2020年5月31日日曜日
現代哲学のまとめ(4)
分析哲学と大陸哲学の違い、再び(2)
例えば1950年代に、次のような流れが共存していたことをどのように説明するのか
フランスにおける実存主義と現象学(サルトル、メルロー・ポンティ)
イギリスにおける日常言語の哲学(ライル、オースティン)
アメリカの科学と意味の哲学(クワイン、グッドマン)
西ドイツの議論の倫理(アーペル、ハーバーマス)
イギリスにおける倫理の議論(アンスコム、ウィリアムズ)
さらに、スカンジナヴィア諸国、オーストラリア、ニュージーランドで起こっていたことも加わる
恥ずべきことだが、当時、東京やブエノスアイレスがどうであったのか何も知らないことを白状する
しかし、私が親しんでいる伝統とは異なるものの中で、他の本を読み、他の問題を検討して、哲学的問題を何も提起しなかったと考える理由は全くない
また、ソ連の緩衝地帯にある中央ヨーロッパ諸国の公式マルクス主義者と自由な思考を維持しようとした人たちにおける状況も考慮に入れなければならないだろう
私は本書において、現代哲学をフランスの特に高校で「哲学」という名の下に行われているものに矮小化しないように、できる限りのことをした
哲学論文、テクスト解釈、概念の試験、我々が慣れ親しんだすべてと共にフランスの中等教育で実践されている哲学
それは、少しでもより大きな国際的枠組みに身を置けば、哲学のマージナルな形に過ぎないことが分かるだろう
そこに何の価値も重要性もないというのではない
しかし、他のすべてを隠し、拒否することになるとすれば、何という貧しさだろうか
マスメディア受けする哲学、雑誌で扱われる哲学(雑誌名に「哲学」のあるものも含む)、ラジオやよく売れている本の哲学もまた、哲学の矮小化である
殆どの場合、哲学は曖昧なものであれ一般的なものであれ、偉大な道徳的、政治的思想と同一視されている
それはまさしく、中身のない無駄話を呼ばれるかもしれないものである
私は本書において、窓を大きく開け、フランスで「哲学」という名に纏わり付いている地域主義を避けるよう努めた
特に、高校最終学年の教科書や文章を集めたもので伝えられる現代哲学史に関して、私は警戒心を示した
それらの教科書は、ベルクソンからフッサール、サルトル、アーレント、メルロー・ポンティを経て、時にウィトゲンシュタインやポッパーを加えてフーコーへと進む
しかし、これらは他のすべてを無視している
だが、他のものは面白くないものではないのである
2020年5月30日土曜日
現代哲学のまとめ(3)
分析哲学と大陸哲学の違い、再び(1)
分析哲学と大陸哲学を区別することには、少なくとも現代哲学についての省察を少し整頓するというメリットがある
1910年代から、哲学は二つに分断された
すべての過去の諍いはすでに忘れられたことを強調する和解の呼びかけや定期的な告知が出される
しかし、それは説得力があるのだろうか
特に我々には間違いなだけではなく、知的に有害に見える思考方法を、なぜ好意的に理解するよう要求するのか
寛容は知的無気力に至ってはならないのである
分析と大陸という現代哲学の二つの分野に共通する過去が再発見された言われる
それが歴史的に正しいならば、二つの流れの間に深淵を作るに至った違いを否定することをどのように正当化するのか
哲学はこの分裂がないよりはあった方がより面白くないだろうか
しかし、大陸哲学と分析哲学の間の違いが消えやすい性質のものであることも認識できるだろう
事実、哲学の二つの型の分断には僅かの偶然がある
いろいろな流れの発展は、哲学的思考の外の出来事に関連していた可能性がある
しかし最終的には、その流れに刻印を残すことになった
パスカルは偶然の出来事が持つ決定的な性質を強調して、次のように言った
「クレオパトラの鼻がもっと低ければ、世界の様相は一変していたであろう」と
これは20世紀の哲学史についても言えるとわたしは考えている
例えば、アドルフ・ライナッハは1917年に戦死した
彼はフッサールの弟子である
しかし今日、彼は言語の分析哲学のある局面に参画したとされている
あるいは、ジャン・カヴァイエスは1944年、レジスタンス活動のために銃殺されている
彼はウィーン学団の論理実証主義と同様、フッサールについても研究していた
もし彼が生き残っていたならば、どうなっていただろうか
このような例はいくつも挙げることができる
事故死のルイ・クーチュラ、病死のジャン・ニコ、勿論二つの大戦とホロコーストによる哲学者を含めた多くの生死など
現代哲学のすべて(特に大陸哲学)に潜在するヘーゲル主義は、哲学思想史を必然的な発展と捉えるように習慣づけた
その発展は避けられないフェーズを経て、また初めに与えられた意味を概念の実現によって追求するという形で行われる
しかし大きな領域を恣意的に除くことなく、どうしてすべての現代哲学をこのような図式の中に入れることができるのか
このように哲学はほぼ二つに分割された
これは、知的盲目の場合は除くが、その深い意味を過大評価することなく確認すべき事実である
しかし今日、我々が統一的な図を提示しなければならない困難に対する影響を推し量ることはできる
哲学の20世紀の想定される愚かさはまた、おそらく大陸と分析という二つの側が最も共有している世界のものである
実際には、それが両者同等であるのかという問題が生じる
わたしがそうは考えていないことは理解されただろう
ある哲学は自分の分け前以上のものを取ったのである
