2021年6月30日水曜日

6月を振り返って















今日で今年の半分が終わることになる

今月はそれほど動きはなかった

長期プロジェに関しては、一塊を纏めることができたことが挙げられる

かなり時間は掛かったが、やっと最後の一塊に向き合うことができるようになった


それから、全くの偶然からエンツォ・パーチさんの著作を読むことになった

そのエッセイには、わたしの中で散らばってあるものを繋げてくれるところがある

これがどういうことになるのか今のところ分からないが、いつか何かに繋がるような予感がしている


現世的には、フランスからの荷物が来月着くことになっているので、そのためのセットアップをした

荷物の箱が140個を超えるとの連絡が入っているので致し方ない

フランス語で「引っ越しする」はdéménagerとなる

この言葉、18世紀には頭がおかしくなるとか気がふれるという意味があったようだ

記憶に残っている引っ越し回数を数えたところ、15回くらいになった

北斎さんには遠く及ばないが、その度に生まれ変わることができていたとすれば、悪くはないだろう


最後に一つ加えるとすれば、庭の緑が瑞々さを増し、花も咲き始めたことがある

そこに現れる微妙な変化を毎日楽しみに味わっている

今年の前半最後の日も充分に刈り取りたいものである






2021年6月29日火曜日

12年振りの独立研究者















昨日の午後、テレビを付けると「独立時計師」という言葉が耳に入ってきた

この言葉の中にある「独立」がわたしの記憶を刺激したのだろう

結局、最後まで観てしまった


この立場は会社に属さず、一人で自分の思いのままに時計を作る職人を指している

ただ、業界では独立時計師の国際組織に属している人を指すらしい

いずれにせよ、日常の作業は孤独の中で行われる

番組は、高校卒業後自衛隊に入ったが時計作りに目覚めたという30代の日本人を追う形で進められていた


わたしがこの言葉に反応した理由は、以下の記事にある

Independent Scholar という立場(2009年6月12日)

2009年、ラマルクに関する会議がイスラエルであり、参加した

そこで発表していた女性研究者が「独立研究者」を名乗っていたのである

これこそ研究者の理想的な在り方だと思った記憶がある


残念ながら、現代の実験医学や生物学研究は稀な例外を除き、一人でやることは難しい

しかし、哲学の場合は一人で取り組むことは可能であると考えている

必要な時に他の人の意見を聞けばよいのである

番組を見ながら、わたしも独立時計師とほぼ完全に重なる生活をしていることを確認

集中度にはかなりの差はあったようだが、、

フランスに渡ってからは独立研究者としてやってきたことを改めて悟る


味わい深い番組であった





2021年6月28日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(6)



 

Segni, 4 août 1957

現象学的態度には、哲学的省察と以下のものとの絶え間ない対話がある。日常生活、身体生活、意思の疎通、生きている経験を考える視角の更新、ばらばらにし再び結び直す過去。時間の中における哲学的省察の深く意図された内在性。


Milan, 15 septembre 1957

このようにして、自然との接触の中で、フッサールの「ものそのもの」を具体的な人間の生活、日常の仕事として見出す。飾り気のない生活の意味、謙虚さの価値を見出し、生き直すのである。ホワイトヘッドは「歴史的な真の生活は小路や田舎町の穏やかな人間の本物の個人的感情の中にある」と言った(Essays in Science and Philosophy, New York, Philosophical Library, 1948, pp.17-18)。

 

20 octobre 1957

ヴァレリーは『レオナルドと哲学者たち』で「レオナルドにとって描くということは、すべての知とほとんどすべての技術を要する作業である。・・・彼はある意味で対象の外観から始める」と言っている。「外観」はフッサールの現象であり、よってレオナルドの態度は現象学的なのである。

描くということは現象を見ることである。絵画的見方、普通は見えないものを見ることは知にとって貴重である。つまり、現象を見ることと科学との間、技術によって見ることを実現する行為と知の間には一種の相互性がある。ヴァレリーはさらに言う。「制作と知の間の驚くべき相互性ーーそれは前者が後者を保証しているのだがーーはレオナルドを特徴付け、言葉だけの科学に対している。そしてこの相互性が行動なき言葉、不完全なものとしての哲学にとっては大きな不利になるのだが、現代を支配することになった」。従って、視覚によって哲学的な無駄話を矯正することが可能になる。言葉が行動になるのである。実際には、能動的な語りは自然の技術であり、技術の中の自然を延長するものである。 

 






2021年6月27日日曜日

エンツォ・パーチさんの『科学の機能と人間の意味』が届く



















いま折に触れてエンツォ・パーチさんの日記を読んでいるが、科学について書いた本があることを発見

英訳をアメリカに注文していたが、こちらも意外に早く届いた

The Function of the Sciences and the Meaning of Man(1972; original publication, 1963)

