2022年1月31日月曜日

1月を振り返って















今月は昨年に比べると非常に良いスタートを切ることができた

これまでにも触れているが、当面の行き先がはっきりしたからだと思っている

以下、何をやっていたのかを振り返ってみたい


1)「医学のあゆみ」のエッセイシリーズから一部を選んで再構成し、全体に纏まりを付ける作業を行った

中心はやはり科学と哲学になる

幸いファーストバージョンが姿を見せてくれた

現在、全体を読み直し、さらにリファインする作業中である


2)「医学のあゆみ」のシリーズの最後となる105回目のエッセイを書き終えた

今回取り上げたのは、現時点で見えてきたこれからに向けてのぼんやりとしたイメージである

そこで紹介した論理に則れば、このシリーズの間、幸福な時間を味わっていたことが見えてきた

何かが終わると、そこに動きを止めた大きな塊が残されるので観察しやすくなる

その塊の意味を理解するのはこれからになるだろう

同時に、これからに向けたプロジェの種のようなものもそこに埋もれているはずである

それを探索するのもこれからのテーマになる


3)今月もマルセル・コンシュさんを読んできた

彼が考える形而上学の枠組みが少し見えてきたように感じている

気が付けば、かなり長い間読んできたことになるので、ここで一段落としたい

これから、これまでのところを纏めておくことにしたい


4)最後に、これらの活動を支えているアトリエの存在だが、想像を遥かに超える効果を及ぼしている

フランスに行くと、体が地上から浮き上がるような感じになり、頭の中がスッキリして晴れ渡り、よく考えられるようになる

日本では、それとは違い地上に降りてくるのだが、アトリエでは「異次元の」とでも言いたくなるような集中ができている

全くの偶然でできたアトリエがこれほどの仕事をしてくれるとは、当初想像もできなかった

このような効果がどうして生まれるのか、理由は全く分からない

ただ、2つの場所で行われていることに違いがあることには気が付いた

フランスではこの身を世界に晒し、新しい方向性を模索することに明け暮れていたが、現在のアトリエで行われていることは、これまでに蓄積された記憶と対峙し、そこから何かを引き出そうとしているという違いである

これから暫くは「引き出す」ことが主要なプロジェになると思われるので、そのためには悪くない場になっているのかもしれない

いずれにせよ、今はできるだけ長くこの状態が続き、「抽出」の作業を後ろから押してくれることを願うばかりである





2022年1月29日土曜日

統合への欲求































このところの繋がりでテイヤールの著作を読んでみることにした

主著と言われる『現象としての人間』(Le Phénomène humain, 1955 )を注文、本日届いた

早速手に取り、冒頭のウィルディールス(N.M. Wildiers, 1904-1996)という方による序文を読んで驚いた

それは嬉しい驚きと言うべきだろう

そこにわたしの考えと重なる志向性を持つ人物が紹介されていたからだ

具体的なところには違いはあるものの、アスパイアしているところが同じなのである

これから折に触れて、その中身にも触れることにしたい






2022年1月28日金曜日

一点に収斂する感覚を味わう



昨日、オメガ点の影響かどうかは分からないが、一点に収斂するような感覚に陥った

「医学のあゆみ」誌のエッセイシリーズの最終回が一気に姿を見せた

それだけではなく、このシリーズから一部を選び再構成する作業も一気に収斂し、ファーストバージョンが出来上がった

こういうことは暫く経験したことがなく、驚いている


ということで、今朝は雪を眺めながら時を過ごした

肉眼の方がずっと美しく、カメラでは捉え切れていない

上の写真の白い点は雪が降っているのではなく、陽の光を浴びてキラキラ輝いているところである

朝の至福の時間であった

時間は消えているのではあるが、、










2022年1月27日木曜日

真剣な思考を促す「それがどうした」















今朝目覚めると、再びの雪

街が明るく綺麗になるので雪自体には文句はないのだが、今日も30分程度ではあったが雪搔きとなった

この冬4回目なので、異常ではないかと思っている


ところで、何か新しいアイディアが浮かんできた時、多くは没になる

ただその時、どれだけ真剣にそのアイディアを問い詰めていたのかという疑問が湧いてきた

そのアイディアの周りに考えを広げることは、その後のためにも良い効果があるのではないか

そこで浮かんできたのが、より生々しい第三者の声としての「それがどうした(それが何だというのだ)」という言葉であった

昨日、あるアイディアに対して、そう声を掛けてみた

すると、その意味するところを真剣に考えるようになり、新しいところに考えが広がったのである

自らがそのアイディアをディフェンスしようとするからではないかと思う

これは想定外の効果であった

この言葉、これからも頻繁に使えそうである






2022年1月26日水曜日

ピエール・テイヤール・ド・シャルダンの「ポワン・オメガ」





























  Pierre Teilhard de Chardin(1881-1955)


