2022年6月21日火曜日

ゲーテの言葉から(7)

























今朝、快晴の下、陽の光に輝く緑を眺めながら紫煙を燻らすという至福の時を味わった

徐に、今日もゲーテ(1749-1832)の声に耳を傾けたい



1825.4.20(水)

「全体の中へ入っていく厳しさもなければ、全体のためになにか役に立とうという心構えもない。ただただどうすれば自分を著名にできるのか、どうすれば世間をあっといわせることに大成功するか、ということだけをねらっている。・・・いたるところで、一人ひとりが自分を立派に見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない」

「私の詩に具象性のあるのはやはり、あの深い注意力と目の訓練を大いにやったおかげなのだ。そこから得た知識も、同じように高く評価しなければいけない。しかし、修業の限界をあまり広げすぎないように注意すべきだね。

自然研究者がいちばんそうした誘惑におちいりやすいよ。自然観察のためには、実はしっかり調和のとれた普遍的な修業が要求されるからだ。
だがこれに反して、自分の専門に欠くことのできない知識に関しては、せまく制限したり、一面的な見方におちいることをつとめて警戒しなければならない。

結局、最も偉大な技術とは、自分を限定し、他から隔離するものをいうのだ」



1825.5.12(木)

「いつも大事なことは、われわれが学ぼうとする相手の人たちが、われわれの性分にふさわしい人であるということだ」


モリエール(1622-1673)はまったく偉大だから、くり返し読むたびに、今さらのように感嘆させられる。彼は独特な男だ。その作品は、悲劇と紙一重だし、不安にさせるところがある。それで、だれも彼の真似をしようなどという勇気のあるものは一人もいない」

「私は、モリエールの作品を毎年いくつか読んでいる。それは、私が偉大なイタリアの巨匠たちの銅版画をときどき眺めるのと同じことだ。われわれのような小粒の人間は、こういうものの偉大さを、心の中にしまっておくことなどできないからな。そこでときどきそこへ帰って行って、その印象を心に蘇らせることが大事なのだ」


「独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのだろう! われわれが、生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつつづくのだ。いつだってそうだよ。一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい」


「要するに、人はただ自分の愛する人からだけ学ぶものだ。今日すくすくと成長している若い才能の持ち主たちの中にも、私に対してそういう心情を持ってくれる人もいるにはいるが、私の同時代の人たちとなると、そうした人はめったにみつからなかったのだ。それどころではなく、すぐれた人たちの中で私に心酔してくれたような人は、ただの一人もあげるのが難しいほどだ」


(山下肇訳)



今日は嬉しい発見をすることになった

太字部分は、フランスに渡ってからの生活の中で、わたし自身が感得することになった重要なことである

ゲーテ自身もそのことを感じていたことが分かった

このような発見をする時はいつも、そよ風が頭の中を吹き抜ける

この点については『パリ心景』でも繰り返し取り上げている

















2022年6月20日月曜日

ゲーテの言葉から(6)















今日もゲーテだが、話はバイロン(1788-1824)に集中している

それでは・・・


1825.2.24(木)

「つまり、こうなると、詩人がいかに偉大であるかというようなことは、全然話にならず、むしろ、一般大衆からあまり傑出していないような人柄の方が、やたらに一般の拍手喝采を受けるというわけだ」


「私が独創性とよんでいるものに関するかぎり、世界中のだれと比べても、彼(バイロン)に及ぶ者は一人もいまい。彼のドラマティックな葛藤をときあかしていく方法は、いつも人の意表をつき、いつも人の考え及ばないような巧妙さをみせる」


「この人間から、とくにこの胸中から、湧きでてきたものは、何もかもすばらしかった。・・・彼は、偉大な才能を、生まれながらの才能を、もった人だ。詩人らしい詩人としての力が彼ほど備わっている者は一人もいないように思われる。外界の把握という点でも、過去の状態の明晰な洞察という点でも、シェークスピア(1564-1616)と比肩できるほど偉大だ」


「バイロンにとっては、イギリス貴族という高い地位が非常にマイナスになった。才能のある人物はだれでも、側から煩わされるものだが、まして彼のように高貴な生まれで、恒産を有しているばあいは、なおのことそうなる。中流程度の暮らしのほうが、才能ある人物には、はるかにましだね。だから、芸術家や詩人で偉大なひとはみんな中流階級から出ている」


「本当に他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行うようにすればいい。大事なのは、破壊することでなくて、人間が純粋な喜びを覚えるようなものを建設することだからだ」


「およそイギリス人というものは、本当の意味での反省を知らない人種だ。気晴らしや党派根性のために、じっくり教養を身につけることが不可能なのだ。しかし、実際的な人間としては、偉大だよ」


(山下肇訳)










2022年6月19日日曜日

ゲーテの言葉から(5)































ゲーテご本人の語りが次第に心地よくなってきたようだ

今日もその言葉に耳を傾けることにしたい



「人生は短い。おたがいに楽しみあうようにしたいものだね」(1824.12.9)