偶にあるのだが、大学図書館から出たものであった


まず訳者のイントロを読み、次のような考えが巡っていた

ガリレイやデカルト以来、自然を主体の外に置き、それを制御するものとして科学を捉えてきた

人間を自然の外にあるものとして捉えていたのである

しかし、人間も自然の一部であるというスピノザの認識には真理があるように見える

もしそうであるならば、科学が人間をコントロールするようになるのは当然の帰結と言える

人間は科学のコントロールの対象だったのである


本質的にはほとんど必要のない技術の発展により、人間は縛られている

なぜ本質的ではない新しい技術に人間は喜んで縛られるようになるのだろうか

おそらく、人間はこの世界の本質的なことと対峙することに堪えられず、気晴らしを求めているからではないか

パスカルが喝破したように


訳者は言う

科学は理性主義的で自己充足的だというが、それは独善的なものである

なぜなら、科学は科学のやり方を評価できないからである

評価のためには科学の外にある倫理が重要になる

しかし、それは非科学的で非理性的なものとして、科学は遠ざけている


フッサールは科学のテロスは失われたと言っているようだ

しかし、現代科学は意図してテロスを排除し、それを売り物にしている

現代科学の問題として指摘されていることは、科学の中心を成す考えが齎した必然だったのである

この本では、科学や哲学を取り巻く問題を現象学とマルクス主義の視点から論じているという

これからに繋がるものが出てきた時には再び取り上げたいものである







2021年6月26日土曜日

プラトンの『メノン』を読む




徳についてのプラトンの対話篇『メノン』の冒頭を読む

ソクラテスはまず、徳についてメノンに訊ねる

メノンは徳の中にあると思われるいろいろな性質について並べる

しかし、それは徳というものについて答えたことにならないとソクラテスに言われる

これは知識を問題にした『テアイテトス』や人間の本性について論じた『アルキビアデス』にも見られたものだ

対象としているものに属する個々の特徴を挙げても駄目なのである

これは哲学の特徴と言ってもよいものだろう


ソクラテスは「わたしは何も知らない」と常に言っている

何も知らない人がどうして徳ーーあるいは何であれーーについて探求することができるのか、とメノンは問う

それに対するソクラテスの答えは、次のようなものであった

(『パイドン』でも論じられていたが)人間の魂は死を迎えた後も生き続け、永遠である

であるとすれば、それまでに人間の魂はありとあらゆるものを見てきている

魂はすでにすべてを学んでいるので、魂の中にあるものを思い出すだけでよい

探求するとか学ぶというのは想起することに他ならないのである、となる

つまり、徳が何を指しているのかを知らなくても、探求の方向性くらいは分かるということだろうか


この議論の中で、次のようなことも言っている

「もの・こと」の本質は知り得ないとする考えは、人間を怠惰にし、惰弱な人間の耳には心地よい

しかし、ソクラテスの議論は仕事と探求への意欲を鼓舞する

もう一つ印象に残ったのはこの言葉で、探求への意欲を鼓舞してくれる

事物の本性というものはすべて親密に繋がっているので、一つのことを想起すれば他のものの本性へと導かれることもある


これらの議論を踏まえて、わたしの立場を描くとすれば次のようになるだろう

人間の魂は永遠である

それは必ずしも個々人の中にある魂のことを言っているのではない

ここで言われている人間は人類と解釈すべきではないだろうか

確かに、人類の魂は死んでおらず遺産として眠っている

その魂を呼び覚まさなければならないのである

それが想起することであり、学ぶことであり、魂を永遠にする行為ではないのか

そしてその探求を通して、「もの・こと」の本性に繋がる何かが現れる可能性がある 

このように考えて歩んでいるのが今ではないか

 

関連することを以下の記事でも書いていた

なぜ読書が魂の鍛錬になるのか(2019年6月10日)






2021年6月25日金曜日

今日はチャック・マンジオーニで















花の命は本当に短い

6月8日に最初の一輪を見付けたので、ひと月にも満たない

この状態で来年まで雪にも耐え、じっとしているのである

忍耐強いとしか言いようがない


さて、今日も音楽を聴きたい気分だ

思い切って40年以上前のボストン時代に戻ってみたい

当時流行っていてよく聴いていたチャック・マンジオーニのこの曲にした

この曲を最初に耳にした時、形容しがたい開放感が襲ってきた

アメリカに行ったばかりの時期だったことも関係しているかもしれない

この曲が爆発的にヒットした後、マンジオーニさんは精神的におかしくなったようである

いま調べたところ現在80歳でご健在とのこと、何よりだ

聴き始めると気分はすぐに当時に戻ってしまう









2021年6月24日木曜日

久し振りにコルトレーンを




















今日の早朝、結構強い雨が降っていたが、すぐに小降りになってくれたので出ることにした

長期プロジェもやっとホームストレッチに入ってきたところだ

入るとすぐにそこは底なしの沼であることが分かる

これまでと同じように前に進まないことは織り込み済みで、じっくりとその感触を味わいながら歩みたいものである


今日は久しぶりに音楽を聴きたい気分だ

すぐにびったりの素晴らしい曲が見つかった










2021年6月23日水曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(5)















30 mai 1957

名声には何の意味もない。権力には何の意味もない、君の個人的な成功には何の意味もない。虚栄。フッサールが常に闘ったこの虚栄。彼は誠実であった。彼はこころから真理を愛し、真理のために生きた。名声は世俗のもので、生の意味は世俗を否定する中でだけ、世俗の奴隷になっていない世界で行動する中でだけ姿を現す。これはわたしが固く信じていることである。

それは世界の中で行動し生きることを放棄することではない。それは真理の意味を持つ行動の欲求である。それができなければならない。そのように生きたいと思わなければならない。そのように生きようとしなければならない。


22 juillet 1957

バンフィが今日亡くなった。突然電話がかかってきた。病院では他の友人を見付けた。わたしは我々すべてに思いを馳せた。この死に向き合っている我々すべてに。この死を理解するのは難しいものになるだろう。彼のすべての著作はこれから意味が変わり、新しい評価が必要になるように感じる。・・・彼が引用した最後の人は、ガリレイ、フッサール、ジンメルだった。これらすべてが彼の共産主義に行き着いたのだ。彼の態度によって最後まで言いたかったことは、生は死よりも重要だということであった。フッサールは「生がなければ死はない」(Ohne Leben kein Tod)と言った。

*アントニオ・バンフィ(1886-1957):哲学者、ミラノ大学哲学史教授で、パーチさんの指導教授だった。

 

