Jean-Jacques Rousseau (1712-1778)
今朝は快晴
庭にはトンボが群れをなして飛び回っていた
秋が来ている
ススキの穂もふわふわになり、一年で一番輝く季節になってきた
これまでぐったりしていたのが信じられない
さて、今日もゲーテ(1749-1832)である
1830.3.14(日)[3.10(水)]
「いかなる革命のばあいにも、極端になるのは避けられない。政治革命のばあい、人びとは最初さまざまな不法を是正することだけを要求する。しかし、あっという間に、流血の惨事に突っ込んでしまう。それと同じで、現に文学の顚覆をはかっているフランス人たちも、最初は形式の自由だけを求めていたが、今やそれだけに止まっていない。彼らは、形式とともに今までの内容も非難している。高貴な精神と行動を退屈だと公言しはじめ、さまざまな悪行を取り扱おうとしている。ギリシャ神話の美しい内容の代わりに、悪魔や魔女や吸血鬼が登場し、古代の気高い英雄たちは、ペテン師や大型船を橈ぐ奴隷に取って代わられるにちがいない。こういうものは、刺激が強い。効果がある。――しかし、大衆は、こうした胡椒のきいた食物を一度味わい、それに慣れてしまうと、だんだん多くのもの、刺激の強いものを欲しがるようになる。活躍して認められようとはしているが、まだわが道を行くというほどになっていない若い才能のある人は、時代の好みに自分を適応させなければならない。それどころか、もっとすごいもの、戦慄すべきものにおいては、先輩を追い越すよう努めねばならない。しかし、こういう表面的な効果のある題材を追いかけていると、いっそう深い研究や、才能と人格の段階的で徹底的な開発は、まったくおろそかになってしまう。これこそ、才能ある人にとっては、最大の損害だ。たとえ、文学全般が、この一時的な傾向から得るところがあるとしてもね」
「例の評決の裏には、君の知っている以上に私に対する悪意がひそんでいるのだよ。その中には、長年私を追いかけ、ひそかに私を迫害しようとしている昔ながらの憎しみが姿を変えて存在しているように思うな。私は、多くの人びとにとって、私が目の上の瘤であることも、彼らがみんな私を除きたがっていることもよく知っている。そして、連中は、私の才能に文句をいうことができないものだから、私の人格にけちをつけようとするのさ。やれ自惚れているとか、やれ利己的だとか、やれ若い才能に嫉み深いとか、官能的快楽に耽っているとか、キリスト教に反するとか、その上とうとう今度は祖国、わが愛するドイツ人に対する愛がないとまでいいだす始末だよ。――君は、長年にわたって私を知りつくしているから、すべての風評のなんたるかがわかるだろう。しかし、もし私がどれほど悩んできたか知りたければ、私の『クセーニエン』を読んでみたまえ。そうすれば、私の反撃を通じて、人びとが私の生活を入れかわりたちかわり傷めつけようとしたことがわかるだろう」
「ドイツの作家とは、ドイツの殉難者のことだ!――そうだろう、君! 君だってそうだと思うだろう! それでも、私なんかは、まだ不平をこぼしては申しわけない。ほかの人たちだって私よりましではないのだ。それどころか、たいていは、私よりもっとひどいな。イギリスでも、フランスでも、わが国と全く似たりよったりさ。モリエール(1622-1673)はどんなに苦しんだことか! ルソー(1712-1778)とヴォルテール(1694-1778)がどんな目に遭ったか! バイロン(1788-1824)は、毒舌にかかってイギリスから追い出された。もし、夭折によって俗物どもとその憎悪から逃れることにならなかったら、しまいには、世界の果てまでも逃げて行っただろう」
(山下肇訳)
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