2022年10月4日火曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(11)


























これまでの話で、最初に設定したテーマ、すなわち、万有について、人間の誕生に至るまでの説明はできたように思う

この後、それ以外の生物については簡単に言及するだけでよいとして、次のように続ける

例えば、鳥は次のような男の毛髪の代わりに羽を生やして作られた

その男とは、罪はないが軽率で、天空のことには詳しくても根は単純で、目で見て得られるものだけを信じるような人である

獣の類は、頭の中の軌道ではなく、胸部の魂の指導するままに従うため、哲学(知の探究)に親しむことのなかった男から生まれた

このような生き方をしているので、頭と前脚が大地に引きつけられることになり、場合によっては支えを増やすために多足にもした

彼らの中で最も愚かで、地上に長々と体を伸ばしているものは、無足で這うものとして生み出した

そして水棲族は、知性にも学知にも無縁な人から生まれたので、最早純粋な呼吸は必要ないとされ、水の濁った深みへと突き落とされた

極度な無知に対する罰として、最果ての住処を割り当てられたのである


最後に纏めると、こうなるだろう

この宇宙は、死すべきもの、不死なるものの両者を包括し、目にみえる生き物として、感覚される神として、最大で、最善で、最美で、最完全なるものとして誕生したのである



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これで『ティマイオス』を読み終えたことになる

読み始める前にイメージしていたものとは大分違った

もっと多くの部分あるいはすべてが、この世界や宇宙の成り立ちについての論考で占められていると想像していたからである

しかし、実際には人間の成り立ちや病気と健康などについてのお話が多かった

科学が発達する前のこのような議論には意味がないという意見も耳に入るが、わたし自身はそうは考えないようになっている

彼らの時代における知を基に、何かを想像する過程、統合的に理解しようとする思考の働きに興味があるからだ

そこにある論理的であろうとする意思や想像力の飛躍など、驚くことが少なくないのである

以前、プラトンと医学について纏めていたことを思い出した

参考までに以下に貼り付けておきたい



『ティマイオス』はコリングウッド(1889-1943)から入った寄り道ではあったが、大きな発見に導いてくれた

これで、コリングウッドに戻ることができそうである









2022年10月3日月曜日

規則となった学友との会食を愉しむ


























本日は、完全に規則となってしまった学友との会食に顔を出した

わたしは、3年振りにカフェ/フォーラムを開催し、対面での会議や懇親会をやっている

しかし、実社会で仕事をされている方にとっては、じっくり話したり、ましてや飲み会など、なかなか考えられないことだという

マスクに隠れた顔を一度も拝むことなく異動する人も稀ではないようだ

やはり、人間生活は著しく侵されていると言わざるを得ない

先週からのカフェ/フォーラムなどは、幸運な出来事と言えるのではないだろうか



いつものようにいろいろな話が出ていたが、いくつかピックアップしてみたい

学会の特別講演に宗教学者の山折哲雄(1937- )氏を招いたことがあったという

文系の大家のお話は何がどのように出てくるのか想像もできなかったが、終わってみれば悠々たるものだったとのこと

山折氏の本を1冊だけ読んだことがあったので話題とした

 林住期(2007.3.4)

当時はフランスに渡ることに決めてはいたが、まだ先が見えていなかった

そんな中、我が道をブッダの人生のフレームワークに入れるとどうなるのか、などと考えていた

そうすると、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期(遁世期)」という区分が非常によく入ってくることに驚いた

つまり、これからは「林住期」に入るのだと明確に意識できたのである

あれから16年が経過した本日、「そろそろ『遊行期』に入るんじゃないか」という声が聞こえたような、聞こえなかったような

そのせいかどうか分からないが、「魂の永遠」について最近考えるようになったところを紹介させていただいた


フランスと言えば、大地が揺れることがない

その安定感の中で、永遠までが視野に入る・・・のではないかとわたしは考えていた

しかし、地震大国に長らくお住いのお二方には全くピンと来ないご様子であった



学生時代の話題も出ていたが、覚えていないことが少なくない

スキー部の同僚であった深津氏によると、夏の合宿でやった相撲でわたしが意外に強いので驚いたという話

相撲などやっていたことも忘れていた

また、深津氏は苦い思い出も蘇らせてくれた

卒業直後に命を落とした学部並びにオーケストラ同期のH氏の葬儀に、わたしが弔辞を読むことになった

しかし考えがなかなか纏まらず、紙に移すことができなかった

結局、ぶっつけ本番になってしまったのである

ただ、深津氏にとっては印象に残る弔辞だったようだ

残念ながら、こちらの内容も覚えていない

幅広く音楽を聴いていたH氏には、BST(Blood, Sweat & Tears)の存在を教えてもらい、暫くの間よく聴いていた記憶が蘇ってきた

久し振りに、何曲か聴いてみたい気分になってきた
















2022年10月2日日曜日

第7回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる





昨日は第7回サイファイ・フォーラムFPSSを開催し、盛会のうちに終えることができた

当日数名の方が参加できなくなったが、お忙しいところ多くの皆様に参加していただいた

改めて感謝したい


プログラムは以下のような内容であった

1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」① ソクラテス以前の哲学者

2)渡邊正孝: 変性意識と無意識

3)岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!

