2020年4月30日木曜日
4月を振り返って
今年から恒例になった感のある「ひと月を振り返る」日がやってきた
1月のまとめにも書いたが、今年に入ってから感じていることに1日が長いというのがある
以前から感じていたが、このところそれがより明確になってきたということだろう
朝、どんな状態にあっても、夜には想像もできなかったような展開になっていることが稀ではない
1日の時の流れにはそれぞれ感情のようなものがあるのだが、その違いを味わえるようになってきた
素晴らしいことである
今年が始まって暫くしてから、複数のプロジェを並行させるのではなく、一つのプロジェに絞ることにした
そして2月からは、そのベースになるものの必要性を感じ、それを纏めようとしていた
今月、やっとのことでその形が目に見えるようになってきた
これで一区切りがつきそうなので、元のプロジェに戻ることができそうである
以前、プロジェになかなか入ることができず困っていたが、最近それがなくなってきたと書いたことがある
苦しみの原因は結果が先に来ていたから、つまり何かを仕上げなければならないと思っていたからである
楽になったのは、そのことに気付いたからである
成果を求めるのではなく、ある時間をプロジェの中に入って遊べばよいと悟ることができたのである
今月、それがもう少し進化(深化)して(?)、こんな感じになっていることに気付いた
それは、自分がやっているのは、この体をプロジェが捗りそうな場所に移動させるだけだという感覚である
最早、自分の意志で何かをやっているという意識がなくなっている
その場に落ち着けば、誰かが勝手にプロジェを進めてくれているという感覚なのである
これは生まれて初めてのことで、驚くべき変化である
その意味で「は快適」である
この漢字変換を変なとことからやったため、「破壊的」と出た
しかし、そうなのだろうか
確かに、自分が努めてやっているという感覚がないため、限りなく続けることも苦にならないのだ
この二つの極、本当は隣り合わせなのかもしれない
来月のことをぼんやりと思い描く
再び、二つくらいのプロジェを並行させてはどうかというアイディアが浮かんできた
懲りないものである
しかし、それをやるのは自分ではないのだから、今回はうまくいくかもしれない
来月の今頃が楽しみである
2020年4月29日水曜日
フランスにおける5月11日以降の制限解除方針について
昨日、エドゥアール・フィリップ首相から5月11日以降の制限措置解除の方針が発表された
丁度、大使館から連絡が入ったところだったので、その概略を以下に紹介したい
方針は微に入り細を穿つという印象である
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4月28日、フィリップ首相が国民議会において5月11日以降の制限解除等に関して演説を行った
5月11日以降の基本方針として、「ウイルスと共に生きる」、「段階的に」、「地方ごとに」が掲げられた
・学校については学校施設ごとの方針が示され、テレワーク継続が推奨された
・カフェ、レストラン等(6月2日以降の再開を今後検討)以外の商業施設は再開可能に
・100キロメートル以下の移動は解禁、それ以上の移動には証明書が必要になる
市内交通は平常時レベルに戻していくが、大型美術館や大型イベントは引き続き閉鎖
詳細について
【現状認識】
● 3月17日以降、戦時下や感染爆発の際にも前例のない制限措置をとっているが、無制限に続けるわけにはいかない
経済的にももたないからだ
● 現在の様々な制限は有効で、医療体制の崩壊を防いだ
4月14日以降、入院者数は減少に転じ、4月8日以降、重体患者数も減少に転じている
● 段階的に、確実に、賢明に、制限を解除してくべきだ
● 5月11日以降の制限解除方針は、状況が悪化することがあれば、5月11日という日付は後ろ倒しになる
● 医療体制は維持されているが、医療従事者は疲れ切っている
【5月11日以降の基本方針】
● 我々はウイルスと共に暮らさなければならない
ワクチン開発や集団免疫の形成はまだ先の話
ウイルスが広がるスピードを抑えなければならない
● 5月11日以降も毎週状況を確認し対応していく
6月2日以降、新たなフェーズに入れることを期待しているが、仮に第2波が確認されれば再度外出制限に戻る
フランス国民の民度の高さを見せて欲しい
● 段階的に、地方によって濃淡をつけて制限を解除していく
地方・県によって状況は大きく異なるからである
明日から、カステックス制限解除担当長官を中心として各県議会等との協議を開始
明後日からは、各県の民間団体とも協議を開始する
5月7日までに各県ごとの方針を固めていく
●「ウイルスと共に生きる」、「段階的に」、「地方ごとに」が基本方針の3本柱
● 5月11日以降を一言で言えば、「防御、検査、隔離」である
従来どおり、物理的距離、手洗い等を徹底していただきたい
(防御マスク)
● 多くの状況においてマスク着用が推奨される
科学委員会による見解の変化もあった
マスクは殆ど意味が無いとしていたが、あるに越したことはない、と意見が変わった
● 従来我々は、医療用マスクを20週間分備蓄し、その他は輸入に頼っていた
しかし、EU、米等と同様に、輸入が出来なくなり需要が供給を上回ってしまった
● マスクの国内生産を5倍に拡大し、医療従事者に優先的にマスクを供給し、布マスクの生産も開始した
現在、週に1億枚のマスクと2000万枚の布マスクを生産することができる
5月11日には十分な量のマスクが供給される
(検査)
● 5月11日以降、週に70万件の検査を行う
全ての検査は保険で100%カバーされる
科学委員会は、一日当たり1000~3000の陽性者を見込んでいる
(隔離)
● 各県は、陽性者から濃厚接触者や伝染のチェーンを特定しなければならない
● 陽性者が出た場合、その家族も検査されなければならない
● STOPCOVIDは補完的な役割を果たし得るに過ぎないが、STOPCOVIDに関する議論や開発はまだ十分ではない
【各論】
(学校)
● 5月11日以降、保育園、幼稚園、小学校は再開可能とするが、登校は自由とする
マスクやジェル等を供給するが、子供のマスク着用は義務づけない
● 5月18日以降、中学校を再開可能とする
マスクを市町村から供給するので、先生も生徒もマスク着用を義務とする
● 幼小中学校は、15人以下のクラスとする
保育園は10人以下とし、医療従事者の子供が優先される
● 高校は当分閉校
5月末に、6月2日から再開できるか検討する
(企業に対して)
● 6月2日まで、テレワークは継続して欲しい
不可能な場合は、ローテーションを組む等して欲しい
● 業種ごとに、コロナ対応マニュアルを作成している
現在33のマニュアルがあり、今後60まで拡大するので参照して欲しい
人と人との距離がとれない場合はマスクを義務付けて欲しい
● 部分的失業制度については、6月1日まで延長していく方針
(商業施設)
● カフェ、レストラン、バー、ディスコ、大型ショッピングモール(4000平方m以上)以外は5月11日以降再開可能
カフェ等は、6月2日以降の再開を今後検討していく
● 市場も5月11日以降再開できるが、地方自治体の判断で閉めることも出来る
● 商業施設では、1mの距離や人数制限、マスク推奨等につき配慮する必要がある
(移動外出・公共交通機関)
● 5月11日以降、100km以下の移動は解禁
100km以上や県をまたぐ移動は現状どおり特別な場合(家族の理由等)に限られ、証明書が必要
● RATPは70%程度に回復
市内交通は元に戻していくが、席数は半減
● タクシーも含め公共交通機関を利用する際は、マスクは義務
● TGV、 intercite等の長距離移動は増やさない
チケットは要予約
(文化・スポーツ等)
● 安全が確認されれば公園等も解放されるが、10人以上の集団利用は不可
● コンタクトスポーツ・集団スポーツも不可
ビーチは6月1日まで閉鎖
● 図書館や地方の小規模な美術館は5月11日以降再開
● 大型美術館、博物館、映画館、コンサートホール、パーティールームは引き続き閉鎖
● 大型フェスティバル・スポーツイベント等は、9月まで不可
サッカー2019-2020シーズンも再開せず
