2023年1月18日水曜日

再校ゲラの読み、始まる


































今日は用事があり、電車に乗る

暫くするとこんなアナウンスがあり、内心ニンマリ

 「これから野生動物が出没するエリアを通過します
  やむを得ず急ブレーキをかけることがございますので、ご注意ください」

これまで聞いたことがなかったように思うのだが、、

用事は順調に終わった

あまりに順調だったためか、家に戻ってからハプニングが

そこにどんな意味があるのか、もう少し先にならないと分からない



ところで本日、免疫試論の再校ゲラが届いた

今回は、見逃したミスを見つけることと、読み心地がどんなものかがポイントになりそうだ

まだ冒頭部分だが、今のところ問題は見つかっていない

自分の中では、かなりこなれてきているという印象であった








2023年1月17日火曜日

時間をおいて反応すること


























週末を跨いでフランスと書類のやり取りをしていた

こちらの考えで由としても、相手には相手の立場がある

それをクリアしなければならないのだが、現役の時にはなかなか認められなかった

フランスで瞑想的な生活に入り、そのあたりの許容力が一段と高まったと思ったのだが、まだまだであった

対応のポイントは、すぐに反応しないこと、時間をおいて考え直すことで、今回はこの週末を冷却期間とした

その結果、静かな気持ちで対応でき、結果的には問題なく終えることができた

これからも修行が必要であることが分かるエピソードであった



今日の最後に、やっと直近のプロジェとした論文に手を付けることができたのは幸いであった

まだほんの始まりで、先は長い












2023年1月16日月曜日

改めて、今年の方向性を確認する

























昨日のブログ記事を書きながら、一つの考えが巡っていた

それはこれまでに何度も浮かんだものだが、なかなか実行できていないものである

簡単に言うと、新しいところを求めるのではなく、これまでに蓄積したものについて、さらに深く探ることである

すでに自分の中にある大地の下を掘り進む作業になるので、精神的な安定感がまったく違うものと想像される

改めての確認だが、この十数年に堆積したものは当初の予想を遥かに超えている

ブログを少し読み返しただけでも、それが分かる

これから花開くであろう種が至るところにあり、放置しておくと朽ちてしまう

種を生かしきれないのである

こんな考えとともに、種を生かす方向で今年は歩みたいものである







2023年1月15日日曜日

ピュシスに向かう時か


























今月も半分が過ぎた

今春刊行予定の免疫に関するエッセイは今のところ順調に進んでおり、二校を待っている状態だ

これが小休止感を与えている

そのためか、2年ほど前から引っ掛かっていた問題について纏めるプロジェには、まだ手が付いていない

週が改まったので、ギアを入れ直すことにしたい


昨日出てきたピュシスφύσις)だが、この言葉を知ったのはマルセル・コンシュ(1922-2022)さんからであった

彼が言うピュシスは無限に広がるものを指している

科学が言う宇宙はビッグバンから始まる有限の世界で、ピュシスとは異なるという

そういう話を聞いていると、これまでとは違うイメージが浮かび上がってきて興味をそそられたのを思い出す

そろそろ探索する時が来ているのではないか

phusis (fr)

physis (en)