「(イギリス人技術者に向かって)お国の若い人たちがわれわれの国へ来て、ドイツ語の勉強をするのは、よいことです。というのは、わが国自身の文学が学ぶ値打ちがあるというだけでなく、今、ドイツ語がよくわかれば、他の言葉をたくさん知らなくても済むということも否定できませんからね。フランス語だけは別ですよ。フランス語は、社交用の言葉で、とりわけ旅行のさいには欠かせませんものね。だれでもわかるし、どこへ行っても、優秀な通訳のかわりに、フランス語で用が足りますから。しかし、ギリシャ語やラテン語、イタリア語、スペイン語、となると、それらの国の最高の作品は立派なんドイツ語訳でちゃんと読むことができる。だから、よほど特殊な目的でもないかぎり、苦労をしてこれらの言葉を学ぶために、多くの時間をかけることはない、あらゆる外国のものを、その持ち味を生かして評価し、異質な特性に順応するという性質が、ドイツ人にはありましてね。このことと、ドイツ語の柔軟さのお陰で、ドイツの翻訳は、徹底的に原文に忠実で、完全なものになるのですよ。・・・フリードリヒ大王(1712-1786)は、ラテン語ができなかったけれども、フランス語訳でキケロ(106 BC-43 BC)を読んだ。それも、われわれが原語で読むのと同じくらいよく読みこなしていました」

「私なら、『ファウスト』はまだあなたにおすすめしませんよ。あれはとんでもない代物で、あらゆる日常の感覚を超越しています。けれでも、私にたずねないで自分から読みはじめたのですから、ひとつどこまで読みとおせるか、やってごらんなさい。ファウストは、じつに珍しい個性の持ち主だから、その内面の状態を追感できる人は、ほんの僅かしかいません」(1825.1.10)



「彼ら(学者たち)は、口ぐせのように、これはここから取った、あれは、あそこからだ! と言います。たとえば、シェークスピア(1564-1616)の中に、古代詩人にもある詩句を発見すると、シェークスピアは古代詩人から取ってきた、と言うのです。・・・なんと妙な話でしょう!・・・こんなことは、ふだん目の前で、見たり感じたり言ったりしていないとでも言うんでしょうかね!・・・私のメフィストーフェレスも、シェークスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?」

「(最近五〇年間にひろまったドイツの中流階級の高い教養について)その功績はレッシング(1729-1781)よりもヘルダー(1744-1803)とヴィーラント(1733-1813)にある。レッシングは最高の知性をもっていたから、彼と同じくらい偉い者にしか、彼から本当に学びとることなどできなかった。中途半端な能力の人間にとっては、彼は危険な存在だった。ヴィーラントの活躍で、南ドイツ全体が、その文体をもつことができるようになった。彼から多くのものを学びとったという次第だが、正しく自己を表現する能力も、決してつまらないこととはいえないね」

「彼(シラー、1759-1805)は、ふしぎな大人物だったね。一週間ごとに、シラーは別人みたいになり、一段と完成された人間になっていた。彼と会うたびに、読書の点でも、学識の点でも、判断力の点でも、進歩しているように思われた。彼の手紙こそ、私にのこされた最もすばらしい追憶のかたみだよ。それは、彼の書いたものの中で、最もすぐれたものの一つだ。私は、シラーの最後の手紙を、私の宝の中でも神聖なものとして保存している次第だ」(1825.1.18)


(山下肇訳)










2022年6月18日土曜日

ゲーテの言葉から(4)
































今朝、『パリ心景』を見たという方から、「思わず手に取ってみたくなるような軽やかな装丁」とのコメントをいただいた

このような感想を持たれる方が多いようである

さらに、編集者の力の入れようが想像されるとあった

願わくは、このような本を実際に手に取り、お読みいただけると幸いである


さて、今日もゲーテである


「七十五歳にもなると、ときには、死について考えてみないわけにはいかない。死を考えても、私は泰然自若としていられる。なぜなら、われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠に向かってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実は、けっして沈むことなく、いつも輝き続けているのだからね」(1824.5.2)



「フランス人がドイツの作家を研究したり、翻訳したりするに至ったというのは、じつに結構なことだ。彼らは形式の上でもモティーフの上でも制限されているので、外国へ目を向けるより仕様がないのだ。われわれドイツ人は、ある種の無形式のゆえに非難されるが、しかし素材においては、われわれは彼らよりもすぐれている。・・・とりわけわれわれの哲学の観念性は、彼らの歓迎するところだ。理念的なものならどんなものでも革命の目的に役立つのだからね」

「フランス人は悟性と精神は持ちあわせているが、根本的なものがないし、敬虔の念もない。その場その場で役立つもの、自分の党派に都合のいいものが、正しいものなのだ。だから、彼らがわれわれをほめるのも、われわれの価値を認めるからでは毛頭なくて、われわれの意見がその党派を強化できる場合に限られているのだ」(1824.11.24)