ここでは、個人的に印象に残ったことを中心に記したい


1)今回から、コロナ前に武田克彦氏からいただいた助言を取り入れ、会の一貫性を保つために、シリーズでお話をすることにした

テーマは「科学と哲学」とし、科学を哲学者の思索の跡から考え直すことにした

それは必然的に哲学史を見直す旅になると考えたからである

また、その過程が科学と哲学の新しい関係を探る切っ掛けとなることも願っている

今回は、シリーズを始めるにあたっての考え方を示した後、ソクラテス以前の哲学者の思索を取り上げた

具体的には、タレス(c.624 BC-c.546 BC)、アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)、アナクシメネス(585 BC-525 BC)、ピタゴラス(c.570 BC– c.495 BC)が考えたことを振り返った

ここで問題にされたことは、それまでの流れとは異なる、一つの要素でこの世界の根源を考えようとした背後にはどのようなことが起こっていたのかという疑問である

もう少し明確に回答できるよう、さらに調べる必要があると感じた



2)渡邊氏は変性意識と無意識について、これまでの研究成果も交えながら、詳しく説明された

変性意識は、薬物、睡眠、催眠、感覚遮断、脳の電気的あるいは磁気的刺激により、意識が変容した状態を言う

その中で、夢が最も身近な変性意識だという

例えば、明晰夢というのがあるが、これは自分が夢を見ているという意識を持ち、夢の内容を変容することができるもの

明晰夢の前半は最近経験しているが、そこから先にはまだ至っていない

それから瞑想的状態には日々あるので、ある意味、日常的に日常から離れた意識状態にあるのかもしれない

これが長期的にどのような影響を及ぼすのか、興味深いところである

変性意識の中にはこの他に、宗教体験、臨死体験、体外離脱体験などがあるが、まだ体験する機会はない


もう一つの無意識であるが、呼吸、歩行、運転などは無意識に行われているとされる

また、不注意盲(何かに注意を向けることで、本来は見えているはずのものが見えない現象)や変化盲(見ているはずなのだが、途中で起こっている変化に気付かない現象)がある

これらは自分でも体験する現象である

興味深かったのは、特定の問題に集中せずに「心を彷徨わせる」マインドワンダリングの時に独創的アイディアが生まれるということ、そしてそこに関与しているのがデフォルト・モード・ネットワークであるという指摘であった

これもわたしの日常に当て嵌まるが、独創的アイディアが生まれるかどうかは別にして、いろいろな繋がりがよく見えるようになると同時に、精神状態を平静に保つことができるようになったように感じている

以前にこのテーマでエッセイを書いているので、以下に貼り付けておきたい


また、時間に追われている現代人はマインドワンダリングするための暇もなくなっている可能性がある

それが事実だとすれば、創造的な考えが生まれる可能性が削がれていることになる

もう一つ興味深かったのは、「プライミング」(先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える)や「ナッジ」(何気ない遠回しな表現により、ある行動や意志決定に導く)が現代社会のいろいろなところに浸透している可能性であった

つまり、我々は日常的に何かに無意識の内に操られて生活していることが示唆される

それを回避することができるのかどうかは分からないが、注目すべき問題だろう



3)岩永氏は『免疫学者のパリ心景』の編集を担当されたところから、本書の特徴を中心に話を進められた

文章が美しいという声が聞こえたが、自分では全く分からない

ただ、注意している点として挙げたのは、自分の頭の中にあるイメージをできるだけ正確に言葉に移(映)し、文章内あるいは文章間の論理の流れをできるだけ自然になるようしていることくらいである

そこから浮かんだ考えは、正確さや論理性は美しさに繋がるのではないかということであった


批判として出ていたのは、現在の問題を指摘するだけで、それについての明確な考えが書かれていないという点

それと関係するのだろうが、本自体のメッセージが弱いという点などである

これらの指摘は当たっているように思う

その原因として、現在の問題についての考えが煮詰まっていないことが挙げられる

それから、訴えかけるようなメッセージ性を嫌うところがどこかにあるような気がしている

いずれにせよ、これで終わったわけではないので、今後に向けて思索の機会をつくることも考えていきたいと思わせてくれる会となった



もう少し詳しいまとめは、後ほどサイファイフォーラムFPSSのサイトに掲載する予定なので、参照いただければ幸いである








































2022年10月1日土曜日

新垣勉を聴く、あるいはガダマーの「対話すること」
























昨夜は俳人の古い友人のお誘いで、新垣勉(1952- )さんのコンサートに出かけた

お名前は存じ上げていたが、演奏を聴くのは初めてであった

新型コロナの影響で3年ほど活動できなかったのは想像を超える苦しみで、自殺も考えるほどだったという

今度のパンデミックの深い傷跡を見る思いであった

久し振りのコンサートのためか、最初は調子が出ていないように見えたが、次第に良くなってきた

音響に若干の問題があるように感じたが、、


プログラムにはイタリアなどの外国の歌の他に、日本の歌曲も盛り込まれていた

自分でも想像していなかったが、なぜか「お菓子と娘」が非常によく心に沁み込んできた

幼い時の記憶が刺激されたこともあるのだろうが、フランスを経験した後なので、歌に溢れるフランスへの思い入れの強さを感じ取ることができたせいかもしれない


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作詞:西條八十(1892-1970)
作曲:橋本國彦(1904-1949)

