2023年1月18日水曜日
再校ゲラの読み、始まる
2023年1月17日火曜日
時間をおいて反応すること
2023年1月16日月曜日
改めて、今年の方向性を確認する
2023年1月15日日曜日
ピュシスに向かう時か
2023年1月14日土曜日
渡辺京二さんと親鸞さん
2023年1月13日金曜日
J'observe donc je suis、あるいは受け身であることの意味
2023年1月12日木曜日
15年前のエッセイに触発されて
このところ寒さのためか、朝のうちはのんびりすることが多い
今日もそんな日であった
午後から免疫試論の索引の整理をやる
当初のリストから大幅に削減し、最終的には編集者のアドバイスに則り、一応の最終版を作ることができた
これから本文の再校が来ることになる
このペースで行くと、3月中旬には刊行できるのではないかとのことであった
夕方、先日の記事で紹介した退職記念誌のプチ・エッセイを読み直してみた
今から15-6年前にはどんなことを考えていたのかを確認するためである
まず気付いたことは、フランス滞在で発見したと思っていたことのかなりの部分は、退職前数年間で見つけていたということである
ただ、当時は想像の域にあったもの、表面的だったものが、実際に体験することで、より明確な考えになったり、そこに含まれる内容が豊かになったりというところはあるのだろう
その意味では、フランスに渡る前の問題意識はフランス滞在を経て一先ず解消されたように見える
問題は、フランス滞在中に生まれた新たな問題意識にどのように向き合うのかということだろう
こちらに関しては、まず問題を明確にすることだが、フランスに渡る前とは比べ物にならないほど多種多様なものが浮かび上がってくる
そうではあるのだが、塊を見せ始めたものから手をつけて行ってもよいのではないか
昔の文章を読んで、そんな感想が湧いてきた
2023年1月11日水曜日
「徳認識論と科学の形而上学化」再び
2023年1月10日火曜日
春のカフェ/フォーラムのご案内
2023年1月9日月曜日
準備の一日
今日は、準備中の免疫試論の索引に当たっていた
目に付いたものを拾い上げたせいか、大幅に削除しなければならなくなった
その基準をどうするのか考えていたが、なかなか 纏まらない
取り敢えず、細かい事柄については取り上げないことにしてやってみた
しかし、まだ整理が必要のようだ
毎日少しずつ削っていくしかなさそうである
それから昨日から今日にかけて、春のカフェ/フォーラムの案内を作っていた
気付いたことは、いずれも前回と繋がっているということである
少しは深まることになるのだろうか
この場には明日以降に発表する予定である
プロジェになった論文だが、今日は昔のメモを読み返すところに止まった
明日以降、前に傾くことができるのか
経過観察になる
2023年1月8日日曜日
新年早々プロジェを始めることができるのか
2023年1月7日土曜日
『免疫学者のパリ心景』の第一印象が届く
昨年刊行した『免疫学者のパリ心景』についてのツイートを検索しており、偶に覗くことがある
昨日、そこに懐かしい方の以下のようなツイートを発見し、驚く
研究所の図書室から帰ろうとした時、出入り口に立てかけてあった新刊に目がとまった。『免疫学者のパリ心景』。もしやと手に取ったら、昔私が在籍していた研究所におられた免疫学の研究者の著書。当時の颯爽とした風情で、今もパリを闊歩されているご様子のようだ。
15年振りくらいなので早速反応したところ、A氏から丁重なメールが届いた
ツイートにあるように、図書室で白地に青の何か他と違う気配を感じて思わず手に取ってみたところ、拙著だったという
その場で少しだけ読んだ時の感想が書かれてあった
まず、文章が読みやすいこと
活字ばかりのページでも、すっと読み進めてゆける不思議な感覚を持った
本でそのような感覚を得たのは、岡本太郎(1911-1996)の『今日の芸術』(こちらの方は平易な文章だが)を読んだ時以来である
これから購入してお読みいただけるとのこと、有難い
実は、A氏からは以前にもコメントをいただいたことがある
退職時に小冊子を作り、研究所の皆様に配布した
その中に以下のコラム(プチ・エッセイ)を載せた
ダニエル・バレンボイム vs スペシャリスト(2005.3.10)
われ観察す 故にわれあり(2005.8.31)
フランス語資格試験を受験して(2005.11.13)
太陽のもと新しきもの ・・・(2005.12.30)
イメージ、時間、現象学(2006.4.28)
今なぜ「科学精神」なのか(2006.9.26)
時空を超えたやり取り(2006.10.14)
科学すること、賢くなること(2006.12.15)
パスカルによる「私」の定義(2007.1.29)
過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)
全的に考える(2007.2.12)
そしてこれから(2007.6.30)
そして、その読後感が送られてきた
印象に残っているのは、次の2つである
まず、日頃の印象とは違っていたのか、わたしの中身はすべてが芸術なのですね、ということ