● 宗教施設は5月11日以降再開されるが、宗教行事は6月2日まで禁止
お墓参りも5月11日以降可能になる
● 市役所での結婚式は、5月11日以降も再開されない
2020年4月28日火曜日
哲学における論理学の役割(3)
論理学と共に、あるいはそれなしで(3)
論理学が哲学者に齎すものを自問することにはそれなりの理由はないのだろうか
結局のところ、哲学者が興味を持つのは命題の中身であって、その形式ではない
「にんじんは調理されている」という文を取ってみよう
論理学者は、命題論理において、この文は p で置換できると言う
例えば、「にんじんは調理され、キリンは長い首を持っている」は、p & q で表現される
勿論、q は「キリンは長い首を持っている」である
従って、「もしにんじんが調理されていれば、キリンは長い首を持っている」は p → q で表される
このようなことをしても結論は何も変わらず、哲学者がその勉強をしても時間の無駄である
その魂も失うのではないか
「神が死ねば、すべては許される」
これは何を意味しているのか
自分があるところのものに一人で責任を持たなければならないことを知っている今だから
現代人は神から見放された極端な状態に対峙しなければならない
それを我々に語るのは、「もし p ならば q である」というような論理的解析ではない・・・
少なくともこれが、論理学の講義で、深く実存的な問題を訊かれた時に哲学科の学生が考えることである
その学生に何と答えるのだろうか
それではなぜ、アリストテレスや中世の哲学者が哲学や神学をやることになる時、論理学に優位な役割を与えたのか
ドゥルーズやガタリのような大陸哲学者は、その哲学的価値を非常にネガティブに考えた
それなのになぜ、分析哲学では論理学が決定的な役割を担い続けてきたのか
このような問いを出すことは、その答えがすべての人を満足させるものにはならないかもしれない
しかし、そうすることが現代哲学をよりよく理解することを可能にするのである
哲学における論理学の役割(2)
論理学と共に、あるいはそれなしで(2)
1960年代から80年代のフランス構造主義では、あらゆるジャンルの現象を理解可能にするアルゴリズムを発見したいと思う者がいた
モーパッサンの中篇を対象にしたA・J・グレマスから神話を研究したレヴィ・ストロースを経て無意識を研究したJ・ラカンまで
その際、モデルの役割を果たしたのが数学であった
「二コラ・ブルバキ」と呼ばれた数学者のグループは、数学の形式主義の一つの流れを発展させた
ブルバキ派の言葉は数学にだけ有用だったので、ブルバキ派の人たちに責任があるわけではないのだが
哲学者の中には、哲学においても構造や形式に興味を示すのがよいと主張する者もいた
このやり方は、哲学の「精神主義的」見方から抜け出る唯一の道であった
ミシェル・セールは、当時こう言っている
「ある文化的内容について、形式としてその内容を明らかにする時にだけ、解析は構造研究になる」
このような捉え方は殆どいつも、数学的概念や形式と構造の概念の隠喩的用法を生み出したのである
この点について、批判者は「知的詐欺」について語ることができたのである
特に、フランスの構造主義哲学者(ラカンの仲間)が使う数学的・科学的語彙は、冗長で見せかけのレトリックに過ぎなかった
いずれにせよ、数学は哲学者の間で評判がよいが、そこにはプラトンやデカルトが関係している
彼らは思弁が持つすべての長所を数学に付与したのである
特にフランスでは、数学に比して論理学は哲学者のネガティブな反応を引き起こす
この態度はかなり前まで遡ることができ、デカルトに既に存在している
コンディヤックやオーギュスト・コントにも見られ、コントの影響は強いものがあった
さらに20世紀初め、論理学の擁護者B・ラッセルとH・ポアンカレの数学における証拠についての論争の中にもあった
論理学に対する敵意は、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリで極限にまで達した
彼らは、哲学の子供じみた考えを作り出すとして論理学を非難した
実際に悪く言われたのは、哲学におけるすべての形式的方法である
形式主義はしばしば素朴で単純化されたものとして考えられていた
論理学は真に自由な思考のためには束縛となるものではないのか
むしろ哲学者には、「真に哲学的な」、哲学に特有の論理学を提示することではないのか
それは、形式的な規則にしか興味を示さない論理学者の論理学とは異なるものである
(つづく)
2020年4月26日日曜日
COVID-19 の最新情報
ジョン・キャンベルさんによる COVID-19 の4月25日時点での情報を紹介したい
まず、世界の感染者は282万人を超え、死者も20万人に迫る勢いになっている
ただ、実際はこれを大きく上回っていると予想される
WHO の新しい解釈が出た
それは、抗体があっても二度目の感染に有効であるという保証はないというもの
抗体陽性者に免疫証明書を出したとしても全く安全という訳ではなく、これまで通りの注意をすること
さらに、抗体検査が必ずしも正確ではないこともある
抗体保有者の血漿を投与すると効果を示すようなので、ジョンさんは全面的には同意していないようであった
しかし、用心するのに越したことはないという立場だろう
以下に各国の現状を
アメリカ
感染者:905,333 死者:51,949
1週間の増加を州別で見ると、
ネブラスカ:99% アイオワ:90% アーカンソー:60% サウスダコタ:44% オクラホマ:26%
アメリカの中西部に感染が広がってきたようである
一方、活動の再開を考えている州も出ている
ジョージア、フロリダ、サウスカロライナ、ミシシッピー、アラスカ、オハイオ、テネシー
COVID-19 入院患者5,700人(ニューヨーク州)で併発している病気のベスト3
1)高血圧(57%) 2)肥満(42%) 3)糖尿病(34%)
ヨーロッパ
EU(ドイツ?)が80億ユーロを医療サプライ(ワクチン開発を含む?)に拠出
フランス
感染者:159,953 死者:22,279
ロックダウン解除を検討中
洋裁材料店を早く解除するという話:マスクなどを作るためではないかと想像していた
スペイン
感染者:219,764 死者:22,902(木曜+367、金曜+378 ⇒ まだ増えている)
ベルギー
感染者:45,325 死者:6,917
5月11日に活動再開の予定(公共の乗り物ではマスク着用が義務付けられる)
*マスクの効用(数字は程度を示す目安)
感染者(マスクなし)――――>非感染者(マスク) 70%感染
感染者(マスク) ――――>非感染者(マスクなし)5%感染
感染者(マスク) ――――>非感染者(マスク) 1.5%感染
イギリス
感染者:144,640 死者:19,506(増えている)
スウェーデン
感染者:17,567 死者:2,152
この数字は、デンマーク、ドイツ、ノルウェイ、フィンランド、ポーランドなどより高い
写真を見る限り、social distancing が行われていないとのこと
ヨーロッパで唯一、ロックダウンをしていない国で、集団免疫の方針を取っているようだ
これはある意味で何もしないレッセフェールのようなところがあり、老人などに影響が出る可能性が高い
イギリスが最初これで行こうとしてすぐに変更した
スウェーデンの実験がどのような結果を齎すのか興味深い
イタリア
感染者:192,994 死者:25,969
5月4日から170万人が仕事に復帰する予定
イタリアはフロントランナーなので、解除後の戦略に学ぶところが出てくるだろう
旅行は必要最小限に
公共の乗り物内ではマスクを、換気も重要
タクシーでは2名以上の時にはマスクを
時差出勤、在宅勤務、週~数日の勤務など
移動にスクーターや自転車を推奨、それに合わせて自動車道を空けるなどの方策も
これは非常時でなくてもよい方策かもしれない
中国
感染者:83,901 死者:4,636
この10日間で外からの人を除くと死者なし
但し、香港の研究によれば、2月20日の段階で、232,000の感染者がいたという(計算方法は不明)
これが科学的な算定であれば、上の数字は全く信用できないことになる
トルコ
感染者:104,912 死者:2,600
死者の認定には臨床診断も重視すべきとのWHOの声もある(?)
