久野高義先生
今夜は神戸大学で教鞭をとられていた久野氏とのディネがあった
科学者の時代からお付き合いはあったが、退職してからはほぼ毎年お会いしているのではないか
今日はお忙しい仕事の合間を縫って、大阪で時間を作っていただいた
感謝したい
まず、近況についての話があった
日本社会の現実にも関わりを持っておられ、こちらの想像を超える世界を目撃されている
雲の上に生活している者には触れたくない世界である
それから、仕事を終えてからの工夫として、定期的に仕事をするようにしているとのこと
丁度、今日はその日に当たったようだ
研究面では、現役の時からアジアとの交流をされていたようだが、今も模索されているとのこと
中国、ネパール、東南アジアなどに実際に出掛けて行くこともお考えのようである
未だ研究への意欲が衰えていないとお見受けした
こちらのプータロー状態とは大きな違いである
ネパールのものだっただろうか
健康についてのアドバイスがあるとのことで、貴重な助言をいただいた
体に悪い第一はタバコ、第二は座ってばかりいることとのこと
これはわたしが日頃からやっていることだが、直ぐに改めることは難しそうである
プラトンが言うように、身体が滅び、精神だけになるのが哲学者だとすれば、無理からぬところだ
ただ、われわれは現代に生きている
フランスに戻って、一考する値はあるのではないか
アジアが中心であった先生は、ヨーロッパの主要国をまだ訪問されていないとのことであった
近い将来、フランスにも足を延ばす機会が巡ってくることを願いたい
2017年6月26日月曜日
2017年6月25日日曜日
今日から関西
今日から関西に移動した
何人かの方とお会いするためである
こういうことが気にならないのは、外から、あるいは上から日本を見ているからではないのだろうか
日本に落ち着いてしまうと横の移動になるので、その間にあるものが邪魔をして難しそうである
いずれにせよ、今日は数年来の友人とのデジュネとなった
若い方との議論はなかなか噛み合わない
それは当然のことなのかもしれない
これから人生を歩み出そうという人と人生をどう纏めるのかを考えている人の間の溝である
これを埋め合わせるのは至難の業で、溝は最後まで残るのだろう
今日は一息して、明日から最後の準備に取り掛かりたい
2017年6月24日土曜日
第1回ベルクソン・カフェの初日が終わる
今日の夕方から、フランス語で哲学のテクストを読む第1回のベルクソン・カフェがあった
当初予想していたのは2-3名の参加であったが、他のカフェと変わらない人が参加された
これは嬉しい誤算であった
参加された皆様には改めて感謝したい
今回はどのようにやればよいのかを決めかねた中でのスタートとなった
結局、テクストをそのまま読むというスタイルで行った
最初は講師からスタートしたが、希望する参加者数名にも読んでいただいた
まさに、大学の講読コースと同じだとの声も聞こえた
ただ、フランス語という外国語を解読するという過程そのものに魅力を感じている方もおられた
中には、テクストの翻訳をプリントされてきた方もいて、これから参考になるものと思われる
来週の土曜に予定されている二日目も基本的には同じスタイルになるものと思われる
ただ、最初に全体の構図や問題点などを説明してから始めるようにしたい
これは今日の反省から生まれた改善点である
次回は今回よりもスムーズに進むように努めたい
読んでみたい部分をお持ちの方は積極的に参加していただければ幸いである
ところで、今日選んだテクストはピエール・アドーの「生き方としての哲学」であった
それまで、歴史家は哲学的言説だけを古代哲学の中に見ていた
しかし、アドーが古代哲学の中にはもう一つの要素があることを見出したのである
私がこの言葉に2006年に触れたことが、哲学への後押しをしたと感じている
その意味ではその根を考え直そうという意図もあった
このエッセイでは、ヘレニズム時代、ローマ時代の哲学の特徴が分析されている
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、懐疑派、ストア派などが出てくる
そこで指摘されているのは、次のようなことである
哲学はそもそも手に入らない知に向おうとする運動で、そこに逆説と偉大さがある
哲学は根源的な回心、根源的な変容を要求する精神(魂)の進歩の一つの方法である
哲学は自律性、内的自由(autarkeia)、自足性を達成するための方法である
それだけではなく、特にストア派とエピクロス派では宇宙的意識が加わった
すなわち、われわれが宇宙の一部を構成しているという意識である
さらに、哲学は人生と一体化した永続性ある行為で、絶えず更新されなければならないと指摘する
ストア派の場合、人間の意志が宇宙的自然の意志、すなわち理性と一致すること
エピクロス派では、快楽、それは結局のところ存在する悦びになるが、それを求めること
人生の有限性の自覚と現在への集中を説く
なぜなら、それだけがわれわれがコントロールし得るものだからである
そして、そこには宇宙の全体が含まれ、関わっているからでもある
ここで問題となるのが、ストア派が提唱した「哲学についての言説」と「哲学そのもの」の違いである
哲学とは、構成要素の理論を語ることではなく、それらを生きなければならないと説く
構成要素とは物理学、倫理学、論理学である
それらを生きるとは、それぞれ、宇宙を瞑想し、正しく行動し、よく話し、よく考えることである
ここでアドーは、哲学についての言説は哲学ではない、と言っている
エピクロス派の「哲学者の言説が魂の病を癒すことがなければ、それは空疎である」を引いている
この点は議論の余地のあるところだろう
後半はどのような展開になるのだろうか?