それから、なぜかル・コルビュジエ(1887-1965)を想起させたとあり、驚いたのである
それ以来のコメントであった
2023年1月6日金曜日
永遠の中で、これからの道に思いを馳せる
2023年1月5日木曜日
コリングウッドによる自然(76): 現代の自然観(18)自然の有限性(1)
2023年1月4日水曜日
コリングウッドによる自然(75): 現代の自然観(17)新しい物質論(6)
このように、現代の物質論は3つの二元論をすべて解決した
すなわち、衝撃と引力の二元論、エーテルと粗大物質の二元論、そして物理的量と化学的質の二元論である
しかしわたしは、ニュートン物理学を悩ましてきた物質と運動の二元論、物体から物体への運動の移動、物質と空間の二元論という問題についても触れた
これらの問題を解決することも現代物理学に課せられており、我々も現代の物質概念が問題解決できるかどうかを問わなければならない
物質と運動の二元論は消える
この二元論は、物質をある瞬間においてその完全な内在的特徴を持つものとし、運動は事故のようなものとして捉えることによっている
ここから、物質には動かなければならなかったり静止しなければならない本来的理由がないことになる
どの瞬間においても自らの完全な性質を実現しているので、他の瞬間に存在する理由がないのである
これが、デカルト(1596-1650)が神は瞬間瞬間に新しく世界を創造しなければならないと言った理由である
しかし現代の物理理論は、物理的であろうと化学的であろうと、物質をそれ自体の特徴――動くものである――を持つものとして見ている
従って、時間がその存在にとって一つの因子になり、存在するということは根本的に運動になる
個体から個体への運動の移動も消失する
全ての個体はいつも動いている
この運動は活動なので、内在的活動とか超越的活動という形は自ずと消えなければならない
従って、全ての物体はそれ自身を動かすものとして自らに働きかけると同時に、他の物体にはそれを動かすものとして作用しなければならない
2023年1月3日火曜日
コリングウッドによる自然(74): 現代の自然観(16)新しい物質論(5)
電子や光子は、空間の中で自由に行動しているときには粒子として振舞い、物質に出会うと波動として振る舞う
さらに、こう言っている
このようなすべての場合に、どのようにして粒子や波動としての図が同じ現実の二つの側面であるのかを示す完全な数学的理論がある。光は時に粒子として時に波動として振る舞うが、一度に粒子と波動であることはない。それは電子と光子についても同じである。
2023年1月1日日曜日
2022年12月30日金曜日
12月を振り返って
2022年12月29日木曜日
コリングウッドによる自然(73): 現代の自然観(15)新しい物質論(4)
Albert Michelson (1852-1931)
この後、大きな物質とエーテルの二元論を再考する必要が殆どなくなった
なぜなら、各瞬間において同一な物体から構成され、内在的な延長と質量を持つ物質が消えたからである
エーテルも、マイケルソン=モーリーの実験により消えることになった
この実験は、光が静止した媒体の中を伝達する乱れではないことを最終的に証明したのである
しかし、古い二元論の奇妙な遺物は、現代物理学の中に未だに生きている
光線だけではなくすべての電子は不思議にも、曖昧に行動することを現代の物理学者が証明した
時には粒子のように、時には波動のように動くのである
次に問われるのは、本当はどちらなのかということである
両方であるということは殆どあり得ない
なぜなら、もし電子が粒子ならば波動のようには振舞えないし、波動であれば時に粒子として振舞えないからである
そこで、ある物理学者は自らの心の状態をこう表現した
月水金には粒子説を信じ、火木土には波動説を信じている、と
粒子説は古典的な物理学の大きな物質という考えの幻影であり、波動説はエーテルという考えの幻影であることが明確になる
考えが死んだ時、幻影は歩き出すが、永遠にではない
現代の物質論では、電子は粒子ではあり得ない
なぜなら、粒子とはそれが成すこととは関係なく在る物質のことだからである
また、電子は波動でもない
波動というのは弾力性ある媒体における乱れのことで、その媒体は乱されていることとは関係なく、延長と弾力性を持つものだからである
2022年12月28日水曜日
コリングウッドによる自然(72): 現代の自然観(14)新しい物質論(3)
古い見方は変化を取り出して、ある瞬間の自然の全実在を考えることを可能にする。ニュートン(1642-1727)の見方によれば、そこで省かれたものは近接する瞬間における空間内での物質の分布の変化であった。しかしそのような変化は、ある瞬間における宇宙の本質的実在とは無関係なものとされたのである。移動は偶然であり、本質的ではなかった。同様に本質的なのは、持久であった。・・・現代的な見方では、過程や活動や変化は事実の本質なのである。ある瞬間には何も存在しない。各瞬間は事実を集める方法に過ぎない。従って、単純な根本的範疇とされる瞬間はないので、ある瞬間には自然は存在しないことになる。




