フランスのイエズス会司祭で古生物学などの科学を修め、進化について考えた人物がいる


究極の真理を求めることについて書いている時、彼が考えた「オメガ点」(point Ω)のことが思い出されたのだ

以前のブログでも触れたような気がしたので調べたところ、今日のタイトルと同じ構造の記事が見つかった
そこで使われている図は以下のものであった




ある一点に収斂するというイメージが記憶を刺激したようだ

カトリックの教義と科学(進化)を融合させた結果生まれた宇宙の進化についてのヴィジョンである

オメガ点とは、進化が複雑性と意識を発達させ、最後に辿り着く究極の地点のことである

ただ、それは以前から存在していて進化の原因にもなっているという

最高の複雑さと最高の意識を持ったその点は、宇宙の外に在る超越的なもので抽象的な存在ではなく人のイメージだともいう

神的存在を想起させる

そのためだと思うが、例外はあるものの、多くの科学者の批判の対象になっている






2022年1月25日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(51)














コンシュさんの「哲学的自然主義」も今日が最後になった

早速始めたい


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極小のレベルでは、物質の概念はもはや意味を持たない。

原子システムの大きさの次元における基本的な過程は、特定の条件が満たされれば、その活動が生命の活力に導くであろう主軸となる中心の形成を、あちこちに準備する。

我々が他の惑星――それが我々太陽系のものであれ、他のものであれ――に生命を見出すのを待ち望むのは尤もなことである。

また、我々に似た生物から発せられるメッセージが無限の深みからやって来ることもあり得ると考えるのも尤もである。

ビュルマンの問いかけに、デカルトは次のように答えている(ジャン・マリー・ベイサードの訳による)。

「我々は、神が地球の外から、あるいは星などで力を行使しなかったかどうかについて何を知っているだろうか。神が特徴的に異なる他の創造物、他の生命、言ってみれば人間、あるいは少なくとも人間に類似した存在を定着させなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか。・・・そして、神が無数の生物種を生み出さなかったかどうか、我々は何を知っているだろうか」

わたしはデカルトが神について言っていることを自然について言うに止める。

しかし、「おそらく」と付け加えてデカルトに同意したいのである。

(了)

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長きに亘ってコンシュさんを読んできたが、ここで一段落としたい

これまでの読みで、彼の形而上学の考え方の骨格が見えてきたように思う

それはわたしのものとも重なるところがあるので、今後さらに検討していきたい

まずは、これまでに読んできたものを纏めながら捉え直す必要があるだろう

陰影が微妙なので、放っておくと闇の彼方に消え入りそうなので・・・





2022年1月24日月曜日

エリック・サティ再び



















今朝、エリック・サティの番組が流れていた

出かけようとしたところだったが、暫くすると昔の記憶が蘇ってきたので最後まで観ることにした

もう17年程前になるが、サティを主人公にした芝居をパリで観たことを思い出したのである

早速調べてみると、最初のブログにその記録を見つけることができた

エリク・サティー ERIK SATIE(2005.6.25)

そして、すっかり忘れていたが、最初のブログの作者がサティだったことも再確認

彼の人生や人となりに感じるところがあったのだろうか


番組を観ながら、全てのショットでフランスを感じていた

自分が見ていたフランスの姿がそこにあった

もう一つの発見は、彼が真剣に愛した唯一の女性が画家のシュザンヌ・ヴァラドンだったということ

彼は音楽に没頭したいがために彼女と別れ、それ以後女性との関係は持たなかったらしい

サティ協会の会長さんが「極端ですね」とコメントしていた

ただ、別れた後も彼女には送られることがなかったかなり手紙を書いている

サティの死後ヴァラドンに手渡されたようだが、彼女が亡くなった時にはその行方は分からなくなっていたとのこと


それからシュザンヌ・ヴァラドンという名前を聞いて、直近の記憶が刺激された

トゥールでトラムに乗ると、不思議な魅力を持ったこの音がよく聞えてきたからである

駅名になっていたのである


もう一つだけ

サティ32歳の時、パリの口うるさい批評家やインテリの世界が嫌になり、アルクイユというパリ近郊の町に移り住む

窓が1つだけのアパルトマンには、誰も足を踏み入れることを許さなかったという

結局、孤独を求めたその空間に27年間住むことになり、そこが彼の終の棲家になった

このアパルトマンを見ている時、昨年から始めたわたしのアトリエ生活とどこか重なるように感じていた


いろいろの記憶が刺激される朝の時間となった




2022年1月23日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(50)































