2020年2月15日土曜日

第6回ベルクソン・カフェのご案内



第6回ベルクソン・カフェを以下の要領で開催いたします

サイト  ポスター

日時: ① 2020年6月4日(木)18:00~20:30     

② 2020年6月11日(木)18:00~20:30

(1回だけの参加でも問題ありません) 

テクスト: Louis Althusser « Que disent les « non-philosophes » ?
ルイ・アルチュセール:『哲学者でない人』は何を語るのか

Initiation à la philosophie pour les non-philosophes(PUF, 2014)
『哲学者でない人のための哲学入門』の第1章

参加予定者にはテクストをあらかじめお送りいたします

議論は日本語で行います
このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております



会場:恵比寿カルフール B会議室 

 東京都渋谷区恵比寿4丁目4―6―1
 恵比寿MFビル地下1F









2020年2月14日金曜日

実在論の擁護(2)



しばらく時間が空いたが、反実在論に対する実在論についてに戻ってみたい

「信頼性主義」における信念の証明は、我々の認識能が正しく機能しているという事実によっている
しかし、その事実に主体は近づくことができない
この概念のあるものは、「外在主義」(エクスターナリズム)とも呼ばれる
認識の価値や信頼性を決めるために我々の信念の証明をするが、それは世界という外的なものである
従って、この証明は我々の能力にはよっていない

これに対する「内在主義」(インターナリズム)は、次のように主張する
我々の精神の検討により、我々の信念の認識論的価値を制御できなければならない
そこでは、無謬性が要求されているように見える
デカルトなどに見られるように、我々の知は反証不能で疑う余地のない考えに基づかなければならない
つまり、「知るということは、決して間違わないということ」になる

信頼性主義と外在主義は、可謬主義に甘んじるのである
我々の認知装置が正常に機能していないとすれば、私の信念は保証されず、間違っているかもしれない

正しい信念(偶然)と知識の違いは何なのか
知識は偶然の問題にもなり得るかもしれない
しかし、真理の発見において、知るということは偶然を排除することではないのか

信頼性主義に対するもう一つの異議申し立てのやり方として、次のような状況を想像するとよいだろう
それは、認識能が正常に機能しているが、それにも拘らず間違った信念を持っている人間である
懐疑的仮説の一つである

我々が描く世界とそれとは独立に存在する現実とが忠実に対応していることを保証するものは何もない
しかし、正常な機能という概念に目的論(認識論的な)を加えることはできないだろうか
我々の認識能は現実を知るために出来ていると想像してみよう
デカルトやスピノザ以来の哲学者は目的論に対する警戒を最後まで怠らなかったので、この仮説は大胆である

目的論とは、物や特に人間が今在るように在るための目的、すなわち目的因を持つという考え方である
ただ、この仮説自体は創造主の存在を前提としてはいないことに注意が必要である
進化が、現実を知る能力によって生き残る種の出現に有利に働いたことが考えられる


(つづく)






2020年2月13日木曜日

野村克也さんと穐吉敏子さん




野村監督が亡くなったというニュースを見たので、Youtubeに行ってみた

その中で語られていた言葉が、このブログでも取り上げたことがある穐吉敏子さんの言葉と重なった

Be kind to yourself(2016年4月2日)

野村監督の方は、自分の中に何があるのか分からないんだから、とことんやってみるしかない 

勝手に自分で自分を決めつけないこと

そんなような言葉だったと思う(確かめようと思ったが、見つからなかった)

そこには真理が宿っているように見える






2020年2月12日水曜日

しのぎやすい冬




朝、明るくなるのが少しずつ早くなり、春が近づいていることを実感する今日この頃

この冬だが、寒くて嫌になるということは殆どなかったのではないだろうか

結論として、当地の冬は過ごしやすいと言えそうである


今日も午後から外に出た

昨日と同様、よく集中できたようだ

最近、この頭の中を動き回る運動が満ち足りた濃厚な時を齎してくれるように感じている

帰りに新しくなったカフェを街中で発見

明日以降、トライしてみたい






2020年2月11日火曜日

変化ではなく変容を



昨日は風が強い夜であった
あまり経験したことがない
今日は朝のうち晴れていたので、日の光をたっぷり味わう
至福の時間である

午後から外に出ることにした
久し振りのカフェでそれなりの集中ができた
その充実感からか、帰りのトラムを待っている時、次のような考えが巡っていた


今日一日を歩むことにより、新しい明日が拓ける
時の流れを外から規則正しく刻むように一日一日を送るのではない
一日の中に入り込むことにより、想像していなかったような次の一日が現れる