31 juillet 1957

わたしはバンフィ自身に、彼がガリレイについて書いたことを報告する。「これがガリレイの活気に満ちた性質である。現実の具体的なすべての問題に対する好奇心、快適で自由な生活への渇望、建設的な精神、柔軟で普遍的な人間性・・・」。ガリレイの眼鏡は単に科学の道具ではなく、新しい哲学的方向付けと「主観性と相対性に関するすべての哲学的主張にも拘わらず」共通の経験を擁護する象徴である。鋭敏さを勝ち取った目は、経験の中に新しい要素と構造の無限を発見する。





2021年6月22日火曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(4)



















本日もエンツォさんの言葉を少々


Milan, 22 septembre 1956

省察。省察は時の中に生き、自分の前に映し出される。省察は常に自分を超える何かを意図する。省察が発見するものは、真理である。わたしの中にあるものの、眠り忘れられていた真理である。未来に投影される視線は、過去を呼び覚まし、今の現実の意味を発見する視線と同じである。 


30 avril 1957

サン・テクジュペリ。自己分析ではなく自己実現を欲した男。彼が挑戦を必要としたことの危険性。生きていることを見出す喜びのために、彼は命を危険に晒した。それは『戦う操縦士』で明らかだ。


21 mai 1957

ギリシアにおけるロゴスの発見。しかし真のロゴスになるためには、このロゴスはギリシア的なだけでは駄目である。自分自身を捨てることはできないが、自分自身であるためにはこれまでに知らない他者性の中で感じなければならない。・・・

アフリカ文明があり、アフリカの思想がある。インド文明があり、インドの思想がある。中国文明があり、中国の思想がある。そして我々のギリシアの思想は、それ自身であるためには、他の思想の中で自らを発見しなければならない。 






 

2021年6月21日月曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(3)















今日もパーチさんの思索から


4 mai 1956

ヴァレリーは「我々の精神は無秩序から出来上がっている。と言うより、秩序立てる必要があるのだ」と言った。無秩序、闇、忘却、偶像化、不公正、悪、理解不能との闘い。宇宙には、目覚めに抵抗するように見える何かがある。深い眠り。覚醒した意識、真実への志向性、常にそれ自身を超える理性を保持すること。しかし、理性は一つの言葉であったり、一連の無意識の機械的な操作ではない。理性は生そのものであり、ロゴスなのだ。志向性とは生きているロゴスである。抽象的ではない意味で、志向性とは論理である。定型化、論理主義の中で、論理の生を殺してしまう危険。生の継続としてのロゴス。すべてを超えて、すべてにもかかわらず。ヴァレリーを再び。「何かを続け、追い求めること。それはすべてに抗して闘うことだ。終わりにするという嘆かわしい考えを食い止めるために、宇宙はできることすべてをしている」。

 

 


 

2021年6月20日日曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(2)








 

 

 

 

 

 


今日の早朝には比較的しっかり雨が降っていてやや寒さを感じたが、暫くして雨は収まった

昨日は家の周りの修復工事があり、最初から最後まで2時間ほど工程を眺めていた

この間、5-6人が一言も言葉を交わさず、流れるように工事が進む様を見て、ある種の感動を覚えた

彼らにしてみると当たり前なのかもしれないが、プロの仕事を見たように思った

今朝そこを通る時、少し気分が違うように感じられた

 

今日も恒例になりつつあるパーチさんの日記から印象に残った言葉を拾い集めてみたい


13 avril 1956

我々は一瞬一瞬、新しい生である我々の生を消費しているのを感じている。我々は一瞬一瞬を生きているからだが、それは知性にとっては一つの逆説である。しかし、我々がこのことを感じているまさにそれゆえに、古生代の森が固められて出来上がった石炭のように、我々が消費している過去は一つの現実でなければならない。これらの森は現実でなければならなかった。これらの森の前には、最終的に石炭に変化させるために、森を形成し、出現させ、消費し、死ぬ過去が現実でなければならなかった。そして現実に、我々が感じているのはまさにこの現実である。今日わたしを暖めている熱を感じることは、わたしの前ーー人類が地上に現れるおよそ3億年前ーーに生きていたこれらの森の実在を感じることでもある。

・・・わたしの前、人類が生まれる前、地球や太陽系や銀河系が存在する前の他の存在。おそらくそのために、わたしは今日、わたし以外の存在をわたしのもののように感じることができるのである。








2021年6月19日土曜日

エンツォ・パーチさんの日記から(1)










 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日から折に触れて、エンツォ・パーチさんの日記を読むことにしたい


Pavie, 14 mars 1956

これは本当だ。孤立しているそれそれの事実、それぞれのものは、すべてのもの、すべての他の事実と結び付いていることが明らかになる。時とともに、自然と歴史の時の流れの中で。

 

個人は唯一固有のものだが、それは全体でもある。この一人の固有の存在が自身の中に、他のすべてと本質的で典型的な関係を結んでいることを発見する時、哲学が始まる。

 

人間にとっての根源的な変容。それまで一度もなかったような人間に成るための。


Milan, 12 avril 1956

明白な存在としての我々のすべての生は、目覚めであり、過去を明確にすることである。すなわちそれは、『見出された時』(le temps retrouvé)なのである。眠っていた真理が変容して典型的な真理になり、本質的な形になる。

 

 

 

 

 

 


2021年6月18日金曜日

エンツォ・パーチさんの『現象学的日記』届く





 



 










イタリアの哲学者エンツォ・パーチ(Enzo Paci, 1911–1976)さんの本がフランスから届いた

Journal phénoménologique de Enzo Paci(2021; publication originale, 1961)


