徳についてのプラトンの対話篇『メノン』の冒頭を読む
ソクラテスはまず、徳についてメノンに訊ねる
メノンは徳の中にあると思われるいろいろな性質について並べる
しかし、それは徳というものについて答えたことにならないとソクラテスに言われる
これは知識を問題にした『テアイテトス』や人間の本性について論じた『アルキビアデス』にも見られたものだ
対象としているものに属する個々の特徴を挙げても駄目なのである
これは哲学の特徴と言ってもよいものだろう
ソクラテスは「わたしは何も知らない」と常に言っている
何も知らない人がどうして徳ーーあるいは何であれーーについて探求することができるのか、とメノンは問う
それに対するソクラテスの答えは、次のようなものであった
(『パイドン』でも論じられていたが)人間の魂は死を迎えた後も生き続け、永遠である
であるとすれば、それまでに人間の魂はありとあらゆるものを見てきている
魂はすでにすべてを学んでいるので、魂の中にあるものを思い出すだけでよい
探求するとか学ぶというのは想起することに他ならないのである、となる
つまり、徳が何を指しているのかを知らなくても、探求の方向性くらいは分かるということだろうか
この議論の中で、次のようなことも言っている
「もの・こと」の本質は知り得ないとする考えは、人間を怠惰にし、惰弱な人間の耳には心地よい
しかし、ソクラテスの議論は仕事と探求への意欲を鼓舞する
もう一つ印象に残ったのはこの言葉で、探求への意欲を鼓舞してくれる
事物の本性というものはすべて親密に繋がっているので、一つのことを想起すれば他のものの本性へと導かれることもある
これらの議論を踏まえて、わたしの立場を描くとすれば次のようになるだろう
人間の魂は永遠である
それは必ずしも個々人の中にある魂のことを言っているのではない
ここで言われている人間は人類と解釈すべきではないだろうか
確かに、人類の魂は死んでおらず遺産として眠っている
その魂を呼び覚まさなければならないのである
それが想起することであり、学ぶことであり、魂を永遠にする行為ではないのか
そしてその探求を通して、「もの・こと」の本性に繋がる何かが現れる可能性がある
このように考えて歩んでいるのが今ではないか
関連することを以下の記事でも書いていた
なぜ読書が魂の鍛錬になるのか(2019年6月10日)
0 件のコメント:
コメントを投稿