2022年9月30日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(10)

























一つの生き物と身体各部との関係を教導する際に重要になるのは、魂である

従って、その魂を最も優れたものにすることが求められる

すでに、異なった3種類の魂が我々の中に住んでいることに触れた

その中で、無為に過ごし自身の動きを止めているものは弱いものになるのに対し、鍛錬されるものは強くなるのが必然である

そのバランスを取るように注意しなければならないのである


我々の魂の中で至上権を握っているもの(理性)は、神が神霊(ダイモーン)として各人に与えたものである

そこで欲情や野心の満足のために汲々としている者は、その思いのすべてが死すべき(地上的な)ものになり、その人自身も死すべきものになる

これに対して、学への愛、真の知に真剣に励んできた者がもし真実に触れるなら、その思考の対象が不死なるもの、神的なものになるのは必然である

さらに、そうした人も最大限の不死性にあずかることになり、自身の同居者である神霊の世話をしているので、幸福(エウダイモーン=よき神霊を持てる者)であることも必然である


ところで「世話」というものだが、その方法は唯一つ

それぞれに固有の養分と動きを与えてやることである

生れた時に損なわれてしまった我々の頭の中の循環運動を、万有の調和と回転運動に学んで矯正し、観察する側を観察される側に似せ、前者を本然の姿に戻さなければならない

そのことにより、最もよき生を全うしなければならないのである










2022年9月29日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(9)

























今朝は久しぶりのカフェの後なので、余韻を味わいながらゆっくりスタートした

屋外に出て、風と人の流れを感じながら読む『ティマイオス』もなかなか良かった

今日は魂の病気だが、それは身体的条件を通じて起こる


まず、「魂の病気」とは「理性を欠いていること(愚かさ)」で、それには2種類がある

一つは「狂気」であり、もう一つは「無知」である

また「快」「苦」が過度になると、病の中でも最大のものとなる

さらにまた、酸っぱい粘液や塩辛い粘液、苦くて胆汁質である体液が内部に閉じ込められ、自分の出す蒸気を魂の運行に混じらされると、魂のありとあらゆる病気を作り出す

「気難しさ」「意気消沈」、「向こう見ず」「臆病」、「物忘れの早いこと」「物覚えの遅いこと」など


ここで、身体と精神が健全性を維持するために、この両者をどのように面倒を見るのかを考えてみたい

善いものはすべて美しく、美しいもので均斉の取れていないものはない

したがって、善美の性質を具えようとすれば、均斉の取れているものではければならない

「健康と病気」「徳と悪」を考える場合、魂と身体の間の釣合い以上に重大なものは存在しないのだが、我々はそれについて考えてみようともしない

魂の方が強力で偉大なのに、それを乗せる体の方が弱すぎる場合、魂が激怒すると身体全体を揺り動かし、病気でいっぱいにする

一方、過ぎた身体が弱い精神と共生する場合、我々の2つの欲求である食欲と最も神的な知を求める欲求のうち、前者が優勢になり、魂の方は最大の病である「無知」に至る

これらの病気に対処するには、体と魂の均衡を保つことである

つまり、精神面の激しい訓練に従事する人は体育にも親しむこと、反対に体づくりに励んでいる人は音楽や文芸、そして「哲学」にも携わり、魂に運動を与えてやらなければならない


ところで「動き」だが、最も優れているのは自分自身の中で自分自身によって動かされるようなものである

2番目に良いのは、乗り物で行く場合に振動を通じて与えられる動きである

第3の動きは、医薬(下剤)を用いて浄化する場合だが、これは避けるべきものである

なぜなら、大きな危険性がない限り、病気は医薬によって刺激されるべきではないからである

それぞれの生き物は運命によって割り当てられた生命を持って生まれてくるものである

それは、生き物の三角形の寿命を越えては生きることができないように構成されているからである








2022年9月28日水曜日

第6回ベルクソン・カフェ+第8回カフェフィロPAWL、終わる












3年振りのカフェ、フォーラム週間が始まった

今日は、フランス語を読み哲学する「ベルクソン・カフェ」と、生き方としての哲学を論じる「カフェフィロPAWL」を共同開催した

 第6回ベルクソン・カフェ:「幸福」

 第8回カフェフィロPAWL: アラン・バディウ


カフェには7名の方が参加され、充実した議論が展開した

今日参加された皆様には改めて感謝したい

テーマはアラン・バディウ(1937- )が考える「幸福の形而上学」だが、主題は哲学の使命を正しく認識すること

それがどうして幸福の形而上学になるのか

両者の結びつきを明らかにすると同時に、現代という時代が哲学の営みにネガティブな影響を与えていることを指摘

この状況を打ち破る新たな哲学のやり方を模索している

このような問題の捉え方(「現代の超克」のための哲学)はわたしの中にもあるものなので、興味深く読んだ

詳しいまとめは、近いうちに上記サイトにアップする予定である

もう少しお待ちいただければ幸いである


余談だが、今回の著者バディウは、カンボジアのクメール・ルージュをル・モンド上で支持した過去があり、その33年後に過去を悔いると表明している

それは10年前のことだったのでフランスで知り、わたしのブログにもその記事が残っていた

  アラン・バディウ 「わたしは悔いている」、あるいは真の政治的勝利とは(2012.3.22)


シリーズ最初の懇親会は以下のような感じであった




















2022年9月27日火曜日

『免疫学者のパリ心景』、書評のご紹介


























拙著『免疫学者のパリ心景』の書評がいくつか出ましたので紹介いたします


 ● 深津 亮(埼玉医科大学)北大医学部同窓会新聞(8月26日号)

 ● 木村彰方(東京医科歯科大学)「これまでと違った自分を見つめなおす書」


 ● 武田 昭(国際医療福祉大学&聖路加国際病院)「読者の人生に大きなインパクトを与える叡智の書」



書評を書いていただいた皆様には改めて感謝いたします

書評をお読みいただき、実際に本書を手に取っていただければ幸いです

よろしくお願いいたします









2022年9月26日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(8)


