先日、初めてになるイタリア人が「現象学的」と名づけて書いた日記の仏訳が出たというニュースを見た

以前のブログやエッセイでも触れたように、「現象学」はわたしにとってのマジックワードになっている

わたしの中に現象学的な見方があるという指摘を受けたことがあるからである

早速注文したところ、意外に早く手元に届いた


パーチさんによれば、現象学という言葉はヨハン・ハインリヒ・ランベルト(1728–1777)によって最初に使われた

1764年のことである

現象学とは「ものそのもの」に回帰すること

表れている現象を見る前に判断することなく、そのものとして見、忠実に記述できるもの

それは主体、コギトに回帰するもので、人工的な主体ではなく真の主体に戻るものである

これをするためには、経験をする前にすべての知、すべての判断を一旦保留しなければならない

古代ギリシアの懐疑派が「エポケー」と言ったものである


パーチさんによれば、現象学は瞑想ではなく、鍛錬(exercice)を通して完璧を目指す禁欲主義だという

社会の変容に関わるものだという

日記とは、危機を生きる、弁証法の道を見付ける個人的なやり方である

コミュニティの批判であるが、それはそれぞれの個人の批判である


これからどんな省察が現れるのか、楽しみである






2021年6月17日木曜日

ホームストレッチ前の初日




















昨日とは打って変わって、今日は凌ぎやすい一日であった

ホームストレッチに入る前に、間口を広げておく作業をすることにした

走り始めてからこの作業をやると、大変なことになるのを学んだからである

 

朝のセッションで緩い縛りの中、この作業をする

その後はのんびり過ごした

構想を練るにはこの「のんびり」が重要である







2021年6月16日水曜日

これからホームストレッチか



















今日は打って変わって素晴らしい快晴

本日は用事があり、外出した

抜けるような青空と夏日の太陽の下、レインコートを着て歩くのも大変である

用事で人と会うのも疲れるようになっている

汗びっしょりになり、すべてを済ませた


かなり長い間付き合っていたプロジェが一段落したので、気分的にはほんの少し開放感がある

「ほんの少し」というのは、「ホームストレッチに向かう前の」という意味である

この状態は、これまでの全体を横に置き、参照しながら進めることを可能にしてくれる

贅沢な時間になりそうな予感がする

これまで通り、ゆっくりと味わいながら歩みたいものである






2021年6月15日火曜日

昨年前半の『パリから見えるこの世界』
















今朝は曇っていたが、今激しく降り出し、遠雷が響いた

植物も日の光を浴びているときは辛そうだが、雨の日は優雅さを増すように感じられる


今日は、昨年前半の『パリから見えるこの世界』を紹介したい

年明けにOne Healthの問題に触れていたが、半年後にはCOVID-19を取り上げることになろうとは予想もできなかった

また、現代に横たわる問題についても考察を始めていた


(87)『これからの微生物学』から見えるこの世界、そして科学の言葉再び

    医学のあゆみ(2020.1.11)272 (2): 194-197, 2020

(88)ヴォルテールとルソー、あるいは21世紀を考えるための二つの極

    医学のあゆみ(2020.2.8)272 (6): 563-566, 2020

(89)シュペングラーの技術論、あるいは近代文明の宿命を逃れる道はあるのか

    医学のあゆみ(2020.3.14)272 (11): 1171-1174, 2020

(90)『近代の超克』、あるいは日本人による日本の科学と知の省察

    医学のあゆみ(2020.4.11)273(2): 203-206, 2020

(91)『知性改善論』、あるいは世界の理解と幸福に至るための道標

    医学のあゆみ(2020.5.16)273(7): 615-618, 2020

(92)COVID-19パンデミック、あるいは一観察者に見えてきたもの

    医学のあゆみ(2020.6.13)273(11): 1115-1118, 2020





2021年6月14日月曜日

半年ぶりの一段落か















今日も素晴らしい快晴

朝のセッションで、長期プロジェの一塊を何とか作ることができた

当初の予定からは大幅に遅れている

これから見直しをすることになるが、それが終われば最後の一塊に向かうことになる

それがどれくらいかかるのかは始めてみないと分からないところがある

道を歩いていると、予想もしないものが現れ、道草をしたくなるからである

一体、どんな道行になるのだろうか

苦しみのなかにも悦びがあることを願っている






2021年6月13日日曜日

新型コロナ後は全方位で?



















庭は殆ど緑で覆われるようになった

そんな中、嬉しい訪問者を発見した

蟻やクモなどは前から確認しているが、蝶の訪問は今年初めてではないだろうか

暫くの間、近くに寄って植物と共に時を過ごした

 

1978年にニューヨークで生活を始め、5年ほど滞在した

その頃の情報が必要になり、コンタクト先を調べていた

意外にも、当時顔を出していたところの具体的な住所が浮かんできた

まだ記憶に残っているようだ

昨夜コンタクト先が分かり、今朝、問い合わせの手紙を発送した


前回ニューヨークを訪問したのは、もう7-8年前のことになる

早いものである

日本に戻ると全方位に開かれたように感じる

ニューヨークも含め、「いずれ」のリストがこれから増えるかもしれない







2021年6月12日土曜日

ツルゲーネフの言葉から(10)