「重要なことは、けっして使い尽くすことのない資本をつくることだ。君のすでにはじめている英語とイギリス文学の研究において、それが得られるだろう。その仕事に自分を打ちこみたまえ。若いイギリス人たちと会うすばらしい機会を、いつも利用したまえ。君は古代言語を学ぶ機会を、青年時代に大方失ってしまったのだから、イギリス人のような有能な国民の文学に、手がかりを求めたまえ。とくに、われわれ自身の文学というのも、大部分は、イギリス文学が源流になっているのだよ。われわれの小説も悲劇も、ゴールドスミスやフィールディングやシェークスピアをのぞいて、いったいどこに源流があるのか? 今日でもドイツのどこに、パイロン卿やムーアやウォルター・スコットと肩を並べられるような大作家を、三人も見つけ出すことができるだろうか? もう一度くり返すが、英語をしっかり身につけ、有用な仕事に力を集中して、君にとってなんの成果にもならぬこと、君にふさわしくないようなことは、すべて放棄したまえ」(1824.12.3)


(山下肇訳)
















2022年6月17日金曜日

ゲーテの言葉から(3)


























昨日のお昼は老舗レストラン(大正8年創業)を2年振りに訪問

高校時代の同期生が三代目として店を守っている

大学では美学を学び、趣味で声楽をやり、今でもホールでコンサートを開いているという

お店はレトロな感じで、ドイツリートが流れていた


お仕事の合間にいろいろな話を聞き、発見があった

同期生の消息に詳しく、普段は頭に浮かばない人たちが次々に現れ、記憶を刺激された

学生時代は大人しく芯が強そうだった女性が、大学に入って見違えるようになったとのこと

どうようになったのかは分からないが、人間って変わるんですねぇという言葉

わたしも驚いた

それから、学生時代からエネルギッシュに動き回ってた人は倒産も経験したが、これから大きな会社を始めると言って張り切っているという

このような話が続いて、興味が尽きなかった

小学校から中学、高校に行くに従い多様性は減ってくる

それでも高校時代にはまだ面白い人間が沢山いたように思う

確かに、人間というのは面白い存在だ

忘れていた過去が間違いなく存在したことを確認させてくれ、恰もタイムマシーンに乗って異次元に入り込んだようなお昼時であった



さて、今日もゲーテを続けてみたい


「フランスの憲法は国民自身にひじょうに多くの退廃した要素があるので、イギリスのとはまったく違った基盤に立っているのだ。フランスでは、あらゆるものが、賄賂を使って手に入れることができる。実際、あのフランス革命にしたところで、まったく賄賂によって動かされたのだよ」(1824.3.29)



「ドイツ人は一般に哲学的な思索が邪魔になっているから、文体の中へしばしば抽象的な、不可解な、冗漫な、とりとめのないものがまぎれこんでくるのだね。彼らが、哲学上の何らかの流派に深入りしていればいるほど、彼らはうまく書けなくなる。しかし、ドイツ人の中でも、実務家とか、道楽者といったような、実際的なことにだけしか関係していない連中となると、文章をじつにうまく書く。シラーの文体にしても、彼が哲学しないばあいは、きわめて華麗であり、効果的だ」

「イギリス人は、おしなべてみな、生まれついての雄弁家か、現実に目を向ける実務家だから、上手に書くね」

「フランス人は、文体を見ても、彼らの一般的な性格がまざまざと現れている。彼らは、社交的だから、いつも話しかける聴衆を忘れたりはしない。彼らが明晰であろうとするのは、読者を納得させるためだし、優美に書こうとするのは、読者に気に入られたいためなのだ」(1824.4.14)


(山下肇訳)








2022年6月16日木曜日

ゲーテの言葉から(2)




























昨夜、何気なく(これが発見には重要)ブログの右コラムを見ていると、トゥールが連日30℃を越え、土曜は37℃になるというではないか

7月には結構暑くなっていたが、6月がこんなに暑かったとは

あるいは今年だけなのか、もう思い出せなくなっている


やはり昨夜、『パリ心景』を棚のど真ん中に置きたいという書店スタッフの方のツイッターが目に入った

そして今朝、とても素敵な表紙なので中央に置せていただいているとの返信があった

やはり表紙が魅力的であることは重要な要素になるのだろうか

このような本屋さんが増え、そこから中身の方に進むという流れになってくれると素晴らしいのだが、、

いずれにせよ、ありがたいお話である



さて、本日もゲーテ(1749-1832)に当たってみたい

1824年2月28日の言葉から


「優秀な人物のなかには、何事も即座ではできず、何事もおざなりにすますことができず、いつも一つ一つの対象をじっくりと深く追求せずにはいられない性質の持主がいるものだ。このような才能というものは、しばしばわれわれにじれったい気を起こさせる。すぐさま欲しいと願うものを、彼らはめったにみたしてはくれないからだね。けれども、こういう方法でこそ、最高のものがやりとげられるのだよ」


