掘っていったところで広げればよいのである

つまり、先に進みたいと思う時、横に進むのではなく、下に進むのである
そうしているうちに、そこから横に広げるべき世界が見えてくるはずである
それまでは深堀りすることだろう






第6回ベルクソン・カフェのご案内



第6回ベルクソン・カフェを以下の要領で開催いたします

サイト  ポスター

日時: ① 2020年6月4日(木)18:00~20:30     

② 2020年6月11日(木)18:00~20:30

(1回だけの参加でも問題ありません) 

テクスト: Louis Althusser « Que disent les « non-philosophes » ?
ルイ・アルチュセール:『哲学者でない人』は何を語るのか

Initiation à la philosophie pour les non-philosophes(PUF, 2014)
『哲学者でない人のための哲学入門』の第1章

参加予定者にはテクストをあらかじめお送りいたします

議論は日本語で行います
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております



会場:恵比寿カルフール B会議室 

 東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1
 恵比寿MFビル地下1F









2020年2月14日金曜日

実在論の擁護(2)



しばらく時間が空いたが、反実在論に対する実在論についてに戻ってみたい

「信頼性主義」における信念の証明は、我々の認識能が正しく機能しているという事実によっている
しかし、その事実に主体は近づくことができない
この概念のあるものは、「外在主義」(エクスターナリズム)とも呼ばれる
認識の価値や信頼性を決めるために我々の信念の証明をするが、それは世界という外的なものである
従って、この証明は我々の能力にはよっていない

これに対する「内在主義」(インターナリズム)は、次のように主張する
我々の精神の検討により、我々の信念の認識論的価値を制御できなければならない
そこでは、無謬性が要求されているように見える
デカルトなどに見られるように、我々の知は反証不能で疑う余地のない考えに基づかなければならない
つまり、「知るということは、決して間違わないということ」になる

信頼性主義と外在主義は、可謬主義に甘んじるのである
我々の認知装置が正常に機能していないとすれば、私の信念は保証されず、間違っているかもしれない

正しい信念(偶然)と知識の違いは何なのか
知識は偶然の問題にもなり得るかもしれない
しかし、真理の発見において、知るということは偶然を排除することではないのか

信頼性主義に対するもう一つの異議申し立てのやり方として、次のような状況を想像するとよいだろう
それは、認識能が正常に機能しているが、それにも拘らず間違った信念を持っている人間である
懐疑的仮説の一つである

我々が描く世界とそれとは独立に存在する現実とが忠実に対応していることを保証するものは何もない
しかし、正常な機能という概念に目的論(認識論的な)を加えることはできないだろうか
我々の認識能は現実を知るために出来ていると想像してみよう
デカルトやスピノザ以来の哲学者は目的論に対する警戒を最後まで怠らなかったので、この仮説は大胆である

目的論とは、物や特に人間が今在るように在るための目的、すなわち目的因を持つという考え方である
ただ、この仮説自体は創造主の存在を前提としてはいないことに注意が必要である
進化が、現実を知る能力によって生き残る種の出現に有利に働いたことが考えられる


(つづく)






2020年2月13日木曜日

野村克也さんと穐吉敏子さん




野村監督が亡くなったというニュースを見たので、Youtubeに行ってみた

その中で語られていた言葉が、このブログでも取り上げたことがある穐吉敏子さんの言葉と重なった

Be kind to yourself(2016年4月2日)

野村監督の方は、自分の中に何があるのか分からないんだから、とことんやってみるしかない 

勝手に自分で自分を決めつけないこと

そんなような言葉だったと思う(確かめようと思ったが、見つからなかった)

そこには真理が宿っているように見える






2020年2月12日水曜日

しのぎやすい冬




朝、明るくなるのが少しずつ早くなり、春が近づいていることを実感する今日この頃

この冬だが、寒くて嫌になるということは殆どなかったのではないだろうか

結論として、当地の冬は過ごしやすいと言えそうである


今日も午後から外に出た

昨日と同様、よく集中できたようだ

最近、この頭の中を動き回る運動が満ち足りた濃厚な時を齎してくれるように感じている

帰りに新しくなったカフェを街中で発見

明日以降、トライしてみたい






2020年2月11日火曜日

変化ではなく変容を



昨日は風が強い夜であった
あまり経験したことがない
今日は朝のうち晴れていたので、日の光をたっぷり味わう
至福の時間である

午後から外に出ることにした
久し振りのカフェでそれなりの集中ができた
その充実感からか、帰りのトラムを待っている時、次のような考えが巡っていた


今日一日を歩むことにより、新しい明日が拓ける
時の流れを外から規則正しく刻むように一日一日を送るのではない
一日の中に入り込むことにより、想像していなかったような次の一日が現れる