2020年5月29日金曜日
フランスにおけるCOVID-19関連最新情報(2020.5.28)
昨日、フィリップ首相他関係閣僚が6月2日以降の措置緩和について発表した内容が大使館から届いた
これまで抱いていた暗い予想を少しだけ和らげる内容になっている
外国人の入国や入国後の隔離についても今後緩和される可能性が見えて来た
また、国内での移動100km制限も廃止されたので元に戻りつつある
そして、フランス文化とも言えるカフェが開くようなので気分が晴れるようだ
その概要は以下の通り
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【ポイント】
● 6月2日以降、規制緩和の第2フェーズに入る
● 特別な注意が必要なオレンジゾーンに分類したイル・ド・フランス地域圏、ギュイアンヌ、マイヨット以外はグリーンゾーンに
● 6月2日以降、全土で小中学校を再開
高校もグリーンゾーンを中心に部分的に再開
● カフェ、レストラン、バー等は、6月2日から営業再開可能(但し、オレンジゾーンではテラスのみの営業可)
● 公園は今週末から再開し、ビーチ、博物館、歴史的建造物等は6月2日以降再開
● 6月2日以降、自宅から100km以内の制限を廃止
【詳細】
1.フィリップ首相
(全般に関する説明)
● 引き続き慎重であるべきだが、公衆衛生の観点で状況は良好
6月2日から規制緩和の第2フェーズに入る
● ウイルスは程度は異なるが引き続き全土で流行している
感染拡大速度は抑制できており、当初の目標よりも良い状況にある
● しかし警戒は維持すべきで、病院の受入能力は引き続き圧迫されている
● イル・ド・フランス地域圏、海外領土のギアナ及びマイヨットは特別な注意が必要なオレンジゾーン
6月21日までの第2フェーズでは、グリーンゾーンよりも慎重な対応とする
● テレワークは可能な限り継続、予防措置の徹底、マスク着用を推奨、密室での無秩序な集会は避けるべき
2.ヴェラン保健大臣
(保健衛生状況)
● 今回のゾーン判定の根拠とした4つの指標は次の通り(今後の指標にもなる)
指標1:発生率 10万人当たりの週ごとの感染者数(現在は6.14)
指標2:陽性率 PCR検査における陽性率(現在は1.9%)
指標3:R0(基本再生産数) 各感染者が他に感染させる人数(現在は0.77)
指標4:COVID-19患者の重篤患者向け病床占有率
● 今回、オレンジゾーンに指定された地域は、2つ以上の指標で警戒値を上回っている
イル・ド・フランス地域圏では、発生率の高い県があり、重篤患者数が多い
マイヨットは引き続きウイルスが活発に流行し、医療が圧迫されている
ギアナではR0が1を超えており、感染が拡大している
● 他の県はグリーンゾーンだが、ウイルスがいなくなったわけではない
(検査)
● 全ての症状を有する者と高リスク接触者に対して検査を実施可能な状態
● 80%以上のケースで36時間以下で結果が判明する
● 感染者数及びその濃厚接触者数は減少している
● 症状があれば迷わず病院に行き、マスクや検査の処方を受けてほしい
● 血液検査はウイルスの抗体を測るもの
血液検査で陽性であっても、他者の感染を防止するため、社会的距離の確保等、予防行動は変化させてはならない
3.フィリップ首相
(アプリについて)
● 補完的なツールとしてStopCovidアプリケーションを開発
個人情報、プライバシーを保護する仕組み
GPSは使用せず、データは匿名化され、保存期間は限定されている
国はデータにアクセスできない
6月2日から任意・無料でダウンロード可能
患者と1m以内で15分以上接触した可能性がある場合に通知される
4.ブランケール教育大臣
● 小学校については、グリーンゾーンを中心に82.5%が既に再開
6月2日以降、全土で全ての小学校を再開(但し、1クラスあたり15人が最大)
並行して、課外活動(Sport Santé Culture Civismeプログラム)を用意
● 中学校については、既に95.5%が再開、全学生の28%が通学
6月2日以降、全土で全ての中学校を再開
グリーンゾーンでは全てのクラス、オレンジゾーンでは当面1年生(6eme)及び2年生(5eme)のみ、課外活動あり
● 高校については、グリーンゾーンでは総合高校、工業高校、職業高校で一部再開
オレンジゾーンでは、証明書が必要な学生のため職業高校を優先的に再開
● バカロレアの口頭試験は中止
5.フィリップ首相
(カ フ ェ 、 レ ス ト ラ ン、, バ ー)
● カフェ、レストラン、バーは6月2日から営業再開(但し、オレンジゾーンではテラスのみの営業可)
予防措置の実施条件は、1卓当たり10人まで、テーブル間隔は1m以上、従業員及び客の移動時のマスク着用義務
バーの立ち飲みは禁止
(観 光 宿 泊 施 設)
● グリーンゾーンでは6月2日以降、観光宿泊施設を再開、オレンジゾーンでは6月22日以降
(移動)
● 欧州内での移動は、欧州レベルで調整の上決定される
フランスは6月15日以降の域内国境の制限解除に賛成
欧州からのフランス入国者には入国時の14日間の隔離は課さない
当該国がフランスからの入国者に隔離措置を要求している場合は相互主義に基づき同様の措置を実施
● 欧州外との国境についても、6月15日以降を見越して欧州レベルで調整
● 国内移動については、自宅から100km以内の制限を廃止