ここで、病気の第3の種類について触れる

これらは「息」「粘液」「胆汁」という3つの仕方で起こる

「息」が原因の場合だが、息を配分する「肺」が体内の流れによって塞がれると、息が入っていかない場所と適量以上入り込む場所ができる

こうして、息が入らない場所では腐敗が起こり、他の部では血管の中を無理やり進み、体を溶かしながら中央に閉じ込められるため、苦しい病気を生み出す

また、体内で肉が分解し、それによって息が生じるが、外に出て行くことができないため、上記と同じ苦痛を齎す

苦痛が最大になるのは、息が腱および小管のまわりを取り巻いて膨張し、背中の腱とこれに接続するいくつかの腱を後向きに引っ張る場合である

この場合、「強直痙攣(テタノス)」あるいは「後弓反張(オピストトノス)」と呼ばれ、治療が困難である


次に、「白い粘液」が体内で遮断されると、泡に包まれている息により危険な状態となるが、外へのはけ口が見つかると、それほど危険ではなくなる

また、白い粘液が黒胆汁と混じって、最も神的なものである「頭の中の循環運動」の上に撒き散らされると、睡眠中であれば軽症だが、覚醒時には排除しにくくなる

これは神聖なものを侵す病気なので、「神聖病(癲癇)」と呼ばれるべきものである

それから、「酸っぱくて塩辛い粘液」が頭から下に流れるカタル性の場合、流れた先が多種多様なので、いろいろな名前が付いている


体が焼かれたり燃やされたりする炎症部分のすべては「胆汁」に由来する

これが血液に混じって「繊維素」の類を本来の秩序から外すと、病気は最も重症になる

元々「繊維素」が血中に撒布されたのは、血液が微細さと粗大さのバランスをとるためであった

「胆汁」はそもそも古くなった血液に過ぎないので、それが少しずつ血中に入り込むと、繊維素の働きにより凝固することになる

もし大量の胆汁が流れ込むと、自らの熱で繊維素を征服し、胆汁が常に優勢を保つ場合、髄にまで達し、魂を繋ぎ止めている纜とでも言うべきものを解き、魂を自由に解放する

そこまで行かない場合には胆汁の方が征服され、放出されるか、体腔の下部(腹部)か上部(胸部)に押し込められてから放出されるが、その際に「下痢」「赤痢」になる

また火の過剰から病気になる場合、「持続する灼熱や熱」を作り、空気の過剰によるものは「毎日熱」、水の過剰によるものは「三日熱」、土の過剰によるものは「四日熱」を生み出す










2022年9月25日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(7)




























このような臓器が植え付けられた後は、庭に水を引く溝のようなものを備え付けた

最初に、皮膚と肉の下で背中に沿って2本の血管を下に垂らし、灌漑が万遍なく行われるようにした

また、頭のところで血管を編み合わせて、右から来たものは左へ、左から来たものは右に傾斜させた

さらに、呼吸や老年、病気についても説明される

呼吸の説明は難しいが、老年についてはこんなことを言っている

若い時には、体を構成する三角形の接合もしっかりしているが、時間を経ると緩んできて、入って来る養分の三角形を切って自分に同化することができなくなり、逆に自身が分解される

これが老年で、髄のところの三角形の絆が切れると、魂の絆も解かれ、解放されて快く飛び去る

病気や傷害による死は不自然なために苦しいものになるが、自然に終局に向かうものは寧ろ快楽を伴うのである


病気がどのように起こるのかは、誰にも明らかだろう

体を組み立てている4種のもの(土・火・水・空気)が、不自然に過多になったり、不足したり、本来の場所から移動したりすると、内部に不和を齎し、病気になる

また、「髄」「骨」「肉」「腱」「血液」などは4種のものから二次的に組み立てられたものだが、生成の順序が逆行すると組織が壊滅することになる

自然の順序とは、「血液」から「肉」「腱」が生じる

腱は繊維素を素材とし、肉は繊維素を除去した後の血液から出来る凝固体から生まれる

そして、腱と肉は脂ぎったもの、粘っこいものを分離し、肉を「骨」に膠着させる

この順序が逆になると病気が生じるのである

病気の中で最もひどいのは、髄の実質が何かの不足か過剰によって侵されるもので、致命的な結果になる








2022年9月24日土曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(6)

























前回、魂の中で死すべきものがどのようなもので、それらがどのような位置に配置されたのかを見た

今回は、体の他の部分がどのように生じたのかについて説明したい

まず、食べ物に対する不節制が起こりうるので、余分な飲食物を入れる容器として「体腔下部」を作り、そこに「腸」をぐるぐると巻いた

そうしなければ、食物はあっという間に通過して食い気が止まらず、神的なものの言うことに耳を貸さない非哲学的な状態になるからである

次に「骨」や「肉」、その他すべてだが、その出発点は「髄」の生成である

魂と身体が結びついている場合、生命の絆となるものが「髄」の中に縛られている

「髄」は三角形のうちでも歪みがなく、火・水・空気・土を正確に生み出すことができたものを、神が選別し、均衡がとれるように混ぜ合わせた「すべての種子の混合体」を考案、これで「髄」を作り上げた

そして「脳」とそれを入れる容器として「頭」を作った

さらに、「骨」「脊椎」「関節」「腱」「肉」「口(歯、舌、唇)」「皮膚」「指」「爪」などの生成について説明されている










2022年9月23日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(5)



























それから、火、空気、水や土の多種多様なものについての説明が続くが、ここではその中には入らない

次に、感覚的性質がどのようにして具わったのかが問題になる

例えば、「熱い」「冷たい」、「硬い」「軟らかい」、「重い」「軽い」(「上」「下」)、「滑らか」「粗い」、「快い」「苦しい」などの生成メカニズムが語られる

さらに、嗅覚、聴覚、視覚(色)へと進む

その内容は、いまから見れば参考にはならないが、参考になることがあるとすれば、すべてをその時点における知を駆使して統合的に説明しようとする精神だろうか


そして話は出発点に戻る

最初は無秩序な状態にあったが、神はまず秩序づけ、それらのものを材料にして、この万有を構成した

神的なものは神自身が製作者となったが、死すべきものは、その製作を自分が産み出した子供たち(神々=天体)に命じた

そこで神の子らは、父に倣って魂の不死なる始原を受け取り、そのまわりに死すべき身体を作った

その身体の中に、魂の別の種類のもの(=死すべき魂)を加えようとした

しかし、その魂は恐ろしい情態を含んでいる

例えば、悪へと唆す最大の餌である「快」、善を回避させる「苦」、思慮のない「逸り気」「怖れ」、宥め難い「怒り」、迷わされやすい「期待」などである

これらの諸情念が神的な理性を穢すことのないように、神々は両者を体の中で別のところに住まわせた

すなわち、頭と胸の間に頸を介在させ、死すべき魂を胸郭の中に隔離したのである

また、死すべきものの中にも優れたものと劣ったものがあるので、勇気を具えた負けず嫌いの部分は頭に近く、横隔膜と頸の間に住まわせた

血液の源泉を成している「心臓」は番兵詰所とされ、不正な行いが体内であると、血管を介して全身に理性の通告を送る


怒り(「火」を通じて起こるとされた)などで心臓の動悸が起こると、それを救援するために「肺」を植え付け、心臓を冷やして寛がせる

また、食欲などの身体に必要な欲求は、横隔膜と臍の間に住まわせ、熟慮する部分から離しておいた

神は、この部分に甘さと苦さを兼ね備えた「肝臓」を配置し、恐ろしい獣が来た時には苦味で威嚇し、その反対の場合には甘さで対応できるようにした

肝臓の横には、肝臓のために「脾臓」という肝臓の汚れを落とす臓器を置いたのである












2022年9月22日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(4)


























宇宙が生成する以前に、「あるもの」(モデル?)「場」「生成」が存在していた

生成の養い親である「場」はいろいろなものを入れるが、どの部も均衡が取れず、あらゆる方向へ動揺させられていた

丁度穀物の不純物を取り除くための容器のように揺さぶられ、相互に似ているものを集め、似ていないものを引き離した

宇宙が生まれる前は、すべてのものが比率も尺度もない状態だったが、神が初めて、形と数を用いて形作ったことになる

そしてその際、可能な限り立派な善いものに構築したのである

その上で、これまでに挙げたそれぞれのものの配置と成り立ちを明らかにしたい


まず、火、土、水、空気は奥行きを持ち、それは面で囲まれているが、平面は三角形を要素として成り立っている

三角形には二等辺三角形と不等辺三角形の2種類があり、前者は一通りの型があるだけだが、後者には無限の型がある

これを物体の始原(アルケー)と仮定する

ここで、無限の型がある不等辺三角形から最も立派なものを選ばなければならない

それを、2つ集まれば正三角形になるものと仮定する

これらが結びついていろいろな立体が構築され、宇宙の構成要素となる

最も原初的な立体は正四面体で、最も動きやすいので火に割り振る











同様に、正八面体は火と水の中間の形として空気に、正二十面体は動きにくい形なので水に、正六面体は最も安定した底面を持っているので土に割り当てることにする





例えば、土が火に出くわし、火の鋭さによって分解されると、再び土同士が組み合わさるまで移動を続ける

水が火や空気によってばらばらにされると、水の部分が結合して火の粒子1個と空気の粒子2個が生じる

また空気の1粒子が解体すると、火の粒子2個が生じる

といった具合に、同種や異種のものが混じり合って無限の多様さが現れるのである











2022年9月21日水曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(3)


























