2022年9月10日土曜日
コリングウッドによる自然(8): ピタゴラス学派(1)
2022年9月9日金曜日
コリングウッドによる自然(7): 「自然」という言葉の意味
2022年9月8日木曜日
コリングウッドによる自然(6): イオニア学派の限界
2022年9月7日水曜日
コリングウッドによる自然(6): イオニア学派(3)アナクシメネス
2022年9月6日火曜日
コリングウッドによる自然(5): イオニア学派(2)アナクシマンドロス
2022年9月5日月曜日
コリングウッドによる自然(4): イオニア学派(1)タレス
2022年9月4日日曜日
コリングウッドからパワーポイントの機能を再考する
もう10年も前になることに、いつものように驚いている
「医学のあゆみ」のエッセイで、自然界で起こっていることをパワーポイント(PPT)で示すことの問題について考えたことがある
医学のあゆみ(2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012
それを思い出したのは、コリングウッド(1889-1943)がルネサンス期の自然観について書いているのを読んだ時である
この時期の自然観は、自然の背後には創造主による不変の法則があり、それが自然を動かしているというもの
自然の動きは科学では捉えられないが、不変の法則を捉えることが科学の対象となった
それが現代に入ると逆転したというような議論であった
ここでは、自然現象と法則を別の領域に属するものとして見ているところに注目した
上記エッセイでは、PPTで示した模式図では自然界で起こっていることを理解したことにはならないことを指摘した
PPTでは概念図のようなものを示すことが多いので、生身の自然がどのように振る舞っているのかは見えてこない
しかし、自然現象と法則を別物として考えるならば、この状況は確かに自然現象の実際を示していないかもしれない
だが、そこに見られる規則性を示すには十分に役割を果たしていると言えないだろうか
この立場から見れば、現代の自然学は現象そのものよりは、そこにある規則性を明らかにしようとしていることになる
これは、コリングウッドによる「現代の自然観」とは異なっている
ただ、その状況は科学の領域によっても変わってくるのかもしれないが、、
2022年9月3日土曜日
コリングウッドによる「現代の自然観」の帰結
2022年9月2日金曜日
コリングウッドによるヨーロッパにおける自然観の変遷
2022年9月1日木曜日
R・G・コリングウッドによる科学と哲学
自然事象の個別的研究は、ふつう自然科学と、あるいは簡単に略して単に科学と呼ばれている。一方、原理への反省は、自然科学に関する反省であれ、思考あるいは行動といった他の部門の反省であれ、一般に哲学と名づけられている。・・・哲学に反省の題材を与えるためにはまず自然科学が生じなければならないが、科学と哲学は非常に密接な関係をもっているため、自然科学は哲学が始まらなければ長く続きえない。・・・哲学は、科学者が研究する上の根拠としていた原理に関する、科学者の新しい意識から生まれた、新しい確実性と整合性を自然科学の前途に与えてゆく過程を通じて、科学そのものから成長してくるものなのである。
それゆえ、自然科学のことはもっぱら科学者と呼ばれる人々に委せ、哲学のことは哲学者と呼ばれる連中に委せておけばよいのだということは成り立たない。自分の研究の原理について一度も反省したことのない者は、それに立ち向かう大人としての態度を全うしえないといえよう。自分の科学に一度として哲学的省察を試みたことのない科学者は、生涯、二流の、猿まねの、下積みの科学者の域を脱することはできないであろう。またある種の体験を経たことのない者はそのことを反省する術もない。自然科学を研究したり、それに従事したことのない哲学者は、それについて哲学することは不可能であり、敢えてそうするものは世の失笑をかうだけであろう。
十九世紀以前には、少なくともかなり優秀でかつ著名な科学者たちはつねにある程度自分の科学に関して哲学的省察を加えてきたものだった。そのことはかれらの著作が証明している。しかもかれらは自然科学を主要な任務とみなしているのだから、当然これらの著作が証明する以上に広汎な哲学的活動を行っていたと考えてもよいだろう。 十九世紀に入ってから、自然科学者と哲学者を二つの専門集団に分ける風潮がだんだん大きくなった。一方では他方の研究を少しも顧ることなく、ほとんど共感を寄せなくなってしまった。これは双方に害をなす悪しき風潮であり、双方ともどもその風潮が終わるのを見とどけ、それが作りだした誤解の裂け目に何とか橋をかけたいと願っている。
2022年8月31日水曜日
8月を振り返って
2022年8月29日月曜日
「世界」に開くということ
2022年8月28日日曜日
永遠に身を置いて、何をやろうとしているのか
2022年8月27日土曜日
「どのように」から「何を」への移行?