「マンネリズムはいつでも仕上げることばかり考えて、仕事そのものに喜びがすこしもないものだ。しかし、純粋の、真に偉大な才能ならば、制作することに至上の幸福を見出すはずだ。ロース(1631-1685)は、山羊や羊の髪や毛をねばり強く描いて飽きることがなく、あの際限もない精密描写を見れば、彼が仕事をしながら、世にも純粋な幸福を楽しみ、完成することなど考えてもみなかったことがわかるのだよ」

「比較的才能のとぼしい連中というのは、芸術そのものに満足しないものだ。彼らは、制作中も、作品の完成によって手に入れたいと望む利益のことばかり、いつも目の前に思い浮かべている。だが、そんな世俗的な目的や志向をもつようでは、偉大な作品など生まれるはずがないさ」

(山下肇訳)



ゲーテの指摘、自分自身が経験してきたものなので、非常によく分かる

仕事そのものに喜びを感じることなく、終わらせることしか考えない状態と、そのものの中に入り込み、時間が消える中で制作する状態の違いは、天と地の違いと言ってもよいだろう

パリ心景』でも触れているが、後者はエネルゲイアと結び付き、ゲーテが言う「世にも純粋な幸福を楽し」むことができる

至福の時を齎してくれるのである








2022年6月15日水曜日

ゲーテの言葉から





























Goethe (1829)  @Angers (2015.10.17)



今日はゲーテ(1749-1832)の声に耳を傾けてみたい


「私の本当の幸福は、詩的な瞑想と思索にあった。だがこれも、私の外面的な地位のおかげでどんなにかき乱され、制限され、妨害されたことだろう! もっと、公的な職務上の活動から身を退いて、孤独に暮らせたら、私はもっと幸福だったろうし、詩人としても、はるかに多くの仕事をしていただろう」(1824.1.27)



「私が一八歳のころは、ドイツの国もやっと一八歳になったばかりだから、まだ何事かがやれたんだ。ところが、今では、信じられないほどたくさんのことが要求され、しかもどの方面を見ても道はふさがれてしまっている」

「ドイツ自体が、あらゆる分野にわたって高いレベルに達しているので、とても全部は見きわめきれないといっていいほどだ。そのうえ今では、われわれは、やれギリシャ人になれの、ローマ人になれのと責められるし、おまけにイギリス人になれ、フランス人になれとまで言われる。しかも、オリエントまでめざせという狂気の沙汰だ。これでは、若い人が、まったく途方に暮れてしまうのもあたりまえさ」

「しかし、前にもいった通り、私はこの何もかも出来上がった時代にあって、自分がもう若くないことを天に感謝しているよ。若かったら、いたたまれないだろうね。まったくのところ、アメリカへ逃げだそうとしたところで、もう遅すぎるのだ。そこももう、あまりに明るすぎるだろうからね」(1824.2.15)



「実際、人間には、自分がその中で生まれ、そのために生まれた状態だけが、ふさわしいのだからね。偉大な目的のために異郷へかりたてられる者以外は、家に留まっているほうがはるかに幸福なのだ」(1824.2.22)



「もしも、精神ともっと高い教養が人々の共通の財産になるようになれば、詩人は、十分に活動できるだろうし、いつも完璧に真実であることができるし、最善のことを言うのに、なにも恐れたりする必要がなくなるだろう。だが、いまは、いつも、ある水準に身を置いていなければならない。詩人は、自分の作品がざっぱくな世の人の手に渡ることを顧慮しなければならない。だから、あまりあからさまに表現して、大勢の善良な人たちの怒りを買わないよう注意するのは、もっともな話だ」(1824.2.25)



「これから何年か先に、どんなことが起こるか、予言などできるものではない。だが、そう簡単に平和はこないと思う。世の中というものは、謙虚になれるような代物ではない。お偉方は、権力の乱用をしないではおれないし、大衆は漸進的改良を期待しつつ、ほどほどの状態に満足することができない。かりに人類を完全なものに仕上げることができるものなら、完全な状態というものもまた考えられよう。けれども、世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人々をもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう」(1824.2.25)



「不死の観念にかかずらわるのは上流階級、ことに何もすることのない有閑マダムにうってつけだ。しかし、この世ですでにれっきとしたものになろうと思い、そのため、毎日毎日努力したり、戦ったり、活動したりしなければならない有能な人間は、来世のことは来世にまかせて、この世で仕事をし、役に立とうとするものだ。その上、不死の思想などというものは、現世の幸福にかけては、最も不運であった人たちのためにあるのだよ」(1824.2.25)


(山下肇訳)









2022年6月14日火曜日

「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」(4)























