2022年9月10日土曜日

コリングウッドによる自然(8): ピタゴラス学派(1)






























 Pythagoras of Samos (c.570 BC– c.495 BC)




今日は何という快晴であろうか

朝の瞑想の時間はまさに天国であった

夜は中秋の名月を仰ぎ見ることができるという

わたしのカメラでは綺麗に撮ることができないのは残念だが、この目で味わうことにしたい

ところでこの季節、わたしにとってはクリスマスソングを聴く最良の時期になって久しい

今季初めてたっぷりと味わうことができた

さて、コリングウッド(1889-1943)による自然だが、今日からピタゴラス学派に入る



ピタゴラスはギリシア思想史上最も重要な人物の一人であるが、最も謎めいた人物の一人でもある

一つだけ時期のはっきりしたものがある

それは、紀元前532年(?)に始まる独裁者ポリュクラテスに反抗して生地サモスを離れ、南イタリアに移住したことである

ある伝承によれば、カラブリアのクロトンに落ち着き、生活上の厳格な戒律を持つ教団を創設した

それは、宗教的、哲学的、科学的機能を持つものでもあった

サモスで青春時代を過ごしたピタゴラスは、タレス(c.624 BC-c.546 BC)が死ぬ前には生まれていたはずである

そして、アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)、アナクシメネス(585 BC-525 BC)とは重なっていた

従って、直接の教えを受けていないとしても、イオニアの自然学の影響は受けていたものと想像される


ピタゴラス学派の世界像は、アナクシメネス同様、蒸気から成る無際限な3次元の大海に支えられ、そこから滋養を吸収しているとした

それは蒸気の円環運動の中心で、そこに球状の大地がある

この円環運動には、対立物を発生・分離させる働きがあるとした

ピタゴラスは、そこからすべてのものが構成されるという第一物質を問うことの問題点に気付いていた可能性が高い

その枠組みでは、具体的な事物に似たものを想定することができず、固有の性格を欠くものでなければならない

アナクシマンドロスが第一物質を「アペイロン」(無限定で無際限なもの)としたように

しかし、第一物質を固有の性格を持たないとすれば、アナクシメネスのように、希薄化・濃縮化により事物が生じるとしなければならなくなる


ピタゴラスは、宇宙論と幾何学の成果との間にある関係があり得ることに気が付いた

幾何学上の図形は質的な差を持っているが、すべては空間的図形なので質料的な特殊性はない

ただ、形相的な特殊性を持つに過ぎない

このことから、自然における質的相違は、幾何学的構造の相違によると考えたのである

タレスによれば、磁石も虫も水であるが、なぜこのようなような違いが生まれるのかの説明できなかった

しかし、自然の事物たらしめるものを始原物質に求めることなく、幾何学的構造すなわち形相に求めれば説明可能になる

ピタゴラスによる革命は、事物の行動様式を、構成される実体との関わりで説明するのを放棄し、形相に関係させて説明するようにした

形相とは事物の構造であり、数学的に処理することが可能になった

つまり、イオニア学派は不可知的な原理に訴えて世界を説明しようとしたのに対し、ピタゴラスは数学的真理に頼ったのである

これにより、明晰かつ判明な認識が可能になった










2022年9月9日金曜日

コリングウッドによる自然(7): 「自然」という言葉の意味
































イオニアの自然学者は、「自然とは何か」という問いを「事物は何から構成されているか」という問いに置換した

現代のヨーロッパ人であれば、「どんなものが自然界に存在するか」という問いを立て、博物学的に記述するだろう

現代では、「自然」という言葉は一般的に自然的事物の総体を意味するからである

と同時に、この言葉には根源的原因という意味での「原理」「本性」という別の意味がある

それは、その主があるがままの行動様式を採らせる何らかの力を意味している

そしてそれは、その主に内在する何かで、外に在るとすれば「自然」ではなく「強制」になる

ギリシア語の「ピュシス」という言葉には、この2つの意味が含まれている

初期には、常に内にある何かで行動様式の根源的原因という意味であったが、後に「世界」を意味する「コスモス」と共通する自然的事物の全体という意味が出てきた

紀元前5世紀後半のシケリア人であるゴルギアス(483 BC-375 BC)は、後者の意味で「フュシス」を使っている

すでに見てきたように、イオニアの自然哲学者たちは、この言葉を常に第1の意味で使っている

ギリシア語で使われる様々な別の意味は、この2つの意味から派生したものとして説明できるだろう










2022年9月8日木曜日

コリングウッドによる自然(6): イオニア学派の限界
































イオニア学派は、世界を均質の始原的物質における局部的分化であり、そこで構成されるものは世界を取り巻いていると考えた

タレス(c.624 BC-c.546)は、始原物質と神を区別したが、彼の後継者は両者を同一視した

もし始原物質が斉一なものだとすれば、なぜ他のところではなく、ここに世界が現れたのかの説明が必要になる

それは神によって選択されたのだとしても、その理由が求められる

そこに適切な理由がないとすれば、世界の生成は説明できないというのではなく、イオニアの自然学が間違っていたと言わざるを得ない

つまり、ヨーロッパの自然科学の最初の試みは偉大なものではあったが、失敗に終わったのである

科学の歴史とは、事実の進歩的積み重ねというより、問題の進歩的な明確化である

従って、科学者は自然に関する事実の知識ではなく、自然について解答可能な問題を立てる能力が求められる

イオニアの自然学者は問題の立て方を間違い、解答不能な問いを立ててしまったのである











2022年9月7日水曜日

コリングウッドによる自然(6): イオニア学派(3)アナクシメネス

































C)アナクシメネス(585 BC-525 BC)

