2022年8月23日火曜日

ゲーテの言葉から(50)


















Mirabeau (1749-1791)



1832.2.17(金)

「フランス人はミラボー(1749-1791)を自分たちのヘラクレスだとみているが、それはたしかに正しいことだ。しかしながら彼らは、巨像も個々の部分から作られているのだということ、それからまた、古代のヘラクレスにしても、一つの集合体であって、彼自身と他の人たちの行為の偉大な代表者にすぎないのだということを忘れているね」


「しかし、われわれが自分の欲するままにふるまっていると思っても、結局のところわれわれもみな集合体なのだ。われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようはものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ。どんなにすぐれた天才であれ、すべてを自分自身のおかげだと思うとしたら、それ以上進歩はできないだろう。しかし、きわめて多くの善良な人たちはこのことに気づかず、独創性の残骸にふりまわされて人生の大半を暗中模索しているのだよ。私は、自身がいかなる大家にも師事しないことを、むしろすべてが自分自身の天才のおかげだと自慢している芸術家たちを知っている。愚かな連中さ。それがどこででも通ると思っている。自己の愚かさも知らず、世界はまったく自分たちに迫らず、自分たちのなかから何も引き出さないと思いこんでいる」

「そもそも、外の世界を自分たちの方へ引きよせ、自分たちのより高次な目的に利用できる力と傾向がないとすれば、いったいわれわれの長所とはなんだろうか。自分自身のことを語ることにはなるが、自分で感じたことを控えめにいうのならよいだろう。私がこの長い人生において、ともあれ自慢できるようないろいろなことをやり、また成功した、というのも事実だ。しかしわたしは正直のところ、観たり、聴いたり、区別したり、選択したり、またその観たもの、聴いたものに多少の魂をふきこみ、少しは技巧に再現する能力と性向をもちあわせたほかに、これこそ私のものだといえるものがあったろうかな。私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私を取りまく無数の事物や人物にも負うていると思っているよ。愚かな人も、頭のよい人も、物わかりのよい人も、偏狭な人も、それから子どもや青年や老人もいた。すべての人がわたしに、どんなことを考えていたか、どんなふうに生き、働き、そしてどんな体験をへてきたか、を話してくれた。そして私がなしたことといえば、それを択え、他人が私のために播いてくれた種を刈りとるというだけのことだったのさ」

「けっきょくのところ、何を自分で得るのか、それを他人から得るのか、また自力で活動するか、他人の力をかりて活動するかというようなことは、すべて愚問だね。つまり大事なことは、すぐれた意志をもっているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもっているかどうかだよ。その他のことはみな、どうでもいいのだ。それゆえ、ミラボーが外の世界とその力をできるかぎり利用したとしても、それはまったく当然のことなのだ。彼には人の才能を見抜く天賦の能力があったので、その者は彼の強力な本性のデーモンに惹きつけられるように感じ、彼と彼の指図に喜んで身をゆだねたのだ。そのようにして彼は、多数の卓越した力ある人たちにとりかこまれ、彼らを自らの炎で焼きつらぬき、自らの高次な目的のために働かせたのだな。そうして彼が他人と一緒に、また他人の力によって活動することを心得ていたという、まさにそのことが彼の天才であり、彼の独創性であり、また彼の偉大なところだったのだ」


(山下肇訳)






0 件のコメント:

コメントを投稿