2020年4月25日土曜日
哲学における論理学の役割(1)
論理学と共に、あるいはそれなしで(1)
大学における哲学の新しい学生は、論理学を学ばなければならないことにしばしば驚く
悩まされることさえある
哲学にとって論理学はどのような有用性があるのだろうか
哲学史、倫理学、政治哲学、美学、科学哲学のように、論理学はなぜ哲学の過程に顔を出すのだろうか
学生の頭の中では、論理学は数学と結び付いている
しかしフランスの教育システムは、文系と理系の間の殆ど絶対的と言ってもよい分離で特徴付けられている
数学と論理学は科学の側で、哲学は文学や人文系になるだろう
一方は認知的、科学的、理性的、もう一方は感覚的、感情的、文学的、芸術的という対立は決定的だろう
哲学は後者と関連する部分を持っている
多少とも科学的な分野と付き合いながらも、最早その中での役割はなくなっている
哲学が裏切ったのである
文系の進学クラスでは哲学が教えられ、大学の哲学科は一般に文学や人文科学のキャンパスにある
大学の哲学研究において、正式の学科としての論理学は何をするのだろうか
文系の進学クラスの哲学研究に論理学がないというのは本当である
このような教育のやり方は、良い徴なのだろうか
数学が文系の学生に嫌気を起こさせるとする
その抽象観念や形式主義は哲学者の一部を惹き付けずにはおかないだろう
フランスの教育システムで広く実践されている数学のフェティシズムは、哲学においても広まっているのである
(つづく)
2020年4月24日金曜日
精神と魂と身体(13)
性向と人間の魂(2)
しかし、「現代の」哲学は何に関わっているのだろうか
アリストテレスと共に、古代哲学に関わるのだろうか
神経科学の時代にいる現在、アリストテレスのモデルが少しでも意味があるとどのように信じるのだろうか
確認したいのは、アリストテレス・モデルの貢献に異議を差し挟むものではないことである
ただ、アリストテレスの伝統は今なお存在している
機能主義において何かを思考にするものは、欲求や苦痛、あるいは如何なる心的状態も内的な構成には依存しない
依存するのはその機能であり、認知システムにおける役割だけである
それは最終的には、アリストテレスの教義から遠く離れるものなのだろうか
現代のこころの哲学者の中には、アリストテレスの伝統を明確に主張し、理性的魂に現実味を与える者がいる
人間における生の原理は、成長、繁殖したり、動き、知覚するだけでは駄目で、理解し考えなければならない
こころの研究は、人間の理性的性向の研究でなければならない
その性向は、人間に他の動物との特異的な違い(理性)を付与することなしには理解できない活動や振る舞いに表れる
その視点から見れば、感情は認知的であるというテーゼは、こころの哲学の一つのやり方を示している
それは、心身の違いを基にして議論するやり方とは異なるものである
感情は、ある状況を理解し、しばしば道徳的に適切に反応する人間に特有なやり方である
人間を理解するということは、魂と身体で構成される存在、全体性に興味を持つことである
その存在は、他者と共にいる世界、社会生活の中、自然物と人工的なものの中にいる
どんなやり方であれ、その全体を断片化する時、人間的現実から離れる危険を冒すことになる
「こころの哲学」という表現は、デカルトのパラダイムの中にある理論を特徴付けるために取っておくことができる
それは心身の関係に関する議論になる
対する「魂の哲学」は、我々を全く違う伝統の中に置く
そこでは、人間の研究がその潜在性を基に存在の種類を区別する形而上学と結び付いている
従って、心的状態について調べるよりは、道徳的な反応や芸術的、宗教的な活動を研究して人間について学ぶのである
2020年4月23日木曜日
精神と魂と身体(12)
性向と人間の魂(1)
二元論者も反二元論者も人間に心的状態と物理的状態があると見做し、両者が結ぶ関係について自問する
新アリストテレス主義の見方によれば、それが物理的なものであるかどうかは別にして、人間に性向が与えられる
性向は、ある条件(実行するための社会的なものも含む)と能力を前提としている
ポーランド語を話すためには、話す能力と、その言語を子供のころ家族の中で、あるいは後に学んだ能力が要求される
遊ぶ、話す、フルートを演奏する、哲学をやるなどの理性的な性向は、人間に特有のものである
性向とは特性である
しかし、何の?
理性的性向の場合(大学に行きたい、試験を受けたい、受かりたいなど)、それは人間であることの特性である
意図を持ち、欲し、望み、愛する人は一人の人間であり、その精神でも身体でもない
二元論者や反二元論者は、意図や欲求や感情を付与する際、カテゴリーの間違いを犯す
ただ一人の人間だけが意図や欲求や感情を持つことができるのである
心的現象を理解するとは、心的状態を記述することではない
そうではなく、社会的状況に置かれた人間が語り、することを解釈することである
「魂」という言葉に、不死性と直接結びつく宗教的意味合いを伴う精神と同じ意味を与えるという習慣があった
しかしアリストテレス主義者にとって、魂は身体の形である
それは丁度、家の形相がそれを作っているレンガやモルタルに構造を与えているのと同じ意味において
形相の存在がレンガやモルタルを家にするのであって、壁や窯ではない
アリストテレスにとって、レンガやモルタルは潜在的に家なのである
それらが家として適切な形を実現するまで
この場合、形相と材料が一緒になって家を現実に作っているのである
アリストテレスの言葉に肖れば、形相は家の現実性である
形相の存在が、なぜある特定の量の材料が他のものではなく家になるのかを説明している
同様に魂の存在が、なぜある材料が他のものとは区別される人間になるのかを説明している
人間の魂は、人間という特定の生物の特殊性を説明している
クリストフを鯉や猿ではなく人間にしている原因は、クリストフの現実性と分けて考えられないのである
2020年4月22日水曜日
COVID-19 の新情報
COVID-19の状況に関しては、これまでジョン・キャンベルさんの発言に注目してきた
日本の状況が説明されることは稀だが、考え方に一つの筋が通っていると感じたからである
理性的・科学的な視点が徹底されているということだろうか
事実、彼の見方を指標にして日本の状況を見直すと、いろいろなことが明らかになってきた
これまでのところ、非常に役立っている
今日は、昨日の発信のポイントを紹介したい
最初は、どれだけの人が抗体を持っているのか、免疫を獲得していると想像されるのかという点である
WHOもオランダでの研究も抗体保持者は2-3%程度であるとしている
スタンフォード大学の研究では数字がかなり高く、間違っているのではないかとジョンさんは言っている
少なくともわたしが見たところでは、2.5~4.2%程度なのであまり違わないようである
いずれにせよ、抗体陽性率が60~70%にならなければ集団免疫はできないと言われている
パンデミックはまだ初期段階にあり、その制御には時間がかかりそうである
次は、巷で噂されているように、今回のウイルス(SARS-CoV-2)が人工的に作られたのかという問題である
これに関しては、WHOと同様に、あくまでも動物由来であるとジョンさんは考えている
それからイギリスの現状が紹介されている
4月10日までの週(第15週)の死者は、前週より2,129人増えて、6,213人(総計=18,516人)
この週の死者数は過去最多で、全死者数の33.6%(ロンドンで見ると53%)を占めている
第14週ではこの割合が21.2%だったので、確実に死亡する人が増えている
また場所による違いを見ると、家<病院<介護施設の順に死者数も死者の増加率も増えている
精神と魂と身体(11)
生活形式としての思考(2)
「もの・こと」を別の方向から検討することも可能である
考えるとは、例えば、集め、組み立て、分解し、一番しっくりくる何かを探す人のように、することである
苛立ちや満足を示す音を出すことも含めて
人間のようなロボット、あるいはロボットのような人間の可能性はその意味を失う
もし「なぜその人はその動きや身振りをし、その音を出すのか」という問いに答えなければならないとしたら
それではうまくいかない、こうやるのがよい、やり方を見つけたなどと彼は考えたと言わなければならないだろう
この考え方は、人間は物質的存在であるという見方(唯物論になるが)に何ら反するものではない