お菓子の好きな 巴里娘
二人揃へば いそいそと
角の菓子屋へ「ボンジュール」

選る間もおそし エクレール
腰もかけずに むしゃむしゃと
喰べて口拭く 巴里娘

残る半は 手に持って
行くは竝木か 公園か
空は五月の みづあさぎ

人が見ようと 笑はうと
小唄まじりで 齧り行く
ラマチーヌの 銅像の
肩で燕の 宙がえり

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残念ながら、Youtubeに新垣さんのものを見つけることができなかった







歌の合間の語りにあった素朴な言葉の中には、思索を刺激するものがあった

例えば、言葉が重要であるということ

ロシアとウクライナの戦争はどうして防ぐことができなかったのか

言葉のやり取りがうまく行っていなかったのではないか

これはわたしの観察だが、対話が成立しなくなっているのはロシアとウクライナの間に限ったことではないだろう

我々の日常でも定常的に経験している

この機会に、以前に書いた「医学のあゆみ」のエッセイを読み直してみるのもよいだろう



それから、沖縄出身の新垣さんが長らく「君が代」を歌うことができなかったというお話

その心の内を真に理解することは至難の業である

わたしにできることは、そのような感情が確かにそこにあるということを心に留めておくことくらいだろうか


今日のピアノは臼田奎介さん、ハンドフルートを森光弘さんが担当

お二人はCHILDHOODというユニットで活動されている











2022年9月30日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(10)

























一つの生き物と身体各部との関係を教導する際に重要になるのは、魂である

従って、その魂を最も優れたものにすることが求められる

すでに、異なった3種類の魂が我々の中に住んでいることに触れた

その中で、無為に過ごし自身の動きを止めているものは弱いものになるのに対し、鍛錬されるものは強くなるのが必然である

そのバランスを取るように注意しなければならないのである


我々の魂の中で至上権を握っているもの(理性)は、神が神霊(ダイモーン)として各人に与えたものである

そこで欲情や野心の満足のために汲々としている者は、その思いのすべてが死すべき(地上的な)ものになり、その人自身も死すべきものになる

これに対して、学への愛、真の知に真剣に励んできた者がもし真実に触れるなら、その思考の対象が不死なるもの、神的なものになるのは必然である

さらに、そうした人も最大限の不死性にあずかることになり、自身の同居者である神霊の世話をしているので、幸福(エウダイモーン=よき神霊を持てる者)であることも必然である


ところで「世話」というものだが、その方法は唯一つ

それぞれに固有の養分と動きを与えてやることである

生れた時に損なわれてしまった我々の頭の中の循環運動を、万有の調和と回転運動に学んで矯正し、観察する側を観察される側に似せ、前者を本然の姿に戻さなければならない

そのことにより、最もよき生を全うしなければならないのである










2022年9月29日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(9)

























今朝は久しぶりのカフェの後なので、余韻を味わいながらゆっくりスタートした

屋外に出て、風と人の流れを感じながら読む『ティマイオス』もなかなか良かった

今日は魂の病気だが、それは身体的条件を通じて起こる


まず、「魂の病気」とは「理性を欠いていること(愚かさ)」で、それには2種類がある

一つは「狂気」であり、もう一つは「無知」である

また「快」「苦」が過度になると、病の中でも最大のものとなる

さらにまた、酸っぱい粘液や塩辛い粘液、苦くて胆汁質である体液が内部に閉じ込められ、自分の出す蒸気を魂の運行に混じらされると、魂のありとあらゆる病気を作り出す

「気難しさ」「意気消沈」、「向こう見ず」「臆病」、「物忘れの早いこと」「物覚えの遅いこと」など


ここで、身体と精神が健全性を維持するために、この両者をどのように面倒を見るのかを考えてみたい

善いものはすべて美しく、美しいもので均斉の取れていないものはない

したがって、善美の性質を具えようとすれば、均斉の取れているものでなければならない

「健康と病気」「徳と悪」を考える場合、魂と身体の間の釣合い以上に重大なものは存在しないのだが、我々はそれについて考えてみようともしない

魂の方が強力で偉大なのに、それを乗せる体の方が弱すぎる場合、魂が激怒すると身体全体を揺り動かし、病気でいっぱいにする

一方、過ぎた身体が弱い精神と共生する場合、我々の2つの欲求である食欲と最も神的な知を求める欲求のうち、前者が優勢になり、魂の方は最大の病である「無知」に至る

これらの病気に対処するには、体と魂の均衡を保つことである

つまり、精神面の激しい訓練に従事する人は体育にも親しむこと、反対に体づくりに励んでいる人は音楽や文芸、そして「哲学」にも携わり、魂に運動を与えてやらなければならない