スピノザ(1632-1677)がユダヤ人コミュニティから排斥された理由はよく分かっていない

伝記作家の一人は「その理由は、おそらくこれからも我々には隠されたままであろう」としている

長老の宣言書には、理由が書かれていないのである

わたしはその理由を、当時は受け入れられていないが将来受容されるだろう知識を説いたからだと考え、そのように小説を組み立てた


全人生を倫理(『エチカ』)に打ち込んだ人間の教えを考えると、読者はスピノザの人生における出来事を書くことが倫理的なのかと問うかもしれない

わたしの頭に浮かんできたのは、ミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)の次の言葉であった


その意味では、この小説のスピノザは1632年から1677年まで生きたスピノザであり、本書に出てくる読者は今本書を手に取っている読者に他ならないと言えるのではないか

幾何学が教えるところによれば、二つの平行線は無限の彼方で交わることになる

我々はある点――おそらく無限において――で出会うことをわたしは信じている

本書のスピノザと実在のスピノザ、二人の読者、著者は出会い、絶対的同一性に至るであろう


再度問う、なぜスピノザなのか

ある人と超心理学について話している時、なぜスピノザについて書いていると思うのかと訊いてきた

もし哲学者との会話であれば、彼の独自の哲学のためとか、デカルト(1596-1650)の自由意志や心身二元論についての考えからの逸脱を挙げたかもしれない

文学理論家との対話であれば、読者と登場人物との会話を小説にしたかったからと答えただろう

しかし、相手はすでに真理を知っている人物だったので、その答えを知らないと正直に言わなければならないと感じたのである

すると、その人物は「ゴーチェ、あなたは孤独だったのですね、なぜですか」と返したのである

ウラジミール・ナボコフ(1899-1977)は、「作家は孤独の中で生まれる」と言っている

彼は孤独の中に生まれただけではなく、孤独の中に存在したのである

書くこと自体が孤独の作業である

あるいはおそらく、孤独を乗り越える必要性である

それは会話の必要性を意味している

それ故、これらの会話があり、『スピノザとの会話』がある

それがスピノザだった理由である


(了)






2022年6月13日月曜日

大竹伸朗、再び















昨日、予約注文していた『パリ心景』がアマゾンから届いたという連絡が入った

アマゾンも予定より10日ほど早く売りに出したのだろうか

ということは、すでに書店にも出ているものと思われる

こうなると、もうわたしの手を離れてしまったという感覚である

あとは、深く静かに浸透することを願うばかりである

改めてサイトに行ってみると、すぐに配送されることになっており、冒頭部分が試し読みできるようになっている

一度、訪問していただければ幸いである


さて数日前のこと

寝る前にテレビを付けると、記憶を刺激する人物の特集が流れていたことを思い出した

 大竹伸朗(1955- )

今その番組を調べたところ、21世紀のBUG男 画家・大竹伸朗であった

このサイトでも分かるように、今週は1日おきに放送されるようである

まさに、大竹伸朗週間

一体、どうなっているのだろうか


実はこの方を発見したのは新日曜美術館で、もう16年前のことになる

 大竹伸朗という芸術家 SHINRO OHTAKE(2006.11.28)

この記事にあるように、その考え方、やり方がわたしのものと余りにも重なっていることに驚いたのである

さらに、その制作過程を見ていて、それまで抵抗があった(あるいは、よく分からなかった)抽象芸術が身近になるという経験をしている

結論から言えば、目の前にあるものを「美しい」(自分にとって価値ある)と思えるかどうかだけがポイントだということに気付いたのである

全くの偶然に任せて(自分の意志から離れて)制作されるのだが、自分の作品としてよいと判断した時に芸術家はその手を止める

それを見る側も同じように判断すればよいのである

最初に全体のアイディアがあるわけでもなく、出来上がる時がいつなのかも全く分からないという

つまり、何か言いたいことがあってある形を創るのではないのである

従って、その意図が分からないのは当たり前である

そして、制作の終わりも自分が決めるのではなく、どこからかやって来るのである


今から8年前にも日曜美術館で取り上げられていたことが分かった

 大晦日はブリュッセル(2014.12.31)

こうしてみると、8年おきにわたしの前に顔を出してくる方のようだ





2022年6月12日日曜日

「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」(3)




