もし自然の創造性を認めるならば、我々が見ているこの唯一の宇宙を生み出すように自然が自らを制限したことをどのように考えるのだろうか。

ギリシアの多元主義的哲学者が考えたように、このような創造性は無限で、無限の多種多様性を可能とし、唯一の宇宙ではなく、可能なすべての宇宙を生み出すことができるのである。

そうでなければ、制限する原理が必要になり、それは摂理になるだろう。

それがライプニッツの場合である。

アナクシマンドロスデモクリトスエピクロスは、無数の世界――よろしければ宇宙――を生み出すものとして自然を捉えていた。

ライプニッツは、神は最良のものを一つだけ選んだと主張している。

哲学者が神学者に屈服したのである。

空を見てみよう。

物質の集積である銀河系とは何だろうか。

地上の生命は元は物質の集積に過ぎないものに由来していると言われる。

なぜ生命はそこから来たのだろうか。

それは「物質の集積」は物質より遥かに多くのものを含んでいるからである。











2022年1月22日土曜日

再びの雪















今朝起きてまたまた驚いた

寝ている間に降ったものと思われる

雪は少ないところだと思っていたのだが、今年は異常ではないだろうか

この冬3度目になる雪搔きをしなければならなくなった

あやふやな記憶ではあるが、昨年は1度だけ、一昨年は1度もしなかったのではないだろうか

今日は籠ることにした



早速、雪搔きをした

前回の湿った重い雪とは異なり、さらさらした雪なのであっという間に終わってしまった

問題はその下にある氷だろう

いずれにせよ、今日様子を見ることには変わりない





2022年1月21日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(49)































18、19世紀においては、唯心論は唯物論と対立させられていた。

エメ・アンリ・ポーリアン(Aimé-Henri Paulian, 1722-1801)の物理学辞典ニーム、1773)では、二つの並行する欄で一つずつ比較している。

一方に人間は精神であるとあれば、他方にはそれは物質に過ぎないとある。

一方に人間は真に自由であるとあれば、他方には人間は自分を自由だと信じている風見鶏だとある、といった具合だ。

普通の人間の自然に生まれる選択はどちらだろうか。

唯心論に傾くのではないか。

2つの陣営の一方は自然と人間を正当に評価していないので、両者は等価ではない。

人間は、人間が物質に過ぎないとか、動物より自由でないという考えには異議を申し立てる。

それが誤りであることを人間は知っている。

哲学者は自然と人間の創造性を強調しなければならない。

それはベルクソンがやったことである。

創造的な持続という概念で、彼は正しいところに触れたように、わたしには見える。

しかし彼は、彼がやったように、この概念が一神教的唯心論に与するのを禁じたことをどのように見るのか、どのように見たいのかを知らなかった。

そして、彼は自らが始めたところ――すなわち、自然主義――で終わらなければならなかったのである。







2022年1月20日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(48)

























絶えず「もの・こと」が始まるのでないとすれば、この創造性とは何を意味しているのだろうか。

起こったことの単純な繰り返しはない。

そうでなければ、時間は何のためになるのか。

時間は創造的ではないし、「同じ川に二度入ることはできない」と言ったヘラクレイトスは間違っていただろう。

エピクロスはよく見ていた。

今の自然は以前に在ったものの中には含まれていなかったこと、過去に在ったものから見れば自由であったこと、自主性が無限な場であることを。

しかし彼は、デモクリトスの普遍的なメカニズムは保持した上で、その上に単にこのメカニズムの破綻のアイディアを張り付けたのである。

自然はレベルに合わせて解析しなければならない。

自由と自然の所謂矛盾は、自然の唯物論的見方から来たものである。

生命のない物質から生命や精神や自由を引き出すことができないのは確かである。

しかし物質とは、表層は表面的で比較的固まり硬直化しているに過ぎないが、その深みにおいては永遠の活力であり革新に他ならないものである。

自然は常に革新的で、詩人として、すなわち自身の創造を先取りすることなく盲目的に創造する。

自然はペネロペの布のようなもので、それは果てしなく、全体を見渡すことなく、織っては解き、解いては織ることを絶えず繰り返すのである。

なぜなら、何かが起こった途端、自然はそれを無に帰すからである。

自然は自分がやっていることを知らずに人間を創造した。

人間の中で自然は精神になる。

なぜなら、自然は自分を知らないが人間は知っているからである。

自然は自己創造的であるので、人間が自分から始めるという意味で自己創造者と見做す限りにおいて、人間は最も自然な、少なくとも自然の本質に最も合致する存在である。







2022年1月19日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(47)

