ところで「動き」だが、最も優れているのは自分自身の中で自分自身によって動かされるようなものである

2番目に良いのは、乗り物で行く場合に振動を通じて与えられる動きである

第3の動きは、医薬(下剤)を用いて浄化する場合だが、これは避けるべきものである

なぜなら、大きな危険性がない限り、病気は医薬によって刺激されるべきではないからである

それぞれの生き物は運命によって割り当てられた生命を持って生まれてくるものである

それは、生き物の三角形の寿命を越えては生きることができないように構成されているからである








2022年9月28日水曜日

第6回ベルクソン・カフェ+第8回カフェフィロPAWL、終わる












3年振りのカフェ、フォーラム週間が始まった

今日は、フランス語を読み哲学する「ベルクソン・カフェ」と、生き方としての哲学を論じる「カフェフィロPAWL」を共同開催した

 第6回ベルクソン・カフェ:「幸福」

 第8回カフェフィロPAWL: アラン・バディウ


カフェには7名の方が参加され、充実した議論が展開した

今日参加された皆様には改めて感謝したい

テーマはアラン・バディウ(1937- )が考える「幸福の形而上学」だが、主題は哲学の使命を正しく認識すること

それがどうして幸福の形而上学になるのか

両者の結びつきを明らかにすると同時に、現代という時代が哲学の営みにネガティブな影響を与えていることを指摘

この状況を打ち破る新たな哲学のやり方を模索している

このような問題の捉え方(「現代の超克」のための哲学)はわたしの中にもあるものなので、興味深く読んだ

詳しいまとめは、近いうちに上記サイトにアップする予定である

もう少しお待ちいただければ幸いである


余談だが、今回の著者バディウは、カンボジアのクメール・ルージュをル・モンド上で支持した過去があり、その33年後に過去を悔いると表明している

それは10年前のことだったのでフランスで知り、わたしのブログにもその記事が残っていた

  アラン・バディウ 「わたしは悔いている」、あるいは真の政治的勝利とは(2012.3.22)


シリーズ最初の懇親会は以下のような感じであった




















2022年9月27日火曜日

『免疫学者のパリ心景』、書評のご紹介


























拙著『免疫学者のパリ心景』の書評がいくつか出ましたので紹介いたします


 ● 深津 亮(埼玉医科大学)北大医学部同窓会新聞(8月26日号)

 ● 木村彰方(東京医科歯科大学)「これまでと違った自分を見つめなおす書」


 ● 武田 昭(国際医療福祉大学&聖路加国際病院)「読者の人生に大きなインパクトを与える叡智の書」



書評を書いていただいた皆様には改めて感謝いたします

書評をお読みいただき、実際に本書を手に取っていただければ幸いです

よろしくお願いいたします









2022年9月26日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(8)


































ここで、病気の第3の種類について触れる

これらは「息」「粘液」「胆汁」という3つの仕方で起こる

「息」が原因の場合だが、息を配分する「肺」が体内の流れによって塞がれると、息が入っていかない場所と適量以上入り込む場所ができる

こうして、息が入らない場所では腐敗が起こり、他の部では血管の中を無理やり進み、体を溶かしながら中央に閉じ込められるため、苦しい病気を生み出す

また、体内で肉が分解し、それによって息が生じるが、外に出て行くことができないため、上記と同じ苦痛を齎す

苦痛が最大になるのは、息が腱および小管のまわりを取り巻いて膨張し、背中の腱とこれに接続するいくつかの腱を後向きに引っ張る場合である

この場合、「強直痙攣(テタノス)」あるいは「後弓反張(オピストトノス)」と呼ばれ、治療が困難である


次に、「白い粘液」が体内で遮断されると、泡に包まれている息により危険な状態となるが、外へのはけ口が見つかると、それほど危険ではなくなる

また、白い粘液が黒胆汁と混じって、最も神的なものである「頭の中の循環運動」の上に撒き散らされると、睡眠中であれば軽症だが、覚醒時には排除しにくくなる

これは神聖なものを侵す病気なので、「神聖病(癲癇)」と呼ばれるべきものである

それから、「酸っぱくて塩辛い粘液」が頭から下に流れるカタル性の場合、流れた先が多種多様なので、いろいろな名前が付いている


体が焼かれたり燃やされたりする炎症部分のすべては「胆汁」に由来する

これが血液に混じって「繊維素」の類を本来の秩序から外すと、病気は最も重症になる

元々「繊維素」が血中に撒布されたのは、血液が微細さと粗大さのバランスをとるためであった

「胆汁」はそもそも古くなった血液に過ぎないので、それが少しずつ血中に入り込むと、繊維素の働きにより凝固することになる

もし大量の胆汁が流れ込むと、自らの熱で繊維素を征服し、胆汁が常に優勢を保つ場合、髄にまで達し、魂を繋ぎ止めている纜とでも言うべきものを解き、魂を自由に解放する

そこまで行かない場合には胆汁の方が征服され、放出されるか、体腔の下部(腹部)か上部(胸部)に押し込められてから放出されるが、その際に「下痢」「赤痢」になる

また火の過剰から病気になる場合、「持続する灼熱や熱」を作り、空気の過剰によるものは「毎日熱」、水の過剰によるものは「三日熱」、土の過剰によるものは「四日熱」を生み出す










2022年9月25日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(7)




























このような臓器が植え付けられた後は、庭に水を引く溝のようなものを備え付けた

最初に、皮膚と肉の下で背中に沿って2本の血管を下に垂らし、灌漑が万遍なく行われるようにした

また、頭のところで血管を編み合わせて、右から来たものは左へ、左から来たものは右に傾斜させた

さらに、呼吸や老年、病気についても説明される

呼吸の説明は難しいが、老年についてはこんなことを言っている

若い時には、体を構成する三角形の接合もしっかりしているが、時間を経ると緩んできて、入って来る養分の三角形を切って自分に同化することができなくなり、逆に自身が分解される