いずれにせよ、一日一日は異なっているので、毎日、変化はしている
この場合、内的変化は殆ど見られない
言わば、同じレベルにおける移動である

ここで、内的変化を伴う異なる次元への移行を変容と呼ぶことにする
これは、毎日が特別な日であると思いながら過ごすことから齎される
一つの変容が次の新しさを生み出すのである

これを可能にするのは、注意深い観察である
これなくして、変化も変容もあり得ない
精神的活動が肉体にエネルギーを注入するとも言えるだろうか





2020年2月9日日曜日

カーク・ダグラスさんのフランス語






カーク・ダグラスさんが2月5日に103歳で亡くなっていたことを知る

その昔、観た映画を思い出す

「スパルタカス」、「ガン・ファイター」、「テレマークの要塞」、「パリは燃えているか」、「大脱獄」・・・

二度目の奥さんのアン・バイデンスさんがベルギーとアメリカの国籍を持つフランコフォンとのこと

フランス語でのインタビューが見つかったので聴いてみた


また、100歳の時の映像も見つかったので以下に












2020年2月8日土曜日

ヴォルテールとルソー、あるいは21世紀を考えるための二つの極




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ第88回のご紹介です
ヴォルテールとルソー、あるいは21世紀を考えるための二つの極
医学のあゆみ(2020.2.8)272 (6): 563-566, 2020


現在の世界に現れている問題とこれからの世界を考える上で重要になること
それは、科学と技術が我々の思考と行動に与える影響を捉え直すことだと考えるようになってきた
そのヒントになる対極にある考え方が18世紀に提出されている
「これからの哲学」を考える第一歩として、その辺りを振り返る内容になっている
先日案内を出したSHE札幌のテーマもこの流れにある


興味をお持ちの方にはご一読いただければ幸いです





実在論の擁護(1)



乗り掛かった舟なので、もう少し続きを読んでみたい


前回、反実在論の勝利と言ったが、現代哲学者の間で反実在論に同意する人は少ない
今日の認識論の無視できない部分を特徴付けているのは、実在論的概念の回帰である
実在論者は、認識論と存在論との間に密接な関係があると考えている

確かに、我々のすべての概念は現実と一対一の対応をしていない
しかし現実のすべての面が、どの概念や理論を我々が選ぶのかに係っているわけではない
適切な選択が行われると、我々に依存しない現実を知ることが可能になる

我々の最上の知が現実を現実として捉えることを可能にしている共通の考えを再確認するための戦略は様々だ
ここでは現代の主要な哲学者アルヴィン・プランティンガの戦略を検討したい
彼はこう言っている
わたしの信念の一つが保証されるためには、わたしの信念の一つが形成され、維持される仕掛けである認識装置に如何なる機能不全もないことが求められる
プランティンガは、認識論的手続きの結果、我々の信念に根拠があり、それが正当化されていることを要求しない
認識論的手続きとは、デカルトが『省察』で最終的に彼の知を確信することになったようなやり方である
コギトや誠実な神の存在を介して

プランティンガにとって、機能不全の不在が知を保証している
たとえ、この考えが「信頼性主義」と呼ばれるものに限定されないとしても、その一部を含んでいる


(つづく)







2020年2月7日金曜日

実在論と反実在論(6)



グッドマンの考えの一つの帰結は、いかなる「自然種」も存在しないことである
我々の分類に依存せずに実際の違いを識別できるものを自然種とすればだが、
この考えは唯名論になる
しかし、名前の下にものを纏めるやり方によって唯名論も多様になる

我々は、あるものがエメラルドであれば、それは必然的に緑だと考える
グッドマンが言っているのは、エメラルドの緑は我々の分類に依存しない現実と何の関係もないということである
何せ、我々のエメラルドが緑であれば、それはグルーなのである

存在論的範疇は存在しないのである
もし必要なら、分類されない、範疇化されない現実を維持することもできる
そこでは概念的システムが物の種類を切り取り、その意味では作り出していることになる

グッドマンは「世界を作っているものー物質、エネルギー、電波、現象ーは世界と同時に作られる」としている
予めそこに在るものなど何もないと言っている
その意味では、すべての種、現実のすべての分類は人工的なのである

最後に帰納について考えたい
もし、種が例外なく人工的で、性質がどこに属するのかは習慣の問題だとする
その時、帰納はものの現実を知る方法にはならないだろう
リチャード・ローティはそのことを「世界は失われる」と言った
反実在論者が勝利を収めるのである






