Wolfgang Amadeus Mozart (1756-1791)
1832.3.11(日)(つづき)
「教会の制度にはまったく愚かしいことがたくさんある。だが、教会は支配することをのぞんているのだから、平身低頭し、支配されてよろこんでいる愚昧な大衆が必要なのさ。身分も高く、高給をはむ僧侶は、下層階級が目覚めることを何よりもおそれている。彼らには聖書すらも長い間、できるだけ長い間、遠ざけておいた。貧しいキリスト教区民は、高い給料をとっている僧正の、まるで王侯のような豪勢さをどのように考えているのだろうか。王侯のような僧正が六頭立てのきらびやかな馬車をのりまわしているというのに、その反対に福音書のなかでは、貧しく、みすぼらしいキリストが弟子たちとともにつつましく素足で歩いていたということを知ったとしたら!」
「われわれは一般にいろいろなことで、どれだけルター(1483-1546)や宗教改革のおかげを受けているか測りしれないね。われわれは精神的な偏見の束縛から解放され、進歩しつづけている文化のおかげでその本源へ帰り、キリスト教を純粋に捉えることができるようになった。われわれはしっかりと両足をふみしめて神の大地に立ち、自己を、神の恩寵を受けた人間なる存在として感じるだけの勇気をふたたび取り戻したのだよ。たとえ精神的な文化がどれほど進歩し、自然科学がどれほど広く、そして深くひろがっていき、人間精神がどれほど思いどおりに拡大されていこうとも、それは福音書のなかできらめき輝いているあのキリスト教の崇高さと道徳的文化以上のものにはならないだろう」
「しかし、われわれプロテスタントが、高貴な発展をとげながら力を強めていけばいくほど、カトリック教徒たちはますます早く後から追ってくるだろう。彼らはだんだんと身のまわりにひろまってくる時代の大いなる啓蒙に襲われていると感じるやいなや、どんな態度をとるにしろ、やはりその後を追わなければならない。そして最後にはすべてがただ一つのものになるときがくるだろうね」
「また、いまわしいプロテスタントの宗派争いもやむだろうし、それとともに父と息子の、兄弟・姉妹間の憎しみや敵視もなくなるにちがいない。キリストの純粋な教えと愛が、あるがままに理解され、身についてくると、人は自己を人間として偉大であり、自由であると感じて、外的な礼拝におけるあれやこれやの小さな違いなどは、もはやとりたてて問題にしなくなるだろうからね」
「また、われわれもみな、たんなる言葉と信仰のキリスト教から、ますます信念と行為のキリスト教に向かっていくだろう」
「人の話を聞いていると、神はあのずっと昔の時代このかた、まったく鳴りをひそめてしまい、人間はいまや完全に独立しているのだから、神の力をかりず、また日々目にみえない神の息吹きを受けずにうまくやっていくにはどうしたらよいかを知らねばならぬという意見らしく思われるね。宗教と道徳の事柄にかんしては、ともあれまだ神の影響を認めるが、科学と芸術のことについては、これは明らかに現世的なものであり、純粋に人間の力が生み出した産物以外のものではないと思いこんでいるよ」
「だが、まあ誰でもよいから、人間の意志と人間の力でもって、モーツァルト(1756-1791)とか、ラファエロ(1483-1520)とか、あるいはシェークスピア(1564-1616)という名前のついた作品に比肩できるようなものをつくり出せるものなら試してみるがよい。私にはよくわかっているのだが、決してこの三人の偉人にかぎったことではない、芸術のあらゆる分野で無数のすぐれた人たちが活動しており、いま名をあげた人たちと同じように、実にりっぱなものをつくり出しているのだ。しかしながら、彼らがあの三人と同様に偉大であったとしたら、それはあの人たちと同じように凡俗な人間性をぬけ出して、神の恩恵を受けていたからなのさ」
「いったいどういうわけだというのか。――神はあの有名な空想的創造の六日が過ぎても決して休息なさらず、むしろ依然として第一日目と同じように働きつづけておられる。この索漠とした世界を単純な要素から組み立て、年々歳々、太陽の光をあびながら回転させたりするようなことは、もし神がこの物質的な土台の上に、精神の世界のための道場を建設しようという計画をもたれなかったら、きっとあまり楽しくはなかったにちがいない。そういうわけで神は、今も絶えず、より低いものを引き上げるために、より高い人たちの裡で活動しつづけているのだよ」
(山下肇訳)
――了――
このシリーズでは、今まで知らなかった世界をたっぷり味わうことができた
これほど贅沢な世界が広がっていようとは想像だにしていなかった
終始、生身のゲーテがそこにいるように感じていた
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