これが老年で、髄のところの三角形の絆が切れると、魂の絆も解かれ、解放されて快く飛び去る

病気や傷害による死は不自然なために苦しいものになるが、自然に終局に向かうものは寧ろ快楽を伴うのである


病気がどのように起こるのかは、誰にも明らかだろう

体を組み立てている4種のもの(土・火・水・空気)が、不自然に過多になったり、不足したり、本来の場所から移動したりすると、内部に不和を齎し、病気になる

また、「髄」「骨」「肉」「腱」「血液」などは4種のものから二次的に組み立てられたものだが、生成の順序が逆行すると組織が壊滅することになる

自然の順序とは、「血液」から「肉」「腱」が生じる

腱は繊維素を素材とし、肉は繊維素を除去した後の血液から出来る凝固体から生まれる

そして、腱と肉は脂ぎったもの、粘っこいものを分離し、肉を「骨」に膠着させる

この順序が逆になると病気が生じるのである

病気の中で最もひどいのは、髄の実質が何かの不足か過剰によって侵されるもので、致命的な結果になる








2022年9月24日土曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(6)

























前回、魂の中で死すべきものがどのようなもので、それらがどのような位置に配置されたのかを見た

今回は、体の他の部分がどのように生じたのかについて説明したい

まず、食べ物に対する不節制が起こりうるので、余分な飲食物を入れる容器として「体腔下部」を作り、そこに「腸」をぐるぐると巻いた

そうしなければ、食物はあっという間に通過して食い気が止まらず、神的なものの言うことに耳を貸さない非哲学的な状態になるからである

次に「骨」や「肉」、その他すべてだが、その出発点は「髄」の生成である

魂と身体が結びついている場合、生命の絆となるものが「髄」の中に縛られている

「髄」は三角形のうちでも歪みがなく、火・水・空気・土を正確に生み出すことができたものを、神が選別し、均衡がとれるように混ぜ合わせた「すべての種子の混合体」を考案、これで「髄」を作り上げた

そして「脳」とそれを入れる容器として「頭」を作った

さらに、「骨」「脊椎」「関節」「腱」「肉」「口(歯、舌、唇)」「皮膚」「指」「爪」などの生成について説明されている










2022年9月23日金曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(5)



























それから、火、空気、水や土の多種多様なものについての説明が続くが、ここではその中には入らない

次に、感覚的性質がどのようにして具わったのかが問題になる

例えば、「熱い」「冷たい」、「硬い」「軟らかい」、「重い」「軽い」(「上」「下」)、「滑らか」「粗い」、「快い」「苦しい」などの生成メカニズムが語られる

さらに、嗅覚、聴覚、視覚(色)へと進む

その内容は、いまから見れば参考にはならないが、参考になることがあるとすれば、すべてをその時点における知を駆使して統合的に説明しようとする精神だろうか


そして話は出発点に戻る

最初は無秩序な状態にあったが、神はまず秩序づけ、それらのものを材料にして、この万有を構成した

神的なものは神自身が製作者となったが、死すべきものは、その製作を自分が産み出した子供たち(神々=天体)に命じた

そこで神の子らは、父に倣って魂の不死なる始原を受け取り、そのまわりに死すべき身体を作った

その身体の中に、魂の別の種類のもの(=死すべき魂)を加えようとした

しかし、その魂は恐ろしい情態を含んでいる

例えば、悪へと唆す最大の餌である「快」、善を回避させる「苦」、思慮のない「逸り気」「怖れ」、宥め難い「怒り」、迷わされやすい「期待」などである

これらの諸情念が神的な理性を穢すことのないように、神々は両者を体の中で別のところに住まわせた

すなわち、頭と胸の間に頸を介在させ、死すべき魂を胸郭の中に隔離したのである

また、死すべきものの中にも優れたものと劣ったものがあるので、勇気を具えた負けず嫌いの部分は頭に近く、横隔膜と頸の間に住まわせた

血液の源泉を成している「心臓」は番兵詰所とされ、不正な行いが体内であると、血管を介して全身に理性の通告を送る


怒り(「火」を通じて起こるとされた)などで心臓の動悸が起こると、それを救援するために「肺」を植え付け、心臓を冷やして寛がせる

また、食欲などの身体に必要な欲求は、横隔膜と臍の間に住まわせ、熟慮する部分から離しておいた

神は、この部分に甘さと苦さを兼ね備えた「肝臓」を配置し、恐ろしい獣が来た時には苦味で威嚇し、その反対の場合には甘さで対応できるようにした

肝臓の横には、肝臓のために「脾臓」という肝臓の汚れを落とす臓器を置いたのである












2022年9月22日木曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(4)


























宇宙が生成する以前に、「あるもの」(モデル?)「場」「生成」が存在していた

生成の養い親である「場」はいろいろなものを入れるが、どの部も均衡が取れず、あらゆる方向へ動揺させられていた

丁度穀物の不純物を取り除くための容器のように揺さぶられ、相互に似ているものを集め、似ていないものを引き離した

宇宙が生まれる前は、すべてのものが比率も尺度もない状態だったが、神が初めて、形と数を用いて形作ったことになる

そしてその際、可能な限り立派な善いものに構築したのである

その上で、これまでに挙げたそれぞれのものの配置と成り立ちを明らかにしたい


まず、火、土、水、空気は奥行きを持ち、それは面で囲まれているが、平面は三角形を要素として成り立っている

三角形には二等辺三角形と不等辺三角形の2種類があり、前者は一通りの型があるだけだが、後者には無限の型がある

これを物体の始原(アルケー)と仮定する

ここで、無限の型がある不等辺三角形から最も立派なものを選ばなければならない

それを、2つ集まれば正三角形になるものと仮定する

これらが結びついていろいろな立体が構築され、宇宙の構成要素となる

最も原初的な立体は正四面体で、最も動きやすいので火に割り振る











同様に、正八面体は火と水の中間の形として空気に、正二十面体は動きにくい形なので水に、正六面体は最も安定した底面を持っているので土に割り当てることにする





例えば、土が火に出くわし、火の鋭さによって分解されると、再び土同士が組み合わさるまで移動を続ける

水が火や空気によってばらばらにされると、水の部分が結合して火の粒子1個と空気の粒子2個が生じる

また空気の1粒子が解体すると、火の粒子2個が生じる

といった具合に、同種や異種のものが混じり合って無限の多様さが現れるのである











2022年9月21日水曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(3)


