2020年2月6日木曜日

実在論と反実在論(5)



連日のパリ行きであった
空き時間に巡った場所で興味深い宿題ができた
それが解けた時には触れることがあるかもしれない

それではグッドマンの話に戻りたい

グルーやブリーンという目が回るようなお話から何かを学ぶことができるのだろうか
非実在論者のグッドマンは、その意味するところをこう言っている
我々が真の範疇を発見するのを待っている出来合いの世界は存在しない
真理は、言語、イメージ、音など用いる記述システム間の調整、すなわち「修正」より重要ではない
現実は記述システムから独立しておらず、システム自体と同時に作られるのである

この見方には4つの原理が内包されている
1)存在論的多元論: 複数の世界が存在する
2)記述的不完全さ: どんな記述もすべての記述上の必要性を満たしているとは自慢できない
(だから、科学や芸術や哲学などでは記号システムを増やすのである)
3)意味論的(記述手段に関する)反実在論:「世界」とか「現実」という表現は常に記述システムに関連する
4)存在論的反実在論:一つだけの現実世界は存在しない
 =非実在論: 我々は一つの現実世界と対応することを強制されない

グッドマンは、世界を構築することはタダでもなければ容易なことでもないと主張している
我々はケーキや下手な絵を作るように世界を作るわけではないと彼は言っている
頭を過る一つひとつの理論や芸術作品や思想が世界を作るわけではない

世界の作成は妥当性と一貫性という基準に合致するとグッドマンは考えているようである
つまり、矛盾しないということである
そうだとすれば、そんなに多くの世界を作るのかと問うことができるだろう
決して多数の世界を作らなかったかと問うことさえできるのではないのか 
なぜなら、我々は一貫性があると完全に確信できる唯一の妥当な記号システムを持っているからである


(つづく)





2020年2月5日水曜日

実在論と反実在論(4)



今日は用事があり、パリへ
のはずだったが、その場に着くとランデブーは明日だという
キツネにつままれた感じで、元々のメールを読み直すと相手が正しかった
こういうことが稀ではなくなっているが、気持ちの乱れは全くない
ただ、自分の記憶に頼って主張し過ぎると、あとで恥ずかしい思いをしそうである


それではカラスの議論の続きを始めたい

ウィラード・クワインは、周りにあるすべてではなく、カラスという種についての「黒さ」が問題になるとした
そこから「自然の種」という概念が意味を持ってくる
これは実在するものの概念で、我々の精神はそれに従うが、その逆ではない

この概念は実在論を前提としている
カラスのような自然の種は、我々とは独立に存在するものを対象としていなければならない
我々に依存しないものを我々は知ることができることを前提としている
これは反実在論者が認めない点である

ものを特徴付ける時に我々が用いる分類に特別なことはあるのだろうか
実在論者は、それが実際に存在する違いに対応していなければならないと考える
ネルソン・グッドマンは別の分類を用いることができると言う
彼は色の分類を考えた

一つは、我々が普段使っている緑(green; vert)と青(blue; bleu)の分類である
もう一つは、グルー(grue; vleu)とブリーン(bleen; blert)という変わった分類である
1)グルーは、ある時点(t)以前に見た時に緑である、あるいはそれ以前に調べていないが青であるもの
2)ブリーンは、t 以前に調べた時には青である、あるいはそれ以前に調べていないが緑であるもの

t を来年1月1日とする
それ以前に緑だったエメラルドは、緑とも言えるしグルーとも言える
同様に、今年中に見た青い花は、青とも言えるしブリーンとも言える
来年の1月2日に初めてエメラルドと青い花を見た時には、それぞれがブリーンとグルーとなる

t 以前には色を特定できないことになる


(つづく)




2020年2月3日月曜日

実在論と反実在論(3)



今日は、現代哲学者を惹き付ける反実在論のもう一つの形についてのお話である

世界は我々自身あるいは我々の理論によって作られているという考えを擁護した人がいる
ネルソン・グッドマンである
これは客観性を問題にしたのではなく、その再定義に関するものである

我々が記号システムを用いることは、結局は「世界を作る」ことに帰する
グッドマンによれば、言語、芸術、科学理論に含まれる記号システムは作られた現実を十分に記述しない
少なくとも、これらのシステムを機能させる出来合いの企ては前もって存在しない

彼は、客観性は不可能であると主張する反実在論者であるとは名乗っていない
しかし、我々は科学的・芸術的活動により世界を作り、作り変えることを主張する非実在論者だと言っている
それが『世界制作の方法』(Ways of Worldmaking)で擁護した点である
さらに、帰納の謎について書いた中で、反実在論と非実在論を正当化する議論を展開している