ツルゲーネフも今日が最後となった

最後の一節を以下に書き写して終わりたい


ロシヤのある遠い片田舎に、一つの小さな墓場があって、ほとんどすべての、わが国の墓場とおなじように、これもわびしいすがたをしている。まわりをとりまく溝はひさしいまえから草にうずもれ、灰色をした木の十字架はいずれも傾いて、かつては色のついていた屋根の下で、朽ちかけている。石の墓標はまるでだれかが下からつきあげたもののように、いずれもすこしずつ位置がずれている。枝を折られた、みすぼらしい木が二、三本、わずかにまばらな陰を落とし、羊の群れがところかまわず墓のあいだをさまよう。・・・けれど、そのなかに一つだけ、人間の手に荒らされることもなく、動物の足にもふみつけられない墓がある。わずかに小鳥がその上にとまって、明け方の歌をうたうのみである。鉄の柵がその墓をとりかこみ、二本の若いもみの木がその両わきに植わっている。この墓にエヴゲーニイ・バザーロフは葬られている。ほど遠からぬ村から、老いおとろえた、ふたりの老人が、しばしばこの墓を訪れるーー夫と妻である。ふたりは助けあいながら重い足をはこんでくる。柵のそばへ近づくと、倒れるようにひざまずいて、ながいあいだ、にがいなみだを流して泣きながら、物言わぬ石を注意ぶかく見つめている。その石の下に彼らのむすこが眠っている。ふたりはなにか短いことばをとりかわし、墓石のちりを払ったり、もみの枝を直したりして、ふたたび祈りにかかる。いつまでも、この場所を立ち去ることができない。ここにいると、むすこに、その思い出に近づくことができるかのように。・・・彼らの祈りやなみだは、みのりのないものであろうか? いな! どれほどはげしい、罪ぶかい、反逆のたましいがこの墓のなかに隠れていようとも、その上に咲く花は、けがれのない目で、おだやかに人々をながめている。これらの花が人々に語って聞かせるのは、ただとこしえの安静のみではない。「無心の」自然の偉大な静けさのみではない。彼らはまた永遠の和解と、かぎりない生命をも語っている・・・

 

 (金子幸彦訳)

 





2021年6月11日金曜日

ツルゲーネフの言葉から(9)















今朝も素晴らしい快晴であった

蜘蛛も朝から日向ぼっこか


久し振りという感覚だが、1日を空けただけであった

今日もツルゲーネフを読んでみたい


ーーいまのぼくは、はじめてここへきたころのような、高慢ちきな子供じゃありません・・・とアルカーヂイはつづけたーーぼくはもう二十三になったんです。有益な人間になりたいと望んでいることに変わりはありません。自分のすべての力を真理にささげたいと思っています。しかし、自分の理想を、まえに求めていた方面に求めようとは思いません。理想はぼくにとって・・・ずっと近いところにあるような気がします。いままでは自分が分からなかったんですね。がらにない任務を自分に課していました・・・僕の目はちかごろになってやっと開いたんです。ある感情のおかげで・・・

 


ーーところで、いまわかれるにあたって、もう一度言っておこう・・・なにも自分をいつわることはないからね。われわれは永久に別れることになる。それは君も感じているだろう・・・君は利口にふるまったよ。君は、ぼくらのにがい、じみな、貧乏人の生活には、むいていないんだ。君には大胆さも、怒りもない。ただ若気の勇気といたずらっ気があるだけだ。われわれの仕事には、そんなものは役に立たない。君たち貴族連中は上品なあきらめか、それとも上品な興奮以上には、進めないんだからな。これではどうにもならないさ。たとえば、君たちはけんかしない。それで自分をえらい人間だと思ってる。ところが、ぼくらはけんかしたいんだ。そうなれば、ぼくらのほこりが君の目にはいるし、ぼくらの泥が君の着物をよごすだろう。君はぼくらの高さまで成長していないんだ。君はおもわず自分に見とれて、自分をののしっていれば、気もちがいいんだろうが、ぼくらにとっては、それはたいくつなことだ。ぼくらには相手が必要なんだ。相手をやっつけることが必要なんだ。君はいい青年だが、やっぱり骨のない、自由主義的な貴族の若だんなだよ、ぼくの親父のいうヴォラトゥ(Voilà toutーそれっきり)だよ。

 

 

 バザーロフはもうそれきり目ざめないように運命づけられていた。夕方から彼は完全な昏睡状態におちて、つぎの日に死んだ。アレクセイ神父が彼の死ぬまえに宗教上の儀式をとり行った。塗油式をして、聖油が彼の胸にふれたとき、彼の片目があいた。祭服をつけた僧侶や、煙のたちのぼる香炉や、聖像のまえのろうそくなどを見て、一瞬なにか恐怖のおののきに似たものが、死相をおびた顔に映ったように思われた。彼が最後の息をひきとって、家のなかに嘆きの声がみちわたったとき、思いがけない、怒りの発作がヴァシーリイ・イヴァノ-ヴィッチをおそった。

ーーわしは天をうらむと言っておいた!ーーのぼせた顔をゆがめて、だれかをおどかすようにこぶしをふりながら、彼はしわがれた声で叫んだーーだからわしはうらむぞ、うらむぞ!

 けれども、アリーナ・ヴラーシエヴナが、顔じゅうなみだでぬらしながら、彼の首にすがりついた。そしてふたりは一しょにうつぶせにたおれた。

 

(金子幸彦訳)






2021年6月10日木曜日

庭を見て声が出る




















今朝、庭を見てオッという声が出た

昨日はまだ一輪だけだったのが、かなり花開いていたからだ

茶色のままのものもある中、今にも開きそうな蕾も増えている

本当に柔らかそうなふくらみである

















庭の全体に目をやると、至るところに白い斑点が見える

近寄って見ると、霧のお陰で現れた蜘蛛の活動の跡のようである

彼らも我々の目に触れないところで日々生きていることが分かる

それにしても、こんなにたくさんいたのかという感じである

知らないのは人間だけのようだ






2021年6月9日水曜日

ツルゲーネフの言葉から(8)







 

 

 

 

 

 

 

 

これまでにも感じ書いてきたが、日本から見るヨーロッパは美しく見える

昨日、プラハの映像を見ながら、日本で思い描くヨーロッパも悪くないとの考えが浮かぶ

日本に落ち着くことになったことも、その思いを強くした原因のようだ

もう一つ楽しみが増えたことになる

 

今日もツルゲーネフの言葉を少しだけ

 

