2022年11月1日火曜日
コリングウッドによる自然(33): ルネサンス期の自然観(9)
2022年10月31日月曜日
10月を振り返って
今月も纏めの時期となった
何をやっていたのか、早速振り返ってみたい
1)まず、月初めに3年ぶりにカフェ/フォーラムを再開したが、一昨日の札幌の会で無事に終えることができた
再開に当たっては心身の立ち上げが大変であったが、終わった今、開催してよかったと思っている
一つには、参加者の皆様との交換により、わたし自身に新たなエネルギーが注入されたように感じていることがある
二つ目として、カフェ/フォーラムが少しずつ変容を始め、有機体としての生命を持ちつつあるように感じられることである
更に進化することを願いたいものである
改めて参加者の皆様に感謝しながら、それぞれの会を振り返っておきたい
第6回ベルクソン・カフェ+ 第8回カフェフィロPAWL(2022.9.28)
ところで、これまで年2回の開催だったが、来年は年3回の開催とすることとした
最初のシリーズは、以下の日程で行う予定である
● 第9回サイファイ・カフェSHE札幌 2023年2月25日(土) 15:10~17:20
● 第7回ベルクソン・カフェ+第9回カフェフィロPAWL 2023年3月1日(水) 18:00~20:30
● 第8回サイファイ・フォーラムFPSS 2023年3月4日(土) 13:10~17:00
● 第16回サイファイ・カフェSHE 2023年3月8日(水) 18:00~20:30
それぞれのテーマについては、決まり次第お知らせしたい
2)免疫に関するエッセイの校正が始まった
4月には書き終えていたので、半年間寝かせておいたことになる
編集者のコメントとともに読み返しながら、言いたいところをより明快に表現しようとしているところである
それと、先日も触れたが、文献の扱いを考えなければならない
ディジタル本であれば、そのまま使えるのだろうが、紙の場合にはそうもいかない
これからの課題である
3)今月もコリングウッド(1889-1943)による「自然」の分析を読んでいた
また、その中に出てきたプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』にも目を通し、貴重な時間となった
コリングウッドに関しては、これからも続ける予定である
2022年10月30日日曜日
2022年10月29日土曜日
第8回サイファイ・カフェSHE 札幌、無事終わる
2022年10月28日金曜日
免疫に関する本の打ち合わせ、終わる
現在、免疫に関するエッセイの校正を行っている
本日、編集者とズームでの打ち合わせがあった
一つの問題は、最初の原稿に入れた論文をどのように扱うのかであった
原稿を書いた時の方針は、記述にある事実がどこから出てきたのかをできるだけ詳しく引用することであった
これは自分の参考のためということもあった
そのため、参考文献が膨大になる
その中には、一般の読者には必要ないものまで含まれているはずである
その扱いをどうするのかということであった
極端な選択は、文献を一切使わないということである
このオプションを考えた時、体が軽くなるのを感じた
これまでは実験事実に基づいて書いていたため筆が重くなり、学術書のような感じになっていたと思われる
過去の報告に縛れていたのである
それが解けると思うと、もっと自由な書き方ができるような気がしたのだろう
今日のところ、現在の形と最も自由な形の中間になりそうである
ということで、文献の選択をしなければならなくなった
一冊の本を出すということは大変な作業なのだということを、改めて思い知らされた
ところで明日は今季最後のカフェ、サイファイ・カフェ SHE 札幌である
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2022年10月27日木曜日
コリングウッドによる自然(32): ルネサンス期の自然観(8)
2022年10月26日水曜日
「考えるとは、考え直すことである」との再会
今朝、携帯でニュースを見ていると、どこかで聞いた言葉を発する人がいることを発見し、驚く
哲学者の柄谷行人(1941- )氏である
その言葉は、新刊『力と交換様式』についてのインタビュー記事の冒頭にあった
「考えるとは、再考することですよ」という言葉である
哲学者・柄谷行人さんが新著 資本と国家を乗り越える「力」への希望:朝日新聞デジタル
驚きの理由は、もう7年前に書いたエッセイのエピグラフとしたフォルミュールが「考えるとは、考え直すことである(Penser, c'est repenser.)」だったからである
「わたしの真理」への道、あるいは人類の遺産と共に考える(医学のあゆみ 2015.12.12)
思索についての専門家が同じような認識に至っていたことを確認するのは、格別な瞬間であった
柄谷氏の著作には触れたことがないので、この機会に少し覗いてみようかという気分になっている
2022年10月25日火曜日
コリングウッドによる自然(31): ルネサンス期の自然観(7)
哲学は、宇宙という我々の眼前に広がる巨大な書物に書かれている。しかし、我々がその言語を学び、書かれている文字を知らなければならない。それは数学の言葉で書かれており、文字は三角とか円とか他の幾何学的図形である。その手段がなければ、一言も理解できないのである。
2022年10月24日月曜日
コリングウッドによる自然(30): ルネサンス期の自然観(6)
2022年10月23日日曜日
コリングウッドによる自然(29): ルネサンス期の自然観(5)
2022年10月22日土曜日
コリングウッドによる自然(28): ルネサンス期の自然観(4)