目覚めた時がひと日にの始まりだが、今朝は早かった

庭に目をやると、草木が朝露に輝き、生き生きとしている

先日蕾だった花もいくつか開いていて、美しい

気持ちの良いひと日の始まりとなった

さて今日も、スピノザを続けたい



最初、わたしはスピノザの哲学を理解できないだろうと思った

今は、おそらく完全にはできなかったと言える

そしてそれは、そんなに悪いことではない

しかし最初は、わたしがスピノザ哲学の基本的な前提を間違って解釈し、月を狙った小説が太陽を撃つことになるのではないか心配したのである

わたしの恐れは、ピエール・マシュレ(1938- )の「スピノザとの出会い」というテクストを読むまで続いた

この論文は、スピノザの最高の権威であるドゥルーズ(1925-1995)が、いくつかの解釈の誤りを犯していることを主張している

わたしは『スピノザと表現の問題』とスピノザと表現の問題』を読み直し、啓発されたのである

ドゥルーズの目的は、絶対的真理—―それは存在しないのだが――に到達することではなく、戯れだったのである

彼はスピノザ哲学を忠実に解釈しようとしていない

彼にとって重要だったのは、真の哲学者に相応しく理性を介してスピノザを経験したことを示すことだったのである

その時、わたしは自由に振る舞う(戯れる)ことができるようになった

兎に角、ドゥルーズの解釈は参考になり、わたしは2つの右手(スピノザとわたし)と1つの左手(ドゥルーズ)で書いていると感じることがあった



ある本の中で、1621年にロンドンで刊行されたロバート・バートン(1577-1640)の『メランコリーの解剖学』に出会った

それから、わたしがテーズで扱った概念の一つは、ジュリア・クリステヴァ(1941- )の『黒い太陽― 抑鬱とメランコリー』(1987)の中でメランコリーとされていた

この他、ショシャナ・フェルマンリチャード・ローティ(1931-2007)、ジャスミナ・ルキックミハイル・バフチン(1895-1975)、エリザベス・グロス(1952- )、ジュディス・バトラー(1956- )、パトリシア・ウォー(1956- )、ミーク・バル(1946- )、シュロミス・リモン・ケナンスーザン・ランサーなどの著作も「スピノザとの会話」の迷宮を歩く際の標識となった










2022年6月11日土曜日

『免疫学者のパリ心景』がもう書店に?



























先ほど、新宿の紀伊國屋さんから『パリ心景』についてのツイートが届き、驚いた

連絡をいただいた紀伊國屋さんには感謝したい

ところで、これはもう書店に並んでいるということなのだろうか

もしそうならば、アマゾンより10日ほど早いことになる

興味をお持ちの方には、一度手に取っていただければ幸いである

どこかに関係することが出てくること請け合いである

少なくとも、そう願っている

ツイートを以下に貼り付けておきたい



















2022年6月10日金曜日

「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」(2)

























ドゥルーズ(1925-1995)はスピノザ(1632-1677)の『エチカ』は2度書かれたと信じていた

もしそれが本当で、ドゥルーズが言うように理性と感情が入り組んでいるとすれば、この本の著者にも分裂があったと想像される

わたしが小説を2つのセクションに分ける決断をしたのは、スピノザの魂にある分裂のためである

この小説の最初のセクションでは「考える」スピノザ(homo intellectualis)を描き、次のセクションでは「感じる」スピノザ(homo sentimentalis)を扱っている

スピノザの師フランシスコ・ファン・デン・エンデン(1602-1674)の娘クララ・マリアとヨハネス・カセアリウス(1642-1677)という人物も対比的である

クララ・マリアと永遠VS短さ、ヨハネスと無限VS有限という関連

最後もクララ・マリアは永遠の都ローマで亡くなり、ヨハネスは地の果、無限への入口のようなインドはマラバールで亡くなっている



全ての作家は美のために書いているとわたしは信じている

モティベーションはそれぞれだろうが、美しい本を書きたいと願っている

スピノザの哲学は倫理に重点が置かれ、美学を無視していると批判されてきた

彼の哲学には美が欠けており、不毛で退屈だと学者は言うのである

おそらく、そうだろう

しかしそれにも拘らず、彼の哲学は美――存在の美――を目指している

人々が適切に考え、きちんと(=幸福に、平和に、十全に)生きることを教えることを願った

スピノザは彼らの生を無限で永遠の美に変えることができると信じていたとわたしは確信している

それは、彼の日常が破門、住所不定、貧困、孤独の中にあり、美が欠けていたからかもしれない

わたしが本書を書いている時、彼の孤独に美を与えたいと願っていた

美しい本を書きたいと思ったのである

この本は「知性の時代」には軽蔑されるロマン主義の最も遅れてきた作品かもしれない

ここでは理性に対立するものとして、感情的なものが意図的に提示されている








2022年6月9日木曜日

「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」(1)
































今朝は庭に出て、咲きかかっている花を写真に収めた

肉眼では分からなかったが、写真を見るとまるでソフトクリームのように見えるではないか

庭に降りる階段には10センチくらいの毛虫がいて、一瞬びっくりした

日向ぼっこでもしているのだろうか、全く動かない

気持ちよさそうに、と形容したくなるような景色であった



さてここで、先日見つけたスピノザ(1632-1677)の小説を少し読むことにしたい

今回は、最後の「エピローグに代えて:なぜスピノザなのか」から始めたい


全ての作家は、なぜ書くのか、なぜあるテーマを書くことにしたのかの解を求めている

それでは、なぜスピノザについて書くことにしたのか

この問いについて、それらしい説明をしてみたい


中学校の哲学の授業で初めてスピノザについて聞いた時、自分は彼について書くだろうと思った

その時の興味は彼の哲学にあったのではなく、ユダヤ人コミュニティから排斥され、レンズを磨いて生活した孤独な賢者に向かっていたのである

その後長く忘れていたが、2年前に彼について書くという考えが再び蘇ってきた

それから当時のノートや伝記を含めた多くの本を読み始めた

その中には、スピノザの最初の伝記作家とされるジャン・マクシミリアン・ルーカス(1636/46-1697)のようなスピノザの同時代人や、スティーブン・ナドラー(1958- )などの我々の同時代人の伝記()が含まれ、彼の哲学についての優先順位は低かった