この宇宙は、「理性」を通じて製作されたものと「必然」を通じて生じるものの混成体として生み出された

その際、「理性」が「必然」を説き伏せて、生成されるものが最善になるよう「必然」を指導する役割を演じたのである

そこで問題は、宇宙が生成される前には、火、水、空気、土の本性は何であり、どのような状態にあったのかである

それらを始原(アルケー)とか、それよりさらに遡った諸始原(アルカイ)と呼ぶのはよいが、それを明らかにするのは難しい

ここでは「ありそうな言論」に徹するしかないだろう

鷗外(1862-1922)で言えば、「かのように」か


これまでの万有についての議論では、2つのものを区別した

1)モデルとして仮定されたもの、理性の対象となるもの、常に同一性を保つもの

2)モデルの模写に当たるところのもの、生成するもの、可視的なもの

しかし、ここで第3のものを明らかにしなければならないだろう

それは、「あらゆる生成の養い親のような受容者」とでも言うべきものである

これはどういうことなのだろうか


次のように考えてみたい

まず、「水」と名付けているものは、凝固すれば石や土になり、溶解・分解すれば風や空気になり、空気が燃えると火になり、火は凝集して消えると空気に帰り、空気は濃密になると雲や霧になり、さらに圧縮されると流れる水が生じ、そこから石や土へというサイクルが始まる

このように変化の中にあるものについて、どれを一定のものだと言えるだろうか

今ここに現れている現象を、例えば火と呼ぶのではなく、その都度これこれであるもの、あるいはそのような特性を火と呼ぶことにするのである

これはすべての物体を受け入れるものについてもいえる

その物体はありとあらゆるものを受け入れながら、それらによって影響を受けることがないものである

そこを出入りするものは「常にあるもの」(理性対象)の模像で、写し取られたものである


当面、3つの種族を念頭に置かなければならない

1)生成するもの

2)生成するものが、それの中で生成するところのもの(受容者)

3)生成するものがそれに似せられて生じるそのもとのもの(モデル)

この中で、受容者はどんな形をも持たないものでなければ、あらゆる種類を受け入れることができない

ところで、「それ自体でそれぞれのものとして独立にある」というようなものは、存在するのだろうか

もし理性(真に知る思考)と正しい思惑(憶測でたまたま真実を射当てた場合の思惑)が種類を異にするとすれば、感覚では捉えられず、理性によってのみ把握される形相は、完全にそれ自体として独立に存在する

この点に関して、理性と思惑が当たっていることには違いがないとする人がいるが、それは違う

なぜなら、一方は真なる説明を伴っているが、他方は説明がない

また、理性に与るのは神と少数の人間に過ぎないが、他方は人間誰もがそれに与っているからである


ここで、次のものがあることに同意しなければならないだろう

第1に、同一性を保っている形相で、生滅することはなく、感覚されることもないもので、理性がその考察の対象としているもの

第2に、感覚され、生み出され、常に動き、ある場所に生じては滅び去るもので、思惑や感覚の助けを借りて捉えられるもの

そして第3に、いつも存在している「場」で、滅亡することなく、生成するすべてのものにその座を提供しているもの

その上で、真実とは次のことに他ならない

似像は、その拠って生じたところのもの(自身の成立条件・原理)が似像自身のものではなく、他者の影像として動いているので、他者の中に生じて、どうにか「ある」にしがみついているのが、似像に相応しい在り方である

真に在るものには、厳密な意味で真なる言論が味方について、あるものと他のものが別のものである限り、同じものが同時に1であり2であるということは決してないと主張する









2022年9月20日火曜日

同期生M君を弔問する



























今日は、8月に亡くなっていた同期生M君の弔問に出かけた

連絡をお願いしたのは、やはり同期生のSご夫妻

奥様から亡くなるまでの経過とそれまでの歴史をお聞きした

最後にM君に会ったのは4年前に一時帰国した時になるので、その後の様子は知らなかった

お話によれば、急のことで、ご家族も最後に立ち会うことができなかったというので驚いた

振り返れば、40歳になる前に心臓の病にかかったが、そこからは立ち上がった

しかし、今から10年ほど前(?)に脳卒中をやり、不自由な生活が続いたようだが、お酒は飲めるようになり、サッカーや野球の観戦は欠かすことがなかったという

今年のワールドカップ・カタール大会も視野に入れていたとのこと、さぞ残念なことであったろう

M君とは同じグループで学生時代を過ごしたが、なぜか悲しさはない

むしろ、懐かしさの方が強いだろうか












2022年9月19日月曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(2)


