但し、最大限、各自の責任において、不必要な長距離移動は延期するのが合理的
(イル・ド・フランス地域圏における公共交通機関に関する制限(ピーク時の証明書携帯等)の緩和について:近いうちにペクレス同地域圏議会議長と協議するが、現時点で変更しない)
(社会的・文化的生活)
● 今週末から全土で公園を再開、市長はマスク着用の義務化を要求可
6月2日以降、ビーチ、博物館、歴史的建造物等の営業を全土で再開
● グリーンゾーンでは、6月2日以降プール、ジム、レジャーパーク、劇場の営業再開
オレンジゾーンでは6月22日以降
● 映画館は全土で6月22日以降に再開
● 野外での人数は5000人以下に制限
● 少なくとも6月21日まで、公共の場での10人以上の集会、集団スポーツは禁止
ディスコ、スタジアム、競馬場は閉鎖
(海外領土)
● 海外領土への移動に際しては、到着時の14日間の隔離(quatorzaine)を実施
隔離7日後に検査を行い、陰性であれば緩和する等の新たな隔離の在り方について実験を行う
● マイヨット及びギアナでは引き続き警戒すべき状況
(結語)
● 措置緩和の第3フェーズに移行する6月22日より前に、次のフェーズにおける措置を判断
2020年5月28日木曜日
現代哲学のまとめ(2)
哲学における20世紀は最も愚かなのか
最近イギリスのある哲学者が、哲学における20世紀は「すべての中で最も愚かである」と断言した
彼が間違っていることを証明できないことも起こり得る
しかし、20世紀には、ベルクソン、フッサール、ハイデッガー、サルトル、デリダ、あるいはラッセル、カルナップ、クワイン、グッドマン、ギーチ、アンスコム、デイヴィド・ルイスなどの哲学者がいた
彼らの世紀をこれほど厳しく評価することを可能にしているものは何なのだろうか
これまでのページが、哲学の20世紀は回り道する価値があると読者が確信できるようにしたと期待すべきだろう
このイギリスの哲学者が哲学の20世紀を厳しく評価するために挙げた理由の一つは、この世紀の過程で良心は完全に私的な現象であるという考えを疑問視したことである
わたしに言わせれば、彼が擁護するこの考えは哲学の中で最も愚かなものの一つなので、20世紀の知的価値について希望を繋いだのである
現代の哲学思想の多様性とさらに言えば分裂は、際立っている
露骨に言えば、現代哲学思想は文字通りあらゆる方向に迸り出たのである
そこに指導原理や一貫性のようなものを明らかにするのは容易ではない
万事がパリの5区あるいはハーバード大学やオックスフォード大学の中のように至る所で起っている、すなわち、知的生態学的地位(ニッチ)の中に縮こまっていると言い張るかもしれないが、現代哲学においてすべてを見出すことができることを認識せざるを得ない
形而上学、反形而上学、霊感豊かな予言者主義、論理的禁欲主義、急増する解釈学、冷たい解釈性、政治の優先、論理学の支配、徹底した唯物論的還元主義、天空の心霊主義など、そして時に尤もらしい主張まで
この状況は、同様の多様性があり、作品の芸術的・美的価値に対する疑いが残っている点で、「現代芸術」の状況と比較できるかもしれない
それはまた、最悪のものから最良のものまですべてが揃っているスーパーマーケットにも似ている
そこに時が選別を行ったことを将来の歴史家がより容易に見出すことを期待できるだろう
金を探す人が小川で集めたものをひっくり返して、時に金塊を見つけるように、歴史家も結局は一時代を画するものを発見することになるだろう
しかし、「時の試練」に耐え、真の価値は常に現れ、偽の価値はそのために忘れられ、軽蔑されることになるのは、それほど明白なのだろうか
哲学的な質は歴史の制裁によって認められるようになるのだろうか
我々が愚かな考えを長い間称賛し続け、最良のものを過小評価し続けるのを妨げるものを、わたしはよくわからない
(そして今日、哲学史はこの心配を否定できない)
我々が今よりも後でより明らかにできることはないかもしれない
時と共に、誤りがさらに定着し、完全に勝利を収める可能性があるのだ
2020年5月27日水曜日
現代哲学のまとめ(1)
ロジェール・プイヴェ著『現代哲学』を読み始めたのは今年の1月17日で、全くの偶然であった
それからなぜか読み続けるようになった
よくもここまでという思いで、信じられない
正直、あまり興味が湧かないところも読んで来た
このようなことはこれまでになかったことだ
このあたりで一区切りにしてもよいのではないかという考えが浮かんできた
ということで、「結論」を掻い摘んで読んで終わりにしたい
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ここで、結論として現代哲学を評価してみたい
これを行うことで現代哲学の教師の場合仲間に敵を生み、読者には幾ばくかの疑念が生まれるだろう
なので、少しばかりの知的勇気を持つことだ
現代哲学は何のためになるのか
わたしは多様な見方を位置づけようとしながら、分析哲学に対する好みを隠すことはしなかった
それぞれの見方の強みと弱みから出発して、多様な見方を分け、対立させるものを論じてきた
本書の野心は、現代哲学の出来るだけ大雑把な地理の本であること、道に迷わないための地図を提供することである
その結論は哲学の良い点と悪い点を示そうとするより、評価が可能になる基準を検討しようとするものである
わたしにとっての最良の基準は、明晰さに関するものである