ーーそうだーーとバザーロフは言い出したーー奇妙な動物だよ。人間なんて。ここで「親父たち」が送っているような、浮世ばなれした生活を、はたで見ていると、これほど結構なことはなさそうに思われる。飲んだり食ったりして、自分はこの上なく正しい、この上なく道理にかなった行いをしている、と考えている。ところがそうじゃない。ふさぎの虫にやられてしまうんだ。そこで人間を相手にしたくなる、たとえ悪口を言うんでもいい、とにかく人間を相手にしたくなるんだ。

ーー一つ一つの瞬間に意味があるように、そういう風に生活をいとなむことが必要なんだーーとアルカーヂイはふかく考えこんだ様子で言った。

ーーそりゃそうさ! 意味あることは、たとえまちがっていても、美しいものさ。意味のあることとなら和解ができる。・・・ところが、くだらないいざこざというやつ・・・こいつがこまるんだ。

ーーいざこざなんてものは、人間にとって存在しやしない、そんなものを認めようとさえしなければね。

ーーふむ・・・君は分かりきったことを裏から言ってるんだ。

ーーなんだって? 君はなんのことをそんな風に言っているんだね?

ーーこういうことだよ、たとえば啓蒙は有益であると言えば、それは分かりきった文句だ。ところが、啓蒙は有害であると言えば、それは分かりきったことを裏から言っていることになる。ちょっと見ると、この方がすこししゃれているようだが、本当はどっちもおなじことなんだ。

ーーしかし、真理はどこに、どっちのがわにあるんだ?

ーーどこにって? ぼくもこだまがえしに言おう、どこに?

 

 (金子幸彦訳)

 




2021年6月8日火曜日

「チェコ人の心の中には宇宙がある」















今朝、庭に目をやりハッとすると同時に、嬉しくなった

今年初めての可憐な姿を発見したからだ

夏の到来を予告するかのようである


テレビをつけると、いずれ訪れてみたいと思っていたプラハの旅が流れていた

景色と共に、そこに生きるチェコ人を紹介しながら

抑圧の歴史を潜り抜けてきたので、皮肉なしには生きることが難しかったという

チェコ人には皮肉屋が少なくないようだ

 

登場人物の一人がこんなことを言っていた

「チェコ人の心の中には宇宙がある」

外には自由がないので内に亡命するしかなかったという

そして、亡命の世界が雄大な宇宙に成長していった可能性がある


ヨーロッパの世界を感じながら、心が広がる朝となった





2021年6月7日月曜日

ツルゲーネフの言葉から(7)









 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もツルゲーネフの言葉を読んでみたい

 

ーーわたしはここで日の入りを見ながら、哲学的想念にふけるのが好きでしてな。わたしのような世すて人には、それが相応しておりますよ。それから、あのすこしさきに、ホラティウスの愛した木をすこしばかり植えましたよ。

ーーなんの木です?ーーとバザーロフがそれを耳にとめて、たずねた。

ーーきまっとるじゃないか・・・アカシヤだよ。

 バザーロフはあくびをしはじめた。

ーーところで、もうそろそろ旅人たちはモルフェウスの手にいだかれるころあいだろうなーーとヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチが言った。

ーーつまり、ねる時分なんですねーーとバザーロフがひきとって言ったーーそれは公正なお説です。まさにそのころあいです。

 

 

アリーナ・ヴラーシエヴナはふるい時代のきっすいのロシヤ貴族に属する婦人であった。二〇〇年ほども前の旧モスクワ時代に暮らす方が彼女にはふさわしかった。彼女はきわめて信心ぶかい、感じやすいたちで、ありとあらゆる前兆とか、うらないとか、まじないとか、夢のお告げというようなものを信じていた。また狂信者の予言、家の魔、森の精、不吉の出会い、のろいのための病気、民間の療法、神聖週間の木曜の塩、世の終わりの切迫などを信じた。それから、復活祭の終夜祈祷にろうそくが消えなかったら、そばのみのりがよいとか、きのこは人の目に見られたらもう大きくならないとかいうようなことを信じていた。それからまた悪魔は水のあるところが好きだとか、ユダヤ人はみんな胸に赤あざがあるということも信じていた。彼女は二十日ねずみ、へび、かえる、すずめ、ひる、かみなり、冷水、すきま風、馬、雄ヤギ、赤毛の人間、黒ねこなどを恐れ、こおろぎや犬は不浄な生き物だと思っていた。彼女は子牛の肉、はと、へび、チーズ、アスパラガス、きくいも、うさぎ、西瓜などは食べなかった。西瓜の切ったのは洗礼者ヨハネの首を思い出させるからであった。かきとなると、話をしても身ぶるいが出るほどであった。

 

 

ーー・・・気性がしっかりしているのを悪く言って、それを高慢や無情のしるしのように思う人もありますが、しかしああいう人間はありきたりの物さしで計るわけにはゆきません。そうでしょう?・・・

ーー彼は欲のない、正直な人間ですーーとアルカーヂイは言った。

ーーそうです、欲のない人間です、わたしはな、アルカーヂイ・ニコラーエヴィッチ、あの子を神のようにあがめておるばかりでなく、あれを誇りにしておるんですよ。わたしの野心といったら、ただいつかあれの伝記にこういう文句が書かれればよい、ということだけです。「彼の父は平凡な一軍医であったが、はやくよりむすこを理解して、その教育のためになにものをもおしまなかった・・・」

 老人の声はとぎれた。

 アルカーヂイはその手をにぎりしめた。

ーーあなたはどうお思いになりますな?ーーとヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチは、しばらくだまっていたのちに、きいたーーあなたが予言して下さる、せがれの名声は、医学の方面じゃないのでしょうな。

ーーむろん、医学の方じゃありません。もっともその方面でも、やはり一流の学者になるでしょうが。

ーーすると、どんな方面でしょう、アルカーヂイ・ニコラーエヴィッチ?