文章を読んでの感想がある
自然科学者であれば、もう少し無駄や反復が少ない、構成も整った文章を書くのではないだろうか
そうした方が論点をより効果的に伝えることができるのではないかと想像されるからだ
しかし、そうはなっていない
文系の人の頭の使い方が違っていると思わざるを得ない
会は当分の間、試行錯誤が続くものと思われるが、ご理解をいただければ幸いである
今日のテクストにもあった通り、これからも変容を続けて行きたいものである
会のまとめ
2017年6月23日金曜日
成熟過程における 「ゆったり、ぼんやり」 の必要性
日本の近代に関する本を読んでいる時、よく分かるというか、共感するところに出くわす
まさに想定外の出会いであった
まず、19世紀イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジェットという人の分析が紹介されている
前近代と近代を分けているのは、「慣習による支配」か「議論による統治」かであるという
慣習とは身分とか内向きに環境を支えているものだが、必ずしも全否定しているわけではない
対する議論による統治は単なる行動愛が支える、一人が勇ましく決める政治と対極にあるもの
それは熟考による時間をかけた議論による政治だという
その前提になるのが、多くの時間を日の当たる場所に寝そべること、単なる受動性だという
ここに痛く感心した
これは私がこの10年余りの間にやってきた「ゆったり、ぼんやり」そのものだったからである
そしてそれこそが、考える上で最も重要なことだと思うようになってきた
哲学の前提だと考えるからである
それがどんなものなのかを説明しているこんな一節がある
同時代人が夢想者と考えた人々、同時代人の関心を引かないことに注目していたために嘲笑された人々、噂にいう星を見ながら井戸に落ちた人々、無用だと信じられた人々がもたらしたものであるメディアで目立つことが横行する現代において、最も欠けているのがこれではないだろうか
さらに「あとがき」にも興味深い認識が出ていた
それは「青春期の学問」に対する「老年期の学問」の在り方である
若い時の学問は狭い領域で競い合う性格が強い
しかし、老年期においてはより広い視点からの研究が求められるのではないかというのだ
言わば、general theoryを目指すような研究である
これもよく分かる指摘である
ここでも「ゆったり、ぼんやり」が欠かせないのだ
ということで、中間にある本題は後回しとなった
2017年6月22日木曜日
正岡子規、あるいは 「狂」 再び
昨日、今日と非常に集中力が上がっている
いつものことかもしれないが、終りに近くなると生活のペースに慣れてくるようだ
先日手に入れた子規関連の本の中に、次の一節があった
「狂」 繋がりで書き留めておきたい
昔から日本の人のえらくもない癖に 「まじめくさつて」 居るのが最も気にくはず。学者でも狂する位でなければ学問が進歩する気遣ひは無いのに、少しばかり出来ると最う天狗になつていやに 「すます」。今でも同じ事ぢや。済度が出来ん。
今日は明治時代の人物が出てくる新書を数冊仕入れた
こちらにいる間に読んでおかなければ、いつになるのかは分からないのだが、、
2017年6月21日水曜日
最たる生きる楽しみ?
今日は朝から雨に降られている
相変わらずの作業が続いている
ただ、これまでにやって来たいろいろなカフェの内容と絡んでくるところがある
このように、いろいろなところに糸が絡み合ってくるような感覚は何ものにも代え難い
同時に無駄なものは何もないということも見えてくる
何気なく在った過去が現在に繋がってくる時がある
無関係と思われたことが意味を持ってくるという感覚も捨て難い
これは生きる楽しみの最たるものかもしれない
そんなことを思った雨の朝
不思議な乗り物を見た
静かに準備を
今週は落ち着いた週になっている
今回の最後の会になるベルクソン・カフェのための準備を静かに進めている
テクストを読み直すと、まだミスタイプが見つかる
このブログでもそうだが、そこにあるのに見えないのである
こればかりは、何度も見直すしかなさそうである
改めて、テクストを読むということの奥深さと難しさを感じている
目の前にある言葉に潜む意味だけではなく、文章の背後にある歴史を探ると限がなくなるからだ
どこかで止めなければ前には進めない
この状態を逆から見ると、テクストを作ることも至難の業であることが見えてくる
本屋さんに入ると並べられている膨大な数の本
作る側はどこでどうやって止めているのだろうか?