しかし現代哲学の様々な流れは、同じように基準を満たすところからはほど遠い状態にある
2020年5月25日月曜日
哲学における論理学の役割(21)
論理学の哲学と哲学的論理学(4)
私がここでやりたいことは、これらの問題を検討することではなく、哲学的問題の宝庫に注意を促すことである
それは、「論理学の哲学」と「哲学的論理学」という論理学である
哲学の金塊を採掘する努力が推奨されるべきである
恐れがあるのは次のことである
論理学は自称本物の哲学の無礼で最悪の宿敵であるという主張を真に受けた学生が不幸にも道を間違えることである
それは彼らを騙すことになる
全ての哲学初学者は、自らを立言の厳密な分析者としてよりは、概念の創出者(それがどんなものであれ)として見る
カントの表現を借りれば、哲学における「偉大な権威」という品位は、論理学や哲学的論理学に対する軽蔑を誇示する哲学者のスタイル方の中に見られる
もし哲学の学生が論理学をやらなければならないとしたら、それは論理学のためというより論理学についての哲学的省察のためである
しかし、特定の専門性を習得するためには十分な真剣さをもって行うことが前提となっている
結局のところ、論理学はある哲学者が間違ってそう信じているような論法の習得ではなく、哲学の王道なのである
2020年5月24日日曜日
COVID-19 の最新情報
久しぶりにジョン・キャンベルさんの5月20日の発信を振り返ってみたい
今回は、一度感染して免疫ができた後、再度感染するのかという問題が取り上げられている
この問題の背景には2つの疑問があった
一つは、このウイルス(SARS-CoV-2)が変異を起こし、新しいウイルス株が感染するのではないか
二つ目は、感染よって免疫応答(抗体産生)が起こらないことがあるのではないか
最初に免疫ができても新しい株には免疫がないので再感染するという可能性だが、それはなさそうである
勿論、変異はするが、病原性を変えるような変異はしないと考えられているからである
また、免疫応答が起こらないということもないらしい
つまり、一度感染して抗体が産生され、ウイルスを排除すれば再感染せず、他人を感染させることもない
韓国の報告を取り上げている
中国、日本、イタリアで一度ウイルスが陰性になった後、10週以内に再度陽性になった例があった
検出されたのは感染力のあるウイルスではなくその断片で、回復した人にも見られることがあるという
ある意味では偽陽性で、PCRでは活性のあるウイルスとそうでないウイルスの識別ができない
それから免疫の持続期間だが、長期の免疫が予想されるが、具体的な数字は明らかになっていない
纏めると、一度感染してウイルス除去に成功すれば健康になり、ある程度の期間免疫が保持される
そして、他人を感染させることもない
心配された条件がクリアされ、ジョンさんの考えは非常に楽観的だ
これから次第に集団免疫ができ、数年後には歴史的な物語になるのではないかというものである
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5月23日の発信では、改めて感染防御法について触れている
改めて言うまでもないだろうが、念のために書き出しておきたい
冒頭、アメリカのCDCは素晴らしいデータを持っているのだが、マスコミに出る情報とのギャップがあることを指摘
パブリック・リレーションズの重要性に触れていた
このウイルスの伝搬様式は、主にヒト・ヒト間で起こる
そのため2メートルの距離を保ち、室内であれば換気に気を付けること
咳、くしゃみ、会話などによる飛沫が粘膜だけではなく、口や鼻の皮膚についてから吸入されることがある
インフルエンザよりも容易に感染する
動物からヒトへの感染可能性は低いが、ヒトから動物(犬、猫)への感染の方がリスクは高いかもしれない
それから、いろいろな表面に触れることで感染することも、多くはないがあり得る
銅で4時間、段ボールで1日、プラスチック、ステンレスでは2-3日後でも感染を起こすことができるという
これはNew England Journal of Medicineの報告による
最良の感染防御法は、すでに実践されていることと思うが、ウイルスに暴露しないようにすること
1)人との物理的距離を取ること
2)手をよく洗うこと
3)いろいろな表面を消毒すること
2020年5月23日土曜日
哲学における論理学の役割(20)
論理学の哲学と哲学的論理学(3)
ここで、哲学的論理学の問題点の一例を挙げたい
わたしが「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」と言う場合、それは真か偽か、真でも偽でもないのか
改めて、それは意味論の問題である
今回は、問われているのが虚構の記述の問題だということである
その記述に真理の価値はあるのか
もしそうだとすれば、その根拠はどこにあるのか
存在しないが真実味がある範疇や状況なのか
「金の山」や「四角い丸」についてアレクシウス・マイノングが提示したように
「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」という発言を理解する人の頭の中にある考えなのか
そうだと言えるが、「フローベールの小説において」と加えるならば、ということではないだろうか
検討すべき他の可能性は、まだ多数存在している
架空の発言は根拠がなくても意味を持つ限りにおいて?