いずれにせよ、一日一日は異なっているので、毎日、変化はしている
この場合、内的変化は殆ど見られない
言わば、同じレベルにおける移動である

ここで、内的変化を伴う異なる次元への移行を変容と呼ぶことにする
これは、毎日が特別な日であると思いながら過ごすことから齎される
一つの変容が次の新しさを生み出すのである

これを可能にするのは、注意深い観察である
これなくして、変化も変容もあり得ない
精神的活動が肉体にエネルギーを注入するとも言えるだろうか





2020年2月9日日曜日

カーク・ダグラスさんのフランス語






カーク・ダグラスさんが2月5日に103歳で亡くなっていたことを知る

その昔、観た映画を思い出す

「スパルタカス」、「ガン・ファイター」、「テレマークの要塞」、「パリは燃えているか」、「大脱獄」・・・

二度目の奥さんのアン・バイデンスさんがベルギーとアメリカの国籍を持つフランコフォンとのこと

フランス語でのインタビューが見つかったので聴いてみた


また、100歳の時の映像も見つかったので以下に












2020年2月8日土曜日

ヴォルテールとルソー、あるいは21世紀を考えるための二つの極




雑誌「医学のあゆみ」に連載中のエッセイ第88回のご紹介です
ヴォルテールとルソー、あるいは21世紀を考えるための二つの極
医学のあゆみ(2020.2.8)272 (6): 563-566, 2020


現在の世界に現れている問題とこれからの世界を考える上で重要になること
それは、科学と技術が我々の思考と行動に与える影響を捉え直すことだと考えるようになってきた
そのヒントになる対極にある考え方が18世紀に提出されている
「これからの哲学」を考える第一歩として、その辺りを振り返る内容になっている
先日案内を出したSHE札幌のテーマもこの流れにある


興味をお持ちの方にはご一読いただければ幸いです





実在論の擁護(1)



乗り掛かった舟なので、もう少し続きを読んでみたい


前回、反実在論の勝利と言ったが、現代哲学者の間で反実在論に同意する人は少ない
今日の認識論の無視できない部分を特徴付けているのは、実在論的概念の回帰である
実在論者は、認識論と存在論との間に密接な関係があると考えている

確かに、我々のすべての概念は現実と一対一の対応をしていない
しかし現実のすべての面が、どの概念や理論を我々が選ぶのかに係っているわけではない
適切な選択が行われると、我々に依存しない現実を知ることが可能になる

我々の最上の知が現実を現実として捉えることを可能にしている共通の考えを再確認するための戦略は様々だ
ここでは現代の主要な哲学者アルヴィン・プランティンガの戦略を検討したい
彼はこう言っている
わたしの信念の一つが保証されるためには、わたしの信念の一つが形成され、維持される仕掛けである認識装置に如何なる機能不全もないことが求められる
プランティンガは、認識論的手続きの結果、我々の信念に根拠があり、それが正当化されていることを要求しない
認識論的手続きとは、デカルトが『省察』で最終的に彼の知を確信することになったようなやり方である
コギトや誠実な神の存在を介して

プランティンガにとって、機能不全の不在が知を保証している
たとえ、この考えが「信頼性主義」と呼ばれるものに限定されないとしても、その一部を含んでいる


(つづく)







2020年2月7日金曜日

実在論と反実在論(6)



グッドマンの考えの一つの帰結は、いかなる「自然種」も存在しないことである
我々の分類に依存せずに実際の違いを識別できるものを自然種とすればだが、
この考えは唯名論になる
しかし、名前の下にものを纏めるやり方によって唯名論も多様になる

我々は、あるものがエメラルドであれば、それは必然的に緑だと考える
グッドマンが言っているのは、エメラルドの緑は我々の分類に依存しない現実と何の関係もないということである
何せ、我々のエメラルドが緑であれば、それはグルーなのである