ーーいまから言うのはむつかしいですが、とにかく有名になりますよ。

ーーあれが有名になる!ーーそう老人はくりかえすと、考えこんでしまった。

 

 (金子幸彦訳)

 

 

 



2021年6月6日日曜日

ワクチンの期待される効果
















ファイザーのmRNAワクチンの初回接種を受けてきた

最近の研究によれば、希望的な観測が生まれている

新型コロナに感染して回復した患者の骨髄には、長期間生存する形質細胞(抗体産生細胞)が存在するという

感染後に抗体を産生する形質細胞は短期間しか生存できないが、骨髄の形質細胞はかなりの生存が期待できる


同様の効果はワクチン接種によっても得られるのではないかという希望が湧いてくる

ただ、どんな変異株が出てくるか分からないので、これまで通りの注意は必要になるだろう

また、変異株にはブースター(ワクチン再接種)で対抗できるかもしれないという意見もあるようだ

いずれにせよ、これから経過を追わなければならないのだが、、




2021年6月5日土曜日

ツルゲーネフの言葉から(6)











 

 

 

 

暴風雨一過、昨日が嘘のような素晴らしい朝を迎えた

庭も緑が目に沁みるようになってきた 

緑がこれほど味わい深く感じられるのは、今年が初めてではないだろうか


空に面白い形が現れていたので、カメラに収める

すでに言ってきたことだが、空は芸術家なのだ

さらに言えば、自然は・・・となるだろう

 

乗り掛かった舟なので、今日もツルゲーネフを読むことにしたい


卑俗なものの出現はしばしば生活に益をもたらすことがある。それはあまりにつよく張られた絃をゆるめ、思いあがった気もちや、おのれを忘れがちな感情をしずめるものである。こういう感情も卑俗なものととなりあわせのものだということを、思い出させるからである。

 

 

ーーくどいようですが、ご不自由の点はおゆるし願います。もっとも、パイプにたばこをつめるくらいはできますので、あなたはたばこをおあがりでしたな?

ーーぼくはたいてい葉巻きをすいますーーアルカーヂイは答えた。

ーーそれは一番よろしいですな。わたしも葉巻きの方がすきですが、こういうへんぴな土地では、なかなか手に入りませんのでな。

 ーーこぼすのはもうたくさんですよーーとバザーロフはまたさえぎったーーそれよりそこの長椅子に腰かけて、顔を見せてくれませんか。

・・・

ーーこぼしているわけじゃない!ーーとヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチは言ったーーこれ、エヴゲーニイ、考え違いをしてはいかん。わしはお客さまにむかって、こんな片田舎に暮らしておりますなどと、泣きごとを言って、同情してもらおうと思っておるわけではない。それどころか、わしは、思索をする人間にとっては片田舎もなにもありゃせん、と思っている。すくなくとも、わしはできるだけ、いわゆる体にこけを生やさんように、時世におくれんように努めておるよ。

 

 

ーーまあ、一つうちの庭がどんなになったか見てくれ。わしが自分で木を一本一本植えたんだよ。果樹もあるし、木いちごもあるし、それに薬草はなんでもある。いやお前たちがどんなにうまいことを言っても、パラケルススのいったことは不滅の真理だよ。in herbis, verbis, et lapidibus.(草と木と石の中に)。

 

(金子幸彦訳)

 

 




2021年6月4日金曜日

ツルゲーネフの言葉から(5)














今日は朝から暴風雨で、まだ収まっていない

余り記憶にはない

ということで、久し振りに家に籠ってやることにした

偶にはよいだろう


今日もツルゲーネフを読んでいきたい

この状態は昨年前半に『現代哲学』を読んでいた時のことを思い出させる


ーーでは、あなたは芸術的感情を一滴も持っていらっしゃらないんですの?ーー彼女はひくい声で言って、テーブルにひじをついた。そのために、彼女の顔はバザーロフにちかづいたーーどうしてあなたは、それなしですまされるのでしょう?

ーーでも、なんのためにそれが必要なんです? うかがいたいもんですね。

ーーまあ、少なくとも人間を知って、それを研究するために必要なんですわ。

バザーロフはかすかな笑いをうかべた。

ーー第一、そのためには生活の経験というものがあります。第二には、あえて申しますが、個々の人間を研究するなんて、むだなことです。すべての人間は、体から言っても、精神から言っても、似かよったものです。われわれはひとりひとりの脳や、脾臓や、心臓や、肺は、みんな同じようにできています。いわゆる精神的資質だって、みんな同じようなものです。すこしは変種もありますが、そんなものはなんの意味もありません。人間の標本が一つあれば、そのほかのすべてを判断するのに十分です。人間は森のなかの木と同じことですよ。白樺の木を一つ一つ研究する植物学者なんていませんからね。

 

 

アンナ・セルゲエヴナはかなり風変わりな女で、かたよった考えはすこしももっていなかったし、つよい信念さえもまるでなかったが、どんなもののまえにも譲歩したこともなく、自分の道をふみはずすこともなかった。彼女は多くのことをはっきりと見ぬいていて、多くのことに興味をもっていたが、なにものも彼女を完全に満足させることはできなかった。それに、彼女自身も完全な満足などはほとんど望んでいなかった。彼女の知力は探求的であると同時に、また冷静なものであった。

 

 

ーーわたしがふしあわせなのは希望もないし、生きる興味もないからです。… わたし、なにもかくしません。わたしはあなたのいう安楽がすきです。でもそれと同時に生きたいという望みもすくないんです。この矛盾をどうとってもかまいません。もっとも、あなたから見ると、これはみんなロマンチズムなんでしょうね。

バザーロフは首をふった。

ーーあなたは健康で、自由で、お金もちです。その上なにがいります?なにがお望みなんです?