(なぜならそれは何物にも基づいていないから)
これらの解決にはそれぞれ長所と短所がある
あるものは、ボヴァリー夫人に関して我々が真か偽を言うことを可能にするように見える
しかしそれは、奇妙な現実の存在を仮定することによっている
ボヴァリー夫人という架空の存在やボヴァリー夫人が夫を裏切ったという考えなどの
しかし、我々はそれなしに済ますことができるだろうか
「ボヴァリー夫人は夫を裏切った」のような発言が何も言っていないことを肯定することなく
このような発言の論理的、哲学的解析は、意味論的、存在論的問題及び美学と芸術の哲学の問題を呼び込むことが分かる
そこで提起されるのは、虚構の問題である
2020年5月22日金曜日
哲学における論理学の役割(19)
論理学の哲学と哲学的論理学(2)
3)基本的な要素として命題を扱う命題論理とは異なり、述語論理においては命題は綿密に分析される
例えば、「すべての x はFである」あるいは「ある x はFである」のように書かれる
その際、「数量詞」、「変項」、あるいは特定のものを意味する固有の用語を用いる
「数量詞」の中には、「すべての」のような普遍的なものや「がある」のような実存に関わるものがある
ところで、固有の用語とは何を言うのだろうか
クリストフとかパリのような固有名詞のことなのか
クリストフとかパリのような固有名詞のことなのか
「わたし」、「あなた」、「彼」、「これ」、「あれ」は何を指しているのか
限定された「現在の共和国大統領」、あるいは「現在のフランス王」と今言う場合はどうなのか
固有名詞は意味を持っているのだろうか
「グラス1杯のビール」が固有の用語であれば、「ビール」もそうなのか
「19h45のTGVがナンシー駅に到着」という出来事は、TGVが20hに着いた場合に固有の用語なのか
9という数字は何なのか
「個別の」とか「固有の」とは何を意味しているのか
要するに、命題論理の哲学的解釈はパンドラの箱を開けるのである
そしてその中には、形而上学的、存在論的、意味論的な悦楽が入っている
4)述語論理の述語とは何を意味しているのか
もしわたしが「神は存在する」と言うとする
その場合の「存在する」は、「アルノーは大きい」の「は大きい」のような述語になるのだろうか
それに対して、「NO」と答えたくなる
「存在する」は何かの特徴を示すものではないからだ
カントの伝統を継ぐ議論では、「xは怒っている」と言えば、「そして彼は存在する」と加える必要がない
「xは存在している」と「xは白髪である」という記述の間には顕著な違いがある
例えば、「ロバは鼠色である」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」についての記述であり得る
「ロバは鼠色ではない」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」は鼠色ではないことを意味し得る
反対に「ロバは存在する」は、「すべてのロバは存在する」あるいは「あるロバは存在する」ということではない
ロバが存在すると肯定することは、すべてあるいはあるロバについて何かを言うことではない
ロバが存在すると言うことである
「ロバは存在しない」ということは、ロバがいないということである
ロバが全くいないことでも、ロバの中の何頭かが存在しないことでもない
限定された「現在の共和国大統領」、あるいは「現在のフランス王」と今言う場合はどうなのか
固有名詞は意味を持っているのだろうか
「グラス1杯のビール」が固有の用語であれば、「ビール」もそうなのか
「19h45のTGVがナンシー駅に到着」という出来事は、TGVが20hに着いた場合に固有の用語なのか
9という数字は何なのか
「個別の」とか「固有の」とは何を意味しているのか
要するに、命題論理の哲学的解釈はパンドラの箱を開けるのである
そしてその中には、形而上学的、存在論的、意味論的な悦楽が入っている
4)述語論理の述語とは何を意味しているのか
もしわたしが「神は存在する」と言うとする
その場合の「存在する」は、「アルノーは大きい」の「は大きい」のような述語になるのだろうか
それに対して、「NO」と答えたくなる
「存在する」は何かの特徴を示すものではないからだ
カントの伝統を継ぐ議論では、「xは怒っている」と言えば、「そして彼は存在する」と加える必要がない
「xは存在している」と「xは白髪である」という記述の間には顕著な違いがある
例えば、「ロバは鼠色である」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」についての記述であり得る
「ロバは鼠色ではない」は、「すべてのロバ」あるいは「あるロバ」は鼠色ではないことを意味し得る
反対に「ロバは存在する」は、「すべてのロバは存在する」あるいは「あるロバは存在する」ということではない
ロバが存在すると肯定することは、すべてあるいはあるロバについて何かを言うことではない
ロバが存在すると言うことである