2017年6月18日日曜日
アンジェイ・ワイダ監督 『残像』 を観る
今日も週末気分で、朝の内、少し離れた領域を読む
午後から街に出て久し振りに歩く
体が重く、汗をたっぷりかく
しかし、その後、その昔よく入ったことがある昭和の香りがする食堂でデジュネ
日本ではしっかり食べている
寧ろ、食べ過ぎと言った方が正確か
それから古本屋街を散策
アンジェイ・ワイダ監督の遺作と銘打ってある 『残像』(Powidoki)を観る
この手の映画はこれまで何度も観てきたように思う
国家権力にかかると人間一人の命など吹っ飛んでしまう
それがいかに優れた才能であっても
あるいはそれ故に国家は狙うのか
これは洋の東西を問わない
バディウ氏が言うように、それは哲学的状況である
先日のSHEで取り上げたヘッケルは、政治は応用生物学である、と言った
そういう人の言葉がナチスによって利用され、彼の責任を問う人さえ現れた
例えば、国家を有機体に例えて、生物学の成果を当て嵌めようとする人がいるとする
生命体は一つひとつの細胞よりは全体の命を第一にしている
全体の統一を維持するために、細胞死を誘導することさえある
したがって、と言って、この原理を社会に当て嵌めることは正当だろうか
安易に行われることがあるこのやり方には注意を要することが分かる
社会の中の問題は文化の側が考えなければならないのではないだろうか
そこでは国家権力との距離を文化の側が取ることが求められる
そこから自由である必要があるのだ
今日の映画では、政治と芸術の融合などと言っていた
イデオロギーのない芸術など存在価値がない、というわけである
文化活動が国からお墨付きを得たといって喜んでいるのはどうなのか
本来的には野にあってやるべきことのはずである
帰りは雨に中った
2017年6月17日土曜日
久し振りの週末気分、そこで味わう100歳気分
今回は新しい試みを2つ始めたので、体力と知力が耐えられるのかも注目点であった
昨日で新しい試み一つとこれまでやっていた会を終えることができた
残るはこれまでとは毛色の違うフランス語のテクストを読んで考えるベルクソン・カフェだけになった
このような経験がないので、どのようなことになるのか全く想像もできない
いつも願っていることは帰国前に準備を済ませておきたいというものだが、実現した例しがない
それは長い間に習い性になった最後の最後まで考え続けようという気持ちの表れなのだろう
最後まで形を作ることを拒否しているようなのだ
そう思うしか、この苦しみに耐える道はなさそうである
今日は久し振りにゆったりした週末にすることにした
日本に着いてから知った映画でも観ようという趣向である
いずれ訪れると言われている人生100年時代
自分に関係あるのかないのかは別にして、その姿を見ておこうという気持ちもあった
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』
前回か前々回の帰国時に、やはり100歳を越えた芸術家のドキュメンタリーを観たことを思い出す
調べると篠田桃江さんであった
映像まであったので観直すことにした
笹本恒子さんには最後まで女性が残っている
しかし、篠田さんの内には男性が住んでいるかのような存在感を感じさせる
映像の中に、雲を眺めて雲の様子を語っているところがあった
やはり雲を眺めて暮らしているわたしには、彼女の言っている意味が手に取るように分かった
それから、自分の人生は地に足がつかない非現実の世界であったというのもよく分かった
これらのことが理解できるというもフランス生活のお陰と言ってよいだろう
いずれにせよ、われわれが若い時には想像もできなかったような世界が展開している
どう対処するのか、それぞれが答えを求められているようである
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lundi 19 juin 2017
むの氏が「自分を土台から作り直す」つもりで戦後を歩んできたと言っていたのを思い出す
それほど激烈ではないにしても、わたしのフランスも同様の含みを持っていたことが見えてくる
"le remaniement" とでも言うべき、頭の中の作り替えである
その過程は未だ進行中であるのは言うまでもない
2017年6月16日金曜日
第11回サイファイ・カフェ SHE、無事終わる
今日は11回目になるサイファイ・カフェSHEがあった
今回は芸術と科学の融合を目指したエルンスト・ヘッケルという19世紀ドイツの科学者を選んだ
ダーウィン生誕200年、『種の起源』出版150年、ラマルクの『動物哲学』出版200年だった2009年
二つの会に参加した
一つはイスラエル(テルアビブとイェルサレム)で開かれたラマルクについての会議