存在論的範疇は存在しないのである
もし必要なら、分類されない、範疇化されない現実を維持することもできる
そこでは概念的システムが物の種類を切り取り、その意味では作り出していることになる

グッドマンは「世界を作っているものー物質、エネルギー、電波、現象ーは世界と同時に作られる」としている
予めそこに在るものなど何もないと言っている
その意味では、すべての種、現実のすべての分類は人工的なのである

最後に帰納について考えたい
もし、種が例外なく人工的で、性質がどこに属するのかは習慣の問題だとする
その時、帰納はものの現実を知る方法にはならないだろう
リチャード・ローティはそのことを「世界は失われる」と言った
反実在論者が勝利を収めるのである






2020年2月6日木曜日

実在論と反実在論(5)



連日のパリ行きであった
空き時間に巡った場所で興味深い宿題ができた
それが解けた時には触れることがあるかもしれない

それではグッドマンの話に戻りたい

グルーやブリーンという目が回るようなお話から何かを学ぶことができるのだろうか
非実在論者のグッドマンは、その意味するところをこう言っている
我々が真の範疇を発見するのを待っている出来合いの世界は存在しない
真理は、言語、イメージ、音など用いる記述システム間の調整、すなわち「修正」より重要ではない
現実は記述システムから独立しておらず、システム自体と同時に作られるのである

この見方には4つの原理が内包されている
1)存在論的多元論: 複数の世界が存在する
2)記述的不完全さ: どんな記述もすべての記述上の必要性を満たしているとは自慢できない
(だから、科学や芸術や哲学などでは記号システムを増やすのである)
3)意味論的(記述手段に関する)反実在論:「世界」とか「現実」という表現は常に記述システムに関連する
4)存在論的反実在論:一つだけの現実世界は存在しない
 =非実在論: 我々は一つの現実世界と対応することを強制されない

グッドマンは、世界を構築することはタダでもなければ容易なことでもないと主張している
我々はケーキや下手な絵を作るように世界を作るわけではないと彼は言っている
頭を過る一つひとつの理論や芸術作品や思想が世界を作るわけではない

世界の作成は妥当性と一貫性という基準に合致するとグッドマンは考えているようである
つまり、矛盾しないということである
そうだとすれば、そんなに多くの世界を作るのかと問うことができるだろう
決して多数の世界を作らなかったかと問うことさえできるのではないのか 
なぜなら、我々は一貫性があると完全に確信できる唯一の妥当な記号システムを持っているからである


(つづく)





2020年2月5日水曜日

実在論と反実在論(4)



今日は用事があり、パリへ
のはずだったが、その場に着くとランデブーは明日だという
キツネにつままれた感じで、元々のメールを読み直すと相手が正しかった
こういうことが稀ではなくなっているが、気持ちの乱れは全くない
ただ、自分の記憶に頼って主張し過ぎると、あとで恥ずかしい思いをしそうである


それではカラスの議論の続きを始めたい

ウィラード・クワインは、周りにあるすべてではなく、カラスという種についての「黒さ」が問題になるとした
そこから「自然の種」という概念が意味を持ってくる
これは実在するものの概念で、我々の精神はそれに従うが、その逆ではない

この概念は実在論を前提としている
カラスのような自然の種は、我々とは独立に存在するものを対象としていなければならない
我々に依存しないものを我々は知ることができることを前提としている
これは反実在論者が認めない点である

ものを特徴付ける時に我々が用いる分類に特別なことはあるのだろうか
実在論者は、それが実際に存在する違いに対応していなければならないと考える
ネルソン・グッドマンは別の分類を用いることができると言う
彼は色の分類を考えた

一つは、我々が普段使っている緑(green; vert)と青(blue; bleu)の分類である
もう一つは、グルー(grue; vleu)とブリーン(bleen; blert)という変わった分類である
1)グルーは、ある時点(t)以前に見た時に緑である、あるいはそれ以前に調べていないが青であるもの
2)ブリーンは、t 以前に調べた時には青である、あるいはそれ以前に調べていないが緑であるもの

t を来年1月1日とする
それ以前に緑だったエメラルドは、緑とも言えるしグルーとも言える
同様に、今年中に見た青い花は、青とも言えるしブリーンとも言える
来年の1月2日に初めてエメラルドと青い花を見た時には、それぞれがブリーンとグルーとなる

t 以前には色を特定できないことになる


(つづく)