修道僧にして哲学者、科学者のジョルダーノ・ブルーノ、その壮大な宇宙(2013.5.11)
2022年10月21日金曜日
コリングウッドによる自然(27): ルネサンス期の自然観(3)
2022年10月20日木曜日
コリングウッドによる自然(26): ルネサンス期の自然観(2)
2022年10月19日水曜日
『免疫学者のパリ心景』に見るメッセージ
「真理は知識の中にある。しかし我々は思考(ナハデンケン)するかぎりでのみ真なるものについて知るのであって、我々が歩いたり、立っていたりするかぎにおいて、そうなのではない。真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。・・・ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」(武市健人訳)
「このように、それぞれが正当で不可欠な計算する思考と瞑想する思考という2種類の思考がある。しかし、人間が思考から逃げていると言う時に我々が見ているのは、この2番目の思考である。・・・瞑想する思考は時に大変な努力を要し、常に長い訓練が必要になるのである」
2022年10月18日火曜日
コリングウッドによる自然(25): ルネサンス期の自然観(1)
2022年10月17日月曜日
コリングウッドによる自然(24): アリストテレス(6)物質
物質(質料)という言葉でわたしが意味するものは、存在を決定する質とか量とかその他の属性を何一つその内に含まないものである
自然においてはすべてが常に発展しつつあり、可能態であったものが現実態(エネルゲイア)へと生成している
物質とは、可能態の無規定性に他ならないのである
可能態にあるものは、形相に向かう衝動が存在する
しかし、それを妨げる何らかの力も存在している
これこそ、アリストテレスの物質なのである
つまり物質とは、いまだ実現していない可能態のことを意味している
物質が完全に消失するのは、形相が実現し、可能態が現実態の中に解消するときだけである
そのため、純粋な現実態は全く物質を含まないのである
ところで、神であり得るが神でないものは存在しない
神は純粋な現実態であり、物質を全く含まないのである
2022年10月16日日曜日
コリングウッドによる自然(23): アリストテレス(5)不動の動者の複数性
2022年10月15日土曜日
コリングウッドによる自然(22): アリストテレス(4)その神学
2022年10月14日金曜日
コリングウッドによる自然(21): アリストテレス(3)その認識論
2022年10月13日木曜日
コリングウッドによる自然(20): アリストテレス(2)自ら動くものとしての自然
前回見たように、アリストテレス(384 BC-322 BC)にとっての自然は、イオニア学派やプラトン(427 BC-347 BC)と同様、自ら動く事物の世界である
この動きは、17世紀的な慣性によるものではなく、自発的運動による
ある変化が次の変化に繋がるが、それぞれの変化が次の形態の可能態(デュナミス)になる
ただ、これは進化を意味しない
なぜならアリストテレスは、自然の世界の変化は永遠に繰り返す循環的な構造を持っていると考えていたからである
自然が自ら動くものだとすれば、自然の外に作用因を求めることは理に適わない
ただ、自然が存在する以前に時間が存在したとすれば、そのような作用因も想定できるが、アリストテレスはそうは考えない
プラトンの『ティマイオス』と同じ考え方である
すなわち、この世界は自ら原因となり、自ら存在するものである
この考え方は、アリストテレスを唯物論者の仲間に入れるように見える
しかし、『形而上学』では全く新しい議論により「神」が再び宇宙論に導入される
物体は運動の内に在り、何らかの方法で運動するものでなければならない
その方法を自然法則と呼んでいる
それは方法の大体の性格を表現するもので、法則の制定者を考えることにはならない
しかしギリシア人にとっての自然は、熱意とか衝動とか傾向という特徴を持っていた
種子は芽を出し、若い動物は成長、発達し、大人の大きさと形になる
可能態とは、それが現実態(エネルゲイア)に向かう時に力となる衝動の存するところである
この衝動という概念は、自然の過程が目指す目的を想起させる(目的論的含意と持つ)ため、近代科学からは擬人的だとして排除された
種子の衝動を意識的な意志と同一視すれば擬人的だが、無意識にそうしようとしている可能性は否定できない
発達という概念は唯物論には致命的である
なぜなら、発達とは非物質的な原因を内に含むからである
種子が植物へと発達するのは物質的ではない何か、すなわち植物の形相のためであり、植物のプラトン的イデアである
それは形相因であると同時に目的因でもある
ここでアリストテレスはプラトンを超える
イデアに導かれる力を、イデアによって呼び起こされるのではなく、イデアとは独立に存在しているとしたのである
この力が生まれるのは作用因による
また目的因は、それが支配する力の向きを定めるだけではなく、それを引き起こすものと考えている
目的因は同時に作用因なのだが、それは非物質的なものである
種子は植物になることを「欲する」が故に成長する
「欲する」などという言葉を使うことができるのは、植物が知性や心は持っていないものの、魂、プシュケーを持ち、目的を認識してはいないが欲望や願望を持っているからである
形相とは、このような願望の対象である
願望の対象であることによって、他の事物に運動を引き起こすものである
この願望は、事物自身を形相に一致させ、できる限り形相を模倣したいという性質を持っている
形相とは、自らは動かずに自然の世界を最初に動かすものなのである





