なぜなら、人間に意図や願いや信念を付与することは、人間を非物質な存在であると考えることを意味しないからだ
しかしそれは、すべての心的状態が物理的状態に還元できるということではない
そうではなく、物理的なものは一つの「生き方」を持つことができることを意味している
それはそのものに特有で、人間ではない他のいかなる物理的なものもその生き方を持つことはできない
思考を、意志を持つ、信じる、欲する、想像する、心配する、待つ、望むなどのことであるとする
現代哲学に広まっているかもしれないが、思考とは内的状態や内的出来事であるという主張は当然なことではない
フロイトに倣って付け加えるとすれば、これらの状態や出来事は部分的に無意識である
まずそれは、我々が意志を持ち、欲し、望みむなどのことをする場合の心的状態ではない
そうではなく、それは我々が採用する態度の多様性である
ウィトゲンシュタインは「生活形式」(Lebensform)ということを言う
アリストテレスに照らして再解釈すれば、これは人間に特有の生の形態のことである
それは人間的なものとして人間を特徴付ける
そして、すべての挙動は社会的に構成された実践の中で現れ、そこでは我々の言語能力がしばしば構成的役割を演じる
一般的に、動物は移動や摂食の仕方、生活の場、社会的構成などを考慮して記述することができる
ある動物は、意図や信念や願望などを考慮して特徴付けることができる
そうでなければ、彼らがやっていることを十分には記述できないだろう
ウィトゲンシュタインはこう言った
「命令し、質問し、駄弁るなどのすべては、歩き、食べ、飲み、遊ぶのと同様に我々の自然史の一部を成している」
多様なやり方で言語を使うこと(「言語ゲーム」;Sprachspiel) は、人間の自然史に属している
それは丁度、木の中で生きることがサルの自然史に属しているように
言語ゲームは言語のみならず行動も含み、「生活形式」の中に組み込まれているのである
2020年4月21日火曜日
精神と魂と身体(10)
生活形式としての思考(1)
そもそも考えるということは何から成っているのか
我々は、本質的に考えるものである我々のことを最もよく知っているのだろうか
ベルクソンが言っているように、多くの哲学者は、我々は「われわれ自身の中に入る」能力を持っていると主張する
その能力は、我々の内的眼差しを自由に使う内的生活が何から成っているのかを検討するために使われる
これは、『デカルト的省察』で「意識の純粋な生」の研究を提唱したフッサールに見られる概念である
一般的に現象学は、後に「志向的生」と呼ばれる精神生活へのアクセスの可能性に依拠している
こころの科学の進歩のお陰で、脳内の物理的過程はどんどん記述が可能になっている
多くの認識を専門とする心理学者や神経心理学者は、思考はその対極にあると考えているように見える
ウィトゲンシュタインは、志向性の状態、心的状態に関わる思考の中身は何から成っているのかを自問する
それが物理的状態に還元されるか否かは別にして
わたしは、次の週末にパリに行くのはよいことであると考えるができる
さらに、サン・ミシェル通りのイメージをこころに浮かべることもできる
しかし、そのイメージがなくてもそう考えることができたであろう
そして、そのイメージはわたしが思い描くことのできると主張する唯一のものに見える
我々は、我々自身で内部を観察することにより、考えるとは何であるのかを知ることができない
ウィトゲンシュタインにとって、考えるとは「彼の中に多くの生の表現を集める概念」である
彼は次のような場面を描いている
ある人が建築部品と道具一式で何かを作る
その人は、これを取り、あれを捨て、集め、分解し、再び組み立て、一番しっくりくる何かを探す
すべての過程を映像に収める
その人は「うー」とか「あー」という音を発するが、話はしない
音は録音される
その映像を観て、わたしはその人の見振りと発する音に対応する内なる独り言を想像することはできる
わたしは彼に「ちぇっ、この部品は長すぎる」、「これから何をしようか」、「これだ」と言わせることはできる
その人は、その身振りをし、その音を出しながら考えたことだったと確認することはできるだろう
仕事中、彼は何も言わず、これらの言葉に対応することを思い描いたこともなかった
我々は映像が示す見振りや録音された音に何か(内的な過程)が伴っているはずだと考えがちである
おそらく、二元論者の影響であり、心理学者の問いの出し方の影響もあるのだろう
思考とは、この例のように、動きと音、より一般的には行動と言葉に伴うものだろう
そこから、同時並行での思考がないところに行動や言葉は可能なのか否かの問いが現れる
ロボットやゾンビは我々が感じることは感ぜず、我々のように行動しないのではないだろうか
(つづく)
2020年4月20日月曜日
精神と魂と身体(9)
ご無沙汰してしまったが、再び『現代哲学』に戻ってみたい(前回はこちらから)
アリストテレスの帰還
同じ前提を共有している二元論者と反二元論者は、世界最高の好敵手である
両者は共に、根本的な問題は精神(心的特性)と身体(物理的特性)の関係であると考えている
彼らは二つの特性が全くの別物であるとするか、同一性から付随性に至る関係を確立しようとする
それを完全な還元可能性なしに行ったが、その間には不完全な還元可能性を持つ異なる形がある
精神が占める位置はどんなものなのか
純粋な精神的実在なのか
単なる錯覚、あるいはこころの科学が最終的に根絶するという「通俗的な」語り方に過ぎないのか
しかし、あらゆるジャンルにおける二元論者と唯物論者に共通するこれらの前提を拒否することができる
アリストテレスにとって、精神と身体の関係は問題ではなかった
彼は二元論者でも反二元論者でもなく、「四元(素)論者」だったのである
彼は思考と知覚の性質に関連する問題を検討した
精神と物質というぶつかり合うカテゴリーの中でではなく、四つの構成要素を含む大きな枠組みの中で
四つの構成要素とは、自然の物質、生き物、知覚する動物、理性的動物である
アリストテレスとトマス・アクィナスは、存在の物差しの特定のレベルを占める動物として人間を考えていた
動物は物理的身体が特別な種類の動物である
下のレベルが常に必要条件を構成しているとしても、それぞれのレベルは質的に還元不能である
魂は生き物を生き物たらしめているもので、人間の魂はある存在を人間にしているものである
この意味で、アリストテレスとアクィナスにはこころの哲学はないが、知覚する動物と人間に特有の生の説明がある
人間の生とはどのようなものなのか
これはよい問いになるだろう
しかしそれは、デカルトが我々に教えたことのすべてに戻ることにならないだろうか
わたしは考えるものである
今日では「主体」であって理性的動物でないと言われるものである
それ故、私の思考が私の身体とどのように相互反応できるのかを知ろうとする問題が出されるのである
ロックのように、物質がどのようにして考え始めることができるようになるのかを問うこともできるだろう
しかし、デカルトが魂と身体の関係を省察し、この問題を適切に問うたことが問題にされているとしてみよう
また、哲学の主要な問題は主体や主体の批判であるとは考えられていないと仮定してみよう
その場合、アリストテレスの「四元論」の意味が見えてくるかもしれない
このようにして、20世紀後半、アリストテレスやアクィナスの伝統が再び現れたのである
アリストテレスやアクィナスを特に読んだわけではない哲学者から衝撃が来た
その哲学者はウィトゲンシュタインである
彼がこころの哲学について独自の省察を行うことによりその根源的な側面を発見したように事は進行した
より正確には、アリストテレス・アクィナスの伝統に特有の「魂」の哲学についての省察である
少なくともすべてのイギリスの哲学者たちは、ウィトゲンシュタインをそのように理解したのである
2020年4月19日日曜日
記憶の彼方のニューヨーク
今日、この曲が流れてきた
80年代初めにニューヨークにいた時、映画Arthurを観、その主題歌をよく聴いていたことが蘇ってきた
それから20年ほどして、アメリカ文化を振り返ることになった
しかし、当時はその中に完全に入っていて、全身でその文化を受け止めていたことが見えてきたのである
しかもそれを今から見直せば、現実世界としてではなく、地上から離れた世界の中に浮いていたように見える