もう一つは、英国ケンブリッジで開かれたDarwin 2009である
両方の会議で話をされていた方が2010年カナダであった「環境と歴史」会議でも発表された
その中に、人生を悲劇的に捉えていたという芸術家が科学者になったような人物が登場した
それがヘッケルだったのである
そして、この人物を紹介していたのがシカゴ大学の歴史家ロバート・リチャーズ博士であった
すでにヘッケルについての本 The Tragic Sense of Life (2008)を出されていることを知った
今回はそのヘッケルを取り上げ、複雑な人生と科学を考えることにした
そのことにより、科学のあり方について示唆が得られそうな気がしたからである
いくつかのポイントについて振り返った
まず、科学と芸術の関係である
絵画の才に長けた科学者だった彼は芸術と科学の融合を目指していた
ロマン主義が根強く残るドイツで、ゲーテやフンボルトのような科学者の影響を受けていた
それは論理や理性一辺倒の科学ではなく、主観や芸術などが絡んでくる世界であった
しかし、19世紀後半は科学が他の世界を切り捨て、科学主義的傾向を見せ始める時期でもあった
この両者の軋轢が彼の科学者人生にも影響を及ぼすことになった
それから彼はドイツにおけるダーウィン進化論の強力な喧伝役になる
「ダーウィンの犬」と呼ばれたイギリスのトマス・ハクスリーと並び称された
なぜ彼はそこまで進化論にのめり込んで行ったのか?
そこには彼が若くして経験した悲劇があったとリチャーズ博士は見ている
それが結婚2年にも満たない若妻の死であった
それ以降、この世界の見方が大きく変容することになったというのである
その他にも、彼が始めたエコロジーという学問はどのような思想から生まれたのか?
彼の人生には科学における不正行為の批判が付き纏ったが、実態はどうだったのか?
「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説の評価はどうなのか?
などの点も問題として取り上げた
また、ナチスに利用されることになった彼の思想はどのようなものだったのか?
人生後半に打ち込むことになる一元論運動の実態などについては詳しく見る時間がなかった
今回も議論が途切れることなく、広がっていたように感じた
そして、その議論は懇親会においても続いていたようである
お忙しい中、参加された皆様に改めて感謝いたします
会のまとめ
2017年6月14日水曜日
子規庵と書道博物館を訪ねる
昨日は小雨降る中、鶯谷まで足を延ばした
友人に勧められた子規庵と書道博物館を訪れるためである
この辺りは、恰も家の中を歩いているようなこじんまりした居心地の良さがある
子規庵は何ということはない日本の昔の家屋で、記憶を刺激するものがあった
第二次大戦で焼失した後に復元されたものとのこと
八畳の居間と子規終焉の間にゆったりと座りながら、雨に濡れる庭を眺める
時に映像に現われる子規の句を追う
久し振りに自分の中の根のところにあるものとしっくりと合う時空間に身を置くことができた
雨がその感覚を補強していたようにも感じた
それは平穏な気持ちに導いてくれるもので、至福の時間であった
訪れる僅かな人もそれぞれ静かにものを想っているようであった
左は八畳の居間、右が終焉の間、糸瓜の棚が見える
雨の庭に出て、暫くその中にいた
子規について少し読んでみたい気になり、ショップで金太郎飴と共に何冊か手に入れた
子規の絶句三句が碑になっていた
糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず
おとといの へちまの水も 取らざりき
書道博物館は子規庵の向かいにあった
画家で書家の中村不折が集めた書道史における重要資料を展示している
石に刻まれた文字と静かに向き合う
小さな四角の空間に線を入れて区切っていく漢字
しかも同じ文字でも多様な区切り方がある
絵画にも通じる小宇宙がその四角の中で展開されている
途方もない世界である
画家の後、その世界に入って行った不折
書を見るという経験が少ないのでその書体が新鮮に映った
不折による漢詩をフランスでゆっくり味わうことにした
小さな庭だったが、雄大な自然の中にいるようにも感じた
雨に降られながらの一日
夜は半世紀ほど前からの友人とのディネ
イタリア語に凝っているようで、イタリア山中での語学留学から帰国したばかりとのこと
動けるうちに、という気持ちもおありのようだが、お元気そうで何よりであった
例のプラトンの哲学者=死者の話をすると、もう仙人ですね、との感想
そんな感覚は全くないのだが、、
実はお隣に話し方はゆっくりだが、次から次に注文するお年寄りの女性がいるので気になっていた
本当にお肉でよろしいのですか?まだお食べになるのですか?などという料理長の声が聞えた