「ロバは存在しない」ということは、ロバがいないということである
ロバが全くいないことでも、ロバの中の何頭かが存在しないことでもない
2020年5月21日木曜日
哲学における論理学の役割(18)
論理学の哲学と哲学的論理学(1)
論理学の哲学は、論理学者によって使われる正式な道具と概念を対象としている
哲学的論理学は、哲学の伝統的な問題の検討において論理的解析をすることから成っている
そう言えば、これは最も伝統的な哲学のやり方の一つであった
ここに、論理学の哲学において扱われる問題のいくつかの例を挙げたい
1)命題論理の「命題」とは何を言うのだろうか
「猫は絨毯の上にいる」という文が p で記号化されるとしよう
その場合、一連の言葉、一つの意味を持つ一文、誰かが「猫は絨毯の上にいる」と言うことを形式化したのだろうか
それは「意味論」の問題であり、言語と現実との関係に関する「哲学的」省察に関わってくる
2)論理演算子は、「と」「あるいは」「もし・ならば、・である」のような普通の言語を十分に表しているのか
真と偽の二つの価値しか存在しないのか
1)と同様、それは意味論に関するものである
そのためには、形式的言語と非形式的言語の関係について哲学的省察をすることが求められる
2020年5月20日水曜日
哲学における論理学の役割(17)
いろいろな論理学(3)
例えば様相論理において、必然性と可能性の演算子が用いられる
「・・であることは必然である」、「・・であることは可能である」などである
時相論理においては、時間の矢を考慮に入れる
3値論理では、一つの命題に対して真・偽という二つの価値しかないのではなく、第三の価値(未確定)がある
形式論理学の領域におけるこのような発展の豊かさは印象的である
その後に、こう続けることができるだろう
「そうだがしかし、それが哲学とどんな関係にあるというのか
それは、概念の創出を天職としている哲学者を回り道させるのではないか」
それは哲学のものであり、興味を持つに値するのか
アリストテレス(『分析論前書』)、ストア派の哲学者、多くの中世哲学者、ライプニッツは疑問に思わなかっただろう
彼らにとって、普通の言語を形式化する可能性や議論の論理的機能の研究は哲学的に決定的である
確かに形式論理学の発展は、哲学的問いかけと何ら密な関係は維持していないかもしれない
見習い哲学者は、以下のような論理学者である必要はない
自分自身のために考えられた形式的体系や抽象的に検討された推論の手順に熟達した専門家
反対に、見習い哲学者にとって論理学は二つの利点を持っている
第一に、哲学にとって形式論理学は極めて重要な対象であること
第二に、すべての哲学的問いの集合は論理的処理を要求していることである
このように、論理学は哲学にとって二つの意味で興味深いものである
つまり、「論理学の哲学」と「哲学的論理学」の枠組みにおいてである
EU域外からフランスに入国する際の自発的隔離について
昨日のル・ドリアン欧州・外務大臣の発言について、在フランス日本大使館から連絡が入った
関係するところは以下の通り
1)依然、日本からの入国はできない
(フランスの滞在許可証がある場合はその限りではない)
2)EU域外から入国するフランス人、滞在許可証を有する外国人は、14日間の自発的隔離が求められる
ということで、この二つの条件が変わるまで様子を見ることになりそうである
2020年5月19日火曜日
哲学における論理学の役割(16)
いろいろな論理学(2)
論理学は、形式的(記号を用いる)であると同時に哲学的な研究分野である
形式的とは、それが公理と規則の形をとる論理的体系から成っていることである
その体系は、他のものからある式を導き出すために、認められた記号と規則の連なりから構成されている
これらの論理的体系は演算として機能している
そこから情報科学やコード化されたデータの自動処理システムの発展における体系の根本的な役割が生まれる
コンピュータを使っている人は、論理学が何の役にも立たず、何も齎していないと言うことができるだろうか
これらの体系によって議論を形式化し、それが有効か、矛盾しないか、根拠があるか否かを決めることができる
それらは含まれる論理演算子に応じて、普通の言語による記述を形式化するのに多少なりとも適している
普通の言語の細かい形式化の要求に応じる論理的体系の発展にとって、20世紀は特に豊かな時代であっただろう
見習い哲学者が「古典的」とも言うべき命題論理と述語論理を主に学ぶ
そうだとしても、より繊細な表現力がある「非古典的」論理体系は存在する
例えば、様相論理、義務論理、直観主義論理、認識論理、時相論理、3値論理である
さらに、論理演算、ファジィ論理、矛盾許容論理などもある
この繊細さは、代わりに論理的決定可能性のような特定の形式的特性がないという恩恵を受ける
我々は論理学及び論理学と哲学の関係にとって素晴らしい時代に生きている
そのことを有効に利用し、楽しむべきではないのか
(つづく)
2020年5月18日月曜日