ここ10年余りの間、身を置いていた世界はフランスに変わったが、地上から離れた世界にいたことに変わりはない
今は記憶の彼方に去っているアメリカも、実は幸福な天空の世界にいた時間であったのだ
そのことに気が付いたようである
薬師丸ひろ子さんを発見
夜、テレビをつけると、薬師丸ひろ子さんのコンサートが流れていた
彼女が10代の頃は知っていたが、それ以後は視野の外にあった
お顔を見るのもほぼ半世紀ぶりくらいではないだろうか
聴いたのは最後の数曲だったと思うが、じっくり聴いたのは初めてのこと
声が生のままという感じではなく、オプラートに包まれたように(ファルセットと言う?)柔らかい
声に質量があり、濃密な感じがした
また、歌と歌の間にあった語りを聴きながら、こんな話し方をする方だったのかという思い
正直で直向きなところがあるお人柄とお見受けし、好印象を持つ
これからの更なる成熟を期待したいものである
ということで、思わぬ発見となった
今日最後に歌っていた曲をもう一度聴くことにしたい
夢で逢えたら
2020年4月17日金曜日
モントルーの山奥に住む95歳の哲学者
興味深い方を発見した
ポール・デュ・マルシー(Paul Du Marchie)さんである
その生活ぶりは上のビデオで伺い知ることができる
1923年にオランダで生まれなので現在97歳
これまで世界中を旅してきた
砂漠でノマドとともに生活したこともある
若くして哲学に興味を持ち、芸術活動の幅も広い
ビデオ撮影時は95歳だが、全く衰えを感じない
現在はスイスはモントルーの山奥に住んでいる
廃屋を手に入れ、自ら手を加えてきた
基本的な考え方は、現在に価値があるというエピクロスの時代からのもので、わたしの考え方にも通じる
未来ではなく「いま・ここ」に美を見出さなければならないという立場であり、生き方である
すべての価値は "transmission" の中にあるという言葉も印象に残っている
「伝染」の意味もあるので今は問題だが、ここでは「伝える」ということ
ポールさんにとって重要な感情は魅了されることで、それを共有することが欠かせないと考えているからだ
「人は考えるところものになる」
これもよい観察になるのではないだろうか
家にとどまらなければならないこの時期、心落ち着く映像であった
2020年4月16日木曜日
「COVID-19 後」へのアイディア
ジョン・キャンベルさんの話は明快で論理的なのだが、それが実に自然に行われている
そこにいつも感心している
このような語りを日本で見ることは極めて稀である
今回は、コロナ後の世界について考えたビデオを紹介したい
コロナ後に「世界の新秩序」が現れるというやや陰謀論めいた話ではない
もっと身近で具体的な変化について展望されている
まず、グローバルな経済基盤に依存しない方向性、地域での自己完結性を模索する必要があるということ
例えば、食料や医薬品などはできるだけ近いところから入手できるように変えていく
世界を飛び回るというライフスタイルを止めること
学会などで世界を移動することなど、ナンセンスだと考えなければならない時代が来るだろう
今やネットを介した会議が技術的に可能になっているのだから
今回のロックダウンが教えてくれたことの一つは、自然との接触の重要性だ
自然を愛でる精神、他の動物と尊敬の念をもって接する態度など
より人間的な生活を発見・構築する機会が訪れるかもしれない
それから、世界共通の問題に対処する際に重要になるのは、真実を語ること
情報の開示性と透明性を如何に確保するのかということである
それが欠けていた国として中国を挙げているが、それだけに止まらないだろう
また、問題を「予測して」対処するという態度も重要になる
2月の段階ではWHOは中国の行き来を認めていたようだが、この態度が欠如していた
早期の対策は問題を早く収め、遅れれば遅れるだけ問題は悪化・長期化する
この当たり前のことがなぜできないのか
今回、キャンベルさんは"short-termism"という言葉を出していた
つまり、目先の利益を重んじるあまり、長期的な成功や安定を失うような態度を採ることを言う
短期的な経済の停滞がないような政策を出し、最終的に経済の回復は遅れ、より多くのものを失うことになるなど
出来るだけ早くワクチン開発ができるように、各国は協力し、その投資をしなければならないとも言っている
より身近なこととして、病院のベッド間の距離を広げること、窓を開けて外気を入れることなどを推奨していた
実は今カフェにいるのだが、席の数は半分以下になり、それぞれの距離が広がっている
このことである
今日も頭の中がすっきりする内容であった
キャンベルさんの話は精神衛生にも良いことが分かってきた
COVID-19 の無症候例について
日本が進む方向に関しては相変わらず揺れ、未だにいくつもの方針が出されている
なぜ有効だと論理的に言える(過去と現在進行中のデータ、将来予測などを考慮した)方針が決まらないのだろうか
その前提は、現実をどのように認識するかという問題になるだろう
そこが非常に甘いのではないだろうか
ということで、久し振りにジョン・キャンベルさんの話を聴くことにした
今日のお話は、症状を示さない感染者についてであった
これまでに、次のような数字を出してきた
感染者の80%は軽症で、16%は重症で入院が必要となり、5%程度が危険な状態になり、1%は亡くなる
感染者のどれくらいが免疫を持つのかは分からないが、5%(~10%)くらいは持つ可能性がある
アメリカの免疫学者ファウチ博士によれば、感染者の約半分は無症状だという
そのうちのどれくらいが感染を広げるのかは分からない
中国の研究では、4月1日に感染が確認された166人のうち78%は症状がなかったという
対象とした人数は少なく、信頼できるかどうかは分からないが、British Medical Journalに発表されている
ファウチ博士の数字よりかなり高い
表に出ないが感染している人はかなり広がっていることを想像される
北イタリアの3,000人を対象とした研究によれば、感染した人の大部分が無症状だったという
つまり、症状はないが感染している人は感染拡大を考慮して隔離しなければならないだろう
どうしても検査が欠かせないのである
WHOは、感染を広げるのは発症している人で、無症候の人は感染を広げる主役ではないと言っていたようだ
キャンベルさんは、WHOは間違っていると判断している
2020年4月15日水曜日
サイファイ研究所ISHEの春の予定について
先にお知らせした春の予定ですが、COVID-19の影響を考慮して、すべて延期することにいたしました
- 第8回サイファイ・カフェ SHE 札幌(4月25日)
- 第15回サイファイ・カフェ SHE(5月13日)
- 第7回サイファイ・フォーラム FPSS(5月16日)
- 第8回カフェフィロ PAWL(5月20日)
- 第6回ベルクソン・カフェ(6月4日、11日)
ご理解いただければ幸いです
COVID-19の影響ができるだけ少ないうちに収束し、秋には開催できることを願っております
2020年4月14日火曜日
フランスのCOVID-19対策について
大使館から連絡が入った
4月13日、マクロン大統領が演説を行い、外出制限措置を5月11日まで延長する等の発表を行ったようである
その概要は以下の通りである
1)ここ数日、患者数減少等の希望が見えてきたが、医療施設は飽和状況にあり、努力を継続する必要がある
5月11日(月)まで、今と同レベルの厳しい外出制限を維持する
仏国内全土において同様の措置が必要になる
2)5月11日から、託児所と小中高校は段階的に再開する
高等教育機関は夏までは引き続き遠隔での開講となる
3)5月11日になってもレストラン、バー、映画館、劇場、博物館等は引き続き閉鎖する
イベントや集会などは7月中旬までは禁止
5月中旬以降、毎週、状況をみて措置を適応させていく
4)5月11日から、症状のある全ての人に対しテストを実施できるようになる
陽性者は隔離され、治療を受ける
5月11日から、大衆用マスク(masque grand public)を全ての国民に配布する
5)今後15日以内に、5月11日以降の計画を発表する
6)EU国境は新たな決定まで閉鎖を継続する
7)更なる経済政策が必要である
観光業、ホテル業、飲食業等、経済的打撃の大きい部門に対しては、特別な措置がとられる