2020年2月3日月曜日

実在論と反実在論(3)



今日は、現代哲学者を惹き付ける反実在論のもう一つの形についてのお話である

世界は我々自身あるいは我々の理論によって作られているという考えを擁護した人がいる
ネルソン・グッドマンである
これは客観性を問題にしたのではなく、その再定義に関するものである

我々が記号システムを用いることは、結局は「世界を作る」ことに帰する
グッドマンによれば、言語、芸術、科学理論に含まれる記号システムは作られた現実を十分に記述しない
少なくとも、これらのシステムを機能させる出来合いの企ては前もって存在しない

彼は、客観性は不可能であると主張する反実在論者であるとは名乗っていない
しかし、我々は科学的・芸術的活動により世界を作り、作り変えることを主張する非実在論者だと言っている
それが『世界制作の方法』(Ways of Worldmaking)で擁護した点である
さらに、帰納の謎について書いた中で、反実在論と非実在論を正当化する議論を展開している

対象D、範疇 x1,x2、x3...xn、特性Fがあるとする
帰納による推論は、範疇xnまで特性Fがあるとすると、xn+1もFを持つとする
時にはすべてのxに特性Fがあるとさえ推論する

例えば、50羽の(白)鳥が白いとすると、次の鳥も白いと考える
もし黒い白鳥に出合ったとすれば、びっくりして認識できなくなるかもしれない
帰納による一般化は偶然に過ぎないことになる

「カラスのパラドックス」(ヘンペル)という状況がある
A)もしカラスであれば、それは黒い
B)もし黒くなければ、それはカラスではない
この二つは論理的に同等で、Aを認めればBを認めることになり、その逆も真である

ここで問題にされているのは、カラスの黒さである
世界に存在する黒くないもの(例えば、ティッシュ―、雪、セーターなど)を調べてカラスがいないとする
それがカラスは黒いということを確認するというのは奇妙ではないだろうか


(つづく)






2020年2月2日日曜日

遠くを眺めて



昨日で一月が終わった
以前にも書いたが、やはり長い
カフェでも1時間が非常に長く感じられる
これは最近の特徴的な変化と言えるだろう

このひと月、何をやっていたのかを振り返る
当初は3つくらいのプロジェを抱えてやっていたが、最後の方は1つだけになった
2つが終わったからではなく、それは後にして1つに絞ったのである
急ぐよりは、その中に深く入り理解を深めることの方が重要であると考えられるようになってきた

いずれの変化も精神に平静と安定を与えているように見える
さて、その状態で今月はどんな動きをするのだろうか







2020年2月1日土曜日

実在論と反実在論(2)



実在論と反実在論の言葉の定義から始めたい
実在論とは、広い範囲の現実(実在)は我々の概念や理論などから完全に独立して存在しているとする見方
反実在論は、存在する少なくとも大部分は必然性を欠く概念や理論と関連しているとする立場
このような呼び名は最近のもので、分析哲学者によって使われた

それまでは、実在論と観念論の対立があった
観念論は、存在するすべては精神かその変容したものという考え方
観念論者は、精神や観念に依存しない世界は存在しないと考える
反実在論者も、精神(概念や理論など)から独立した世界は存在しないとする
観念論と反実在論との間に差がないように見えるが、あるという

観念論者は、すべての「もの・こと」の本質は心的あるいは霊的だと言う
しかし世界の在り方・本質は、我々の概念や理論には依存しないとする
対する反実在論者は、異なる社会実践から成る知的活動がすべての「もの・こと」の本質を決めるとする
つまり、観念論者にとって現実は存在するが、それは心的あるいは霊的な性質を持っている
しかし反実在論者にとっての現実は、我々が行う記述から独立しては存在しない