アナクシメネスは、師アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)の大地は円筒状であるという説からタレス(c.624 BC-c.546 BC)の大地平坦説に戻った

大地は周囲を取り巻く媒体の密度に支えられて浮かんでおり、それは同時に大地を構成していると考えた

師と同様、これは世界に無限に延長している大きさを持つが、量において無規定とは認めなかった

そしてタレスに戻り、それを一つの自然物と同一視したが、水ではなく、大気(アエール)であるとした

そして、その根源から産み出される様々な自然物は、空気の希薄化、濃縮化の程度によると考えた

例えば、空気が希薄化して火となり、濃縮化して風、雲、水、地、石などになる

彼は師に倣い、始原的実体を神的なものとし、タレスの超越的な神ではなく、内在的な神を想定した

アナクシメネスの場合、神的な空気は世界を構成するばかりではなく、世界を周りから包み密着する包皮のようなものでもあった

これも師と同様、世界の複数性を信じ、それぞれの世界を神と呼んだ

ただ、これらの世界が同時に存在するのではなく、時間的に異なって存在するものであった


このように、アナクシメネスは師の考えと大きく違うものを提示したようには見えない

アナクシマンドロスは、一つの根源的物質からどのようにが様々な様態が生まれるのかという問いに向き合っていた

しかし、その解を得たとは思えない

アナクシメネスは、この問題にアリストテレス(384 BC-322 BC)が「中間項」と呼んだものを提示することにより前進させたとは言えるのではないか

それが上記の希薄化と濃縮化という過程で、それが多様なものを産み出すメカニズムだと考えたのある

このことは、彼の興味が始原的実体の唯一性から様々な自然物の多様性へと移ったこと、すなわちイオニア学派の一員であることを止めたとコリングウッド(1889^1943)は考えている

なぜ多様な自然物が異なる様態で存在するのかという問いは、むしろピタゴラス的自然学に近いという

つまり、アナクシメネスはイオニア学派とピタゴラス学派を結ぶところにいることになる











2022年9月6日火曜日

コリングウッドによる自然(5): イオニア学派(2)アナクシマンドロス

































B)アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)

アナクシマンドロスは、タレス(c.624 BC-c.546 BC)の大地は海に浮かんだ筏のようなものという見方を修正

大地は固形の円筒状の物体で、それが水ではなく未分化なもの、無限なもの(ト・アペイロン)と表現されるものに囲まれているとした

これは第1に、空間的にも時間的にも量においても無限で、あらゆる方向に無際限に広がっている

第2に、それは質においても無規定で、固体とか気体とか液体というような特徴を欠いている

彼はこれを神と同一視し、その中で渦や泡ができると、そこに世界が生じると考えた


師タレスの宇宙論からの離脱は、次のような論理によるものだとコリングウッド(1889-1943)は推論している

あらゆるものが生まれ出る基となるものは、未分化なものでなければならず、そこでこそ創造的な過程が起こる

水はそれに対立する乾いたものを前提としており、この2つはより未分化なものから出てきたと考えるべきではないか


また神学的には、タレスが神の超越性を唱えたのに対し、アナクシマンドロスは内在説を採っているように見える

なぜなら、この世界で渦動が起こるところではどこでも世界が生じるとしたからである

つまり、世界自体が創造主、神となる

しかし、この世界は広さにおいても、生命の持続においても限界がある

ただ、この自然には創造性があるという見方もあり、ある限界の中で創造的であり、神的である考えることもできる








2022年9月5日月曜日

コリングウッドによる自然(4): イオニア学派(1)タレス


































コリングウッド(1889-1943)の分析だが、一昨日まではイントロで、今日から各論に入る

まずはギリシアの宇宙論で、最初にイオニア学派の自然学が取り上げられる


紀元前7・6世紀のイオニアの哲学者たちは、アリストテレス(384 BC-322 BC)から「ピュシオロゴイ」(physiologoi)と呼ばれた

自然(physis)を語る者という意味である

彼らが自然を語る場合、「事物は何からできているのか」「自然の変化の根源にある実体は何か」と問い直す

このような問いを出すには、彼らの中に予備的な論点が定着していなければならない

コリングウッドは、その論点として次の3つを挙げる


1)「自然の事物」が存在し得るということ

世界には、人間などが産み出す人工物と、自ら生起し存在する「自然の事物」という2種類が存在する

2)「自然の事物」は単一の「自然界」を構成しているということ

これらの2点は如何なる「自然学」にも必須の前提である

3)あらゆる「自然の事物」に共通するのは、それらが単一の実体(質料)からできているということ

これは、イオニア自然学に特徴的な前提であった

ミレトス学派とは、その単一の実体とは何かを考察した人たちであった

以下、この学派を代表する人たちを見ていきたい


A)タレス(c.624 BC-c.546 BC)