4月15日の閣議以降、必要な措置を決めていく
8)ワクチン開発を目指し、研究に一層の投資を行う
フランスは欧州で最大数の臨床実験をしているが、治療法を見つけるために継続していく
9)アフリカがコロナウィルスに効率的に闘えるように支援すべきである
経済面でもそれが必要であり、負債の帳消し等が考えられる
2020年4月13日月曜日
精神と魂と身体(8)
付随性(Supervenience)
ドナルド・デイヴィドソンは現代のこころの哲学に最も多くのものを齎した哲学者の一人である
彼は心身関係の問題に対する解決を提案している
すべての心的出来事は物理的出来事であるとしても、心的領域と物理的領域を結ぶ厳密な法則はない
一つの(物理的な)ものしか存在しないが、個人XとYに対してできる物理的描写と心的描写は同じではない
この還元不可能性は、心的描写のために物理法則と同じ種類の法則を示すことができないということが原因である
「非法則的一元論」(anomalous monism)と呼ばれている
我々は2種類の相互に還元できない概念(物理的なものと心的なもの)を持っている
デイヴィドソンにとって、心的特性(痛みがある、愛している)は物理的特性に付随する
彼は次のように言っている
すべての物理的側面は似ているのに心的側面が異な二つの出来事はあり得ない。このような依存性あるいは付随性は、法則や定義を介する還元可能性を意味しない。もしそれを意味するとすれば、道徳的特性を描写特性に還元できることになる。非法則的一元論は心的概念の還元不可能性を保証する
それは「心的なもののホーリズム」の枠組みの中で理解されるべきものである
一つの信念、一つの欲求、一つの意図は、他の信念、他の欲求、他の意図に依存する
また、命題的態度は論理的関係を維持することを前提とする
それは命題について適用される心的態度で、と考える、ことを知る、を主張する、を望む、を欲するなどである
それが植物であり動物でないとXが信じているとすることなしに、それが花であるとXが信じていると私は思わない
我々は他者が信念や欲求や意図を持っていると思うのは、この合理性である
従って、個人の心理描写は我々が合理性の基準を用いていることを前提としている
(XはYを愛しているので、Xは花を買った)
我々が取る態度は、合理的でホーリスティックな(ネットワークを作る)構造を持っている
これらの合理性の基準により、我々は言語的で社会的な次元に入るが、それは物理学への還元を阻害する
従って、脳とそこで起こっている精神物理学的過程を完全に知ることは、心的なものを完全に知ることではない
デイヴィドソンは、心的なものの物理的なものへの還元性をアプリオリに認めないが、二元論に陥ることはない
心理的出来事の描写は物理的描写に随伴するが、物理的なものには還元されない
我々が人間の心理的態度を描写する概念に特異的に還元できない何かがある
これらの概念は、行動の解釈に不可欠な合理性や評価の基準と結び付いているのである
2020年4月12日日曜日
精神と魂と身体(7)
反二元論(4)
ある心的状態が痛みの心的状態であるために重要なことは、その物理的性質ではなく、それが果たす役割である
ここで厳密な意味での唯物論を離れる
なぜなら、心的過程は外形上のものだが、物質的なものではないからである
例えば痛みは、物理的傷害を検出する機能である
検出する役割を担うメカニズムは、その機能より重要ではない
しかし、機能主義は行動主義ではない
行動主義は次のことを主張するものである
感覚、感情、信念、欲求、希望、願いなどについてのすべての言説は、観察できる行動に関する言説に「翻訳すること」ができる従って、「Xは痛い」、「XはYを愛する」という陳述は、Xのある状況での行動様式に応じて解析されるべきである
しかし、行動だけを記述する陳述から心的状態を記述する言葉を排除できるかのは、全く不明である
それから、心的状態が因果関係を持たないのかについて問うこともできる
「Xは彼が愛する女性に贈りたいと思ったので花を買う」
行動の記述のために「花を贈りたい」という心的状態が削除された場合、どのように原因となる機能を持つのだろうか
機能主義は現実主義である
たとえ心的状態が物理的状態と同一ではなくとも、心的状態という現実を拒否しないのである
二元論が消去主義、同一説、機能主義、行動主義によって一向に打ち負かされないとすれば、精神は生き長らえる
痛みに戻ってみよう
ある機能主義者にとって、痛みは傷害の検出の原因となる役割を担っている
感覚は、実際には現象に関わる質的な特徴を持っている
哲学者は「クオリア」と言ったりする
我々の生き生きとした生活は、クオリアの祝祭である
例えば、色、匂い、味、音、目覚めてからの多様な感覚
生き物の毛の柔らかさ、コーヒーの匂い、蜂蜜の味など
心的状態に割り当てられた機能的役割は、ある心的状態(クオリア)に在ることを感じさせる効果を説明しない
「クオリアの逆転」の可能性を想像した哲学者がいた
赤いというわたしの経験は、あなたの緑の経験と全く同じかもしれない
つまり、あなたがグリンピースを見た時、わたしがトマトを見た時と同じ経験をするというものである
二つの色の機能的役割は同じということになる
クオリアの逆転にもかかわらず、我々は熟したトマトとそうでないトマトを選り分けることができるだろう
我々の経験は異なっているように見えるのである
どうしようもなく「精神に関わる」ように見えるのは、この質的で現象的な次元である
確かに、還元不能な二つの実体が存在することを肯定する二元論から我々は遠いところにいる
しかし、物理的なもののために心的なものを排除して勝利した還元主義を擁護することはできない
還元主義はどのようにして我々の第一人称の心理的生活すなわち「クオリア」を説明するのだろうか
2020年4月11日土曜日
『近代の超克』、あるいは日本人による日本の科学と知の省察
雑誌『医学のあゆみ』に連載中のエッセイ「パリから見えるこの世界」の第90回が掲載されました
テーマ: 『近代の超克』、あるいは日本人による日本の科学と知の省察
(医学のあゆみ 273: 203-206, 2020)
80年前には存在した知識人による座談会について考えた内容となっております
お目通しいただければ幸いです
2020年4月10日金曜日
精神と魂と身体(6)
反二元論(3)
(2)を続けると、ポストモダンにとっては唯物論は反形而上学になるが、実は一つの形而上学である
それは次のようなことからである
1)精神は存在しない
2)心的性質、あるいは心的状態を語ることは一般的な語りで、自然世界の真面目な(=科学的な)概念を成していない
3)物理的な性質と物理的な状態しか存在しない
従って、心的性質や心的状態はすべての科学的説明から排除されなければならない
しかし、二元論と唯物論の間には他の形而上学的テーゼが存在する
それが同一説で、上の1)と2)は認めるが、3)は拒絶するという立場である
それは次のような主張である
4)心的性質と心的状態は物理的性質と物理的状態と同一である
従って、心的状態は排除されず
雲が浮遊する粒子の集合であり、温度が分子の運動エネルギーであるように、意識はニューロンの状態である
この説はいろいろな問題にぶつかる
その中には、同一性が(心的、物理的)型に関するものなのかどうかという問題がある
これは議論の余地がある
異なる物理的状態を持つ非常に異なったオーガニズムは、ある心的状態を共有できないのではないか
換言すれば、「心的状態の多重実現可能性」は存在しないのではないか、ということである
物理的出来事と心的出来事の間の同一性は、次の同一性を意味しない
それは、物理的状態の型と心的状態の型の同一性、およびある部分の物理的型と他の部の心的状態の同一性である
心理学的同一性の擁護者が答えを探す際に出会う難しさは、「機能主義」という主張を発展させた
そこでは、心的状態の型は原因を示す役割によって定義される
5)心的性質は、個人の観察できる行動を説明可能にする機能的役割によって特徴付けられる
となるのである
(つづく)
2020年4月9日木曜日
精神と魂と身体(5)
反二元論(2)
二元論に対する二つの批判は非常に異なっている
昨日示した(1)は、二元論は何かを隠していると考える
それは適切な解釈によって明らかにできる
このやり方は19世紀終わりから多くの大陸哲学者、特にポストモダン哲学者により引き継がれている