ジル・ドゥルーズ(1925-1995)はスピノザ哲学の最良の解釈者だと思うが、『スピノザと表現の問題』の英訳者への手紙の中で、次のように書いている
「スピノザの中でわたしを最も惹き付けるものは彼の『実体』ではなく、有限な様態の構成である」
確かにこれは、哲学者だけではなく、小説家の興味を刺激するものである

実体や永遠なるものではなく、限定され有限な様態、すなわち我々自身や我々の周りにあるすべてのものである

ドゥルーズは別の本『スピノザ:実践哲学』で、次のように書いている
「『エチカ』は二度書かれた本である。一度目は定義、定理、証明、系の連続的な流れの中で、もう一度目は不連続で激しい破線の備考の中で。最初のバージョンの下にある二つ目のバージョンは怒りのすべてを表現し、告発と解放の実践的課題を説明している」






2022年6月8日水曜日

悠々自適同士の会食





昨夜は北大の病理学教室を昨年退職された笠原先生との会食があった

こういうことは今までなかったかと思うが、知らないうちに日程が決まっていた

お話を伺うと、最後は副学長という要職にあったが、なかなか大変な状況の中で仕事に当たられていたようである

先日も似たような話を聞いたばかりだったので、最近の大学はなかなか大変だというのが率直な感想であった

教養高くあるべき人たちにも深刻な変化が起こっているようである

それは時代の反映と言えるものなのだろうか

わたしの場合、早くに天空に上ってしまったので、なかなか理解できないところではあるのだが、 

いずれにせよ、現在は晴耕雨読、悠々自適の日常とのことで、ご同慶の至りである


振り返れば、アメリカでの学会参加の折ではなかったかと思うが、笠原先生がマイアミ大学に移られた頃に(もう30年程前になるか)訪問したことがある

セミナーを終えた後、マイアミから車でキーウェストまで、海の上を行くようにセブンマイル・ブリッジを通って案内していただいたことが忘れられない

その後、コマーシャルで同じ風景を見た記憶がある

キーウェストでヘミングウェイの家やアメリカ最南端のポイントからキューバを望んだことも懐かしく思い出した

また機会を見てお話を伺いたいものである











2022年6月7日火曜日

目に見えないものを見るトレーニング





午前中、本屋に顔を出す

予期せぬ出会いを期待して

今日は木田元編『一日一文』が目に付いた

この手の本を読まなくなって久しい

自分が原典に当たる過程でその文章に出会うのでなければ、インパクトが薄いからだ

間に一人入っているため、自分が発見したという感覚が生まれず、中に入ってこないからだろう

ただ今日読んだところ、引用されている人と言葉が自分の中にあるものと重なり、いい感じを持った

編者が哲学者であるために、選ぶ対象(嗜好)に共通点があるのかもしれない

纏まった時間を取れない時、ちょっとした移動の時などの思索の種として使えそうである


カフェで1時間ほど読んでから、植物園に向かった

1時間以上の滞在はお断りとのことだったため

それから2時間ほど、緑の中をゆっくり散策

以前であれば少しは盛り上がったのだろうが、今日は駄目であった


帰りに、こんな考えが巡っていた

見尽くしたとはとても言えないのだが、ここに来て目に見えるものに対する感受性が落ちているのではないか

そして、これからは目に見えないものにしか感じなくなるのではないか

もしそうであれば、無理に目新しいもの、珍しいものを探す必要がなくなる

マルクス・アウレリウスではないが、自分の内に向かうしかないのかもしれない

そう言えば、この言葉も『一日一文』にあった

そして結果論だが、これまでの10年ほどを、目に見えないものを見るトレーニングをしていたようにも見えてくる

もしそうだとしたら、何という適切で幸運な歩みだったのだろうか

これからの退屈になりがちな生活が、発見に満ちたものになる可能性があるからだ










2022年6月6日月曜日

『スピノザとの会話』を読み始める

































今朝、手持ち無沙汰にしている時、この本が目に入った

マケドニアの作家ゴーチェ・スミレフスキーによる Conversation with Spinoza という小説

マケドニア語からの英訳本で、2006年に刊行されている

なぜか刊行された年に手に入れている

最初のブログを見ると、2005年にはこの哲学者に興味を持っていたことが分かった

当時の値段は2,000円弱だったが、今では18万を超えている

因みにアメリカのアマゾンでは$584、フランスでは842€となっていて、驚きである

このように長い間手元にはあったのだが、なかなか手に取ることにはならなかった

少し心に余裕ができてきたのだろう、読んでみる気になった


読み始めると、オランダの描写が出て来て、10年前の心地よい旅の記憶が蘇ってきた

パリ心景』でも取り上げた「スピノザへの旅」とも絡んできそうである

レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」についての説明があると、実際に見た時の記憶が刺激されるということも起こっている