この学派の創始者とされる彼は、この世界は「水」からできていると考えた

著作を残していないので、なぜそう考えたのかは分からない

ただ、アリストテレスは2つの推測をしている

第1は、すべての有機体には湿気が必要であること

第2は、すべての動物の生命は精液から始まること

このことから、タレスは自然界を一つの有機体、動物と考えていたことが分かる

他の伝承によれば、その有機体、動物には魂が存在すると見做していたという

木や石も水から出来ている有機体で、大地は水に浮いており、そこから養分を取り入れ再生すると考えていた

さらに別の伝承によれば、彼は世界が超越的な神によって創られた(ポイエーマ・テウー)と述べたという

タレスの世界は、それ自身の目的に沿うように動いている宇宙大の動物のようなものであった

これは、自然界は神がその目的に沿うように作った宇宙大の機械であるとするルネサンスの自然観とは異なっている










2022年9月4日日曜日

コリングウッドからパワーポイントの機能を再考する



















もう10年も前になることに、いつものように驚いている

「医学のあゆみ」のエッセイで、自然界で起こっていることをパワーポイント(PPT)で示すことの問題について考えたことがある

フランスの大学で哲学教育を受け、文化に根差すということを考える

医学のあゆみ(2012.5.12)241 (6): 486-490, 2012


それを思い出したのは、コリングウッド(1889-1943)がルネサンス期の自然観について書いているのを読んだ時である

この時期の自然観は、自然の背後には創造主による不変の法則があり、それが自然を動かしているというもの

自然の動きは科学では捉えられないが、不変の法則を捉えることが科学の対象となった

それが現代に入ると逆転したというような議論であった


ここでは、自然現象と法則を別の領域に属するものとして見ているところに注目した

上記エッセイでは、PPTで示した模式図では自然界で起こっていることを理解したことにはならないことを指摘した

PPTでは概念図のようなものを示すことが多いので、生身の自然がどのように振る舞っているのかは見えてこない

しかし、自然現象と法則を別物として考えるならば、この状況は確かに自然現象の実際を示していないかもしれない

だが、そこに見られる規則性を示すには十分に役割を果たしていると言えないだろうか

この立場から見れば、現代の自然学は現象そのものよりは、そこにある規則性を明らかにしようとしていることになる

これは、コリングウッドによる「現代の自然観」とは異なっている

ただ、その状況は科学の領域によっても変わってくるのかもしれないが、、






2022年9月3日土曜日

コリングウッドによる「現代の自然観」の帰結






















歴史とのアナロジーから生まれた「現代の自然観」の特徴を列挙しておきたい


1)ギリシアにおいて、自然の変化は根本的に循環的であるとされた

しかし現代においては、歴史が2度と繰り返さないように、変化は循環的ではなく前進的である

2)自然は機械ではない

ルネサンス期に自然は機会であると考えられたが、進化という概念を導入したため、機械とはなり得なくなった

進化するものには変化が組み込まれており、機械は完成され閉じたものだからである

3)機械論的自然観が追放した目的論を自然科学に再導入することになった

機械論に従えば、「目的因」が現れるのは機械の創造者との関係を論じる時だけで、それは排除されなければならない

進化論的自然科学にとって、自然における一切のものは、発展の過程を維持しようと努めている

そこに向けて乗り出しているのである

4)実体は機能に解消される

機械論的自然科学においては、構造と機能は別物であり、機能の前に構造がなければならない

しかし、歴史における認識においては、構造だけを語っても意味を成さない

あるいは、構造は機能と複合的に構成されている

進化論的自然科学においても同様に、構造は機能へと解消されることになった

5)極微空間と極微時間

構造の機能への解消は、自然科学に大きな変化を齎した

① 自然物は、ある種の自然的機能に解消される

② これらの機能は運動だと考えられている

③ あらゆる運動は、空間と時間をとる


この中の議論で興味深かったのは、どのような空間と時間を採用するのかによって、観察されるものが異なってくるということ

これは歴史にも科学にも当て嵌まる当たり前のことだが、しばしば忘れられている

科学は人間がやっているので、その観察結果は人間中心的になる

生きている空間も時間も異なる他の生物は、全く違う世界を見ている可能性が高い

また、人間が同じ対象を扱っても、どのような時間と空間にその目を置くのかによって見え方が異なってくる

その点で言えば、現代は極めて限られた時間と空間でしかものを見なくなっている

歴史的近視眼と言われるものだ

それは、考える時間も短いので記憶にも残らず、反省材料にもなり得ず消えていく可能性がある









2022年9月2日金曜日

コリングウッドによるヨーロッパにおける自然観の変遷





























Bernardino Telesio (1509–1588)