『知性改善論』、あるいは世界の理解と幸福に至るための道標
『医学のあゆみ』誌に連載中の「パリから見えるこの世界」第91回を紹介いたします
『知性改善論』、あるいは世界の理解と幸福に至るための道標
医学のあゆみ(2020.5.16)273(7): 615-618, 2020
このシリーズのテーマが今年に入ってからすべて繋がっていることに気付き、驚いている
実は、来月のエッセイもその延長線上にある
このようなことは、これまでになかったのではないだろうか
この先どういうことになるのか、わたし自身が大いに興味を持っている
お目通しいただき、お楽しみいただけるとすれば幸いです
哲学における論理学の役割(15)
いろいろな論理学(1)
しかし、論理学が20世紀の哲学において歴史的重要性があれば、分析哲学者はその有用性を誇張しなかったのだろうか
論理学をやることによってじっくり考えることを学ぶということは、疑わしい
論理学に熟達することが厳密に哲学する能力を保証するという証拠は何もない
第一に、始める前提が疑わしかったり間違っているとすると、厳密な論理的推論をすることは何の役に立つのか
これは、特定の、ひょっとすると全ての分析哲学者を非難できることである
彼らは哲学の真の争点について間違っているように見える
非の打ちどころのない推論をすることではなく、明らかにする展望を提案することである
彼らの議論の論理的構成が、時に彼らを知的傲慢さに導くことも加えておきたい
第二に、述語論理や最も洗練されたアルゴリズムの第一人者は、厳密に形式的な領域を出た途端に突飛な考えを採用する
それは一部ではあるが、科学者や数学者でもよくある知的態度である
あるいは、彼らはそれが科学の体裁を取っているか否かは別にして、流行りの考えや時代の空気を取り入れる
このように、分析哲学者や論理学者は厳密さを取り違えていないだろうか
論理学は彼らに本当は何を教えたのだろうか
(つづく)
2020年5月16日土曜日
哲学における論理学の役割(14)
哲学史における論理学(3)
「もの・こと」をこのように語るのが正しいのだと仮定する
その場合、教養課程や哲学の道具として言語の解析や帰結理論に関わる論理学の排除は、哲学史の余談になる
全体的に見ると、これは長い歴史の中の2世紀を表している
20世紀のフランスでは、デカルトの明証主義は放置されたままであった
しかし、形式的な方法や論理学の拒絶は存続していた
論理学は何も生み出さない、真の思考の方法ではない、哲学者は遣り過ごしてもよい
このような意見が優勢であり続けたのである
真の思想家は天賦の才能(ingenium)を持っている
ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の序は、この点から見ると重要である
彼らはこう言っている
論理学的解析は、認識論、言語学、精神分析のように、哲学にとっての「無礼」で「最悪の」宿敵である
宿敵が非難されているのは、かなり曖昧なままなのだが、概念の創出者(哲学者)の思考の自由を攻撃するからである
そこに、論理学を哲学の道具とした哲学の伝統全体との断絶がある
広い意味でこれらの問題を扱ったアリストテレスの論文に与えられた名前の「オルガノン」は道具の意味であった
論理学の拒絶は、20世紀の哲学において重要だったことに関して無理解であったことを物語っている
特にドゥルーズとガタリにおいて明らかである
自分の時代に敏感で、その哲学的思考が時代の深い意味を掴む能力に基づくとされる哲学者にしては意外である
2020年5月15日金曜日
哲学における論理学の役割(13)
哲学史における論理学(2)
それでは、特にデカルトには何が起こったのだろうか
それを理解するためには、『精神指導の規則』の規則第二と第十を読むとよいだろう
デカルトは彼が弁証法と呼び、我々が論理学と呼ぶだろうものの中にある知的競争心に何も反対しなかった
しかし、彼は論理学を形而上学と哲学に固有の方法としては拒否し、数学が構成する方法を採ったのである
デカルトが数学から学んだものは、急いで言えば、特に幾何学において真理の直観的把握が果たす役割である
認識の理想として数学的明証性を提示することは、論理学の形式的な方法の価値に疑義を差し挟むことになる
結局のところ、議論を点検することは、本質の補助的側面にしか過ぎない
『方法序説』や『省察』が書いた認識の苦行について精神の回心を通して至る証拠である
デカルトの思想は17世紀と18世紀に多くの批判の対象になった
しかし、明証性の決定的役割のために、優先的方法としての論理学を拒絶した
それが、この時代以降の哲学に深い刻印を残したのである
この視点から見れば、ライプニッツは輝かしい例外である
フレーゲと分析哲学、一般的にはハノーファーの哲学者とを結ぶ絆は、この点で明らかである
重要なことは、デカルト的で反ライプニッツ的な一般的な傾向である
形式的方法と議論における論理的価値の検討の拒絶である
この反形式主義はフレーゲや一般的には分析哲学者まで続いた