2022年8月26日金曜日
リマインダー: 秋のカフェとフォーラムのご案内
サイファイ研究所 ISHE の秋の催し物を改めて紹介いたします
日時: 2022年9月28日(水)18:00~20:30
場所: 恵比寿カルフール B会議室
テーマ: アラン・バディウの『幸福論』を読む
テクスト: Alain Badiou, Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015)
日時: 2022年10月5日(水)18:00~20:00
場所: 恵比寿カルフール B会議室
テーマ: パスツールのやったことを振り返る
パスツール(1822-1895)の生誕200年に当たり、意外に知らないその足跡を振り返ることにしました
科学での仕事を振り返った後に哲学的な側面にも触れることができればと考えています
2022年8月25日木曜日
ゲーテの言葉から(52)
2022年8月24日水曜日
ゲーテの言葉から(51)
2022年8月23日火曜日
ゲーテの言葉から(50)
Mirabeau (1749-1791)
1832.2.17(金)
「フランス人はミラボー(1749-1791)を自分たちのヘラクレスだとみているが、それはたしかに正しいことだ。しかしながら彼らは、巨像も個々の部分から作られているのだということ、それからまた、古代のヘラクレスにしても、一つの集合体であって、彼自身と他の人たちの行為の偉大な代表者にすぎないのだということを忘れているね」
「しかし、われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようはものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ。私は、自身がいかなる大家にも師事しないことを、むしろすべてが自分自身の天才のおかげだと自慢している芸術家たちを知っている。愚かな連中さ。それがどこででも通ると思っている。自己の愚かさも知らず、世界はまったく自分たちに迫らず、自分たちのなかから何も引き出さないと思いこんでいる」
「そもそも、外の世界を自分たちの方へ引きよせ、自分たちのより高次な目的に利用できる力と傾向がないとすれば、いったいわれわれの長所とはなんだろうか。自分自身のことを語ることにはなるが、自分で感じたことを控えめにいうのならよいだろう。私がこの長い人生において、ともあれ自慢できるようないろいろなことをやり、また成功した、というのも事実だ。しかしわたしは正直のところ、観たり、聴いたり、区別したり、選択したり、またその観たもの、聴いたものに多少の魂をふきこみ、少しは技巧に再現する能力と性向をもちあわせたほかに、これこそ私のものだといえるものがあったろうかな。私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ。愚かな人も、頭のよい人も、物わかりのよい人も、偏狭な人も、それから子どもや青年や老人もいた。すべての人がわたしに、どんなことを考えていたか、どんなふうに生き、働き、そしてどんな体験をへてきたか、を話してくれた。そして私がなしたことといえば、それを択え、他人が私のために播いてくれた種を刈りとるというだけのことだったのさ」
「けっきょくのところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ。それゆえ、ミラボーが外の世界とその力をできるかぎり利用したとしても、それはまったく当然のことなのだ。彼には人の才能を見抜く天賦の能力があったので、その者は彼の強力な本性のデーモンに惹きつけられるように感じ、彼と彼の指図に喜んで身をゆだねたのだ。そのようにして彼は、多数の卓越した力ある人たちにとりかこまれ、彼らを自らの炎で焼きつらぬき、自らの高次な目的のために働かせたのだな。そうして彼が他人と一緒に、また他人の力によって活動することを心得ていたという、まさにそのことが彼の天才であり、彼の独創性であり、また彼の偉大なところだったのだ」
(山下肇訳)
2022年8月22日月曜日
ゲーテの言葉から(49)
2022年8月21日日曜日
ゲーテの言葉から(48)
Georges Cuvier (1769-1832)
1831.6.20(月)
「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直観から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然のふしぎな作用や支配について予感や認識をえるとすれば、彼にあたえられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔離したものを表現するにはとても十分でないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できねばならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのとき、ほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」
「最近、キュヴィエ(1769-1832)とジョフロア・ド・サン・ティレール(1772-1844)との論争のとき、私もそう思ったよ。ジョフロア・ド・サン・ティレールはたしかに自然の精神的な摂理と創造についてりっぱな考え方を持っている人だ。しかし彼のフランス語は、慣習的な表現を用いなければならないときには、まったく彼の役に立たなかったな。しかも、たんにふしぎな精神的な場合だけでなく、完全に目にみえる純具体的な対象や状況の場合でもそうなのだ。彼がある有機体のそれぞれの部分を表現しようとすれば、そのためには物質(マテリアール)という言葉以外にはないので、それで例えば、同質の部分が腕の有機的な全体を構成している骨というものを表現するにも、家をつくる石とか、角材とか、板などと同じ段階にならべて表現されているという次第だ」
「同じようなことだが、フランス人は創造物について語るとき、組立て(コンポジシオン)という表現をつかうが、これはやはり不適当だね。むろん、一個ずつつくられた機械の個々の部分を組み立ててならそういう対象をコンポジシオンとはいえようが、個々の部分がそれぞれに生命をもって形成され、共通の精神によってつらぬかれた有機的全体の各部分を意味しているなら、そういってはまずいわけだよ」
1831.6.27(月)
「彼(ヴィクトル・ユゴー、1802-1885)はすばらしい才能だ。だが、あの当時の、不幸でロマンティクな傾向に完全にとらわれて、美しいものと同時にあらゆる点でまったく耐えがたいものや、まったく醜悪なものまでも描き出している。最近私は、彼の『ノートルダム・ド・パリ』を読んだが、読んでいて苦痛になり、途中で何度やめようかと思ったことだろう。これは今まで書かれたものでは最もいまわしい本だね。また、その苦痛を耐えとおしても、人間の性質や性格が真実に描き出されているのを感じて、その苦痛を償えるだけのよろこびもない。むしろあの本には自然らしいところがないし、なんの真実もない。彼が描き出している、いわゆる行動的な人物は生きた肉と血をもった人間ではなく、あわれな木製の人形なのだ。その人形どもを彼は好き勝手にあやつり、自分の意図した効果に応じていろいろなしかめ面やグロテスクな顔つきをさせたりしている。それにしてもああいった本が書かれ、出版されるというだけではなく、まったく嫌がられもせずおもしろがられているのは、なんという時代なのだろうか!」
(山下肇訳)



