コリングウッド(1889-1943)によれば、ヨーロッパ思想史における宇宙論的思考には3つの発展段階があったという

第1はギリシアの自然観、第2はルネサンスの自然観で、第3が現代の自然観である

これから、それぞれについての分析を聞くことにしたい


まず、ギリシアの自然科学の原理は、自然には精神が浸透しているというものであった

自然は運動する物体の世界で、運動そのものは生気、魂によるが、それと運動の規則性は別物だと考えていた

自然は運動の世界だが、そこには規則性があり、それゆえ、叡智の世界であり、「精神」を持った理性的動物と見ていた


第2段階は、16・17世紀に起こった

これをコリングウッドは、「ルネサンスの自然観」と言っている

コペルニクス(1673-1543)、テレジオ(1509-1588)、ブルーノ(1548-1600)らは、ギリシア以来の自然が有機体であるという考えを否定

自然には叡智も生命も欠いているとした

つまり、自然が自ら理性的に運動することは不可能で、その規則性は外から強制された「自然法則」によると考えた

自然は有機体ではなく、機械になったのである

ルネサンスの思想家も規則性のある自然の中に叡智の表現は見ていたが、それは自然の外に在る創造主の叡智であった

16世紀からの産業革命により夥しい種類の機械が日常に入り、自然を機械として理解しやすくなったのである


第3段階は現代の自然観になる

ギリシアの自然学は大宇宙としての自然と、小宇宙としての人間とのアナロジーによっていた

ルネサンスの自然学は「神」の手仕事としての自然と、人間の手仕事としての機械とのアナロジーによっていた

そして現代の自然観だが、それは科学者が研究する自然界の過程と、歴史家が研究する人間の成せる業の変遷とのアナロジーによっている

コリングウッドは、歴史研究が「過程」「変化」「発展」という概念を根本的範疇として親しまれるようになって初めて、現代の自然観が生まれたと見ている

これらの歴史書(例えば、ヴォルテール『ルイ14世の世紀』)は18世紀中頃に刊行、その後半世紀で「進歩」という概念が生まれ、さらに半世紀後には「進化」という概念に至った

それまでは、絶え間ない動きの中にある自然は科学では捉えられないが、その背後にある「法則」という不変なものは科学の対象になると考えられた

しかし19世紀に入り、歴史学は変化し続ける人間の世界を考察することができるようになり、その背後の不変の法則も存在しないとされるようになった

このようにして、科学も変化する自然を対象として扱うことができ、「変化」や「過程」という歴史的概念が「進化」という名の下に、自然界に対しても適用されたという

個人的には、この結論に至る論理の繋がりがまだ見えていないのだが、後に詳しく論じられるものと期待している













2022年9月1日木曜日

R・G・コリングウッドによる科学と哲学
































以前、イギリスの哲学者による詩と散文、哲学と歴史、科学と哲学などの対比を興味深く読んだ



今回改めて、コリングウッド(1889-1943)の死後、1945年に刊行された書を手に取ることにした

そこに、これから考えていきたいテーマについてのヒントがあるのではないかと思ったからである

冒頭に、特に新しいところはないと思うが、わたしの認識にも通じる科学と哲学についての考えが書かれてあったので控えておきたい

 自然事象の個別的研究は、ふつう自然科学と、あるいは簡単に略して単に科学と呼ばれている。一方、原理への反省は、自然科学に関する反省であれ、思考あるいは行動といった他の部門の反省であれ、一般に哲学と名づけられている。・・・哲学に反省の題材を与えるためにはまず自然科学が生じなければならないが、科学と哲学は非常に密接な関係をもっているため、自然科学は哲学が始まらなければ長く続きえない。・・・哲学は、科学者が研究する上の根拠としていた原理に関する、科学者の新しい意識から生まれた、新しい確実性と整合性を自然科学の前途に与えてゆく過程を通じて、科学そのものから成長してくるものなのである。

 それゆえ、自然科学のことはもっぱら科学者と呼ばれる人々に委せ、哲学のことは哲学者と呼ばれる連中に委せておけばよいのだということは成り立たない。自分の研究の原理について一度も反省したことのない者は、それに立ち向かう大人としての態度を全うしえないといえよう。自分の科学に一度として哲学的省察を試みたことのない科学者は、生涯、二流の、猿まねの、下積みの科学者の域を脱することはできないであろう。またある種の体験を経たことのない者はそのことを反省する術もない。自然科学を研究したり、それに従事したことのない哲学者は、それについて哲学することは不可能であり、敢えてそうするものは世の失笑をかうだけであろう。

 十九世紀以前には、少なくともかなり優秀でかつ著名な科学者たちはつねにある程度自分の科学に関して哲学的省察を加えてきたものだった。そのことはかれらの著作が証明している。しかもかれらは自然科学を主要な任務とみなしているのだから、当然これらの著作が証明する以上に広汎な哲学的活動を行っていたと考えてもよいだろう。 十九世紀に入ってから、自然科学者と哲学者を二つの専門集団に分ける風潮がだんだん大きくなった。一方では他方の研究を少しも顧ることなく、ほとんど共感を寄せなくなってしまった。これは双方に害をなす悪しき風潮であり、双方ともどもその風潮が終わるのを見とどけ、それが作りだした誤解の裂け目に何とか橋をかけたいと願っている。


(平林康之、大沼忠弘訳)