後から知らせていただいたのだが、御年90の女優野村昭子さんとのこと
私の目にはそのようには見えなかったのだが、、
いずれにせよ、あのくらいの健啖家でなければ長生きできないのか
2017年6月13日火曜日
学友との語らい、再び
池田、深津の両氏
昨夜は学生時代の友人との会食となった
5年程前から帰国の度にセットアップしていただくようになっている
どうしてそうなったのか、はっきりとは思い出さない
が、おそらく深津氏が私の教育講演を聴きに来てくれたことが切っ掛けではないかと思う
いずれにせよ、それ以来、興味深いお話を伺う機会となっている
昨日の話題で目立ったのは、体のことであった
わたし自身は殆ど取り上げることがないテーマになる
今回のカフェフィロPAWLの記事でも触れたように、哲学者の体は消えるからである
プラトンの言うところがよく分かるようになった者にとっては、精神だけが注目に値するからだろう
その他にもいろいろな重要な問題が出ていた
まず、現在の惨憺たる政治状況だろう
私の「意識の三層構造」説がお二人には浸透しているようで、議論の中によく出ていた
例えば、第三層が全く欠けた人たちが政治をやっている
さらに言えば、一・二層だって怪しい
しかし、それは選ぶ側も同じ状態なのでその欠落が見えずに選んでいる反映ではないのか
といった具合である
また、日本における思想や哲学の力、思考する力が弱くなっているのではないか
ヨーロッパに見られる第三層を重視しようとする歴史の重みのようなものがないのではないか
というような観察も出されていた
それに関連して、日本あるいは日本人の自らを対象として考え、分析する力の弱さを指摘した
このオートクリティークの力を育てるためには、自らの第三層を開拓するしかない
しかし、その認識がなさそうに見える
それが対象をしっかりと捉えてその本質に迫るということの欠落の原因にもなっている
この前段がなければ、クリティークにまで至らないだろう
このような現象を捉え、議論をする時にも三層構造理論は有効ではないかと言っていただいた
科学的な実証は難しいのだろうが、主観的にはよく分かる、という感じだろうか
お二方ともまだ仕事をされているとのこと
プータロー状態10年になろうかという者から見ると、ただただ頭が下がる思いである
「我ら一・二層族」と冗談を飛ばしておられたが、お元気で更なる活躍を願いたいものである
次回の帰国時にもこのような機会を作っていただけるとのことであった
その時はどのような話が展開するのだろうか?
今から楽しみである
昨夜は学生時代の友人との会食となった
5年程前から帰国の度にセットアップしていただくようになっている
どうしてそうなったのか、はっきりとは思い出さない
が、おそらく深津氏が私の教育講演を聴きに来てくれたことが切っ掛けではないかと思う
いずれにせよ、それ以来、興味深いお話を伺う機会となっている
昨日の話題で目立ったのは、体のことであった
わたし自身は殆ど取り上げることがないテーマになる
今回のカフェフィロPAWLの記事でも触れたように、哲学者の体は消えるからである
プラトンの言うところがよく分かるようになった者にとっては、精神だけが注目に値するからだろう
その他にもいろいろな重要な問題が出ていた
まず、現在の惨憺たる政治状況だろう
私の「意識の三層構造」説がお二人には浸透しているようで、議論の中によく出ていた
例えば、第三層が全く欠けた人たちが政治をやっている
さらに言えば、一・二層だって怪しい
しかし、それは選ぶ側も同じ状態なのでその欠落が見えずに選んでいる反映ではないのか
といった具合である
また、日本における思想や哲学の力、思考する力が弱くなっているのではないか
ヨーロッパに見られる第三層を重視しようとする歴史の重みのようなものがないのではないか
というような観察も出されていた
それに関連して、日本あるいは日本人の自らを対象として考え、分析する力の弱さを指摘した
このオートクリティークの力を育てるためには、自らの第三層を開拓するしかない
しかし、その認識がなさそうに見える
それが対象をしっかりと捉えてその本質に迫るということの欠落の原因にもなっている
この前段がなければ、クリティークにまで至らないだろう
このような現象を捉え、議論をする時にも三層構造理論は有効ではないかと言っていただいた
科学的な実証は難しいのだろうが、主観的にはよく分かる、という感じだろうか
お二方ともまだ仕事をされているとのこと
プータロー状態10年になろうかという者から見ると、ただただ頭が下がる思いである
「我ら一・二層族」と冗談を飛ばしておられたが、お元気で更なる活躍を願いたいものである
次回の帰国時にもこのような機会を作っていただけるとのことであった
その時はどのような話が展開するのだろうか?