それでは我々は何を持っているのだろうか。

わたしは創造性だと言おう。

なぜなら、創造性とは、それなしには自然が存在しないものだからである。

古典的な形での因果性の原理は創造性を排除する。

なぜなら、結果の中には原因より多くのものはあり得ないからだ。

ライプニッツは「十分な原因と結果全体との」等価性の原理を作った。

つまり、「結果は原因を超えないはずだ」ということである。

しかし、原因と結果の間に同一性があるとすれば、何も起こらないのと同然である。

最早、出来事も自然もないことになる。

何も新しいものがないので、我々は全体を理解できるが、自然は消え失せる。

これが因果律の結果である。

このように因果律は古典的な科学を支配していたのである。

エミール・メイヤーソンは「自然を理解できると仮定することにより、自然を完全に破壊することになった」と言っている。

しかし、自然は存在している。

これは、原因とは異なる結果があることを意味している。

原因では説明できない結果を生み出す原因の存在である。

エミール・ブートルーはこのことをよく見ていた。

「原因あるいは近接の条件が、結果を説明するために必要となるすべてを含んでいることをどのように理解するのだろうか。原因には、結果と原因を識別するところのもの、因果性の関係に不可欠な条件である『新しい要素』の出現が含まれることは決してないだろう。」

しかし、この新規性こそ自然に内在する特徴なのである。

なぜなら、自然は絶えず入れ替わっているからだ。

これはホワイトヘッドが言うところの「創造的前進」であり、ベルクソンもよく理解していたことである。









2022年1月18日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(46)














従って問題は、そこで自由が可能になるように自然を理解することである。

それはまさしくエピクロスの問題であり、原子の中に自由を位置付けることにより、彼はこの問題を解決したのである。

リュキアオエノアンダのディオゲネス(2世紀のエピクロス主義者)は言っている。

「君は、デモクリトスは発見しなかったが、エピクロスが明らかにした原子の偏りから成る自由な運動を原子もしていることを知らないのか」(fr. 32 Chilton)

しかし、自身の唯物論によって、エピクロスは原子の自由を真に想定するのを妨げられ、キケロ、それからモンテーニュはエピクロスのクリナメン(原子の偏り)を揶揄わずにはいられなかった。

しかし、すでに見たように、自然を物質に還元すべきではない。

この物質とは、マクロのレベルで常識に訴える自然に過ぎない。

もし、微細なレベル、無限に小さい物理的なレベルにある、プランク定数が支配する自然の深みにまで下っていくと、人間のレベルであったもの――物質、ラプラスの決定論、時空の枠組み、局所実在主義――はなくなるのである。





2022年1月17日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(45)

























しかし、人々はこう言うだろう。

もし人間が自然に組み込まれるとしたら、人間の自由はどうなるのか、と。

唯心論者と唯物論者は、自然主義者が自然の只中で人間の自由を考えることの難しさを共に強調する。

イヴォン・キニウは、そこにわたしの「哲学的構想」における「唯一の盲点」があると指摘する。

しかし、ここにアルキメデスの点(議論の基礎として信頼できる開始点、真理を看取する視点、神の視点)があるという利点がある。

いずれにしても、我々はまず、真理を得る判断を可能にする人間における開放性(Dasein)である普遍的な自由として、そして個人が自身の原因であり、人間であるための可能性の出現である個人的な自由として、自由を疑うことはできないことを知っている。









2022年1月16日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(44)

























しかし、皆さんはわたしにこう言うだろう。

なぜ、天体物理学者の言葉を借りれば「神秘的なビッグバン」によって始まったこの宇宙が――そこには歴史があり、絶え間なく膨張している、あるいはしていない――、自然の全体ではないのか、と。

さらに、「あなたは、この宇宙が広大な自然の中における『小さな牢獄』にしか過ぎないと主張している。あなたは、他の人たちが神を信じるように、自然を信じている」と。

わたしは、形而上学が純粋に合理的な回答を出すことができないことは認める。

有神論あるいは自然主義の立場に立って議論することもできるが、議論というのは、我々が議論に対して自由に与えたいと思う力しか持っていない。

わたしは、形而上学とは「自由に基づくものである」と言った。

事実と事実を超えたものがあり、この超えたものに中身を与えるには信念が必要になる。

ところで、自然の中にあるものが、わたしにとって最も確かなように見える。

なぜなら、神は事実を超えているのに対し、自然はすべての人に直に開かれており、事実であると同時に事実を超えている。

さらに、神がいないとすれば、人間の自由は制約されない。

人間が自由なのである。







2022年1月15日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(43)
































科学者が必然的にそこに認める統一性のお陰で、宇宙はわたしが世界と呼んでいるもの、すなわち、何らかの有機的なやり方で出来ている全体(holos)、あるいはすべてが結び付いている全体を指している。 