この宇宙は、「理性」を通じて製作されたものと「必然」を通じて生じるものの混成体として生み出された

その際、「理性」が「必然」を説き伏せて、生成されるものが最善になるよう「必然」を指導する役割を演じたのである

そこで問題は、宇宙が生成される前には、火、水、空気、土の本性は何であり、どのような状態にあったのかである

それらを始原(アルケー)とか、それよりさらに遡った諸始原(アルカイ)と呼ぶのはよいが、それを明らかにするのは難しい

ここでは「ありそうな言論」に徹するしかないだろう

鷗外(1862-1922)で言えば、「かのように」か


これまでの万有についての議論では、2つのものを区別した

1)モデルとして仮定されたもの、理性の対象となるもの、常に同一性を保つもの

2)モデルの模写に当たるところのもの、生成するもの、可視的なもの

しかし、ここで第3のものを明らかにしなければならないだろう

それは、「あらゆる生成の養い親のような受容者」とでも言うべきものである

これはどういうことなのだろうか


次のように考えてみたい

まず、「水」と名付けているものは、凝固すれば石や土になり、溶解・分解すれば風や空気になり、空気が燃えると火になり、火は凝集して消えると空気に帰り、空気は濃密になると雲や霧になり、さらに圧縮されると流れる水が生じ、そこから石や土へというサイクルが始まる

このように変化の中にあるものについて、どれを一定のものだと言えるだろうか

今ここに現れている現象を、例えば火と呼ぶのではなく、その都度これこれであるもの、あるいはそのような特性を火と呼ぶことにするのである

これはすべての物体を受け入れるものについてもいえる

その物体はありとあらゆるものを受け入れながら、それらによって影響を受けることがないものである

そこを出入りするものは「常にあるもの」(理性対象)の模像で、写し取られたものである


当面、3つの種族を念頭に置かなければならない

1)生成するもの

2)生成するものが、それの中で生成するところのもの(受容者)

3)生成するものがそれに似せられて生じるそのもとのもの(モデル)

この中で、受容者はどんな形をも持たないものでなければ、あらゆる種類を受け入れることができない

ところで、「それ自体でそれぞれのものとして独立にある」というようなものは、存在するのだろうか

もし理性(真に知る思考)と正しい思惑(憶測でたまたま真実を射当てた場合の思惑)が種類を異にするとすれば、感覚では捉えられず、理性によってのみ把握される形相は、完全にそれ自体として独立に存在する

この点に関して、理性と思惑が当たっていることには違いがないとする人がいるが、それは違う

なぜなら、一方は真なる説明を伴っているが、他方は説明がない

また、理性に与るのは神と少数の人間に過ぎないが、他方は人間誰もがそれに与っているからである


ここで、次のものがあることに同意しなければならないだろう

第1に、同一性を保っている形相で、生滅することはなく、感覚されることもないもので、理性がその考察の対象としているもの

第2に、感覚され、生み出され、常に動き、ある場所に生じては滅び去るもので、思惑や感覚の助けを借りて捉えられるもの

そして第3に、いつも存在している「場」で、滅亡することなく、生成するすべてのものにその座を提供しているもの

その上で、真実とは次のことに他ならない

似像は、その拠って生じたところのもの(自身の成立条件・原理)が似像自身のものではなく、他者の影像として動いているので、他者の中に生じて、どうにか「ある」にしがみついているのが、似像に相応しい在り方である

真に在るものには、厳密な意味で真なる言論が味方について、あるものと他のものが別のものである限り、同じものが同時に1であり2であるということは決してないと主張する









2022年9月20日火曜日

同期生M君を弔問する



























今日は、8月に亡くなっていた同期生M君の弔問に出かけた

連絡をお願いしたのは、やはり同期生のSご夫妻

奥様から亡くなるまでの経過とそれまでの歴史をお聞きした

最後にM君に会ったのは4年前に一時帰国した時になるので、その後の様子は知らなかった

お話によれば、急のことで、ご家族も最後に立ち会うことができなかったというので驚いた

振り返れば、40歳になる前に心臓の病にかかったが、そこからは立ち上がった

しかし、今から10年ほど前(?)に脳卒中をやり、不自由な生活が続いたようだが、お酒は飲めるようになり、サッカーや野球の観戦は欠かすことがなかったという

今年のワールドカップ・カタール大会も視野に入れていたとのこと、さぞ残念なことであったろう

M君とは同じグループで学生時代を過ごしたが、なぜか悲しさはない

むしろ、懐かしさの方が強いだろうか












2022年9月19日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(2)


























そこで生じたものは、立体的、可視的、可触的でなくてはならない

「火」を欠いては可視的にはならず、「土」を欠いては固体とならないだろう

この両者を結びつけるためには「水」と「空気」が必要で、そこで重要になるのが比例である

神は、それぞれの比が等しくなるように結合させ、自己同一的なものに仕上げた

宇宙が完結した諸部分から成る、最大限に完結した本性を具えた生き物であるように、他の宇宙が生じないように材料を残さないように、また不老無病であるようにしたのである

形としては、中心から端までの距離がどこも等しく、あらん限りの形を含むものとして球形に仕上げた

宇宙は自分で自分を消耗しては自分の栄養とし、自足の方がより善いと考え、表面に無駄なものを付けることをしなかった

このような宇宙に相応しい運動として、理性と深く関係する運動、円を描く回転運動を割り振った

神は、その真ん中に魂を置き、全体に引き伸ばし、さらに外側から魂で覆ったのである

その際、魂は身体を支配し、身体は支配されるべきものとして構成した

宇宙が生まれるまでは、昼も夜も、年も月も存在しなかった

宇宙の誕生とともに、一のうちに静止している永遠を写して、その似像として神は時間を作った


さて、身体の各部分の成り立ち、魂についても同様に、どのような原因によって生じたのか

それは神々のいかなる配慮だったのか

神々は神的な循環運動を、万有の形が丸いのに倣って、球形をした身体に結びつけた

それが「頭」で、神的なものであり、すべてに君臨する

その頭に奉仕するものとして身体の全体を与え、例えば四肢は、最も聖なるものをあらゆる所に運べるようにした

そして、神々は最初に光を齎す目を作った

この視覚こそ、我々に最大の稗益を成す原因となっている

視覚により目にすることがなければ、哲学を言われるものを手に入れることはなかった

死すべき種族に、これより大きな善が神々から贈られることはなかったし、これからもないだろう

視覚の目的は、天にある理性の循環運動を観察し、それと同類ではあるが乱れた状態にある我々の思考の回転運動を正すことなのである

また、聴覚もハルモニア(楽器の調子の整え方)のために、調子はずれになった魂の循環運動を自己協和に導くために贈られたものである









2022年9月18日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(1)

