そこで生じたものは、立体的、可視的、可触的でなくてはならない

「火」を欠いては可視的にはならず、「土」を欠いては固体とならないだろう

この両者を結びつけるためには「水」と「空気」が必要で、そこで重要になるのが比例である

神は、それぞれの比が等しくなるように結合させ、自己同一的なものに仕上げた

宇宙が完結した諸部分から成る、最大限に完結した本性を具えた生き物であるように、他の宇宙が生じないように材料を残さないように、また不老無病であるようにしたのである

形としては、中心から端までの距離がどこも等しく、あらん限りの形を含むものとして球形に仕上げた

宇宙は自分で自分を消耗しては自分の栄養とし、自足の方がより善いと考え、表面に無駄なものを付けることをしなかった

このような宇宙に相応しい運動として、理性と深く関係する運動、円を描く回転運動を割り振った

神は、その真ん中に魂を置き、全体に引き伸ばし、さらに外側から魂で覆ったのである

その際、魂は身体を支配し、身体は支配されるべきものとして構成した

宇宙が生まれるまでは、昼も夜も、年も月も存在しなかった

宇宙の誕生とともに、一のうちに静止している永遠を写して、その似像として神は時間を作った


さて、身体の各部分の成り立ち、魂についても同様に、どのような原因によって生じたのか

それは神々のいかなる配慮だったのか

神々は神的な循環運動を、万有の形が丸いのに倣って、球形をした身体に結びつけた

それが「頭」で、神的なものであり、すべてに君臨する

その頭に奉仕するものとして身体の全体を与え、例えば四肢は、最も聖なるものをあらゆる所に運べるようにした

そして、神々は最初に光を齎す目を作った

この視覚こそ、我々に最大の稗益を成す原因となっている

視覚により目にすることがなければ、哲学を言われるものを手に入れることはなかった

死すべき種族に、これより大きな善が神々から贈られることはなかったし、これからもないだろう

視覚の目的は、天にある理性の循環運動を観察し、それと同類ではあるが乱れた状態にある我々の思考の回転運動を正すことなのである

また、聴覚もハルモニア(楽器の調子の整え方)のために、調子はずれになった魂の循環運動を自己協和に導くために贈られたものである









2022年9月18日日曜日

プラトンの『ティマイオス』を読む(1)

























コリングウッド(1889-1943)は、これからプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』を論じるようである

論者の分析を読む前に、原典を読んでおくことにした

自分の感想を持っておきたいと思ったからである

ゆっくり読んでいきたい


ティマイオスは天文学に通じ、万有の本性を知ることを仕事としてきた人物

クリティアスが、宇宙の生成から始めて人間の成り立ち、自然の本性のところまでをソクラテス(c.470 BC-399 BC)に話すよう促す

ティマイオスはまず、「常に在る、生成しないもの」と「常に生成し、在るということがないもの」の区別を提案する

前者は、同一性を保つので、理性、言論により把握されるが、後者は、思惑、すなわち言論を欠く感覚により思いなされる

生成される場合、同一性のあるものをモデルにすると製作物は立派になるが、作り出されたものをモデルにするとそうはならない


全宇宙(ウラノス、コスモス)について考える際、まず、宇宙は出発点がなく、常に在ったものなのか、あるいは、ある出発点から始まり、生成したものなのか、を区別しなければならない

生成した場合、原因(製作者)があるはずだが、それを見出すのは至難の業

ただ、宇宙は最も立派なものなので、製作者は理性と言論で把握できる同一性を持つモデルに倣って製作したはずである

製作者は善きものであるので、できるだけ自身に似たものになるようにした

無秩序よりは秩序を、理性なきものより理性あるものを求めたのである

そして、理性を魂の内に、魂を身体の内に結びつけ、本性上最も善き作品にしようとした

実際、この宇宙は、魂を具え、理性を具えた生きものとして生まれたのである

ところで、宇宙は1つなのか、あるいは多なるもの、無限なるものなのか

理性の対象となるものすべてを包括しているのが宇宙だとすれば、それが2つ以上あることはありえないので、宇宙はただ1つだけであり、今後もそうであろう









2022年9月17日土曜日

コリングウッドによる自然(14): ピタゴラス学派(7)























 Velia (Elea), Italy




今日は、プラトン(427 BC-347 BC)の成熟した形相概念がテーマである

プラトンとエレア派と鋭く異なるのは、次の点である

エレア派が言う真に実在するもの、あるいは叡智的(これはintelligibleの訳なので、知性を働かせれば理解可能になるという意味か)な世界は、同時に物理的世界である

すなわち、感覚による物理的世界に見られる特徴は反対の特徴を持つという逆説を含んでいた

これに対して、プラトンにとっての叡智的世界は物理的ではなく、純粋な形相である

物理的な特質は感覚的世界の特徴で、その世界は叡智的ではない


この相違によって、もう一つの相違が生じるとコリングウッド(1889-1943)は言う

叡智的な存在を形相と同一視することによりプラトンは、感覚により我々に映る物理的世界と、思惟によって我々に明らかになる物理的世界の間にある区別を廃棄したのである

つまり、物理的世界について知り得ることは、すべて感覚を通して認識される

感受する方法を変えれば、必ずしも我々を欺くとは言えないだろう

自然の世界は常に変化しているので、決定的な性格を持たず、厳密に言えば、認識も理解もできない

しかし、その中に叡智的なもの、形相を求めることに異論はないはずだ

事実を単に観察、分類するだけでなく、そこにある形相的要素を発見することを使命とする自然科学をプラトンは擁護している

超越性と内在性が絡み合っている状況は、ピタゴラス(582 BC-496 BC)にもソクラテス(c.470 BC-399 BC)にもあった

それを明確に区別したのがプラトンだったが、次のような方法で両者を組み合わせたと思われる

形相とは、厳密に言えば、超越的であり、内在的ではない

例えば丸い皿の場合、超越的な丸の形相は陶芸家や見る人の頭の中にある

そこに見える皿は、「丸さ」の実例ではなく、「丸さ」に近づいたものの実例に過ぎない

感覚的事物に内在する形相は純粋の形相ではなく、それに近づいた形相なのである

円形そのものではなく、円形の模倣、円形に向かう傾向に過ぎないという


後の新プラトン主義によれば、純粋な形相を具現化する試みが成功しないのは、物質の強情な反抗のため、あるいは物質が可塑性をもって形相を受け止めようとしないからだという