草の葉の100分の1プースを厳密に理解するためには、宇宙を理解しなければならないとよく言われたことをフィリップ・フランクは我々に思い出させてくれる。

これは、わたしが自然を世界――それは組織化され有限で、いずれにせよ閉じている――にすると呼んでいるもので、その古代のモデルはストア派の宇宙(cosmos)である。 

ハイゼンベルクは「科学は人間によって作られた。この自明の事実は容易に忘れられる」ことを我々に喚起してくれる。

それでは、人間は何をするのか。

人間は自然を「有限にする」のである。

「我々だけのために、有限はある」とニーチェは言った。

さらに加えて「全体、統一性を取り除くことがわたしには重要に見える」と言った。

そこからこのメモが生まれる。

「『混沌即自然』(Chaos sive Natura)、自然の非人間化」。

いくつか引用がある。

ポアンカレを引用する時、わたしはポアンカレの権威の下に身を置く。

ニーチェを引用する時には、ニーチェの権威下に身を置くことはない。

わたしが考えていることが表現されているのを見付けて喜ぶだけで、わたしはその言葉を借りる。 

自然を人間化し、自然を世界の中に有限化するという事実によって、無限という考えを排除した途端、科学は錯覚の原理になるのである。

なぜなら、科学は物理学者の宇宙――上に述べた自然――を考えるようになるからである。


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コンシュさんが考える「自然」、「宇宙」、「世界」の違いが見えてきたように感じる

この中で自然が最も大きい――と言っても無限なので表現のしようがないのだが――もので、本来は宇宙も同じように考えている

しかし、科学は「宇宙」の中から組織化され、閉じているものを取り出して「宇宙」と称している

それはコンシュさんの言う「世界」と同じものだろう

科学は無限の概念を排除し、有限の「宇宙」を相手にする

どうもニーチェは科学のこのやり方に異議を差し挟んでいたようだ



ところで、コンシュさんがニーチェと対した時に感じたことの中に、わたしが発見したことが含まれていて嬉しく思った

それはコンシュさんが考えていたことをニーチェも考えていた、ということである

このような経験をわたしも多くしてきたので、「読書をするのは、自分が何を考えているのかを知るためである」というフォルミュールを作った

さらに言えば「読書は己を知るために欠かせない作業で、魂の鍛錬になる」となり、これまでにも何度か触れてきた

つまり、ソクラテスの教えに従って、己を知ることが生きる意味だとすれば、過去人の考えに触れることは、まさに人生の意味を満たすためことに繋がるのである

コンシュさんはそこまでは言っていないが、、

それを言えば、このような言説をあまり見たことはないのだが、、







2022年1月14日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(42)
















我々の宇宙は――天体物理学者が言うところの観察され得る宇宙なのだが――、現実の全体なのだろうか。

物理学者はこの問いを考えない。

なぜなら、彼らの内のある者は信者で、彼らによれば宇宙の外には神がいるからである。

それでは自然だって同じではないだろうか。

宇宙は150億年の歴史があると言われる。

無限の中での150億年とはどういうものなのか、と思わず言いたくなる。

パスカルに助けを求めてみよう。

彼は「有限は無限の前では無に帰し、純粋な無になる」(fr. 233 Br.)と言っている。

従って、これらの言葉に変更すべきものはない。

「人間は自らを自然の遠くにあるこの小さな区画に迷い込んだものとして見ること、そして宇宙という人間が住んでいるこの小さな牢獄から、地球、王国、町、そして自分自身の正当な値を見積もることを学ぶのである。無限における人間とは何なのか」(fr. 72 Br.)

この無限は自然である。

「無限」という言葉が、パスカルが最初に書いた「自然」という言葉に取って代わったのである。

自然の無限の宏大さの中における人間そして人間の「小さな牢獄」である宇宙とは何なのだろうか。





2022年1月13日木曜日

「科学と宗教」を考えるためのメモランダム
















「医学のあゆみ」誌にシリーズ第104回のエッセイが出ましたので紹介いたします


「科学と宗教」を考えるためのメモランダム

医学のあゆみ(2022.1.8)280(2): 184-187, 2022


これからのためのメモとして纏めてみました

機会がありましたら、お目通しいただければ幸いです






2022年1月12日水曜日

雪の日の過去人の声



















今朝起きると雪が積もっていて驚く

仕方なく雪搔きをする

今回は少し慣れたようだ

道路だが、今は平になっているが、日中はわだちが深く危ないことになるので籠ることにした

思い返せば、アメリカから帰ってきた最初の冬

急ブレーキをかけた時、車が180度回転して後ろから来た車と対面

となったところだが、幸いにも車はいなくて助かったという経験をしていたからだ


今日は19世紀後半、ライプツィヒで行われたデュ・ボア・レーモンの講演を読み直し

本棚で目に付いた三浦梅園についての本も斜め読み

閉じ込められた感じの時には日本の過去人の話もよく入ってくるように思った

が、錯覚かもしれない





2022年1月11日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(41)

























