今日もツルゲーネフの言葉を読んでみたい
ーーわたしはここで日の入りを見ながら、哲学的想念にふけるのが好きでしてな。わたしのような世すて人には、それが相応しておりますよ。それから、あのすこしさきに、ホラティウスの愛した木をすこしばかり植えましたよ。
ーーなんの木です?ーーとバザーロフがそれを耳にとめて、たずねた。
ーーきまっとるじゃないか・・・アカシヤだよ。
バザーロフはあくびをしはじめた。
ーーところで、もうそろそろ旅人たちはモルフェウスの手にいだかれるころあいだろうなーーとヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチが言った。
ーーつまり、ねる時分なんですねーーとバザーロフがひきとって言ったーーそれは公正なお説です。まさにそのころあいです。
アリーナ・ヴラーシエヴナはふるい時代のきっすいのロシヤ貴族に属する婦人であった。二〇〇年ほども前の旧モスクワ時代に暮らす方が彼女にはふさわしかった。彼女はきわめて信心ぶかい、感じやすいたちで、ありとあらゆる前兆とか、うらないとか、まじないとか、夢のお告げというようなものを信じていた。また狂信者の予言、家の魔、森の精、不吉の出会い、のろいのための病気、民間の療法、神聖週間の木曜の塩、世の終わりの切迫などを信じた。それから、復活祭の終夜祈祷にろうそくが消えなかったら、そばのみのりがよいとか、きのこは人の目に見られたらもう大きくならないとかいうようなことを信じていた。それからまた悪魔は水のあるところが好きだとか、ユダヤ人はみんな胸に赤あざがあるということも信じていた。彼女は二十日ねずみ、へび、かえる、すずめ、ひる、かみなり、冷水、すきま風、馬、雄ヤギ、赤毛の人間、黒ねこなどを恐れ、こおろぎや犬は不浄な生き物だと思っていた。彼女は子牛の肉、はと、へび、チーズ、アスパラガス、きくいも、うさぎ、西瓜などは食べなかった。西瓜の切ったのは洗礼者ヨハネの首を思い出させるからであった。かきとなると、話をしても身ぶるいが出るほどであった。
ーー・・・気性がしっかりしているのを悪く言って、それを高慢や無情のしるしのように思う人もありますが、しかしああいう人間はありきたりの物さしで計るわけにはゆきません。そうでしょう?・・・
ーー彼は欲のない、正直な人間ですーーとアルカーヂイは言った。
ーーそうです、欲のない人間です、わたしはな、アルカーヂイ・ニコラーエヴィッチ、あの子を神のようにあがめておるばかりでなく、あれを誇りにしておるんですよ。わたしの野心といったら、ただいつかあれの伝記にこういう文句が書かれればよい、ということだけです。「彼の父は平凡な一軍医であったが、はやくよりむすこを理解して、その教育のためになにものをもおしまなかった・・・」
老人の声はとぎれた。
アルカーヂイはその手をにぎりしめた。
ーーあなたはどうお思いになりますな?ーーとヴァシーリイ・イヴァーノヴィッチは、しばらくだまっていたのちに、きいたーーあなたが予言して下さる、せがれの名声は、医学の方面じゃないのでしょうな。
ーーむろん、医学の方じゃありません。もっともその方面でも、やはり一流の学者になるでしょうが。
ーーすると、どんな方面でしょう、アルカーヂイ・ニコラーエヴィッチ?
ーーいまから言うのはむつかしいですが、とにかく有名になりますよ。
ーーあれが有名になる!ーーそう老人はくりかえすと、考えこんでしまった。
(金子幸彦訳)
0 件のコメント:
コメントを投稿