その中には、ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、カルナップ、ポーランドのルヴォフ・ワルシャワ学派が含まれる
彼らは数学の前提となっている方法である直観的明証性より、言語や議論の論理的検討の解析に重きを置いていた
(つづく)
2020年5月14日木曜日
哲学における論理学の役割(12)
哲学史における論理学(1)
思想史について何世紀にも亘って意見を述べることは、単純に滑稽ではないとしても無謀なことである
しかし、それをやってみようではないか
読者にはこの話を少し後ろに下がって、いくらかの皮肉をもって読んでいただくようにお願いしながら
現状を理解するためには、それが不可欠なのである
まず、中世における哲学から始めよう
このテーマについて語り始めると、時代錯誤の危険性が大きくなる
18世紀のパリ大学哲学科の学生と今日の学生の間に大きな共通性はなく、その知的世界は大きく異なっている
しかしデカルト以前には、哲学と神学の研究と本格的研究全般は、論理学の学習から始まったことが明らかである
今日の哲学科の学生と中世のパリでサント・ジュヌビエーブの丘に足繁く通う将来の聖職者には多くの共通点がなかった
それと同様に、当時の論理学はフレーゲ以後の正式な学科と同一視できない
中世における論理学(logica vetus=old logics)はまず第一に、アリストテレスのテクストの研究であった
具体的には『範疇論』、『命題論』、ポルピュリオスの『エイサゴーゲー』(アリストテレスへの注釈)である
12世紀の中頃から、新たに再発見されたアリストテレスの3論文と遅れて発見された1つを新しい論理学とした
logica modernum=modern logicsである
3論文とは『分析論前書』、『詭弁論駁論』、『トピカ』で、後から見つかったのが『分析論後書』である
これは用語(言語)とその帰結(議論)の理論である
研究の構成の中心には、自由七科(リベラル・アーツ)がある
言語に関わる三学(トリウィウム: trivium)と数学に関わる四科(クワードリウィウム: quadrivium)に分けられる
三学とは、文法、修辞学、論理学である
それぞれの学生はこれらを必ず実践しなければならなかった
真理に至るためには論理学が不可欠であるという考えが優勢だったのである
(つづく)
2020年5月13日水曜日
哲学における論理学の役割(11)
フレーゲ、あるいは新しいアリストテレス?(5)
ここでフレーゲの思想のまとめのようなものをしようとするものではない
彼の仕事は、数学の哲学の技術的な問題に属するように見える
しかしここで主張したいのは、その仕事は哲学史の流れを大きく変えたことである
分析哲学のすべての流れにとって、同時代の著しい貢献とされるものよりもずっと大きな重要性を持っていた
ニーチェ、フロイト、マルクスは、ラッセル、クワイン、プランティンガ、D・ルイスには並外れた印象を残さなかった
ポール・リクールは、ニーチェ、フロイト、マルクスを「懐疑の大家」(maître du soupçon)と呼んだ
懐疑とは、見かけの下にある現実がどんなものであるのかを疑い検討しようとする精神の在り方を指している
換言すれば、より深い、時に全く異なる現実を隠すものとして見かけを捉える精神である
その精神によって、人間の現実の真の本質や起源が明らかにされてきたのである
3人の「懐疑の大家」が現代哲学のアジェンダを設定したというよくある話は、20世紀哲学の一部にしか当て嵌まらない
論理学の革新はそれ自体が目的ではない
すでに見たように、その革新は哲学の伝統的な問題を新たに解析することを可能にしたのである
論理学の革新が根源的なものかどうかは、フレーゲの著作をどのように解釈するのかによっている
特にフレーゲ以来、命題とその問題点の厳密さ、正確さ、明確な決定が要求されるようになった
それは、正式あるいは半ば正式な方法、少なくとも論理学的手段に頼ることと関係している
ラッセルは「分析と本質的解明の対象となるすべての哲学的問題は、全く哲学的でも論理的でもない」と言った
それは言い過ぎだと判断することもできるだろう
しかし例えば、考えの修辞学や美学、表現の仕方を強調する文学的な哲学のやり方は、一つの流れにしか過ぎない
ある時代には、この流れはマージナルであった
その問題設定は、人生の意味、価値一般の問題、歴史における人間の位置などの壮大で全体に関わるものであった
しかしそれは、哲学の一部でしかなかったのである
存在、概念、知の正当化、帰納的推論などの概念というような、より控え目だが根本的な問題がある
これらについてのすべての哲学的業績は、当然のことながらその始まりから今日に至るまでの哲学に属している
それはフレーゲらの仕事を介してもいるのだが、しばしば忘れられるか、過小評価されているのである
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