コリングウッド(1889-1943)は、これからプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』を論じるようである

論者の分析を読む前に、原典を読んでおくことにした

自分の感想を持っておきたいと思ったからである

ゆっくり読んでいきたい


ティマイオスは天文学に通じ、万有の本性を知ることを仕事としてきた人物

クリティアスが、宇宙の生成から始めて人間の成り立ち、自然の本性のところまでをソクラテス(c.470 BC-399 BC)に話すよう促す

ティマイオスはまず、「常に在る、生成しないもの」と「常に生成し、在るということがないもの」の区別を提案する

前者は、同一性を保つので、理性、言論により把握されるが、後者は、思惑、すなわち言論を欠く感覚により思いなされる

生成される場合、同一性のあるものをモデルにすると製作物は立派になるが、作り出されたものをモデルにするとそうはならない


全宇宙(ウラノスコスモス)について考える際、まず、宇宙は出発点がなく、常に在ったものなのか、あるいは、ある出発点から始まり、生成したものなのか、を区別しなければならない

生成した場合、原因(製作者)があるはずだが、それを見出すのは至難の業

ただ、宇宙は最も立派なものなので、製作者は理性と言論で把握できる同一性を持つモデルに倣って製作したはずである

製作者は善きものであるので、できるだけ自身に似たものになるようにした

無秩序よりは秩序を、理性なきものより理性あるものを求めたのである

そして、理性を魂の内に、魂を身体の内に結びつけ、本性上最も善き作品にしようとした

実際、この宇宙は、魂を具え、理性を具えた生きものとして生まれたのである

ところで、宇宙は1つなのか、あるいは多なるもの、無限なるものなのか

理性の対象となるものすべてを包括しているのが宇宙だとすれば、それが2つ以上あることはありえないので、宇宙はただ1つだけであり、今後もそうであろう









2022年9月17日土曜日

コリングウッドによる自然(14): ピタゴラス学派(7)























 Velia (Elea), Italy




今日は、プラトン(427 BC-347 BC)の成熟した形相概念がテーマである

プラトンとエレア派と鋭く異なるのは、次の点である

エレア派が言う真に実在するもの、あるいは叡智的(これはintelligibleの訳なので、知性を働かせれば理解可能になるという意味か)な世界は、同時に物理的世界である

すなわち、感覚による物理的世界に見られる特徴は反対の特徴を持つという逆説を含んでいた

これに対して、プラトンにとっての叡智的世界は物理的ではなく、純粋な形相である

物理的な特質は感覚的世界の特徴で、その世界は叡智的ではない


この相違によって、もう一つの相違が生じるとコリングウッド(1889-1943)は言う

叡智的な存在を形相と同一視することによりプラトンは、感覚により我々に映る物理的世界と、思惟によって我々に明らかになる物理的世界の間にある区別を廃棄したのである

つまり、物理的世界について知り得ることは、すべて感覚を通して認識される

感受する方法を変えれば、必ずしも我々を欺くとは言えないだろう

自然の世界は常に変化しているので、決定的な性格を持たず、厳密に言えば、認識も理解もできない

しかし、その中に叡智的なもの、形相を求めることに異論はないはずだ

事実を単に観察、分類するだけでなく、そこにある形相的要素を発見することを使命とする自然科学をプラトンは擁護している

超越性と内在性が絡み合っている状況は、ピタゴラス(582 BC-496 BC)にもソクラテス(c.470 BC-399 BC)にもあった

それを明確に区別したのがプラトンだったが、次のような方法で両者を組み合わせたと思われる

形相とは、厳密に言えば、超越的であり、内在的ではない

例えば丸い皿の場合、超越的な丸の形相は陶芸家や見る人の頭の中にある

そこに見える皿は、「丸さ」の実例ではなく、「丸さ」に近づいたものの実例に過ぎない

感覚的事物に内在する形相は純粋の形相ではなく、それに近づいた形相なのである

円形そのものではなく、円形の模倣、円形に向かう傾向に過ぎないという


後の新プラトン主義によれば、純粋な形相を具現化する試みが成功しないのは、物質の強情な反抗のため、あるいは物質が可塑性をもって形相を受け止めようとしないからだという

ここから、新プラトン主義者にとっての物質は欠点のあるもの、悪の原因とされた

ただ、プラトンの著作の中にはこの考えは存在していない











2022年9月16日金曜日

コリングウッドによる自然(13): ピタゴラス学派(6)

































エレア派の始祖パルメニデス(c.520 BC-c.450 BC)のプラトン(427 BC-347 BC)に対する影響について、再度検討している

現存する断片の中でパルメニデスは、思考には「真実の道」と「思惑の道」という2つの道があるとしている

思惑の中に真実はまったく含まれず、思惑は全き誤謬である

真実は純粋な思考によって到達されるべきで、思惑の蓋然性を一顧だにしない

これは方法論的あるいは認識論的な超越論とでも言うべきもので、思惑の道を超越する道として語られている

さらに、存在するものは1つで永遠でなければならず、他のものが存在することは不可能であるとする

ここで言う存在する1つのものとは、物理的、物質的な世界のことである

つまり、世界は連続的、同質的、不可分なる充実体(plenum)で、そこには運動はあり得ない

これこそ真に実在する世界であり、我々が明晰に思考する時にのみ知ることができる叡智の世界なのである

それに対して、変化と運動の世界、生成と消滅の世界、すなわち感覚的世界は思惑の世界で、真の実在ではない

この2つの思考法は、プラトンの超越性を強調する対話篇(特に『国家』)にも見ることができる

つまり、殆どの人が認識していると思っていることは、実は感覚的世界によって欺かれたものであり、真の実在は感覚的でしかも叡智的な対象であるという確信を見出すのである










2022年9月15日木曜日

コリングウッドによる自然(12): ピタゴラス学派(5)

























ピタゴラス学派ソクラテス(c.470 BC-399 BC)の哲学における形相概念が内在性だったのに、プラトン(427 BC-347 BC)はなぜ反対の超越性に向かったのか

アリストテレス(384 BC-322 BC)の『形而上学』によれば、プラトンが若い時、ヘラクレイトス(c.540 BC-c.480 BC)の弟子クラテュロス(紀元前5世紀)の影響を受けた

ヘラクレイトスが言うように、この世界が万物流転で常に変わりゆくものだとすれば、あるものについて知ることはできないという懐疑主義に陥ったとされる

クラテュロスは、最終的に何も言わないという結論に達した

ソクラテスの哲学はその正反対で、クラテュロスが放棄したロゴスについての関心を明確にして強化した

ソクラテスの精神生活は精力的で、強靭な意志によって貫かれていた

しかしクラテュロスは、絶え間ない変化で溢れる感覚的世界に囚われ過ぎ、精神的自殺をしてしまったのである


そこからプラトンが得た教訓は、感覚的世界に囚われているかぎり、誰にでも同じことが起こるということであった

常に揺れ動く感覚的世界では、思想が落ち着く場がなく、定まったものがない以上、何ものも知り得ない

ソクラテスの倫理的探求の中で、例えば勇気について考える時、人間の中で起こる一時的な心理学的過程ではなく、勇気の理想状態、その人の前に据える鑑に関心を寄せたのである