ーーなにがのぞみなのかですって?ーーと相手のことばをくりかえして、オヂンツォーヴァはためいきをついたーーわたしはとてもつかれて、年をとってしまって、ずいぶんながいこと生きてきたような気がします。ええ、わたし年をとってしまいました … わたしのうしろにはいろんな思い出が重なっています。ペテルブルクでの生活、富、それから貧乏、それから父の死、結婚、それからおきまりの外国旅行 … 思い出はたくさんありますけど、思い出したいことはなにもないんです。これからさき、行く手に、ながい、ながい道がつづいて、それでいて、目的というものがありません … さきへすすむ気がしないんです。

 

(金子幸彦訳)





2021年6月3日木曜日

ツルゲーネフの言葉から(4)












 

 

 

今日もツルゲーネフの言葉に耳を傾けてみたい


ーーまえには冬になると、モスクワで暮らしていましたけど … いまはわが夫なるムッシウ・クークシンがあちらに住んでいます。それにモスクワもいまは、よくわかりませんけど、やはりむかしとちがってきました。わたし外国へゆきたいと思っているんです。去年などはもうすっかり支度ができたんですけど。

ーーもちろん、パリでしょうねーーとバザーロフはきいた。

ーーパリとハイデルベルヒ。

ーーなぜ、ハイデルベルヒへ?

ーーあら、あすこにはブンゼンがいるじゃありませんか!

バザーロフはなんと答えていいか分からなかった。

 

 

ーーこの街にきれいな女の人はいますか?ーー三杯目をのみほしながら、バザーロフがきいた。

ーーいますよーーとエヴドークシヤは答えたーーだけどみんな空っぽな人間です。たとえば、mon amie のオヂンツーヴァなんか、なかなかきれいな人です。惜しいことに、なんだか妙な評判のある人で … でも、そんなことどうでもいいんですが、自由な見解というももないし、ひろい理解というものもなし、まあそういうものが … まるでなんにもないんです。教育制度というものをすっかり変える必要がありますね。わたしそのことをまえから考えているんです。ロシヤの女はほんとにひどい教育をうけてますからね。

 

 

その日アルカーヂイはたえずおどろいてばかりいなければならなかった。彼はバザーロフがオヂンツォーヴァをかしこい婦人として、これに自分の確信や意見を語るものと期待していた。彼女自身も、「何ものをも信じない、大胆な人」の話を聞きたいと言ったのである。ところがそういう話のかわりに、バザーロフが語ったのは、医学のことや、同種療法のことや、植物学のことであった。話してみると、オヂンツーヴァが孤独の時間をむだにすごしていないことが分かった。彼女はいくつかの、立派な本を読んでいたし、正しいロシヤ語を話すことができた。彼女は音楽の方へ話をむけたが、バザーロフが芸術をみとめないのを知ると、アルカーヂイがさっそく国民的旋律の意義を説きはじめたにもかかわらず、それとなく植物学の方へ話をもどした。

 

(金子幸彦訳)

 







2021年6月2日水曜日

ゆっくりセットアップを始める







 

 

 

 

 

 

 

 

快晴の下、新緑の並木道をドライブする

いつもの席に腰を下ろすと、先日発見したやはり新緑に覆われた丘が目に入る

気持ちの良い一日の初めとなった

 

今日は将来のためのセットアップに時間を使った

これまではプロジェのための場所との往復が主で、他のところには目が行かなかった

しかし最近、町を広く使おうという気持ちが生まれている

そうすると、それなりの発見が生まれている

 

今日やったことはちょっとしたことだったが、それでも前に進んだという感覚がある

このゆっくり進めるという感覚がなかなか良いのだ

暫くはこのような日が続きそうである

 

 




2021年6月1日火曜日

ツルゲーネフの言葉から(3)






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もツルゲーネフを読むことにしたい


人間というものはすべて自分で自分を教育しなくちゃならない。たとえば、ぼくみたいなものさ … 時代ということにしても、なぜ僕が時代に支配されなくてはならないんだい? 時代の方でこそ、僕に支配されるべきだよ。

 

 

ーー君はよく親父を知らないんだよーーとアルカーヂイが言った。

ニコライ・ペトローヴィッチは息をひそめた。

ーー君のお父さんはいい人だーーとバザーロフはひくい声で言ったーーしかしもう時代おくれだ、あの人の役割はすんでしまったよ。

ニコライ・ペトローヴィッチはじっと耳をすました … アルカーヂイはなんとも答えなかった。「時代おくれの人間」は、二分ばかりうごかずに立っていたが、やがてゆっくりと家の方へ帰って行った。

ーーおとといだったかな、あの人はプーシキンを読んでいるんだーーとバザーロフはそのあいだにことばをつづけたーー君、どうか、よく説明してあげろよ、あんなことはなんの役にもたたないって。あの人はもう子供じゃないんだから、もうあんなばかげたものはやめてもいいころだよ。いまどき、ロマンチストでいるなんて、物ずきな話じゃないか! なにか実際的なものを読ませてあげろよ。

ーーなにがいい?ーーとアルカーヂイがたずねた。

ーーそうだな、ビュヒネルの Stoff und Kraft(物質と力)なんか、手はじめにいいだろう。

 

 

むかしはわかい人たちは勉強しなければならなかった。教養のない人間と言われたくなかったので、いやでも勉強したものです。ところが、いまは「世のなかのことはみんなばかげてる!」と言いさえすれば、それで上首尾なのだ。だからわかいものは大喜びです。実際、まえには彼らはただのばか者だったが、いまでは急にニヒリストになってしまった。

 

 (金子幸彦訳)