二元論は厳密に物質的ではない現実に訴える
そのため、必要があれば人間を欲求不満や社会的疎外状態に置いたままにするのに役立つ幻想の中で二元論は充足するのである
ポストモダン哲学者にとっての問いは、二元論が正しいかどうかではない
二元論を非難するのは、それが欲求と身体を抑圧するからである
この批判は多様な形を取り得る
例えば、よく練り上げられたフーコーなどの形や荒っぽいオンフレなどの形がある
結局のところ、この型の批判は二元論に対して議論するというより、物質性の名の下に二元論を悪意で解釈する
この流れにいる多くの哲学者は道を変えた
そして、ポストモダン哲学者がチャンピオンになるのである
昨日の(2)は反対に、二元論に対して真っ向から正反対の立場を取る教義を発展させる
二元論は拒絶すべきイデオロギーであり、間違ったテーゼであることを疑わない
要するに、二元論は非物質の心的現実の存在を正当化できないのである
唯物論は二元論の持つ価値の拒否や破壊を擁護し、生命の迸りや欲求に反対する試みを罵倒する反イデオロギーではない
唯物論はただ単に、生命の正しい説明は非物質の心的現実への参照なしで済ますということを意味している
(つづく)
2020年4月8日水曜日
精神と魂と身体(4)
反二元論(1)
二元論者は次のように考える
1)精神は、物質とは根本的に異なる種類の実在するものである
2)心的性質と心的状態は、非物質的なのものの性質と状態である
3)物質的身体のあるものは精神と密接に関係し、人間は物質的なものと非物質的なものが結び付いたものである
1世紀以上前から、二元論はあらゆる流れの哲学者にとって打倒すべき主張であった
例えば、固有の身体を扱う現象学者、精神分析に傾く哲学者、マルクス主義的唯物論者、認知主義哲学者、物理主義者等
二元論に対する批判的な戦略は多数あるが、主要なものは二つである
(1)二元論は、身体を疎外した形を表しているという考えから始めることができる
抑圧的な中身を隠さない道徳的、宗教的原理を理論的に包み込んだものとしてである
二元論はユダヤ・キリスト教と結び付いている
キリスト教は身体、享楽、快楽、そして生のすべての良いことの敵であると考える人がいる
しかし、多くのポストモダン哲学者は、我々は快楽を求める身体であると言う
古代の唯物論(デモクリトス)に健全な回帰をすることを説き、ニーチェの流れに結び付いていると主張する
これが反二元論の「大陸哲学」版である
(2)心的性質について語るすべてのことは、物理的性質で十分に説明することができる
二元論の主張は役に立たない
この主張は我々を神秘的な実体の存在へ、物質に還元できない精神へと導くことになる
物理学、生物学、神経心理学における科学知の進歩は、少しずつ精神の記述に戻ることを排除している
このタイプの言説は、単純な語りとしてだけ存続するだろう
意図、信念、行動理由、意思、希望、愛について普通の語り方を排除して科学的な記述に至るこのような構想
それは紀元前5世紀のデモクリトスの唯物論と同じくらい古いものである
例えば19世紀の終わり頃のように、それは周期的に戻ってくる
科学の進歩のお陰で、精神の「自然化」は遅らせることができないという大声のアナウンスと同時に
「分析哲学」版の反二元論は、哲学的だが新しい衣装を着け、英語で語られる古臭い考えではないのか
(つづく)
2020年4月7日火曜日
精神と魂と身体(3)
プロローグ:デカルト(2)
しかし精神の現代的概念は、当然のことながらデカルトの二元論に対する反応として理解できる
一方で、フッサールの現象学においてはポジティブな反応、メルロー・ポンティになると多少とも批判的反応である
他方、精神分析(ラカン)、心理学の哲学(ウィトゲンシュタイン)、こころの哲学では多様な批判的反応がある
主体の哲学の検討では、特に現代フランスの哲学者において明確な敵意ある態度が認められる
フーコーやドゥルーズやデリダたちである
デカルトの二元論は二つの世界があると考える
一つは自然科学が研究する物理的世界で、もう一つは公の観察ではアクセスできない、私的な精神世界である
二つの世界は、物理科学によって研究される因果律に還元されないやり方で相互作用する
以下がアンソニー・ケニーが言っていることである
デカルトは並外れた能力を持つ天才であった。彼の主要な考えは、郵便はがきの裏に書けるような簡潔さで表現できる。しかしそれは、非常に革命的であるので数世紀に亘る哲学の流れを変えてしまったのである。もしデカルトの主要な考えを郵便はがきの裏に書きたいとすれば、二つの文章しか必要でない。人間は考えるものである、そして物質は動いている延長である。人間は考えるものであるという最初の主張は正確だろうか
それは「こころの哲学」と呼ばれる領域において、多くの現代哲学者が探しているこの問いに対する回答である
2020年4月6日月曜日
精神と魂と身体(2)
いろいろと寄り道をしたが、久し振りに現代哲学の問題に戻ってみたい
今日は「精神と魂と身体」の2回目となる
1回目は3月25日で、こちらになる
プロローグ:デカルト(1)
デカルトの第二省察のこの一節はよく知られている
わたしは、それなしには存在し得ない身体と感覚にそれほど依存しているのであろうか。しかしわたしは、世界には何も存在しないこと、天も地も、如何なる精神も身体も存在しないことを納得した。従って、わたしが存在しないことも納得したのではなかったのか。とんではない。もしわたしが納得したとすれば、あるいはわたしが何かを考えたとする場合にだけは、わたしはきっと存在したのである。しかし、常にわたしを騙すことにすべての策を弄する、それがどんなものかは分からないが、非常に強力で、非常に抜け目のない騙し屋がいるのである。従って、もしわたしが騙されるとすれば、わたしが存在することに疑いの余地はない。彼が望むだけわたしを騙すようにさせなさい。わたしがひとかどの人物であると思う限り、彼はわたしを何ものでもないようにはできないだろう。その結果、そのことを十分に考え、すべてのものを注意深く検討した後、わたしがそのことを口にし、あるいは精神の中でそれを理解する時にはいつも、わたしは在る、わたしは存在するという命題は必然的に真であることを最後には結論し、不変であるとしなければならないのである。 (拙訳)
このように推論して、デカルトはこころの哲学を考案した
なぜなら、このように存在を確認したところのものは、一つの精神であるわたしであり、それ以外ではないからである
それ以前にはこのことを誰も言っていなかったのか
このように言った人はいなかったようだ
ただ、プラトンやアウグスティヌスのような二元論の哲学者は存在した
彼らは魂と身体を厳格に区別した
ただ、神を除いた自分以外のすべての存在を疑った結果、「自我」が自身の存在を確認できるとは考えなかった
しかし、ある哲学史家は我々に警戒するように促す
デカルトの「自我」は近現代の哲学が語る「主体」ではないと
デカルト的自我は、中世思想に見られる魂の概念を受け継ぐと同時にそれと決別したものである
この自我は、テクストの注意深い読者であれば真のデカルトをそこに認めない概念的漂流の原因であった
*****************************************
(注)デカルトの三木清訳がネット上にあったので、参考までに以下に貼り付けておきたい
いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
(つづく)
2020年4月5日日曜日
サイファイ研究所ISHEの5月の予定について
サイファイ研ISHEの5月の予定について変更が出ましたのでお知らせいたします
COVID-19の影響が広がる中、5月に予定していた以下の会を延期することに致しました
- 第15回サイファイ・カフェ SHE(5月13日)
- 第8回カフェフィロ PAWL(5月20日)
- 第7回サイファイ・フォーラム FPSS(5月16日)
- FPSSに関しては、6月に日仏会館が開館し、会場が確保された場合には開催する予定にしております
詳細が決まり次第、改めてお知らせいたします
ご理解いただければ幸いです
2020年4月4日土曜日
江成常夫という写真家
テレビをひねると「こころの時代」という番組が流れていて、江成常夫という写真家が出ていた
初めて知るこの方の語る言葉がよく入ってきて、驚く