今から楽しみである
2017年6月12日月曜日
作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び
雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイを紹介いたします
第45回 作るのではなく、生まれいずるのを待つ、そしてネガティブ・ケイパビリティ再び
医学のあゆみ (2016.6.11) 257 (11): 1187-1191, 2016
お暇の折にでもお読みいただければ幸いです
よろしくお願いいたします
2017年6月11日日曜日
研究者時代の諸先生と語り合う
田村真理、菊池九二三、小林孝安の諸先生
一仕事終えた感じの翌日、もう一仕事するために仙台に来た
昔、同じ研究領域にいたお三方と旧交を温めようという魂胆である
田村、小林先生とは昨年も顔を合わせたが、菊池先生とは本当に久しぶりになる
先生は退職後は晴耕雨読の生活を送られているとのこと
私には答えることが叶わなかった哲学に関する質問も含め、存分に語っていただいた
ポイントだと思ったのは、今の日本人は忙しすぎる、という指摘であった
それは十分な思索がされていないということと同義になるだろう
忙しい中から豊かで深いものは生まれてこない
意識の第一層にしか止まれないからだ
静かな時間の中で生活されているからこそ見えてきた観察になるのだろう
そう想像することができるようになっている
それから、拙エッセイについてのコメントがあった
一つは、全体が音楽のように感じられるというもので、驚いた
さらに、読後に気持ちが平穏、平静になるという言葉があり、これにも驚いた
エピクロスやアリストテレスなどに言わせれば、それは人を幸福な状態に導いていることになる
そんな効果があるとすれば、まさに魂のお薬のようなものになるのではないか
信じられないことである
フランスでの「ゆったり、ぼんやり」の生活がどこかに反映されているのだろうか
私は内側からしか見ることができないので、外からどのように見えるのかは全く分からない
その意味では、貴重なお言葉であった
皆様お元気そうで何よりであった
改めて機会を作り、お会いしたいものである
明日、東京に戻る
一仕事終えた感じの翌日、もう一仕事するために仙台に来た
昔、同じ研究領域にいたお三方と旧交を温めようという魂胆である
田村、小林先生とは昨年も顔を合わせたが、菊池先生とは本当に久しぶりになる
先生は退職後は晴耕雨読の生活を送られているとのこと
私には答えることが叶わなかった哲学に関する質問も含め、存分に語っていただいた
ポイントだと思ったのは、今の日本人は忙しすぎる、という指摘であった
それは十分な思索がされていないということと同義になるだろう
忙しい中から豊かで深いものは生まれてこない
意識の第一層にしか止まれないからだ
静かな時間の中で生活されているからこそ見えてきた観察になるのだろう
そう想像することができるようになっている
それから、拙エッセイについてのコメントがあった
一つは、全体が音楽のように感じられるというもので、驚いた
さらに、読後に気持ちが平穏、平静になるという言葉があり、これにも驚いた
エピクロスやアリストテレスなどに言わせれば、それは人を幸福な状態に導いていることになる
そんな効果があるとすれば、まさに魂のお薬のようなものになるのではないか
信じられないことである
フランスでの「ゆったり、ぼんやり」の生活がどこかに反映されているのだろうか
私は内側からしか見ることができないので、外からどのように見えるのかは全く分からない
その意味では、貴重なお言葉であった
皆様お元気そうで何よりであった
改めて機会を作り、お会いしたいものである
明日、東京に戻る
2017年6月10日土曜日
第1回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる
今日の午後、日仏会館で第1回サイファイ・フォーラムFPSS(フィプシー)の会合を開いた
この会は科学者の側から科学を哲学し、科学を文化にしようとするものである
今回はこのフォーラムをどのように進めていくのかについて議論することが目的であった
実際には科学者の他に哲学者やサイエンスコミュニケーションの専門家などが参加された
東京、関東だけではなく、北海道、東北、関西からの参加があり、感謝の念に堪えない
会は自己紹介の後、呼び掛け人がこの会の趣旨について説明、それから自由討議に入った
趣旨はこちらにその大枠が掲げられているので参照願いたい
議論の詳細は近いうちに専用サイトに掲載予定だが、次の大きなテーマが確認された
まず、自然を探究する場合、科学に依存するアプローチが独占しているように見える
この点について、哲学・美学的アプローチも正当なものとして認めることを確認した
前者を「プロメテウス的態度」、後者を「オルフェウス的態度」と言う人もいる
これらの一方だけに依存するのではなく、二つの態度を同程度に尊重するということである
その上で、科学の存在意義、本質をどのように捉えるのか?