ヒラリー・パトナムは、次にように言っている
「世界はどのようなものからできているのか」という問いは、理論や記述の中でしか意味を成さない。世界に関する「正しい」理論や記述は一つ以上あるからだ。
彼は一つの相対主義を採用したことになる
絶対的な視点は存在せず、人間(のグループ)の興味や目的を反映した視点があるだけだと言う

さらにパトナムは言う
対象(もの)は概念的な枠組みから独立しては存在しない。我々がある記述の枠組みを導入する時に世界を切り分けて対象にするのは、我々なのである。
我々の言語で現実を切り取り、そこに含まれる対象を言わば作り出していることになる
この考えが現代の哲学者を最も惹き付け、駆り立て、人文科学にも広がって行った
これは学生にも好評だったようだ

何せ、そのものとしての現実が存在しないのだから、それに対峙する必要がなくなった解放感があったのか
それぞれが自己と自己の価値の創造者であると感じることができたのである
実在論者はしばしば「ナイーブ」だと言われ、反実在論者は真ではないものを発見するのに長けていた
この考えは芸術的創造にも模倣の要求からの解放という影響を与え、別の現実、超現実が提案された

反実在論者は、世界と世界を構成するものは社会的に構成されたものに過ぎないと主張する
これは20世紀後半に「ポストモダン」として流行することになった
現在フランス哲学の一部では、この考えは当たり前のように見える

反実在論者にとっての科学は、我々と独立した現実については記述しないものとなる
基本的に、在るがままの世界ではなく、社会的な要素と結び付いてくる
世界には社会的に構成された事実しかないとし、客観的な真理の要求を拒否するようになったのである


(つづく)






2020年1月31日金曜日

実在論と反実在論(1)



今日からは、実在論(Réalisme)と反実在論(Anti-réalisme)がテーマとなる
まず、「形而上学的目覚め」と題された一節から

この世界に目をやると、そこには自然のものがあり、人工のものがあり、人間がいる
仕事場があり、出来事がある
やらなければならない義務があり、価値がある
しかし、これらは本当に存在しているのだろうか

この世界という時、それはわたしの世界であり、あなたはそこに入ることができない
その逆もまた言える
わたしの精神と世界は一つのものであると言った場合、世界は精神の外には存在しないことになる
これは観念論の世界である
わたしの精神に表れたもの以外には何も存在しないとなると、独我論の世界である

これらは形而上学の世界である
哲学者は存在の問題に興味を持つが、我々の精神や言語や概念から独立した実在には興味を示さない
デカルト以来の近代哲学においてこの興味が先鋭化し、現代哲学では我々を追い詰めている

第二次大戦後、ポーランドの哲学者ローマン・インガルデンは『世界の存在をめぐる論争』を出した
世界の存在を自問するというのは不可思議なことではないか
そもそも論争など存在しない問題ではないのか
しかし、哲学は未だにその答えを持っていないのである

我々の精神や言語や概念とは独立に世界が存在しているかという論争は、実在論と反実在論の問題である
それは同時に現代哲学の中心的な問題なのである
ハイデッガーは哲学にとってのスキャンダルについて、こう言っている
それはこの問いに満足のいく回答を出していないことではなく、その問いに向き合ってさえいないことである

しかし、このようなどこにも辿り着きそうにない問いに向き合うことに、一体意味はあるのだろうか


(つづく)







2020年1月30日木曜日

哲学と哲学史(6)



歴史的再構成(B)が既に出された問題を扱い、学説史(D)には殆ど哲学的意味がないと仮定する
そうであれば、それに代わるのはジャンル(A)の理性的再構成と(C)の精神史の間になる
これらは哲学と哲学史が相関するとする主張(2)と相互に依存するとする(3)の主張と相性が良い

クロード・パナッシオによれば、我々には説明的な語りと教義による再構築という方向性がある
前者は出来事がどのように繋がっているのかを説明することにより、一つのシナリオを提示する
後者の理性的な再構築では、オリジナルのテクストから教義の中身を再構成しようとする

そこで重要になるのが、方法論における要求でもある二つの原則である
一つは忠実さで、研究している教義を裏切らないこと
もう一つは妥当性で、過去の著作を読む理由が我々の哲学的問いに対する答えを見つけるためなのかという点