ソクラテスは勇気の形相を独立して存在するものとせず、『パルメニデス』の中で主張したように内在説を採った

プラトンがなぜ内在説から超越説に移行したのか

コリングウッド(1889-1943)は、クラテュロスの遺産に対する自己防衛の必要を感じたためではないかと推論している

クラテュロスの考えをそのままにしておくと、例えば「勇気」というものはある瞬間には存在するかもしれないが、次の瞬間には変化し、無に帰している可能性がある

この事態をプラトンは避けなければならないと考え、超越性を強調することになったのではないか

コリングウッドはそう考えている


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この問題は実に根が深く、現代の根底に横たわっている

確かに、感覚的世界の中にいては、秒単位で移り変わる情報に流されるままである

そこでは、何も知ることができない

この状況は、わたしがフランスに渡る前に痛感していたことである

テレビや新聞の情報に当たるだけの生活の中で、不全感を抱えていたのである

何かを理解したという感覚が全くなかったからである

そこで日常の時間の流れを一旦止めることを思いついたのである

それを当時は「自分の頭の中を整理するため」と表現していた

流れの止まった落ち着きのある場から「もの・こと」を眺め、考えてみようということだった

15年に及ぶ天空での生活は、確かに「もの・こと」を見る時の固定された軸を提供してくれたように感じている

それは超越的生活が齎した超越的なものではなかったのだろうか

この視点から現実に目をやると、何ごとも理解することなく、流れているという印象が強い

無気力になり、そもそも「もの・こと」を理解しようとする意思さえも失っているように見える

残念ながら、その印象は強まるばかりである









2022年9月14日水曜日

コリングウッドによる自然(11): ピタゴラス学派(4)

































今朝はなぜか早く目が覚めた

なぜ目覚めたのかを確かめるためテレビを付けると、以前に観たことがあるヨーロッパ空の旅が流れている

丁度、アンボワーズ城、アンジェ城などが出てきて懐かしい

それからチャンネルを変えると、ヨーロッパトラムの旅

こちらはポーランドのクラクフで、観たような気もするがやはり懐かしい

もう10年以上前のことになるが、街を歩いた時に何とも言えないタイムスリップしたような感じを味わった

だが、画面からはそれを感じることができない

クラクフがそんなに変わるとは思えないので、やはりその中に入らなければ駄目だということだろうか

興味深い時間ではあったが、早く目覚めた理由を見つけることはできなかった

さて、今日もコリングウッド(1889-1943)である


このところ問題としている「内在性」と「超越性」は相互に他を内に含むという議論

プラトン(427 BC-347 BC)は当初、形相を超越的なものとしたが、後に超越性と内在性は絶対的な違いではないとした

そのことに気づく切っ掛けが、1世紀前の南イタリアエレア出身のパルメニデス(c.520 BC-c.450 BC)であった

プラトンは、この先人に敬意を表するために対話篇『パルメニデス』を書いたのである

この中で、若きソクラテス(c.470 BC-399 BC)は形相の内在説を唱え、それを具現するものとの関係を「分有」という言葉で述べる

これに対してパルメニデスは、分有するためには形相が分割可能でなければならず、形相の単一性も放棄することになると答える

困ったソクラテスは超越説を出し、「模倣」という言葉を用いたのである

しかし、内在性(分有)を超越性(模倣)に換位しても問題解決にはならない

パルメニデスの議論は、相互に排除する内在説と超越説に打撃を加える

そうだとすれば、プラトンの形相説は破綻したと考えがちだが、そうではないとコリングウッドは言う

パルメニデスのポイントは、形相説を内在性を表す言葉で表現すれば超越性を含むことになり、その逆も真であるということであった

初期のピタゴラス学派が内在説を唱え、プラトンは超越性との違いを明確にしたが、後に両者は相互に依存するものであることに気づいたのである








2022年9月13日火曜日

コリングウッドによる自然(10): ピタゴラス学派(3)

























今日は、模倣(ミメーシス)と分有(メテクシス)がテーマになっている

数学的形相の内在性と超越性について、アリストテレス(384 BC-322 BC)は『形而上学』の中で面白いことを言っている
ピタゴラス学派の人びとは、存在者は数を「模倣する」ことにより存在すると言ったが、プラトン(427 BC-347 BC)は言葉を換えて、「分有する」ことにより存在すると言っている

すでに見たように、初期ピタゴラス学派は形相の内在性を唱え、プラトンはそれを超越的なものに仕上げていった

著者が「面白い」と言ったのは、「模倣」は超越を意味し、「分有」は内在を意味するからである

超越的言語を使えば超越性だけを意味し、内在的言語を使えば内在性のみを意味するというのは、行き過ぎた単純化である

超越性と内在性は相互に含意し合っているため、ミメーシスには内在性が、メテクシスには超越性が含意されているのである


ある事物がある形相を分有する(分け前に与る)ということは、法律上の概念である「共同所有」の比喩である

例えば、あるバラが赤の分け前を持つということは、バラの中に赤が内在することを意味している

しかしこのことは、このバラにはない他の赤が存在し、他のバラの中にあること、そして赤と言われるものがバラとは独立に存在することを含意している


また、ある事物がある形相を「模倣する」という場合、その形相は事物の外に在ることになる

しかし、その事物と形相は何らかの共通するものを持っていることを含意している

なぜなら、共通の何かがなければ、他のものを模倣できないからである

内在性が超越性を意味するのと同じように、超越性も内在性を意味するのである

<この論理の流れについては、もう少し考える必要がありそうだ>










2022年9月12日月曜日

コリングウッドによる自然(9): ピタゴラス学派(2)

