そこから、科学の進むべき道をどのように考えるのか?
それが現在行われている科学の姿とどれだけ乖離しているのか?
そして、これらの問いを基に新たな哲学を生み出すことはできないか?
その可能性を探索することである
この世界に存在する「もの・こと」は人間の幸福に資さなければならず、科学も例外ではない
人間が生きる意味の中に、幸福の追求が挙げられる
したがって、科学が目指すべき道として、人間の幸福に寄与することが挙げられる
しかし、その対象は人間を超えたすべての生物にまで広げる必要があるとの指摘があった
さらに言えば、すべての生物を取り巻く環境も含めた安寧・調和を忘れてはならないだろう
最終的な枠組みとして、このような見方を持っておくことの重要性が確認された
具体的には、当分の間、賛同者の方が各人の活動の中で感じていることを発表することにした
上のポイントを意識しながら、それぞれの発表について議論することになるだろう
また、欠席された方から有用なサジェスチョンをいただいた
それは、リアルな会に参加できない方々のためにバーチャルな場を作ってはどうかというものだ
例えば、Facebookなどに議論できる場を設け、常時意見交換ができるようにすること
これがリアルな会と相補的に機能するようになると、活動がより効果的になると想定される
次回は10月の土曜日(14日、21日、28日のどれか)の開催を予定している
詳細が決まるまでには時間がかかりそうだが、はっきりし次第公表したい
今後の活動にご理解、ご協力いただければ幸いである
会のまとめ
dimanche 11 juin 2017
一夜明け、一つの重要なことに気付いた
昨日の会で、同じ研究所にいても言葉を交わしたことがなかった、との言葉をいただいた
その状態がよい訳ではないが、研究をしていると、このようなことは稀ではない
専門家とは専門の中に閉じ籠り、その外での議論にあまり意味を見出さないことが多いからだ
しかし、10年以上の時を経て、言葉を交わすことになる
それは、専門を超えた知である哲学を介してであったのだ
つまり、哲学には人間を結びつける重要な機能があることが見えてくる
これが有用な機能でなくで何であろうか
ただ、それを可能にするためには、哲学あるいは哲学者が変容する必要があることも見えてくる
現在の大学における哲学は、ある分野の専門家になることを人に強要している
しかし、それは科学者のような一般の専門家を作ることと何ら変わりがないのではないか
そうではなく、哲学者はその状態から抜け出さなければならないだろう
哲学が本来持っている専門を超えた側面を身に付け、それを生きる必要があるのではないか
これは専門性を排除するものでないことは言うまでもない
それが成されなければ、上で挙げた重要な機能も果たせないことになるだろう
「人を結び付ける存在としての哲学者」の待望である
科学の問題が明らかになると同時に、哲学の課題も見えたように感じた朝である
第5回カフェフィロPAWL、無事終わる
今夜は第5回になるカフェフィロPAWLを開催した
今回の準備も最後まで形が決まらない苦しいものになった
参加された方は2回以上の方が殆どで、哲学との関係を模索されている方が新たに加わった
「哲学 X フランス」の検索から辿り着いたとのこと
模索の先に光が見えることを願いたい
今日はこれまでになく、どこかゆったりとした空気の中、自在に話題は広がったのではないだろうか
お陰様で、準備の苦しさが次第に和らいでいくように感じられた
ただ、参加された方の受け止めは分からない
今回のテーマも個人的な興味から選んだ「ソクラテスの死」とした
半世紀以上前に読んだ本を取り出し、記憶にある像とのギャップを味わうといういつもの試みだ
そこに大きなズレを感じれば感じるほど、頭の中を吹き抜ける涼風の心地よさが増す
西欧文化の根にあると言っても過言ではない紀元前399年に至る出来事を自分なりに振り返った
その過程でソクラテスあるいはプラトンが実践した哲学という営みの原型が現れてくるようであった
それは現代では忘れ去られているように見えるものだが、わたしには非常に身近に感じられた
ソクラテスが街に出て問いかけたテーマは、すべて本質的な問題であった
そういうことができたのは、魂の空間が広く深かったからではないだろうか
日常に溺れていると魂の空間を開拓できず、細かな問題にしか目が行かないからだ
さらに、死をどのように捉えるのかという永遠のテーマに一つの解が出されているようでもあった
永遠の魂と滅び去る肉体との二元論を説くプラトン描く哲学者ソクラテスの生と死
ソクラテスにとって、肉体は真理に導く魂の活動を妨げるもの以外の何物でもなかった
哲学者の仕事は魂から肉体を排除することだ、とまで言っている
換言すれば、哲学者の最後は死者同然になることなのである