スピノザとオランダを呼び起こすノスタルジックな旅になりそうな予感がしている

もう少し読み進もうかという気分になってきた



ところで、おそらく日本では無名だと思われる作者のビデオが見つかった

年配の作家ではないかと想像していたが、まだお若い

以下に貼り付けておきたい














2022年6月5日日曜日

人生に気を許さない



























先日、何気なく浮かんできた言葉が今日のタイトルとなった

人生を今、実際に歩んでいるという感覚を持ちながら生きること

それを旅に出ていることと同義に解釈すれば、常に注意していなければならないことになる

生きることが長くなると、どうしても慣れが生じる

それを許さないことと解釈してもよいだろう

それは「日々新た」を維持する秘訣にもなるだろう

最後まで気を許さないように行(生)きたいものである

そんな考えが浮かんできた週末の朝である







2022年6月3日金曜日

静かに広がることを


























今日も追加しておきたい

大学教員をされている方から、学生にも耳を傾けてほしいことが『パリ心景』にはありそうなので、大学図書館に推薦しておきます、というメッセージが届いた

若い方の目に触れる機会が増えるとすれば、嬉しい限りである

このような流れが広まるとすれば、わたしが重要だと考えている「普及」にも貢献することになる

出版社の方でも図書館関係に働きかけるようである

良い結果に繋がることを願いたい



それから、やはり『パリ心景』を注文されたという学生オケの後輩から新しいトランペット奏者を紹介された


一時期、女性トランぺッターが何人か出てきたことがあったが、今回はベネズエラ出身の男性トランぺッター

以下にハイドンの協奏曲を張り付けておきたい














2022年6月2日木曜日

『免疫学者のパリ心景』の読まれ方























昨日、『免疫学者のパリ心景』の案内を出した後にいろいろな反応が戻ってきた

まず多かったのが、表紙が美しいということ

昨日も触れたが、コメントを読みながら、わたしの頭になかったような解釈が可能であるということを感じていた

自分の中での一義的なテーマは哲学と科学の関係だと考えていたが、実はいろいろな角度から読まれる可能性を秘めていることに気付いたのである

例えば、「希望の書」に込めた意味は、この世界の、そして人類の希望になるという壮大だが漠然としたものだった

しかし、昨日のコメントを読み、それは個人レベルでのより具体的な希望にもなり得ることを知った

それは同時に、退職後の生き方という視点を含むものであった

「医学のあゆみ」のエッセイシリーズでも取り上げた「人生の時間割」に関連するものである
医学のあゆみ (2014.6.14) 249 (11): 1211-1215, 2014

あるいは、海外での長期生活をどのように「使った」のかに興味を示す方もいる

また、フランスに関係する仕事をされてきた方は、何も知らなかった科学者が一体どのようなフランス遍歴をしたのかに興味が湧くという

フランス物を読むようになり、フランス人について不思議な感じを抱くようになったという方は、その謎を解くヒントはないかという視点から読みたいという

勿論、科学と哲学の視点からいろいろな考えを持たれる方もいることだろう

ということで、本書は多面体の構造を持っている可能性がありそうだ


今日は昨日のフォローアップをすることになった















2022年6月1日水曜日

今日から解禁なのか、あるいは言葉の持つ力

























ちらっとしか見ていないので分からないが、今日から日仏の往復の制限がなくなったのだろうか

こんなに一瞬で変わるとは思ってもいなかった

驚きである

こちらはそもそも不要不急なので、細かい制限を調べるところまでは行っていないのだが、、

ただ、そういう可能性がそこにあるというだけで、全く違う精神状態になるから不思議だ

どこかに開かれた窓という意味では「希望」に繋がるのかもしれない



ところで今朝、新著『免疫学者のパリ心景』の案内に「希望の書」という形容を付けて送った

返信の中に「希望の書」という言葉を見て、一気に読みたい気分になったという言葉があった

こんな小さな言葉が行動を促すことがあるのだ

そう言えば、先月は帯の一文を見てシェリングを読むことにしたのだった

帯と言えば、『パリ心景』の帯にある「知のエピキュリアン」という言葉に反応した方もいた

『パリ心景』が言葉の持つ力に溢れる本であることを願うばかりである



「希望の書」について、ツイッターの方に以下のようなコメントが届いた
「まさに希望の書ですね。定年退職してから、海外留学して、科学を根元的に考えるなんて、憧れであり、挑戦であり、希望そのものだと思います」

「希望」にこのような意味を見出す方がいることは、発見であった

『パリ心景』はいろいろな読み方ができる本になりそうだという予感がしている