西田幾多郎に次のような述懐がある
自分には何でも「もの・こと」を根底から考え尽くしてみたいという気持ちが若い時からあった
これは哲学のやり方にも通じるが、自分の気持ちは哲学に入る前からあった
哲学に教えられてそのような考え方をするようになったのではないということである
これと似たようなことを感じることが、哲学に入ってからよくあった
あまり深く考えずに科学の中を歩む中で、あるいは漠然と人生を歩む中で何かを感じていた
それは明確な言葉にならないまでも存在を支える根のところに居座ることになる
しかし過去の哲学者の思索の跡を辿る中で、根に居座っているものの姿が浮き上がるという感覚である
それは、「過去人を読むことは自己を知ることである」というわたしのフォルミュールとも通じるところがある
自分が感じ、考えていたことが、そこにあるからである
さらに昔を振り返れば、西田のように、根本に遡って考えなければ意味がないと思っていた節がある
この人生を如何に要領よく無駄なく生きていくには、というような発想をする人たちが理解できなかった
最近の知性にはこのような技術を語る比重が増しているためか、話を聞いても面白みを感じない
ただ、それを面白いとか役に立つと考える人たちが優勢になっていることがその前提にあるのだろう
何かが決定的に欠けているのである
しかも、それに気付いていない、あるいは気付けないのである
現代の大問題である
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