コリングウッド(1889-1943)はプラトン(427-347)をピタゴラス学派に入れ、その形相論について語っている

ピタゴラス主義によれば、事物にあるがままの行動をとらせ、あるがままのものたらしめるのは、そこに内在する形相である

このことから、形相が本質と同一視された

形相は自然界を構成する様々な事物のような感覚的なものではなく、叡智的なものである

形相は完全で実在的である叡智界と呼ぶべきものを構成している

その意味は、「円」とか「善」は、我々の精神内にある単なる観念なのではなく、自然界のものが人間の思惟から独立して存在しているように、存在しているということである

後にプラトンが「イデア」と呼ぶことになるものは、他の物質と同じように「実在的」なのである


これに対して、感覚的事物は非実在的なものであり、形相などの叡智的な事物に比べれば、遥かに実在性が薄い

プラトンは、生成するものは存在するものではないという

変化している時、本来の性質とは対立する要素を内に持っており、不変固有な性質が失われている

円や三角形では、そのようなことは全くない

これは形相や叡智的なものに当て嵌まる


当初、形相は物質と相関するもの、あるいは事物の中に存在するものとして捉えられていた

ピタゴラス(c.582 BC-c.496 BC)の数学的形相やソクラテス(c.470 BC-399 BC)における倫理的形相は、内在性のものであった

コリングウッドによれば、この見方を放棄し、形相を超越的とする考え方を初めて提出したのがプラトンだった

ここで注意すべき点が2つある

第1は、内在性と超越性は二律背反ではないということである

あらゆる神学には内在的要素と超越的要素の両方があり、それぞれの強調のされ方で見え方が異なってくる

第2に、哲学における「発見」「初めて」「新しい」という言葉には、特殊な意味があることだ

例えば、50歳で何かを発見したと言う時、発見というよりは「初めて了解した」「以前より一層明らかに事物の連関を理解した」ということに近い

そして、これらの「発見」の契機は、他人の著作や言葉からだと発見者は言うだろう

他人の仕事に依存せずに「発見」することがあるかもしれないが、それは極めて稀である

プラトンは形相を超越的だとしたが、そこに導いた先人たちを過大に評価する謙遜の心を持っていた

彼らを登場させる作品を残したのである


我々が考えているイディア論は、2つの部分に分けられる

第1に、初期ピタゴラス主義において、数学的形相は第一義的に内在的と考えられた

プラトンは形相の概念を洗練、統合し、第一義的に超越的な概念に仕上げた

第2に、ソクラテスの倫理的形相は第一義的に内在的とされたが、プラトンはそれを第一義的に超越的なものとしたのである


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「発見」についての考察は、思索を刺戟する

哲学に入って以来、哲学における発見とは何を言うのか疑問に思っていたからだ

「発見」という言葉は、わたしの場合、それまで自分の中になかったものを見出した時によく使う

科学における発見とは全く意味が違う

他の人がすでに発見していても何の問題もないのである

それに自分が気づくことが重要なのである


それから、自分の言葉で考えを発表しなさい、という類のことがよく言われている

しかし、その考えというものは、気づいているかどうかは別にして、殆どを過去人に負っているのである

もしそこに真があるとすれば、自分の考えなどと言うのは烏滸がましいだろう

むしろ、過去人を登場させて(引用しながら)話を進めるのが理に適っている

プラトンの態度には共感するところ大である








2022年9月11日日曜日

明晰にして判明な「中秋の名月」


























本日も素晴らしい快晴だ

朝、たっぷり味わってからアトリエへ

ところで、昨夜、ダメ元で満月にレンズを向けてみた

驚いたことに、これまでにはなかった明確な輪郭でカメラに収まってくれた

昨日のブログの最後の言葉が「明晰かつ判明」だったことと繋がっている

その後にも撮ってみたが、いつものようにぼやけた姿しか捉えることができなかった








2022年9月10日土曜日

コリングウッドによる自然(8): ピタゴラス学派(1)






























 Pythagoras of Samos (c.570 BC– c.495 BC)




今日は何という快晴であろうか

朝の瞑想の時間はまさに天国であった

夜は中秋の名月を仰ぎ見ることができるという

わたしのカメラでは綺麗に撮ることができないのは残念だが、この目で味わうことにしたい

ところでこの季節、わたしにとってはクリスマスソングを聴く最良の時期になって久しい

今季初めてたっぷりと味わうことができた

さて、コリングウッド(1889-1943)による自然だが、今日からピタゴラス学派に入る



ピタゴラスはギリシア思想史上最も重要な人物の一人であるが、最も謎めいた人物の一人でもある

一つだけ時期のはっきりしたものがある

それは、紀元前532年(?)に始まる独裁者ポリュクラテスに反抗して生地サモスを離れ、南イタリアに移住したことである

ある伝承によれば、カラブリアクロトンに落ち着き、生活上の厳格な戒律を持つ教団を創設した

それは、宗教的、哲学的、科学的機能を持つものでもあった

サモスで青春時代を過ごしたピタゴラスは、タレス(c.624 BC-c.546 BC)が死ぬ前には生まれていたはずである

そして、アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)、アナクシメネス(585 BC-525 BC)とは重なっていた

従って、直接の教えを受けていないとしても、イオニアの自然学の影響は受けていたものと想像される


ピタゴラス学派の世界像は、アナクシメネス同様、蒸気から成る無際限な3次元の大海に支えられ、そこから滋養を吸収しているとした

それは蒸気の円環運動の中心で、そこに球状の大地がある

この円環運動には、対立物を発生・分離させる働きがあるとした

ピタゴラスは、そこからすべてのものが構成されるという第一物質を問うことの問題点に気付いていた可能性が高い

その枠組みでは、具体的な事物に似たものを想定することができず、固有の性格を欠くものでなければならない

アナクシマンドロスが第一物質を「アペイロン」(無限定で無際限なもの)としたように

しかし、第一物質を固有の性格を持たないとすれば、アナクシメネスのように、希薄化・濃縮化により事物が生じるとしなければならなくなる


ピタゴラスは、宇宙論と幾何学の成果との間にある関係があり得ることに気が付いた

幾何学上の図形は質的な差を持っているが、すべては空間的図形なので質料的な特殊性はない

ただ、形相的な特殊性を持つに過ぎない

このことから、自然における質的相違は、幾何学的構造の相違によると考えたのである

タレスによれば、磁石も虫も水であるが、なぜこのようなような違いが生まれるのかの説明できなかった

しかし、自然の事物たらしめるものを始原物質に求めることなく、幾何学的構造すなわち形相に求めれば説明可能になる

ピタゴラスによる革命は、事物の行動様式を、構成される実体との関わりで説明するのを放棄し、形相に関係させて説明するようにした

形相とは事物の構造であり、数学的に処理することが可能になった

つまり、イオニア学派は不可知的な原理に訴えて世界を説明しようとしたのに対し、ピタゴラスは数学的真理に頼ったのである

これにより、明晰かつ判明な認識が可能になった










2022年9月9日金曜日

コリングウッドによる自然(7): 「自然」という言葉の意味
































イオニアの自然学者は、「自然とは何か」という問いを「事物は何から構成されているか」という問いに置換した

現代のヨーロッパ人であれば、「どんなものが自然界に存在するか」という問いを立て、博物学的に記述するだろう

現代では、「自然」という言葉は一般的に自然的事物の総体を意味するからである

と同時に、この言葉には根源的原因という意味での「原理」「本性」という別の意味がある

それは、その主があるがままの行動様式を採らせる何らかの力を意味している

そしてそれは、その主に内在する何かで、外に在るとすれば「自然」ではなく「強制」になる

ギリシア語の「ピュシス」という言葉には、この2つの意味が含まれている

初期には、常に内にある何かで行動様式の根源的原因という意味であったが、後に「世界」を意味する「コスモス」と共通する自然的事物の全体という意味が出てきた

紀元前5世紀後半のシケリア人であるゴルギアス(483 BC-375 BC)は、後者の意味で「フュシス」を使っている

すでに見てきたように、イオニアの自然哲学者たちは、この言葉を常に第1の意味で使っている

ギリシア語で使われる様々な別の意味は、この2つの意味から派生したものとして説明できるだろう










2022年9月8日木曜日

コリングウッドによる自然(6): イオニア学派の限界
































イオニア学派は、世界を均質の始原的物質における局部的分化であり、そこで構成されるものは世界を取り巻いていると考えた

タレス(c.624 BC-c.546)は、始原物質と神を区別したが、彼の後継者は両者を同一視した

もし始原物質が斉一なものだとすれば、なぜ他のところではなく、ここに世界が現れたのかの説明が必要になる

それは神によって選択されたのだとしても、その理由が求められる

そこに適切な理由がないとすれば、世界の生成は説明できないというのではなく、イオニアの自然学が間違っていたと言わざるを得ない

つまり、ヨーロッパの自然科学の最初の試みは偉大なものではあったが、失敗に終わったのである

科学の歴史とは、事実の進歩的積み重ねというより、問題の進歩的な明確化である

従って、科学者は自然に関する事実の知識ではなく、自然について解答可能な問題を立てる能力が求められる

イオニアの自然学者は問題の立て方を間違い、解答不能な問いを立ててしまったのである











2022年9月7日水曜日

コリングウッドによる自然(6): イオニア学派(3)アナクシメネス

































C)アナクシメネス(585 BC-525 BC)