対象をしっかり見続けてきたからだろうか
真実を逸らすような誤魔化しの言葉を使わない
言葉とそれが指し示すものとの間にズレがないのである
そのことに気付くほど、他の番組の言葉が記号となっている酷さがあるからだろう
江成氏は、指し示すものを見えなくするような言葉を権力は使うと指摘
国の欺瞞性は先の大戦から現在まで続いていると静かに告発していた
氏のお仕事は結局のところ、正確に「もの・こと」を捉えるということだったのかもしれない
それから、これまでであれば聞き流すような「こころの渇き」という言葉に反応した
新聞社のカメラマンとして仕事をしている時に感じた不全感を表現したものである
それは、わたしが科学者時代に覚えた不全感とも重なるのではないかと思ったからだろう
このような番組が増えると、考える人間も増えるかもしれない
考えるとは、対象を正確に見て明晰な言葉を紡ぐことだからである
先日の穐吉敏子さんとの遭遇もそうだったが、日本で偶に起こる幸運な偶然であった
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mercredi 8 avril 2020
上の記事にある「こころの渇き」という言葉について、今朝、あることに気付いた
それは新しい拙エッセイで取り上げた吉満義彦の言葉と重なるということである
その言葉とは「魂の空虚」
これを感じなければ「近代の超克」は始まらないという文脈で出てきた言葉であった
「こころの渇き」、「魂の空虚」を感じるところから、生き方が変わるのである
この世界の捉え方に変容が起こり、スピノザの言う「知性改善」が始まるのである
「それがいま求められている」
という、より公的な感覚もこの言葉に反応した理由だったのかもしれない
第8回 サイファイ・カフェSHE札幌のご案内
第8回 サイファイ・カフェSHE札幌を以下の要領で開催いたします
日 時: 2020年4月25日(土)16:00~18:00
会 場: 札幌カフェ 5Fスペース(札幌市北区北8条西5丁目2-3)
テーマ: オスヴァルト・シュペングラーの技術論を考える
講 師: 矢倉 英隆 (サイファイ研究所 ISHE)
『西欧の没落』で有名なオスヴァルト・シュペングラー(1880-1936)の『人間と技術―生の哲学のために』(富士書店、1986)を参照しながら、彼が技術の本質をどこに見ていたのか、そこから現代の問題に立ち向かうヒントが得られるのかという点に注目して考察を進めます。また、パンデミックの様相を呈しているCOVID-19が投げかける問題についても考えを広げることができればと思います。
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
2020年4月3日金曜日
現象学とは(7)
特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)
(3)ドミニク・ジャニコーは、『現代フランス現象学―その神学的転回』で次のことを示した
ルヴィナス以来、フランスの現象学はハイデッガーによって伝えられた曖昧さにより特別な転回をした
「現象学的還元」は超越論的「我」を引き渡したが、現象学的贈与の中心にあるのは超越的なもの(神)である
これはジャン・リュック・マリオン、ミシェル・アンリ、ジャン・ルイ・クレティアンなどにおいてのことである
目に見えるものが目に見えないものや不可視性におののく
存在が呼びかけになる
「復活」や「身体の栄光」という概念が、現象学的解析を神学的に上から決定する
注意すべきは、それは次のものではないことである
神の存在証明の妥当性についての問い、宗教的信仰のエピステモロジー、キリスト復活の信仰の合理性についての問い
また、エティエンヌ・ジルソンがやったようなキリスト教哲学の存在の根拠になるテーゼを擁護することでもない
寧ろ、現象学的描写の中心には、 「啓示」、「超越性」、「神性」が見られることを示唆するものである
しかし、この神学的転回の内に自らを認めない多くの現象学者には、この点への強い躊躇いがある
そして宗教哲学者も同様に、こう考えるかもしれない
「宗教的体験」という概念は、一般的な「体験」の概念より信用できるものではない
2020年4月2日木曜日
現象学とは(6)
特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)
(2)現象学はしばしば、他の哲学的アプローチを排除するもののように見える
それは次のように理解される
もし現象学者が正しいとしたら、哲学における適切な方法は現象学の方法以外には存在しないことになる
例えば、意識生活の記述 、我々が知覚できるすべての基礎、「もの・こと」の理解など
現象学者は「現象学的還元」によって真の哲学的態度に入り、そのようにして現象の意味に近づくと考える
対象を取り間違えた探索の素朴さと不確実性を断ち切った方法なしに、一体誰が済まそうというのだろうか
本来の対象は、我々にとっての現実の意味を構成するものとしての意識の中身で、外部にあるものではない
これは次のようなことが言われたことを説明している
「形而上学が目的を見つけて以来、哲学は現象学の下でだけ真に追求できた」⧪
「本質的な部分において、現象学は20世紀の哲学の役割そのものを担っている」⧪
分析哲学者は、形而上学は終わるどころか非常によくやっていると考えている
なぜなら、多くの哲学者が形而上学の論文や本を書き、世界の殆どすべての大学で形而上学が教えられている
この流れの哲学者として、ピーター・ストローソン、デイヴィド・ルイス、デイヴィド・アームストロング、
ジョナサン・ロウ、ジョン・ホーソン、ピーター・ヴァン・インワーゲン、フレデリック・ネフ、他多数
しかし現象学者の中には、そこに見方の間違いがあると考える人がいる
形而上学が終わる時、ある者は不幸にもまだそれをやっていると主張するかもしれないのである
しかし今日、現象学だけが「哲学的意図を哲学自体の完成へと到達させるのである」⧪
このようなコメントによって、分析哲学と現象学の間を溝を計ることができる
それが哲学的テーゼ間の論争ではなく、乗り越えることが難しい分裂に関するものであることも分かる
分析哲学者から見れば、現象学者は意識行為の重要性を強調し、問題の多い観念論へと向かうように見える
結局は月並みで難解な語彙と基礎的であるという思い上がりによる心理的描写に満足しないのではないか
現象学者にとっての分析哲学者は本物ではなく、真の哲学との関係を結び直すことができる転回をしなかった
対立するものの和解は非常に危ういように見える
⧪ ジャン・リュック・マリオンの言葉
(つづく)
2020年4月1日水曜日
現象学とは(5)
フッサールにより導入され、現象学者が発展させた根源的なテーマの一つは、「生活世界」(Lebenswelt)である
現象学の務めの一つは、科学とすべての人間的活動が生活世界からその意味をどのように引出すのかを示すことである
人間的活動の中には、芸術、宗教、文化的・身体的実践などが含まれる
生活世界の根本的な構造を記述し解析するのが、現象学本来の不可欠な仕事である
今日の、特にフランスにおける現象学とは何かをよく理解するために、三つのコメントが役立つだろう
(1)分析哲学と現象学の対立は明白である
ただ、分裂の起源に立ち還り、その妥当性及び分裂を乗り越える可能性を自問しようとしてもよいだろう
ブレンターノが現象学と同時に、分析哲学のある局面の源にいることに注意しよう
しかし、元々の親近性が100年以上前に形成された方法論的溝にあるものが何であれ、どの点で変わったのか見えない
現象学者と認知主義哲学者の対話が可能であるということは、認知科学の特定の理論について何かを語っている
しかしそれは、分析哲学と現象学の間に和解が進行中であることを意味しない
哲学的統合運動は多元的で包括的に見えるという点で好感が持てる姿勢である
今日において、この二つの姿勢は一般的に推奨されることでもあるからである
しかし、適用される哲学的テーゼと方法には疑義を呈しながらも、人間を完全に尊重することができる哲学
そこにおいては、二つの間の融和が広がることを望むことは、おそらく不可欠ではないだろう
(つづく)
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