2022年9月30日金曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(10)
2022年9月29日木曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(9)
2022年9月28日水曜日
第6回ベルクソン・カフェ+第8回カフェフィロPAWL、終わる
3年振りのカフェ、フォーラム週間が始まった
今日は、フランス語を読み哲学する「ベルクソン・カフェ」と、生き方としての哲学を論じる「カフェフィロPAWL」を共同開催した
カフェには7名の方が参加され、充実した議論が展開した
今日参加された皆様には改めて感謝したい
テーマはアラン・バディウ(1937- )が考える「幸福の形而上学」だが、主題は哲学の使命を正しく認識すること
それがどうして幸福の形而上学になるのか
両者の結びつきを明らかにすると同時に、現代という時代が哲学の営みにネガティブな影響を与えていることを指摘
この状況を打ち破る新たな哲学のやり方を模索している
このような問題の捉え方(「現代の超克」のための哲学)はわたしの中にもあるものなので、興味深く読んだ
詳しいまとめは、近いうちに上記サイトにアップする予定である
もう少しお待ちいただければ幸いである
余談だが、今回の著者バディウは、カンボジアのクメール・ルージュをル・モンド上で支持した過去があり、その33年後に過去を悔いると表明している
それは10年前のことだったのでフランスで知り、わたしのブログにもその記事が残っていた
アラン・バディウ 「わたしは悔いている」、あるいは真の政治的勝利とは(2012.3.22)
シリーズ最初の懇親会は以下のような感じであった
2022年9月27日火曜日
『免疫学者のパリ心景』、書評のご紹介
2022年9月26日月曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(8)
2022年9月25日日曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(7)
2022年9月24日土曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(6)
2022年9月23日金曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(5)
2022年9月22日木曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(4)
2022年9月21日水曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(3)
2022年9月20日火曜日
同期生M君を弔問する
2022年9月19日月曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(2)
2022年9月18日日曜日
プラトンの『ティマイオス』を読む(1)
2022年9月17日土曜日
コリングウッドによる自然(14): ピタゴラス学派(7)
2022年9月16日金曜日
コリングウッドによる自然(13): ピタゴラス学派(6)
2022年9月15日木曜日
コリングウッドによる自然(12): ピタゴラス学派(5)
2022年9月14日水曜日
コリングウッドによる自然(11): ピタゴラス学派(4)
2022年9月13日火曜日
コリングウッドによる自然(10): ピタゴラス学派(3)
ピタゴラス学派の人びとは、存在者は数を「模倣する」ことにより存在すると言ったが、プラトン(427 BC-347 BC)は言葉を換えて、「分有する」ことにより存在すると言っている
2022年9月12日月曜日
コリングウッドによる自然(9): ピタゴラス学派(2)
2022年9月11日日曜日
明晰にして判明な「中秋の名月」
2022年9月10日土曜日
コリングウッドによる自然(8): ピタゴラス学派(1)
2022年9月9日金曜日
コリングウッドによる自然(7): 「自然」という言葉の意味
2022年9月8日木曜日
コリングウッドによる自然(6): イオニア学派の限界
2022年9月7日水曜日
コリングウッドによる自然(6): イオニア学派(3)アナクシメネス
2022年9月6日火曜日
コリングウッドによる自然(5): イオニア学派(2)アナクシマンドロス
2022年9月5日月曜日
コリングウッドによる自然(4): イオニア学派(1)タレス
2022年9月4日日曜日
コリングウッドからパワーポイントの機能を再考する
もう10年も前になることに、いつものように驚いている
「医学のあゆみ」のエッセイで、自然界で起こっていることをパワーポイント(PPT)で示すことの問題について考えたことがある
医学のあゆみ(2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012
それを思い出したのは、コリングウッド(1889-1943)がルネサンス期の自然観について書いているのを読んだ時である
この時期の自然観は、自然の背後には創造主による不変の法則があり、それが自然を動かしているというもの
自然の動きは科学では捉えられないが、不変の法則を捉えることが科学の対象となった
それが現代に入ると逆転したというような議論であった
ここでは、自然現象と法則を別の領域に属するものとして見ているところに注目した
上記エッセイでは、PPTで示した模式図では自然界で起こっていることを理解したことにはならないことを指摘した
PPTでは概念図のようなものを示すことが多いので、生身の自然がどのように振る舞っているのかは見えてこない
しかし、自然現象と法則を別物として考えるならば、この状況は確かに自然現象の実際を示していないかもしれない
だが、そこに見られる規則性を示すには十分に役割を果たしていると言えないだろうか
この立場から見れば、現代の自然学は現象そのものよりは、そこにある規則性を明らかにしようとしていることになる
これは、コリングウッドによる「現代の自然観」とは異なっている
ただ、その状況は科学の領域によっても変わってくるのかもしれないが、、
2022年9月3日土曜日
コリングウッドによる「現代の自然観」の帰結
2022年9月2日金曜日
コリングウッドによるヨーロッパにおける自然観の変遷
2022年9月1日木曜日
R・G・コリングウッドによる科学と哲学
自然事象の個別的研究は、ふつう自然科学と、あるいは簡単に略して単に科学と呼ばれている。一方、原理への反省は、自然科学に関する反省であれ、思考あるいは行動といった他の部門の反省であれ、一般に哲学と名づけられている。・・・哲学に反省の題材を与えるためにはまず自然科学が生じなければならないが、科学と哲学は非常に密接な関係をもっているため、自然科学は哲学が始まらなければ長く続きえない。・・・哲学は、科学者が研究する上の根拠としていた原理に関する、科学者の新しい意識から生まれた、新しい確実性と整合性を自然科学の前途に与えてゆく過程を通じて、科学そのものから成長してくるものなのである。
それゆえ、自然科学のことはもっぱら科学者と呼ばれる人々に委せ、哲学のことは哲学者と呼ばれる連中に委せておけばよいのだということは成り立たない。自分の研究の原理について一度も反省したことのない者は、それに立ち向かう大人としての態度を全うしえないといえよう。自分の科学に一度として哲学的省察を試みたことのない科学者は、生涯、二流の、猿まねの、下積みの科学者の域を脱することはできないであろう。またある種の体験を経たことのない者はそのことを反省する術もない。自然科学を研究したり、それに従事したことのない哲学者は、それについて哲学することは不可能であり、敢えてそうするものは世の失笑をかうだけであろう。
十九世紀以前には、少なくともかなり優秀でかつ著名な科学者たちはつねにある程度自分の科学に関して哲学的省察を加えてきたものだった。そのことはかれらの著作が証明している。しかもかれらは自然科学を主要な任務とみなしているのだから、当然これらの著作が証明する以上に広汎な哲学的活動を行っていたと考えてもよいだろう。 十九世紀に入ってから、自然科学者と哲学者を二つの専門集団に分ける風潮がだんだん大きくなった。一方では他方の研究を少しも顧ることなく、ほとんど共感を寄せなくなってしまった。これは双方に害をなす悪しき風潮であり、双方ともどもその風潮が終わるのを見とどけ、それが作りだした誤解の裂け目に何とか橋をかけたいと願っている。