アナクシメネスは、師アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)の大地は円筒状であるという説からタレス(c.624 BC-c.546 BC)の大地平坦説に戻った

大地は周囲を取り巻く媒体の密度に支えられて浮かんでおり、それは同時に大地を構成していると考えた

師と同様、これは世界に無限に延長している大きさを持つが、量において無規定とは認めなかった

そしてタレスに戻り、それを一つの自然物と同一視したが、水ではなく、大気(アエール)であるとした

そして、その根源から産み出される様々な自然物は、空気の希薄化、濃縮化の程度によると考えた

例えば、空気が希薄化して火となり、濃縮化して風、雲、水、地、石などになる

彼は師に倣い、始原的実体を神的なものとし、タレスの超越的な神ではなく、内在的な神を想定した

アナクシメネスの場合、神的な空気は世界を構成するばかりではなく、世界を周りから包み密着する包皮のようなものでもあった

これも師と同様、世界の複数性を信じ、それぞれの世界を神と呼んだ

ただ、これらの世界が同時に存在するのではなく、時間的に異なって存在するものであった


このように、アナクシメネスは師の考えと大きく違うものを提示したようには見えない

アナクシマンドロスは、一つの根源的物質からどのようにが様々な様態が生まれるのかという問いに向き合っていた

しかし、その解を得たとは思えない

アナクシメネスは、この問題にアリストテレス(384 BC-322 BC)が「中間項」と呼んだものを提示することにより前進させたとは言えるのではないか

それが上記の希薄化と濃縮化という過程で、それが多様なものを産み出すメカニズムだと考えたのある

このことは、彼の興味が始原的実体の唯一性から様々な自然物の多様性へと移ったこと、すなわちイオニア学派の一員であることを止めたとコリングウッド(1889^1943)は考えている

なぜ多様な自然物が異なる様態で存在するのかという問いは、むしろピタゴラス的自然学に近いという

つまり、アナクシメネスはイオニア学派とピタゴラス学派を結ぶところにいることになる











2022年9月6日火曜日

コリングウッドによる自然(5): イオニア学派(2)アナクシマンドロス

































B)アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)

アナクシマンドロスは、タレス(c.624 BC-c.546 BC)の大地は海に浮かんだ筏のようなものという見方を修正

大地は固形の円筒状の物体で、それが水ではなく未分化なもの、無限なもの(ト・アペイロン)と表現されるものに囲まれているとした

これは第1に、空間的にも時間的にも量においても無限で、あらゆる方向に無際限に広がっている

第2に、それは質においても無規定で、固体とか気体とか液体というような特徴を欠いている

彼はこれを神と同一視し、その中で渦や泡ができると、そこに世界が生じると考えた


師タレスの宇宙論からの離脱は、次のような論理によるものだとコリングウッド(1889-1943)は推論している

あらゆるものが生まれ出る基となるものは、未分化なものでなければならず、そこでこそ創造的な過程が起こる

水はそれに対立する乾いたものを前提としており、この2つはより未分化なものから出てきたと考えるべきではないか


また神学的には、タレスが神の超越性を唱えたのに対し、アナクシマンドロスは内在説を採っているように見える

なぜなら、この世界で渦動が起こるところではどこでも世界が生じるとしたからである

つまり、世界自体が創造主、神となる

しかし、この世界は広さにおいても、生命の持続においても限界がある

ただ、この自然には創造性があるという見方もあり、ある限界の中で創造的であり、神的である考えることもできる








2022年9月5日月曜日

コリングウッドによる自然(4): イオニア学派(1)タレス


































コリングウッド(1889-1943)の分析だが、一昨日まではイントロで、今日から各論に入る

まずはギリシアの宇宙論で、最初にイオニア学派の自然学が取り上げられる


紀元前7・6世紀のイオニアの哲学者たちは、アリストテレス(384 BC-322 BC)から「ピュシオロゴイ」(physiologoi)と呼ばれた

自然(physis)を語る者という意味である

彼らが自然を語る場合、「事物は何からできているのか」「自然の変化の根源にある実体は何か」と問い直す

このような問いを出すには、彼らの中に予備的な論点が定着していなければならない

コリングウッドは、その論点として次の3つを挙げる


1)「自然の事物」が存在し得るということ

世界には、人間などが産み出す人工物と、自ら生起し存在する「自然の事物」という2種類が存在する

2)「自然の事物」は単一の「自然界」を構成しているということ

これらの2点は如何なる「自然学」にも必須の前提である

3)あらゆる「自然の事物」に共通するのは、それらが単一の実体(質料)からできているということ

これは、イオニア自然学に特徴的な前提であった

ミレトス学派とは、その単一の実体とは何かを考察した人たちであった

以下、この学派を代表する人たちを見ていきたい


A)タレス(c.624 BC-c.546 BC)