ここから、新プラトン主義者にとっての物質は欠点のあるもの、悪の原因とされた

ただ、プラトンの著作の中にはこの考えは存在していない











2022年9月16日金曜日

コリングウッドによる自然(13): ピタゴラス学派(6)

































エレア派の始祖パルメニデス(c.520 BC-c.450 BC)のプラトン(427 BC-347 BC)に対する影響について、再度検討している

現存する断片の中でパルメニデスは、思考には「真実の道」と「思惑の道」という2つの道があるとしている

思惑の中に真実はまったく含まれず、思惑は全き誤謬である

真実は純粋な思考によって到達されるべきで、思惑の蓋然性を一顧だにしない

これは方法論的あるいは認識論的な超越論とでも言うべきもので、思惑の道を超越する道として語られている

さらに、存在するものは1つで永遠でなければならず、他のものが存在することは不可能であるとする

ここで言う存在する1つのものとは、物理的、物質的な世界のことである

つまり、世界は連続的、同質的、不可分なる充実体(plenum)で、そこには運動はあり得ない

これこそ真に実在する世界であり、我々が明晰に思考する時にのみ知ることができる叡智の世界なのである

それに対して、変化と運動の世界、生成と消滅の世界、すなわち感覚的世界は思惑の世界で、真の実在ではない

この2つの思考法は、プラトンの超越性を強調する対話篇(特に『国家』)にも見ることができる

つまり、殆どの人が認識していると思っていることは、実は感覚的世界によって欺かれたものであり、真の実在は感覚的でしかも叡智的な対象であるという確信を見出すのである










2022年9月15日木曜日

コリングウッドによる自然(12): ピタゴラス学派(5)

























ピタゴラス学派とソクラテス(c.470 BC-399 BC)の哲学における形相概念が内在性だったのに、プラトン(427 BC-347 BC)はなぜ反対の超越性に向かったのか

アリストテレス(384 BC-322 BC)の『形而上学』によれば、プラトンが若い時、ヘラクレイトス(c.540 BC-c.480 BC)の弟子クラテュロス(紀元前5世紀)の影響を受けた

ヘラクレイトスが言うように、この世界が万物流転で常に変わりゆくものだとすれば、あるものについて知ることはできないという懐疑主義に陥ったとされる

クラテュロスは、最終的に何も言わないという結論に達した

ソクラテスの哲学はその正反対で、クラテュロスが放棄したロゴスについての関心を明確にして強化した

ソクラテスの精神生活は精力的で、強靭な意志によって貫かれていた

しかしクラテュロスは、絶え間ない変化で溢れる感覚的世界に囚われ過ぎ、精神的自殺をしてしまったのである


そこからプラトンが得た教訓は、感覚的世界に囚われているかぎり、誰にでも同じことが起こるということであった

常に揺れ動く感覚的世界では、思想が落ち着く場がなく、定まったものがない以上、何ものも知り得ない

ソクラテスの倫理的探求の中で、例えば勇気について考える時、人間の中で起こる一時的な心理学的過程ではなく、勇気の理想状態、その人の前に据える鑑に関心を寄せたのである

ソクラテスは勇気の形相を独立して存在するものとせず、『パルメニデス』の中で主張したように内在説を採った

プラトンがなぜ内在説から超越説に移行したのか

コリングウッド(1889-1943)は、クラテュロスの遺産に対する自己防衛の必要を感じたためではないかと推論している

クラテュロスの考えをそのままにしておくと、例えば「勇気」というものはある瞬間には存在するかもしれないが、次の瞬間には変化し、無に帰している可能性がある

この事態をプラトンは避けなければならないと考え、超越性を強調することになったのではないか

コリングウッドはそう考えている


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この問題は実に根が深く、現代の根底に横たわっている

確かに、感覚的世界の中にいては、秒単位で移り変わる情報に流されるままである

そこでは、何も知ることができない

この状況は、わたしがフランスに渡る前に痛感していたことである

テレビや新聞の情報に当たるだけの生活の中で、不全感を抱えていたのである

何かを理解したという感覚が全くなかったからである

そこで日常の時間の流れを一旦止めることを思いついたのである

それを当時は「自分の頭の中を整理するため」と表現していた

流れの止まった落ち着きのある場から「もの・こと」を眺め、考えてみようということだった

15年に及ぶ天空での生活は、確かに「もの・こと」を見る時の固定された軸を提供してくれたように感じている

それは超越的生活が齎した超越的なものではなかったのだろうか

この視点から現実に目をやると、何ごとも理解することなく、流れているという印象が強い

無気力になり、そもそも「もの・こと」を理解しようとする意思さえも失っているように見える

残念ながら、その印象は強まるばかりである