対象D、範疇 x1,x2、x3...xn、特性Fがあるとする
帰納による推論は、範疇xnまで特性Fがあるとすると、xn+1もFを持つとする
時にはすべてのxに特性Fがあるとさえ推論する

例えば、50羽の(白)鳥が白いとすると、次の鳥も白いと考える
もし黒い白鳥に出合ったとすれば、びっくりして認識できなくなるかもしれない
帰納による一般化は偶然に過ぎないことになる

カラスのパラドックス」(ヘンペル)という状況がある
A)もしカラスであれば、それは黒い
B)もし黒くなければ、それはカラスではない
この二つは論理的に同等で、Aを認めればBを認めることになり、その逆も真である

ここで問題にされているのは、カラスの黒さである
世界に存在する黒くないもの(例えば、ティッシュ―、雪、セーターなど)を調べてカラスがいないとする
それがカラスは黒いということを確認するというのは奇妙ではないだろうか


(つづく)






2020年2月2日日曜日

遠くを眺めて



昨日で一月が終わった
以前にも書いたが、やはり長い
カフェでも1時間が非常に長く感じられる
これは最近の特徴的な変化と言えるだろう

このひと月、何をやっていたのかを振り返る
当初は3つくらいのプロジェを抱えてやっていたが、最後の方は1つだけになった
2つが終わったからではなく、それは後にして1つに絞ったのである
急ぐよりは、その中に深く入り理解を深めることの方が重要であると考えられるようになってきた

いずれの変化も精神に平静と安定を与えているように見える
さて、その状態で今月はどんな動きをするのだろうか







2020年2月1日土曜日

実在論と反実在論(2)



実在論と反実在論の言葉の定義から始めたい
実在論とは、広い範囲の現実(実在)は我々の概念や理論などから完全に独立して存在しているとする見方
反実在論は、存在する少なくとも大部分は必然性を欠く概念や理論と関連しているとする立場
このような呼び名は最近のもので、分析哲学者によって使われた

それまでは、実在論と観念論の対立があった
観念論は、存在するすべては精神かその変容したものという考え方
観念論者は、精神や観念に依存しない世界は存在しないと考える
反実在論者も、精神(概念や理論など)から独立した世界は存在しないとする
観念論と反実在論との間に差がないように見えるが、あるという

観念論者は、すべての「もの・こと」の本質は心的あるいは霊的だと言う
しかし世界の在り方・本質は、我々の概念や理論には依存しないとする
対する反実在論者は、異なる社会実践から成る知的活動がすべての「もの・こと」の本質を決めるとする
つまり、観念論者にとって現実は存在するが、それは心的あるいは霊的な性質を持っている
しかし反実在論者にとっての現実は、我々が行う記述から独立しては存在しない

ヒラリー・パトナムは、次にように言っている
「世界はどのようなものからできているのか」という問いは、理論や記述の中でしか意味を成さない。世界に関する「正しい」理論や記述は一つ以上あるからだ。
彼は一つの相対主義を採用したことになる
絶対的な視点は存在せず、人間(のグループ)の興味や目的を反映した視点があるだけだと言う

さらにパトナムは言う
対象(もの)は概念的な枠組みから独立しては存在しない。我々がある記述の枠組みを導入する時に世界を切り分けて対象にするのは、我々なのである。
我々の言語で現実を切り取り、そこに含まれる対象を言わば作り出していることになる
この考えが現代の哲学者を最も惹き付け、駆り立て、人文科学にも広がって行った
これは学生にも好評だったようだ

何せ、そのものとしての現実が存在しないのだから、それに対峙する必要がなくなった解放感があったのか
それぞれが自己と自己の価値の創造者であると感じることができたのである
実在論者はしばしば「ナイーブ」だと言われ、反実在論者は真ではないものを発見するのに長けていた
この考えは芸術的創造にも模倣の要求からの解放という影響を与え、別の現実、超現実が提案された

反実在論者は、世界と世界を構成するものは社会的に構成されたものに過ぎないと主張する
これは20世紀後半に「ポストモダン」として流行することになった
現在フランス哲学の一部では、この考えは当たり前のように見える

反実在論者にとっての科学は、我々と独立した現実については記述しないものとなる
基本的に、在るがままの世界ではなく、社会的な要素と結び付いてくる
世界には社会的に構成された事実しかないとし、客観的な真理の要求を拒否するようになったのである


(つづく)