その状態は、永遠の魂と共に真理の世界を彷徨う喜びを感じることになる
そういう人間がそもそも死を恐れるだろうか
唯物論者にかかれば、あり得ない世界になるだろう
ここ10年ほどの生活を振り返れば、体を削ぎ落すようなものになっていたことが見えてくる
そこから見ると、哲学の祖と言われる人物の見方には違和感を覚えなくなっている
その意味で、『パイドン』は実に興味深い読みとなった
参加された皆様に改めて感謝したい
会のまとめ
2017年6月7日水曜日
体の手入れと魂の手入れ、そして恐るべき記憶の力
今回の滞在中、テレビを観ることが多かった
フランスではゼロなので、無限に多いのだが、、
そこで気付いたのは、特にBSでは体の健康に関するものがかなりの割合を占めていることだった
異常な割合になるのではないか
その一方で、魂の健康に関するものはほぼ皆無
そこに意識が行っていないということなのか
単にそれは商売にならないということなのか
魂の手入れに目が行っていないためか、普通の番組からも頼りないものしか伝わってこない
大切な問題を真剣に扱うところが見られないのだ
それが日常から排除されている印象が強い
そんなに浮かれていてよいのか、という感想が湧いてくる
あるいは、テレビとはそういうものなのか
中に音楽のCDの宣伝があった
それを聴いていると、殆ど全てを覚えていることに驚く
この他にもいろいろなジャンルの音楽が記憶に蓄えられているはずである
その総量を考えると、改めて人間の記憶の凄さを感じないわけにはいかない
そこにあるのだが、普段はそのことに気付かない
そういう記憶を折に触れて引き出すことが、魂の手入れにとって良いのかもしれない
「過去を現在に引き戻す」のである
2017年6月6日火曜日
一日を二度生きる
意識だけではなく、体の反応としても3週目でやっと元に戻りつつあるようだ
それにしても長くかかったものである
この間、一日の中に散らばる睡眠を取っていた
目覚めた時が朝で、頭の中はすっきりし、それまでのどんよりとした意識とは変わっている
やる気も出てくる
これは一つの発見かも知れない
眠気を催したり、やる気がなくなった時には、一寝入りすればよいのである
そうすると新たな一日が始まる
新鮮な気持ちで歩み出すことができる
若き日のアリストテレスのように眠気を押してまでやるのは、駄馬にとっては非生産的だろう
いずれにせよ、こうすると無理をしないで一日を二度とは言わず、三度でも生きることができる
本当にそうなのか、フランスに戻ってから試してみたいものである
2017年6月4日日曜日
一つの偶然は必然で、それは奇跡である
昨日、今回最初のカフェがあった
いろいろな方が、いろいろの場所から参加された
それは全くの偶然で、ある時間と空間を共有する
その人たちでなければ創り出せなかった時間と空間が、そこに現われる
いつものように、振り返ってみるとそれは必然としか思えない
それしかあり得なかったと見えるからだ
ある出来事に出会った時、それを振り返ることが大切だ
その出来事の本当の意味は一瞬では理解できないからだ
何度も振り返ることにより、新たな意味が現れるからだ
その意味を手繰っていくと、このような出来事に出会うことが一つの奇跡に見えてくる
さらに、考えてみたい
われわれが生きているということは、日々が新しい出来事との出会いである
それを振り返ることにより、その出来事に意味が与えられ、奇跡になるのだ
こうして生きていることこそが奇跡であることが見えてくる
2017年6月3日土曜日
第3回サイファイ・カフェSHE札幌、無事に終わる
今日は小雨降る中、またお忙しいところ、会場の札幌カフェにお集まりいただいた
中には関東から参加された方もおられ、感謝したい
また、カフェの社長さんも参加され、積極的に議論をリードしていただいたのは有難かった
ビル内に掲示されていたポスターを見て参加されたとのことで恐縮している
この時間が皆様にとって無駄ではなかったことを願うばかりである
今回は、治癒するとは何を言うのかがテーマであった
その前段として、病気、病理、正常、異常、健康などについて、歴史的に振り返った
医療現場の経験が豊富な方もおられ、かなり具体的な問題も提起されていた
現場の話と理論的な話がうまく絡んでくると、さらによく見えてくることがあるのではないだろうか
単に医学の領域だけではなく、日本社会のいろいろな領域の問題も俎上に上がっていた
個別の問題を全体に繋げることが哲学だとすれば、意義深い議論になったと言えるだろう
次回は10月6日(金)18h30~、同じ場所での開催を予定している
テーマは未定だが、今日のような議論が展開することを期待したい
最後に、改めて参加された皆様にお礼を申し上げたい
会のまとめ
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