理性的な再構成は、哲学的重要性を正確に評価しながら、過去の考えをできるだけ合理的な形で提示する
歴史的再構築との違いは、現代的性格を十分に引き受け、そこから気を逸らさないようにすること
精神史との違いは、理性的な再構成に特有の立論と評価の次元にある
つまり、概念の発展の意味を表す歴史的な絵を描くのではなく、テクストにある議論を再構成するのである
その目的は議論の評価で、それが正しいのか間違っているのかをできる限り知ることなのである


まだ続きはあるようだが、このテーマはここで終わりにしたい








2020年1月29日水曜日

哲学と哲学史(5)



今日も昨日の続きを読んでみたい
テーマは、ジャンル(D)の学説史にはどんな価値があるのかについてである

学説史は一つのものの後に別のものが来るので、何かを知った印象を与えるためか人気がある
しかし、専門の哲学者の目には良く映らない
事実、学説史は歴史的、哲学的探求が成されないまま教義を単純に並べたものとして提示される

まず、学説史はジャンル(C)の「物語としての哲学史」と共通点がある
しかし、学説史の物語は(C)とは対照的に大きな物語がなく、退屈の連続でしかない
そこには思索の活力も、学説の発展に必要な理由が齎す哲学的な意義もない
従って、簡単に逸話に陥るのである

第二には、そこにあるのは現代の哲学的問題であるよりは、月並みなすぐに哲学的だと分かる問題である
例えば、人生の意味、善悪の区別、最良の政治体制というような問題である
「プラトン、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲル、ベルクソンにおける人生の意味」といった具合である

第三には、哲学的主張とそれが生まれた議論を分断する
それを支持する理由を挙げずに、結果だけを示す傾向がある
学説史家はアプローチの多様性や哲学的思考のダイナミックな性質に鈍感なのである

結局、学説史はこれといった理由のないテーゼのカタログに過ぎない
唯一の価値は、覚書になるということである


プイヴェ氏の学説史の評価はかなり低いようである


(つづく)









2020年1月28日火曜日

哲学と哲学史(4)



本日の話題はジャンル(A)の理性的な再構成で、哲学史を逆に辿るというお話になる
(A)のやり方を採る者は、過去の哲学者を理解するためには現代の問題から出発する必要があると主張する

アンソニー・ケニーによれば、ウィトゲンシュタインは中世のトマス・アクィナスの理解に影響を及ぼした
ウィトゲンシュタインは、内省により我々の心的内容に到達できるとする現代哲学の考えを批判した
ここで言う内省とは、内にある我々の信念、考え、感情、意志などを想像することである
目には見えない「もの」が精神の中にあり、それを掴むというイメージだろうか

ウィトゲンシュタインはそれとは異なり、我々には心的で感覚的で知的な能力を持つと考えた
精神を能力として捉えたのだろう
しかしそれは、我々の中に私というエゴがあり、それが信じ、考え、感情や意志を持つことを意味しない
彼は心身二元論も唯物論や物理主義も強く拒否した
精神は能力の総体であり、心的状態が集まる場ではないとする彼の考えがトマスの魂の哲学の理解を可能にした

ケニーによれば、デカルトの二元論の哲学が能力として精神を見るトマスの哲学を受け入れ難いものにした
その意味で、ウィトゲンシュタインを読むことはトマスの哲学理解の準備になるだろう
また、トマスの哲学の中に現代哲学の問題解決のヒントが見えてくることがあるという


(つづく)








2020年1月27日月曜日

哲学と哲学史(3)



今日は曇りだが、太陽が覗く穏やかな天候だった
向かいのグラウンドからは選手の掛け声や声援が聞こえてくる
春が来たかのようであった


今日のテーマは「太陽の下に新しきものなし」なのか、あるいは「大きな物語としての哲学史」なのかである
つまり、哲学の歴史に新しいものはないのか、時代を画す哲学が織り成す物語が哲学史なのかの問題である

昨日、哲学の歴史的再構成(B)は、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)と相性が良いと書いた
しかし実際には、(B)は哲学と哲学史が同一であるという主張(4)とも相性が良い
哲学史の重要なテクストを検討すると、殆どすべての問題は過去の哲学者が考えていたことが分かる
歴史の中でその問いに対する回答も提示されている