2022年8月31日水曜日

8月を振り返って


























ゆっくりと時は流れている

夏から秋に入りつつある

月初めに考えていたプチ・プロジェには遂に手が付けられなかった

よくあることだが、なぜそうなるのか未だに分からない

時間はたっぷりあるという思い込みが、どこかにあるのだろうか

あるいは単に、のんびりしたいというだけなのか

ということで、今月は以下のようなことを表立ってやっていた



1)6月から読み始めたゲーテの記録を読み終えた

タイムスリップしてゲーテの日常を覗き、その考え方を知るという贅沢な時間であった

そこには示唆に富む人間やものの見方を示す言葉が溢れていた

これは読む前には想像できなかったもので、最後まで読み進むための力となったようだ



2)先月固まった秋のカフェ、フォーラムの準備を始めた

3年振りに再開することになった会だが、時間が空いたので心身を立ち上げるのが大変であった

最初に大きなテーマは決めるのだが、そこでどんな話題を提供するのかは最後まで分からない

その間に思わぬ拡がりに気付くことがある

それを求めて準備しているのかもしれない

現在までに、これまで関係なく在ったものが繋がり、新しい方向性が見えるという嬉しい経験をしている

このような想定外の発見は何ものにも代え難く、これから増えることを願いたい

ただ、いずれの会の全体像もまだ見えていない

最終的に自分でも驚くような内容になることを願うばかりである

先日リマインダーを出したところなので、興味をお持ちの方の参加をお待ちしている














2022年8月29日月曜日

「世界」に開くということ

























「世界」という言葉だが、それは何を指しているのか

いくつかのレベルに分けて考えると、その意味がより明確になる

アラン・バディウ(1937- )は次の5段階に分けて考えている


1)我々の内的世界で、外界の表象や情熱や意見や記憶などで、心理学の対象となる

2)内に閉じたグループを構成する集団世界で、家族や職業や言語、宗教、文化あるいは国家などに関わり、社会学が対象とする

3)人類が関わる開かれた過程である世界史の世界で、歴史学が扱う

4)地球という小さな星で、我々が鉱物、植物、動物、大洋などと共有する自然と関わり、そこに包含されており、生物学や生態学が扱う

5)宇宙、星座、銀河、ブラックホールなど、物理学や宇宙論が対象とする


世界を明らかにするという時、哲学も重要な役割を担っていることが分かる

わたしは、自分の内と自分を取り巻く世界を理解したいという願望を持っている

そういう時の世界は、バディウが言う5つの世界すべてを含んでいる

途轍もない願望である

しかし、そういう方向性を忘れてはならないのだろう

それが逆に、好奇心を刺激し続けることになるのだから








2022年8月28日日曜日

永遠に身を置いて、何をやろうとしているのか






























 Epicurus Sitting
 Ⓒ Nobody60




哲学する場合、視野に入れる時間軸の違いから2つのやり方があると言われる

一つは短い時間軸の中に身を置く場合で、時代とともに生きる歴史的人間として、例えば、道徳や倫理、権利、芸術、宗教などについての哲学を展開するものである

ソクラテス(c.470 BC-399 BC)やサルトル(1905-1980)などは、この代表例になるだろうか

その方法としては、ソクラテスが用いたように対話が有効である

もう一つは永遠の時間の中で哲学するもので、どこかに座り、世界の成り立ちを抽象化したり、永遠の自然を瞑想したりする

例えば、ヘラクレイトス(c.540 BC-c.480 BC)やエピクロス(341 BC-270 BC)などが挙げられるだろう

このやり方は、我々を取り巻く世界のことには無頓着だと言って前者から非難され、だからターレス(c.624 BC-c.546 BC)のように、星空を観ていて水溜まりに落ちるのだと揶揄される


この対比から自分自身を見ると、明らかに後者に属している

日頃から天空に身を置いているというのだから、間違いないだろう

問題は、そこからどのような哲学を紡ぎ出そうとしているのかだろう









2022年8月27日土曜日

「どのように」から「何を」への移行?

























今日は雨から始まったので雨音を味わうことになり、気分もゆったり

これまでを大きく振り返る日となり、次のような考えが巡っていた


これまでは、フランスという異空間に身を置いた時に物の見方や考え方がどのように変わったのかに興味が向いていた

自分がどのように「もの・こと」に当たっているのかを上から見ているような状態と言ってもよいだろう

この問題については『免疫学者のパリ心景』である程度まとめることができたように思う


これからは、その間に浮かんできた具体的なテーマについて向き合うことに集中してはどうだろうか

どのようにやっているのかの観察ではなく、テーマそのものについて考えていくということである

how から what に重点を移すとも言えるだろう

どうもノーナンセンスの世界になりそうな予感がして、あまりいい感じではないのだが、、











2022年8月26日金曜日

リマインダー: 秋のカフェとフォーラムのご案内



サイファイ研究所 ISHE の秋の催し物を改めて紹介いたします


1)第6回ベルクソン・カフェ+第8回カフェフィロ PAWL

日時: 2022年9月28日(水)18:00~20:30

場所: 恵比寿カルフール B会議室

テーマ: アラン・バディウの『幸福論』を読む

テクスト: Alain Badiou, Métaphysique du bonheur réel (PUF, 2015)

 参加予定者には、予めテクストをお送りします

 議論は日本語で行いますので、フランス語の知識は参加のための必須条件とはなりません








日時: 2022年10月1日(土) 13:20~17:00

会場: 恵比寿カルフール C会議室

プログラム: 

(1)13:20~14:00 矢倉英隆  シリーズ「科学と哲学」 ① イントロダクション

(2)14:00~15:30 渡邊正孝  変性意識と無意識

(3)15:30~17:00 岩永勇二  『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!