20年程前の1985年1月26日、ジュネーブにあるCERNの物理学者故ポール・ミュセが、ソルボンヌで「素粒子、天体物理学、宇宙論」というセミナーを行ったが、多くの疑問が生まれた。

わたしの質問は以下の通りであった。

「あなたの発表原稿では、宇宙と『我々の』宇宙について語られています。あなたの語る宇宙は『観察された事実』に基づいて考えられたものなので、わたしにはこの宇宙が『我々の』もの――すなわち、ヴェルナー・ハイゼンベルクが言ったように人間の宇宙――にしか過ぎないように見えます。哲学者が宏大さの中に多数の宇宙を考えるのを妨げるものは何もありません。それはエピクロスがやったことです。」

これに対してミュセはこう答えた。

「もし宇宙が閉じているとすれば、常にこの仮説を出すことができ、閉じている我々の宇宙は他の宇宙と何のコミュニケーションもありません。」

そして、こう付け加えた。

あなたの提案は「思弁的」なので、物理学者の興味を惹かないと。

表現は正しいが、形而上学は思弁なのである。

我々は常に宇宙の多数性についての仮説を提出できるのである。

なぜなら、物理学者の宇宙は「人間の」宇宙であり、必然的に閉じている。

その意味は、世界という全体性の中で、全ては全てと結び付いている。

ニーチェは「自然を人間的なものにすること」(humanisation de la Nature)について語っている。

わたしが「世界化(世俗化)」(mondanisation)として定義したのは、この「人間的なものにすること」(humanisation)である。

プラトンは世界の単一性について疑問を呈することができることを認めている。

「複数の、あるいは無限の数の天国があるという方がより正確ではなかったのか」と彼は『ティマイオス』の中で言っている。

そして、デモクリトスには反論し得ないことをプラトンは認めている。

確かなことは、科学者は複数の宇宙を認めることができないということだけである。

なぜなら、2つの宇宙があることになった途端、プラトンが示したように、科学者は一つのものにしてしまうからである。

というのは、もし宇宙が2つの場合、科学者は我々の宇宙の中にもう一つの宇宙を認めるように強いる何かを見つけたからである。

そのため、そこでも宇宙は統合されるのである。


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最近、宇宙は一つとする見方と同時に、マルチバース(多元宇宙論)の考え方も出されている

その意味では、形而上学者コンシュさんの見方にも通じるところがある

科学は観察されたもの、実証されたものに基づいて進むので、当時の科学者の意見が間違っていたとしても致し方ないだろう

科学者は想像ではものが言えないのである

その点、形而上学者の方が自由度が大きいとも言えるのだろうか







2022年1月10日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(40)




























第二に、科学が哲学者にとって幻想の原因ではないかどうか、少なくとも自然が彼らの目に一体性には還元されない真の多数性(Vielheit)であるのかどうかを問うことができるとわたしは言った。

わたしが「科学」と言う時、科学者に自然を捉えることを保証し、わたしが論理数学的ロゴスと名付ける強力な知的骨組みのことを考えている。

このロゴスは、自然が反応することを望むのであれば話さなければならない言語であることを我々は知っている。

しかし、科学者はこれらの反応がチグハグであるのを認めることができない。

科学者はそれらの反応がすべてを包み込んで唯一無二のものでなければならなかったかのように、それぞれの反応を結び付けようとする。

コスモス(宇宙)の統一性を前提としているのである。

なぜなら、科学者は基本的な力を統一に持って行こうとするからである。

そこから、場の統一理論の探究、「大統一」と呼ばれる理論、「宇宙全体の」量子理論の探究などが行われる.