この学派の創始者とされる彼は、この世界は「水」からできていると考えた

著作を残していないので、なぜそう考えたのかは分からない

ただ、アリストテレスは2つの推測をしている

第1は、すべての有機体には湿気が必要であること

第2は、すべての動物の生命は精液から始まること

このことから、タレスは自然界を一つの有機体、動物と考えていたことが分かる

他の伝承によれば、その有機体、動物には魂が存在すると見做していたという

木や石も水から出来ている有機体で、大地は水に浮いており、そこから養分を取り入れ再生すると考えていた

さらに別の伝承によれば、彼は世界が超越的な神によって創られた(ポイエーマ・テウー)と述べたという

タレスの世界は、それ自身の目的に沿うように動いている宇宙大の動物のようなものであった

これは、自然界は神がその目的に沿うように作った宇宙大の機械であるとするルネサンスの自然観とは異なっている










2022年9月4日日曜日

コリングウッドからパワーポイントの機能を再考する



















もう10年も前になることに、いつものように驚いている

「医学のあゆみ」のエッセイで、自然界で起こっていることをパワーポイント(PPT)で示すことの問題について考えたことがある

フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える

医学のあゆみ(2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012


それを思い出したのは、コリングウッド1889-1943)がルネサンス期の自然観について書いているのを読んだ時である

この時期の自然観は、自然の背後には創造主による不変の法則があり、それが自然を動かしているというもの

自然の動きは科学では捉えられないが、不変の法則を捉えることが科学の対象となった

それが現代に入ると逆転したというような議論であった


ここでは、自然現象と法則を別の領域に属するものとして見ているところに注目した

上記エッセイでは、PPTで示した模式図では自然界で起こっていることを理解したことにはならないことを指摘した

PPTでは概念図のようなものを示すことが多いので、生身の自然がどのように振る舞っているのかは見えてこない

しかし、自然現象と法則を別物として考えるならば、この状況は確かに自然現象の実際を示していないかもしれない

だが、そこに見られる規則性を示すには十分に役割を果たしていると言えないだろうか

この立場から見れば、現代の自然学は現象そのものよりは、そこにある規則性を明らかにしようとしていることになる

これは、コリングウッドによる「現代の自然観」とは異なっている

ただ、その状況は科学の領域によっても変わってくるのかもしれないが、、






2022年9月3日土曜日

コリングウッドによる「現代の自然観」の帰結






















歴史とのアナロジーから生まれた「現代の自然観」の特徴を列挙しておきたい


1)ギリシアにおいて、自然の変化は根本的に循環的であるとされた

しかし現代においては、歴史が2度と繰り返さないように、変化は循環的ではなく前進的である

2)自然は機械ではない

ルネサンス期に自然は機会であると考えられたが、進化という概念を導入したため、機械とはなり得なくなった

進化するものには変化が組み込まれており、機械は完成され閉じたものだからである

3)機械論的自然観が追放した目的論を自然科学に再導入することになった

機械論に従えば、「目的因」が現れるのは機械の創造者との関係を論じる時だけで、それは排除されなければならない

進化論的自然科学にとって、自然における一切のものは、発展の過程を維持しようと努めている

そこに向けて乗り出しているのである

4)実体は機能に解消される

機械論的自然科学においては、構造と機能は別物であり、機能の前に構造がなければならない

しかし、歴史における認識においては、構造だけを語っても意味を成さない

あるいは、構造は機能と複合的に構成されている

進化論的自然科学においても同様に、構造は機能へと解消されることになった

5)極微空間と極微時間

構造の機能への解消は、自然科学に大きな変化を齎した

① 自然物は、ある種の自然的機能に解消される

② これらの機能は運動だと考えられている

③ あらゆる運動は、空間と時間をとる


この中の議論で興味深かったのは、どのような空間と時間を採用するのかによって、観察されるものが異なってくるということ

これは歴史にも科学にも当て嵌まる当たり前のことだが、しばしば忘れられている

科学は人間がやっているので、その観察結果は人間中心的になる

生きている空間も時間も異なる他の生物は、全く違う世界を見ている可能性が高い

また、人間が同じ対象を扱っても、どのような時間と空間にその目を置くのかによって見え方が異なってくる

その点で言えば、現代は極めて限られた時間と空間でしかものを見なくなっている

歴史的近視眼と言われるものだ

それは、考える時間も短いので記憶にも残らず、反省材料にもなり得ず消えていく可能性がある









2022年9月2日金曜日

コリングウッドによるヨーロッパにおける自然観の変遷





























Bernardino Telesio (1509–1588)




コリングウッド1889-1943)によれば、ヨーロッパ思想史における宇宙論的思考には3つの発展段階があったという

第1はギリシアの自然観、第2はルネサンスの自然観で、第3が現代の自然観である

これから、それぞれについての分析を聞くことにしたい


まず、ギリシアの自然科学の原理は、自然には精神が浸透しているというものであった

自然は運動する物体の世界で、運動そのものは生気、魂によるが、それと運動の規則性は別物だと考えていた

自然は運動の世界だが、そこには規則性があり、それゆえ、叡智の世界であり、「精神」を持った理性的動物と見ていた


第2段階は、16・17世紀に起こった

これをコリングウッドは、「ルネサンスの自然観」と言っている

コペルニクス(1673-1543)、テレジオ(1509-1588)、ブルーノ(1548-1600)らは、ギリシア以来の自然が有機体であるという考えを否定

自然には叡智も生命も欠いているとした

つまり、自然が自ら理性的に運動することは不可能で、その規則性は外から強制された「自然法則」によると考えた

自然は有機体ではなく、機械になったのである

ルネサンスの思想家も規則性のある自然の中に叡智の表現は見ていたが、それは自然の外に在る創造主の叡智であった

16世紀からの産業革命により夥しい種類の機械が日常に入り、自然を機械として理解しやすくなったのである


第3段階は現代の自然観になる

ギリシアの自然学は大宇宙としての自然と、小宇宙としての人間とのアナロジーによっていた

ルネサンスの自然学は「神」の手仕事としての自然と、人間の手仕事としての機械とのアナロジーによっていた

そして現代の自然観だが、それは科学者が研究する自然界の過程と、歴史家が研究する人間の成せる業の変遷とのアナロジーによっている

コリングウッドは、歴史研究が「過程」「変化」「発展」という概念を根本的範疇として親しまれるようになって初めて、現代の自然観が生まれたと見ている

これらの歴史書(例えば、ヴォルテール『ルイ14世の世紀』)は18世紀中頃に刊行、その後半世紀で「進歩」という概念が生まれ、さらに半世紀後には「進化」という概念に至った

それまでは、絶え間ない動きの中にある自然は科学では捉えられないが、その背後にある「法則」という不変なものは科学の対象になると考えられた

しかし19世紀に入り、歴史学は変化し続ける人間の世界を考察することができるようになり、その背後の不変の法則も存在しないとされるようになった

このようにして、科学も変化する自然を対象として扱うことができ、「変化」や「過程」という歴史的概念が「進化」という名の下に、自然界に対しても適用されたという

個人的には、この結論に至る論理の繋がりがまだ見えていないのだが、後に詳しく論じられるものと期待している













2022年9月1日木曜日

R・G・コリングウッドによる科学と哲学
































以前、イギリスの哲学者による詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学などの対比を興味深く読んだ



今回改めて、コリングウッド(1889-1943)の死後、1945年に刊行された書を手に取ることにした

そこに、これから考えていきたいテーマについてのヒントがあるのではないかと思ったからである

冒頭に、特に新しいところはないと思うが、わたしの認識にも通じる科学と哲学についての考えが書かれてあったので控えておきたい

 自然事象の個別的研究は、ふつう自然科学と、あるいは簡単に略して単に科学と呼ばれている。一方、原理への反省は、自然科学に関する反省であれ、思考あるいは行動といった他の部門の反省であれ、一般に哲学と名づけられている。・・・哲学に反省の題材を与えるためにはまず自然科学が生じなければならないが、科学と哲学は非常に密接な関係をもっているため、自然科学は哲学が始まらなければ長く続きえない。・・・哲学は、科学者が研究する上の根拠としていた原理に関する、科学者の新しい意識から生まれた、新しい確実性と整合性を自然科学の前途に与えてゆく過程を通じて、科学そのものから成長してくるものなのである。

 それゆえ、自然科学のことはもっぱら科学者と呼ばれる人々に委せ、哲学のことは哲学者と呼ばれる連中に委せておけばよいのだということは成り立たない。自分の研究の原理について一度も反省したことのない者は、それに立ち向かう大人としての態度を全うしえないといえよう。自分の科学に一度として哲学的省察を試みたことのない科学者は、生涯、二流の、猿まねの、下積みの科学者の域を脱することはできないであろう。またある種の体験を経たことのない者はそのことを反省する術もない。自然科学を研究したり、それに従事したことのない哲学者は、それについて哲学することは不可能であり、敢えてそうするものは世の失笑をかうだけであろう。

 十九世紀以前には、少なくともかなり優秀でかつ著名な科学者たちはつねにある程度自分の科学に関して哲学的省察を加えてきたものだった。そのことはかれらの著作が証明している。しかもかれらは自然科学を主要な任務とみなしているのだから、当然これらの著作が証明する以上に広汎な哲学的活動を行っていたと考えてもよいだろう。 十九世紀に入ってから、自然科学者と哲学者を二つの専門集団に分ける風潮がだんだん大きくなった。一方では他方の研究を少しも顧ることなく、ほとんど共感を寄せなくなってしまった。これは双方に害をなす悪しき風潮であり、双方ともどもその風潮が終わるのを見とどけ、それが作りだした誤解の裂け目に何とか橋をかけたいと願っている。


(平林康之、大沼忠弘訳)