日時: 2022年10月5日(水)18:00~20:00

場所: 恵比寿カルフール B会議室

テーマ: パスツールのやったことを振り返る

 パスツール(1822-1895)の生誕200年に当たり、意外に知らないその足跡を振り返ることにしました

 科学での仕事を振り返った後に哲学的な側面にも触れることができればと考えています

ポスター


日時:2022年10月29日(土)15:10~17:20

場所: フルーツ会議室 / 札幌駅前

テーマ: 『免疫学者のパリ心景』について語り合う

 拙著で取り上げた話題を肴に、科学、哲学、人生について語り合う予定です




興味をお持ちの方は、矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)までご連絡いただければ幸いです

よろしくお願いいたします







2022年8月25日木曜日

ゲーテの言葉から(52)


































1832.3.11(日)(つづき)

「教会の制度にはまったく愚かしいことがたくさんある。だが、教会は支配することをのぞんているのだから、平身低頭し、支配されてよろこんでいる愚昧な大衆が必要なのさ。身分も高く、高給をはむ僧侶は、下層階級が目覚めることを何よりもおそれている。彼らには聖書すらも長い間、できるだけ長い間、遠ざけておいた。貧しいキリスト教区民は、高い給料をとっている僧正の、まるで王侯のような豪勢さをどのように考えているのだろうか。王侯のような僧正が六頭立てのきらびやかな馬車をのりまわしているというのに、その反対に福音書のなかでは、貧しく、みすぼらしいキリストが弟子たちとともにつつましく素足で歩いていたということを知ったとしたら!」

「われわれは一般にいろいろなことで、どれだけルター(1483-1546)や宗教改革のおかげを受けているか測りしれないね。われわれは精神的な偏見の束縛から解放され、進歩しつづけている文化のおかげでその本源へ帰り、キリスト教を純粋に捉えることができるようになった。われわれはしっかりと両足をふみしめて神の大地に立ち、自己を、神の恩寵を受けた人間なる存在として感じるだけの勇気をふたたび取り戻したのだよ。たとえ精神的な文化がどれほど進歩し、自然科学がどれほど広く、そして深くひろがっていき、人間精神がどれほど思いどおりに拡大されていこうとも、それは福音書のなかできらめき輝いているあのキリスト教の崇高さと道徳的文化以上のものにはならないだろう」

「しかし、われわれプロテスタントが、高貴な発展をとげながら力を強めていけばいくほど、カトリック教徒たちはますます早く後から追ってくるだろう。彼らはだんだんと身のまわりにひろまってくる時代の大いなる啓蒙に襲われていると感じるやいなや、どんな態度をとるにしろ、やはりその後を追わなければならない。そして最後にはすべてがただ一つのものになるときがくるだろうね」

「また、いまわしいプロテスタントの宗派争いもやむだろうし、それとともに父と息子の、兄弟・姉妹間の憎しみや敵視もなくなるにちがいない。キリストの純粋な教えと愛が、あるがままに理解され、身についてくると、人は自己を人間として偉大であり、自由であると感じて、外的な礼拝におけるあれやこれやの小さな違いなどは、もはやとりたてて問題にしなくなるだろうからね」

「また、われわれもみな、たんなる言葉と信仰のキリスト教から、ますます信念と行為のキリスト教に向かっていくだろう」


「人の話を聞いていると、神はあのずっと昔の時代このかた、まったく鳴りをひそめてしまい、人間はいまや完全に独立しているのだから、神の力をかりず、また日々目にみえない神の息吹きを受けずにうまくやっていくにはどうしたらよいかを知らねばならぬという意見らしく思われるね。宗教と道徳の事柄にかんしては、ともあれまだ神の影響を認めるが、科学と芸術のことについては、これは明らかに現世的なものであり、純粋に人間の力が生み出した産物以外のものではないと思いこんでいるよ」

「だが、まあ誰でもよいから、人間の意志と人間の力でもって、モーツァルト(1756-1791)とか、ラファエロ(1483-1520)とか、あるいはシェークスピア(1564-1616)という名前のついた作品に比肩できるようなものをつくり出せるものなら試してみるがよい。私にはよくわかっているのだが、決してこの三人の偉人にかぎったことではない、芸術のあらゆる分野で無数のすぐれた人たちが活動しており、いま名をあげた人たちと同じように、実にりっぱなものをつくり出しているのだ。しかしながら、彼らがあの三人と同様に偉大であったとしたら、それはあの人たちと同じように凡俗な人間性をぬけ出して、神の恩恵を受けていたからなのさ」

「いったいどういうわけだというのか。――神はあの有名な空想的創造の六日が過ぎても決して休息なさらず、むしろ依然として第一日目と同じように働きつづけておられる。この索漠とした世界を単純な要素から組み立て、年々歳々、太陽の光をあびながら回転させたりするようなことは、もし神がこの物質的な土台の上に、精神の世界のための道場を建設しようという計画をもたれなかったら、きっとあまり楽しくはなかったにちがいない。そういうわけで神は、今も絶えず、より低いものを引き上げるために、より高い人たちの裡で活動しつづけているのだよ」


(山下肇訳)


――了――



このシリーズでは、今まで知らなかった世界をたっぷり味わうことができた

これほど贅沢な世界が広がっていようとは想像だにしていなかった

終始、生身のゲーテがそこにいるように感じていた










2022年8月24日水曜日

ゲーテの言葉から(51)






























 Moses by Michelangelo (c.1513-15)
 @ Jörg Bittner Unna




1832.3.11(日)

