2022年8月24日水曜日

ゲーテの言葉から(51)






























 Moses by Michelangelo (c.1513-15)
 @ Jörg Bittner Unna




1832.3.11(日)

「聖書そのものについて考察するには、二つの立場がある。一つは一種の原始宗教の、つまり神に端を発する純粋な自然と理性との立場だ。この立場は神性にめぐまれた人たちが存在するかぎり、永遠に不変であり、いつまでも持続し、重んじられるだろう。だが、それは選ばれた人たちだけのものであって、一般化されるにはあまりにも高度であり、あまりにも高貴すぎるのだよ。それからもう一つ、教会の立場がある。これははるかに人間的だ。この立場は弱く、変化しやすく、そして実際に変化しつつあるのだ。けれども、これもまた、弱い人間が存在するかぎり、永遠に変化しながらも持続していくだろうね。くもりのない神の啓示の光は、あまりにも純粋で目もくらむほどなので、あわれな、まったく弱い人間には適していないし、また耐えられないだろう。しかし、教会が有難い仲介者としてあらわれ、その光をやわらげ、軽減して、すべての人を助け幸せにすることだろう。キリスト教会は、キリストの後継者として、彼らを人間の罪の重荷から解放してやることができるという信仰と結びつくことによって、きわめて大きな勢力となっている。そしてその勢力と信望をもとに身を保持し、またかくして教会の建物を確保することが、キリスト教僧侶の主要な目的となってくるのさ」

「それゆえに僧侶たちは、精神のすぐれた啓蒙を生みだすのは、また高度な道徳と高貴な人間性の教えが含まれているのは、どの聖書であるかというようなことはほとんど問題にしないのだ。むしろ彼らは、モーゼの書のなかの堕罪の物語や救世主待望の発生の話を重視し、さらに予言者たちの声をかりて、彼、すなわち待たれる人をくり返し示し、さらにまた福音書のなかでその待たれる人が実際にこの世にあらわれ、われわれ人間の贖罪として十字架にはりつけられて死んだということに目を向けさせねばならないのだね。かくしてそのような目的と方向にとっては、またそのような秤にかけては、高貴なトビアソロモンの知恵も、シラクの箴言にしても、たいした重要さをもちえないわけだろう」

「ともあれ、聖書のことに関する真偽の問題ほど、まったくふしぎなものはない。最も純粋な自然と理性に調和し、今日なお、われわれの最高の発展に寄与している完全にすぐれたもの以外に、真実なものがあるだろうか。そしていかなる成果も、少なくともいかなる有益な成果も、もたらさないような不合理なもの、空虚なもの、そして愚鈍なもの以外に不正なものがあるだろうか。もし聖書の真実さが、われわれに完全に真実なるものが伝えられているかどうかという問題にかかっているとすれば、さらに二、三の点で福音書の真実さも疑わしくなるだろう。そのうちマルコ伝とルカ伝は、直接の観察と体験から書かれたものではなく、後になってはじめて口承によって書かれたのだ。それから最後の、使徒ヨハネのものは、まったく年老いてからはじめて書かれたのだ。それにもかかわらず、私は四つの福音書はすべて完全に真実なものであると考えている。それらのなかには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの、反映があるからだ。もし私が、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持ちがあるかと問われたら、私は、しかり、と答えよう。私は道徳の最高原理の神々しい啓示として、彼の前に身をこごめる。もし私の性質に太陽をうやまう気持があるかと問われたら、私はまた、しかり、と答えよう。なぜならば、太陽も同じように至高なるものの啓示であり、しかもわれわれ地上の子らに認めることがゆるされている最も顕著な啓示だからなのだ。私は太陽のうちにある神の光と生産力を崇拝する。われわれはひたすら、すべての植物や動物とともに、それによってのみ生き、活動し、存在するのだからね。しかし、もし私が使徒ペテロや使徒パウロの親指の骨にお辞儀をするかと問われたら、私は、ごめんこうむろう、そんなばかばかしいことはまっぴらだと答えよう」


(山下肇訳)










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