今日の哲学は、歴史の諸相で他の形を採ってすでに表れていたものを再検討することである
現代の哲学者が何らかの主張をした場合、哲学史家は「誰某がすでに言っていますよ」と指摘するだろう
(この感覚は、哲学に入ったかなり早い時期からわたしの中に生まれたものと共通する)
つまり、哲学において新しいものがあると考えるのは単純すぎるだろう


しかし、すべての主張や見解が哲学史の中にないのではないか
従って、不変の哲学的問いにより良い解を与えるために哲学するというのはナイーブである
哲学は哲学史である
哲学者の対象は、議論を評価しながら検討する主張や見解ではなく、テクストである
過去の哲学者はテーゼを述べ正当化するというが、実際にはテクストを読んでいる
それをさらに明確にし、変形し、再解釈しながら
テクストを検討するしか哲学に残されていないとすれば、哲学は完成したと言えるだろう

フランスでの哲学教育はこの姿勢を採っている
哲学史に依存しない現代哲学という考えに全く意味を与えていない
哲学を教え哲学するということが、重要な哲学者のテクストに没頭することになっている

この姿勢は哲学史を大きな物語にするというジャンル(C)と全く異なっている
(C)では、哲学史が急展開に次ぐ急展開のシナリオのようになっている
(C)の主張は、現代哲学は歴史の物語の中でしか理解できないというものである

従って、哲学と哲学史が独立しているという(1)の主張とは合致しない
寧ろ、哲学と哲学史が相互に依存するという(3)の主張と相性が良い
さらに、哲学と哲学史は同一であるとする(4)の主張を想定するやり方でもある
これは哲学者が提起する議論や主張ではなく、議論や主張についての物語から構成される
過去の哲学者は歴史的状況に捕らえられているため、自身を理解する最良の立場にはいないと考えている
哲学と哲学史が相関するという(2)の主張は、ジャンル(C)では難しいようだ


(つづく)








2020年1月26日日曜日

哲学と哲学史(2)



今日も終日快晴
午後から街に出るもデモのためトラムが止まっていたため早めに戻った
今日も「哲学と哲学史」の続きを読みたい

歴史的再構成というジャンル(B)が最も相性が良いのは、哲学と哲学史が独立しているという主張(1)である
哲学的概念の歴史的再構成は哲学史である
これは哲学に対して自立している
なぜなら、過去の哲学者の知が現在の問題をどのように解決するのかを示すことが目的ではないからだ

ローティによれば、このやり方は二つの形を採る
一つは、研究する著者の時代のコンテクストや行われていた論争を強調すること
アラン・ド・リベラの言葉を使えば、「哲学的考古学」となる
もう一つは、哲学体系の研究を中心にした歴史をまとめること
マルシャル・ゲルーや V・ゴールドシュミットなどの仕事を指すために用いられた「構造的歴史」に当たる

哲学的考古学は、哲学的主張が属する領域の中でどのように生まれたのかを理解するものである
基本的な考えは、文章は他の作品から借用した文章によって解釈することである
文章を構成する言葉を参照して解釈することではない
過去の哲学的主張は我々が問う問題に対する回答ではない
つまり、過去の哲学者が歴史を超えた不変の問いに対する回答を出したという視点はない
その哲学者が提出した問いに導いた問題意識の地平が何であったのかを明らかにすることである

もう一つは、哲学史における構造的方法である
哲学者の教義は個別に理解すべき主張の合計ではない
それは関係性を持つ体系で、全体への参照なしには理解できないものである
ある著者のテクストを読むということは、その体系全体の中での意味を理解することである
テクストが表現する思想よりは構造に重点を置く
歴史家の対象はテクストであり、著者が考えたことではないのである

いずれの場合も哲学史が哲学的テクストの科学になっている
現代的な哲学的問いに対する回答を探すのではなく、テクストの中身を明らかにすることになっている
勿論、そうすることにより哲学的に考え、現代的問題に近づくことができる
しかし、そこには時代錯誤や内容の改変の危険性がある
結局のところ、現代哲学と哲学史は別物で、独自に発展可能である


(つづく)