全ての法則を一つの統合として結び付ける「全体理論」と呼ばれるものが望まれるのである。

そしておそらく、最小の次元で素粒子物理学によって宇宙を調査するか、最大の次元で天体物理学によって宇宙を調査するかにかかわらず、それは常に同じ宇宙である。 それはまさに「我々の」宇宙なのである。 









2022年1月9日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(39)
































科学が自然の知の中を進むことができる限り、無限の課題に直面するように見えるが、知の永続的進歩も同様に無限なのである。

しかし、ここでは唯物論者の間でよく見られる科学的熱意を制限し、緩和する2つの考慮事項が求められる。

まず、自然の中には知を拒否するすべてのものが存在しているということ。

第二に、科学が特定の形而上学を示唆している以上、幻想を醸成しているのは科学自体ではないかを自問することができることである。


第一の点は難しくはない。

ポアンカレは「科学は常に不完全である」と言った。

そして「精神は対象を外からしか見ることができないので」、対象を完全に知ることはできないとした。

実を言えば、物体には内面性がない。

知を拒否するものはその中には何もない――少なくとも形式上はであるが。

なぜなら、実際のところ、原子下のレベルでは見ているものを修正することなく観察することは不可能なので限界が生じるからである。

そこからハイゼンベルクの不確定原理が生まれた。

内面性は生物界とともに出現する。

内面性は客体化できない。

客体化できないものは知り得ない。

猫の精神で何が起こっているのか。

それをどのように知るのか。

モンテーニュはそれに当惑した。

この問いには意味があるのだろうか。

もし、動物の生きている内面に我々が入り込むことができないのだとしたら、人間についても同じである。

我々は、他者の心持や精神状態を思い描き、喜びや痛みに共感することはできるが、他者自身にしか見せない極端な剥き出しの姿の中で出会うことはない。

科学は個人の内奥を知る手段を与えていないのである。








2022年1月8日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(38)















わたしは自然をタペストリーになぞらえた。

自然は「出口なし」なので、迷宮にも譬えることができるだろう。

これはエウリピデスapeiros という言葉で表現したものである。

「無限」――「終わり」なし、つまり出口なしである。

我々は自然から出ることはない。

我々はそこで果てしなく、出口を見つけることなく歩くのである。

それは不可解な藪である。

従って、科学知を使って自然の秘密に入り込む仕事は、終わりなき仕事なのである。

我々が物理学の本で読む自然現象の法則は、単純である。

なぜなら、現象を複雑にしているものを無視するからである。

もし、単純さが現実のもので深いならば、測定法の精度の向上はこの単純さと互換性があるだろう。

しかし、「おそらく」そのようにはいかないとポアンカレは言う。

「もし我々の研究方法が益々深く入り込むとすれば、複雑なものの下に単純なものを発見するだろう。

それから単純なものの下に複雑なものが、そして複雑なものの下に新しい単純なものが、という具合に進み、どれが最後のものなのかを知ることはないだろう。」

ポアンカレは「最後のもの」があることを明らかに疑っている。







2022年1月7日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(37)















数学者のゲオルク・カントールは、「多数性」(Vielheiten)と「集合」(Mengen)という2種類の集合を区別した。

後者は前者と異なり、一つのものとして考えることができる。

自然は集合-多数性であり、唯一のものではあるが一つではない。

タペストリーは唯一のものではあり得るが、模様が必ずしも相互に関連を持たない場合には一つのものではないように。

自然は大きさにおいて無限なのだろうか。

エピクロス主義者が望んだように、分子や原子というような自然の構成要素の数は無限である。

つまり、我々が数えた原子の数がどれだけ大きくても、常にそれ以上のものが存在する。

しかし、自然は大きさにおいて無限ではない。

その意味は、前に与えられた大きさよりさらに大きいものだからである。

この特徴は数や種類に属することだが、自然はむしろ大きさを超えたところにある。

同様に、老子の『道徳経』において、「道」は老子によって「大きい」と命名されている。

それは絶対的な言葉で、道――Nature naturante のようにすべてを生み出す創造者、神のようなもの――はすべてを包み込むもので、すべてがそれ自身によりその中で生まれ、その中で一時的に留まるものを持っている。







2022年1月6日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(36)
























本日も午前中は雪搔きの続きをやり、幸い終えることができた

雪の日に太陽が出ると世界が明るくなるので気に入っている

何かを終えることは、それがどんなに小さなことでも気持ちよいものである

それではコンシュさんを始めることにしたい


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世界は有限である。

我々はカントのアンチテーゼと最初の二律背反を知っている。

ショーペンハウアーがテーゼの証明は一つの独我論で、アンチテーゼの証明が真の証明であると言ったのは、おそらく正しいだろう。

しかし、「世界」が無限であると言ったのは間違っている。

無限なのは自然であり、世界は有限でしかあり得ない。

そのように、古代ギリシア人は理解している。

ついさっき言ったように、「コスモス」、「世界」は秩序を意味している。

世界は組織化され、構造を持っており、構造を持っているものは必然的に有限である。

全体としての自然は、組織化されたものと考えることができない。

無限の構造というものは存在しないからである。

しかし、それは組織化され得るものである。

無限の中に構造が存在することはあり得る。

自然は多くのやり方で組織化され、無数の世界を生み出す。






2022年1月5日水曜日

この冬初めての雪搔き

























昨日は氷の上を滑るように運転していたせいか、肩が凝った

今日は当地では珍しい数十センチの積雪

車を出せないので、仕方なく雪搔きをするはめに

今年初めてである

昨年雪搔きをしないで車を出したところ完全に動けなくなったのを思い出したからだ

今日は久しぶりに籠ることにした








2022年1月4日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(35)

