「聖書そのものについて考察するには、二つの立場がある。一つは一種の原始宗教の、つまり神に端を発する純粋な自然と理性との立場だ。この立場は神性にめぐまれた人たちが存在するかぎり、永遠に不変であり、いつまでも持続し、重んじられるだろう。だが、それは選ばれた人たちだけのものであって、一般化されるにはあまりにも高度であり、あまりにも高貴すぎるのだよ。それからもう一つ、教会の立場がある。これははるかに人間的だ。この立場は弱く、変化しやすく、そして実際に変化しつつあるのだ。けれども、これもまた、弱い人間が存在するかぎり、永遠に変化しながらも持続していくだろうね。くもりのない神の啓示の光は、あまりにも純粋で目もくらむほどなので、あわれな、まったく弱い人間には適していないし、また耐えられないだろう。しかし、教会が有難い仲介者としてあらわれ、その光をやわらげ、軽減して、すべての人を助け幸せにすることだろう。キリスト教会は、キリストの後継者として、彼らを人間の罪の重荷から解放してやることができるという信仰と結びつくことによって、きわめて大きな勢力となっている。そしてその勢力と信望をもとに身を保持し、またかくして教会の建物を確保することが、キリスト教僧侶の主要な目的となってくるのさ」

「それゆえに僧侶たちは、精神のすぐれた啓蒙を生みだすのは、また高度な道徳と高貴な人間性の教えが含まれているのは、どの聖書であるかというようなことはほとんど問題にしないのだ。むしろ彼らは、モーゼの書のなかの堕罪の物語や救世主待望の発生の話を重視し、さらに予言者たちの声をかりて、彼、すなわち待たれる人をくり返し示し、さらにまた福音書のなかでその待たれる人が実際にこの世にあらわれ、われわれ人間の贖罪として十字架にはりつけられて死んだということに目を向けさせねばならないのだね。かくしてそのような目的と方向にとっては、またそのような秤にかけては、高貴なトビアもソロモンの知恵も、シラクの箴言にしても、たいした重要さをもちえないわけだろう」

「ともあれ、聖書のことに関する真偽の問題ほど、まったくふしぎなものはない。最も純粋な自然と理性に調和し、今日なお、われわれの最高の発展に寄与している完全にすぐれたもの以外に、真実なものがあるだろうか。そしていかなる成果も、少なくともいかなる有益な成果も、もたらさないような不合理なもの、空虚なもの、そして愚鈍なもの以外に不正なものがあるだろうか。もし聖書の真実さが、われわれに完全に真実なるものが伝えられているかどうかという問題にかかっているとすれば、さらに二、三の点で福音書の真実さも疑わしくなるだろう。そのうちマルコ伝とルカ伝は、直接の観察と体験から書かれたものではなく、後になってはじめて口承によって書かれたのだ。それから最後の、使徒ヨハネのものは、まったく年老いてからはじめて書かれたのだ。それにもかかわらず、私は四つの福音書はすべて完全に真実なものであると考えている。それらのなかには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの、反映があるからだ。もし私が、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持ちがあるかと問われたら、私は、しかり、と答えよう。私は道徳の最高原理の神々しい啓示として、彼の前に身をこごめる。もし私の性質に太陽をうやまう気持があるかと問われたら、私はまた、しかり、と答えよう。なぜならば、太陽も同じように至高なるものの啓示であり、しかもわれわれ地上の子らに認めることがゆるされている最も顕著な啓示だからなのだ。私は太陽のうちにある神の光と生産力を崇拝する。われわれはひたすら、すべての植物や動物とともに、それによってのみ生き、活動し、存在するのだからね。しかし、もし私が使徒ペテロや使徒パウロの親指の骨にお辞儀をするかと問われたら、私は、ごめんこうむろう、そんなばかばかしいことはまっぴらだと答えよう」


(山下肇訳)










2022年8月23日火曜日

ゲーテの言葉から(50)


















Mirabeau (1749-1791)



1832.2.17(金)

「フランス人はミラボー(1749-1791)を自分たちのヘラクレスだとみているが、それはたしかに正しいことだ。しかしながら彼らは、巨像も個々の部分から作られているのだということ、それからまた、古代のヘラクレスにしても、一つの集合体であって、彼自身と他の人たちの行為の偉大な代表者にすぎないのだということを忘れているね」


「しかし、われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようはものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ。私は、自身がいかなる大家にも師事しないことを、むしろすべてが自分自身の天才のおかげだと自慢している芸術家たちを知っている。愚かな連中さ。それがどこででも通ると思っている。自己の愚かさも知らず、世界はまったく自分たちに迫らず、自分たちのなかから何も引き出さないと思いこんでいる」

「そもそも、外の世界を自分たちの方へ引きよせ、自分たちのより高次な目的に利用できる力と傾向がないとすれば、いったいわれわれの長所とはなんだろうか。自分自身のことを語ることにはなるが、自分で感じたことを控えめにいうのならよいだろう。私がこの長い人生において、ともあれ自慢できるようないろいろなことをやり、また成功した、というのも事実だ。しかしわたしは正直のところ、観たり、聴いたり、区別したり、選択したり、またその観たもの、聴いたものに多少の魂をふきこみ、少しは技巧に再現する能力と性向をもちあわせたほかに、これこそ私のものだといえるものがあったろうかな。私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ。愚かな人も、頭のよい人も、物わかりのよい人も、偏狭な人も、それから子どもや青年や老人もいた。すべての人がわたしに、どんなことを考えていたか、どんなふうに生き、働き、そしてどんな体験をへてきたか、を話してくれた。そして私がなしたことといえば、それを択え、他人が私のために播いてくれた種を刈りとるというだけのことだったのさ」

「けっきょくのところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ。それゆえ、ミラボーが外の世界とその力をできるかぎり利用したとしても、それはまったく当然のことなのだ。彼には人の才能を見抜く天賦の能力があったので、その者は彼の強力な本性のデーモンに惹きつけられるように感じ、彼と彼の指図に喜んで身をゆだねたのだ。そのようにして彼は、多数の卓越した力ある人たちにとりかこまれ、彼らを自らの炎で焼きつらぬき、自らの高次な目的のために働かせたのだな。そうして彼が他人と一緒に、また他人の力によって活動することを心得ていたという、まさにそのことが彼の天才であり、彼の独創性であり、また彼の偉大なところだったのだ」


(山下肇訳)






2022年8月22日月曜日

ゲーテの言葉から(49)





























Victor Hugo c.1884 (1802-1885)




1831.7.15(金)

「やはり、自然研究がもたらす喜び以上のものはないな。自然の秘密は測りしれないほど深遠だが、われわれ人間にはますます深く洞察をすすめることが許され、またその能力があたえられているのだよ。しかもそれは結局最後まで推し測ることができないが、われわれにとっては永遠の魅力であり、くり返しその自然に接し、またくり返し新しい洞察と新しい発見をえようと努めさせるものだ」



1831.12.1 [11.30](木 [水])

「彼(ヴィクトル・ユゴー、1802-1885)がたった一年間で、二つの悲劇と一つの長編小説を書くというむこうみずなことをやり、さらにまた、ただ莫大な金をかきあつめるためにのみ仕事をしているというふうでは、どんどん悪くなって、どんなにすぐれた才能があっても、破滅しないはずがあるまい。私は決して、彼が金持ちになり、時代の名声を得ようとやっきになっていることを非難しはしない。しかし彼が後世に長く生きようと思うならば、もっと少なく書き、もっと多く勉強しなければいけないよ」



1832.1.5(木)

「芸術家はずねけたある一定の線まで達してしまえば、その作品のどれをとっても、それがほかのものよりいっそう出来がいいなどということは問題でなくなるのだよ。鑑賞眼のある人なら、どの作品をみてもつねに巨匠の腕と、すみずみにまでおよんでいるその才能と手法の冴えを見ぬけるだろう」


(山下肇訳)












2022年8月21日日曜日

ゲーテの言葉から(48)


















 Georges Cuvier (1769-1832)



1831.6.20(月)

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直観から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然のふしぎな作用や支配について予感や認識をえるとすれば、彼にあたえられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔離したものを表現するにはとても十分でないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できねばならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのとき、ほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」

「最近、キュヴィエ(1769-1832)とジョフロア・ド・サン・ティレール(1772-1844)との論争のとき、私もそう思ったよ。ジョフロア・ド・サン・ティレールはたしかに自然の精神的な摂理と創造についてりっぱな考え方を持っている人だ。しかし彼のフランス語は、慣習的な表現を用いなければならないときには、まったく彼の役に立たなかったな。しかも、たんにふしぎな精神的な場合だけでなく、完全に目にみえる純具体的な対象や状況の場合でもそうなのだ。彼がある有機体のそれぞれの部分を表現しようとすれば、そのためには物質(マテリアール)という言葉以外にはないので、それで例えば、同質の部分が腕の有機的な全体を構成している骨というものを表現するにも、家をつくる石とか、角材とか、板などと同じ段階にならべて表現されているという次第だ」

「同じようなことだが、フランス人は創造物について語るとき、組立て(コンポジシオン)という表現をつかうが、これはやはり不適当だね。むろん、一個ずつつくられた機械の個々の部分を組み立ててならそういう対象をコンポジシオンとはいえようが、個々の部分がそれぞれに生命をもって形成され、共通の精神によってつらぬかれた有機的全体の各部分を意味しているなら、そういってはまずいわけだよ」


1831.6.27(月)

「彼(ヴィクトル・ユゴー、1802-1885)はすばらしい才能だ。だが、あの当時の、不幸でロマンティクな傾向に完全にとらわれて、美しいものと同時にあらゆる点でまったく耐えがたいものや、まったく醜悪なものまでも描き出している。最近私は、彼の『ノートルダム・ド・パリ』を読んだが、読んでいて苦痛になり、途中で何度やめようかと思ったことだろう。これは今まで書かれたものでは最もいまわしい本だね。また、その苦痛を耐えとおしても、人間の性質や性格が真実に描き出されているのを感じて、その苦痛を償えるだけのよろこびもない。むしろあの本には自然らしいところがないし、なんの真実もない。彼が描き出している、いわゆる行動的な人物は生きた肉と血をもった人間ではなく、あわれな木製の人形なのだ。その人形どもを彼は好き勝手にあやつり、自分の意図した効果に応じていろいろなしかめ面やグロテスクな顔つきをさせたりしている。それにしてもああいった本が書かれ、出版されるというだけではなく、まったく嫌がられもせずおもしろがられているのは、なんという時代なのだろうか!」


(山下肇訳)