パスカルの2つの無限のもう一つの側面、すなわち大きさの無限に向き合ってみよう。

自然はそれ自身によってしか境されていないので、もし自然の創造性が無限であるとすれば――古代ギリシアの何人かが考え、そのように見えるのだが――、自然が際限なく自らの姿を現し、すなわち自然が無限に大きく、天体物理学者が考えるささやかな宇宙に制限されることのないものとして、際限なく展開するものと思わなければならない。

経験はこの考えを支持している。

なぜなら、我々の限られた興味のためにそれを「見ること」が妨げられない時、仕事や役割から解放し、懸念で閉じた世界を剥き出しにし、自然が与えるように自然に開くことが可能だからである。

パスカルは、自然が与えられたものを超えて無限に広がるものとしてそれ自体を与えるという恍惚の経験を書いた(fr. 72 Br. )。

パスツールも、エミール・リトレの跡を継いだアカデミー・フランセーズ会員としての受諾講演で、実証主義者とは反対に、無限が最も実証的な概念であることに気付き、このような経験に訴えている。

確かに、わたしが窓を開け、わたしを取り囲む田舎――それはわたしに開かれたものなのだが――に目をやる時、それは直ちに無限の中の自然ではなく、わたしを取り囲む世界、すなわち、わたしの環世界(Umwelt)である。

それは組織化された全体である。

なぜなら、空、森のある丘、そして畑は、どのようにでもよいようには配置されておらず、ある秩序の中にある。

しかし、このようなゲシュタルト(全体の形)は無限の背景の上に与えられている。

この形、感知される世界は、パスカルの言葉に肖るとすれば、その全体性の中で背景に提示された自然の表情である。













2022年1月3日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(34)

























暗闇では、視覚を惹起するには数光子で十分であるということは、生物学的活性は微細な何かの中にその発端があることを示唆しているとニールス・ボーアは言っている。

原子核内のレベルでは自然の軽い刺激を、そしてそこから生物に向き合うことができるマクロのレベルまで増幅する装置を想定できる。

量子生物学の創始者の一人であるパスクアル・ヨルダンは、「細胞の指令はミクロ物理学のレベルにある要素によって出される」と言った。

さらに続けて、解明されるべき「まだ明らかにされていない新しい法則」についても語ったのである。

ここでは、科学者に研究してもらわなければならないということ以外に言うことはないだろう。








2022年1月2日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(33)
























今日も雪に降られて緊張するドライブであった

昨日同様、戻ったところで嘘のように雪は止んでいた

正月早々いやになる

本年もコンシュさんから始めたい


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生物を説明すること、それは科学がまだ躊躇している自然の深みからしかできないし、これからもできないだろう。

小ささの無限の中に自然の創造性の秘密と生命の飛躍の鍵がある。

生命はまず組織化を意味する。

もし物質の構成要素がフェルミ粒子(電子、クォークなど)でなかったとしたならば、もし宇宙がボース粒子(光子、中間子など)だけから構成されていたとすれば、宇宙はカオスであり、生命のような組織化の形は不可能だっただろう。

粒子はそれ自身を中心に回転するスピンを持っていて、それはフェルミ粒子の場合は半整数であり、ボース粒子の場合はゼロか整数である。

1/2に等しいスピンとその角運動量は、原子の中で電子層が飽和することを可能にし、その結果、原子が閉じた組織化した安定な小システムを形成する。

原子の安定性は分子や結晶や遺伝子などの組織化のすべての形態を支配している。

しかしなぜよりによって生命、すなわち自己組織化なのだろうか。






2022年1月1日土曜日

新年を迎えて

























明けましておめでとうございます

本年もよろしくお願いいたします


この2年ほどは意識的、無意識的に抑圧された気分の中にいた

今年はそれが除かれ、開放されることを願いたい

個人的なプロジェについて言えば、最終的な形を作ることを目指したい

そこから新たに何かが始まるような予感がしている


今日は午前中に降り出した雪がお昼過ぎには止んだので、アトリエに出かけた

夕方になると激しく降り出したのでこれは危ないと察し、視界の悪い中を帰ってきた

しかし戻って暫くすると、雪が嘘のように止んでいるではないか

一番悪い時に車を運転していたようだ

先を見る目がないことを新年の初日に思い知ることになった