2023年1月14日土曜日

渡辺京二さんと親鸞さん

























今日の午後チャンネルをひねると、先月92歳で亡くなった渡辺京二(1930-2022)という思想史家が取り上げられていた

途中からだったが、小さきものの視点からものを見てきた方の人生と思想を回顧した番組のようであった

その視点は吉本隆明(1924-2012)との接触の中でご自分の中に確立されてきたものだという

吉本のことを自分の師であると言っていた


最後のところで、親鸞(1173-1263)について話していた

正確ではないかもしれないが、次のようなことを語っているところに興味を惹かれた

阿弥陀さんはすべての人を救うためにあると言われる

それはどういうものなのか

それは実在世界そのものではないのか

この世界に在るありとあらゆるものである

これを聞いて、古代ギリシア人が言ったピュシス(自然:存在するものすべて)を思い出した

その実在世界では、すべての生命体は肯定されている

そう感じることで、全ては救われるのである

「それでいいんじゃないか」と思われる時、阿弥陀さんが現れる

親鸞さんにもそのように阿弥陀さんが現れたのではないか

そんな想像をされていたように見えたのだが、








2023年1月13日金曜日

J'observe donc je suis、あるいは受け身であることの意味


























今日は用事があり、JRを利用

途中、車内放送が流れる

 「只今、鹿と衝突しましたので急停車いたしました」

可能性としてはありえたのだろうが、今回が初めての経験である

鹿さんにはお気の毒であったが、なぜか気持ちが解放されるのを感じた



今しがたテレビを付けると、大西寿男という校正者が取り上げられていた

最近ゲラの校正のやり取りをしたばかりなので、親近感を持ってその仕事ぶりを眺める

何ごとも仕事になると、どんどん深くなるようだ

次のような言葉が印象に残った

 「与えられた受け身ではなく、選び取った受け身であることを忘れない」

それから

 「受け身の方が理解できる」

というような言葉もあったように思う

そのエッセンスは、わたしが2007年に今の領域に入ってから感じ続けてきたことと重なった

より正確には、新しい領域を模索するようになってから、と言うべきだろう

それ以前は、どちらかというとアクターの側面が強かったのではないだろうか

そのため、周りを十全には理解できていなかったと今は思える

理解するためには、意識して受け身でいること、自らをまず感覚器に還元することが重要な要素になり得るのである

わたしの在り方を J'observe donc je suis.(われ観察する 故に我あり)と定義したことを思い出す







2023年1月12日木曜日

15年前のエッセイに触発されて















このところ寒さのためか、朝のうちはのんびりすることが多い

今日もそんな日であった

午後から免疫試論の索引の整理をやる

当初のリストから大幅に削減し、最終的には編集者のアドバイスに則り、一応の最終版を作ることができた

これから本文の再校が来ることになる

このペースで行くと、3月中旬には刊行できるのではないかとのことであった


夕方、先日の記事で紹介した退職記念誌のプチ・エッセイを読み直してみた

今から15-6年前にはどんなことを考えていたのかを確認するためである

まず気付いたことは、フランス滞在で発見したと思っていたことのかなりの部分は、退職前数年間で見つけていたということである

ただ、当時は想像の域にあったもの、表面的だったものが、実際に体験することで、より明確な考えになったり、そこに含まれる内容が豊かになったりというところはあるのだろう

その意味では、フランスに渡る前の問題意識はフランス滞在を経て一先ず解消されたように見える

問題は、フランス滞在中に生まれた新たな問題意識にどのように向き合うのかということだろう

こちらに関しては、まず問題を明確にすることだが、フランスに渡る前とは比べ物にならないほど多種多様なものが浮かび上がってくる

そうではあるのだが、塊を見せ始めたものから手をつけて行ってもよいのではないか

昔の文章を読んで、そんな感想が湧いてきた






2023年1月11日水曜日

「徳認識論と科学の形而上学化」再び


























今日は『免疫学者のパリ心景』の若い読者から嬉しい便りが届いた

読了後、特に印象に残ったのは、第5章にある「徳認識論と科学の形而上学化」についての節(318~323ページ)だったとのこと

エッセイで言えば、第101回(2021.7.10)に当たる

徳認識論と科学の形而上学化が結びつくという観察は「わたしの発見」であった

これなどは、さらに深めるべきテーマになるだろう

少しズレるが、科学から今の領域に入った当初、この領域における発見とは何を言うのかという疑問を抱えていた

しかし次第に、このような観察を発見と言っていいのだと考えるようになり、発見を求めるようになった

そして、そこに至った時には深い悦びを感じることも経験してきた

さて、『パリ心景』の感想に戻ると、総括として「パワーに溢れる書に感謝」というような言葉があった

これまでパワフルという形容はいただいていなかったのではないだろうか

こちらにも活力が伝わってくるようであった









2023年1月10日火曜日

春のカフェ/フォーラムのご案内

























2023年最初の会を以下の要領で開催することにいたしました
皆様の参加をお待ちしております
本年もよろしくお願いいたします



第9回サイファイ・カフェSHE札幌 
 2023年2月25日(土)15:10~17:30 
 テーマ: アナクシマンドロスと科学的思考 
 会場: フルーツ会議室 / 札幌駅前 


第7回 ベルクソン・カフェ / 第9回カフェフィロPAWL 
 2023年3月1日(水)18:00~20:30 
 テーマ: アラン・バディウの幸福論を読む(2)幸福と反哲学
 会場: 恵比寿カルフール B会議室 


第8回サイファイ・フォーラム FPSS 
 2023年3月4日(土)13:10~17:00 
 プログラム:
  矢倉英隆 シリーズ「科学と哲学」② ソクラテス以前の哲学者-2
  久永真市 遺伝子と個性
  市川 洋 「人間の基本的な在り方」と「科学の在り方」
 会場: 恵比寿カルフール C会議室


第16回サイファイ・カフェSHE
 2023年3月8日(水)18:00~20:30 
 テーマ: アナクシマンドロスと科学的思考 
 会場: 恵比寿カルフール B会議室 












2023年1月9日月曜日

準備の一日















今日は、準備中の免疫試論の索引に当たっていた

目に付いたものを拾い上げたせいか、大幅に削除しなければならなくなった

その基準をどうするのか考えていたが、なかなか 纏まらない

取り敢えず、細かい事柄については取り上げないことにしてやってみた

しかし、まだ整理が必要のようだ

毎日少しずつ削っていくしかなさそうである


それから昨日から今日にかけて、春のカフェ/フォーラムの案内を作っていた

気付いたことは、いずれも前回と繋がっているということである

少しは深まることになるのだろうか

この場には明日以降に発表する予定である


プロジェになった論文だが、今日は昔のメモを読み返すところに止まった

明日以降、前に傾くことができるのか

経過観察になる






2023年1月8日日曜日

新年早々プロジェを始めることができるのか

























年を跨いで取り掛かっていた免疫に関するエッセイ(試論)の初校ゲラの校正を終えた

これから二校を待ちながら、索引に当たることになる

それとは別に、以前から始めようと思っていたのだが、なかなか手につかなかった論文がある

一体いつからそう思っていたのかを調べたところ、何と2年も遡る

その時々に別のものに心が向かっていたのだろう

これは「わたしの発見」を纏めて第三者の批判を仰ぐという試みで、プロジェになる

新年早々避けたいと思っていたが、精神に緊張を与えるので偶にはやった方がよいのだろう

ということで、始めることができるのかどうか、これから様子を見ることになる











2023年1月7日土曜日

『免疫学者のパリ心景』の第一印象が届く



















昨年刊行した『免疫学者のパリ心景』についてのツイートを検索しており、偶に覗くことがある

昨日、そこに懐かしい方の以下のようなツイートを発見し、驚く

研究所の図書室から帰ろうとした時、出入り口に立てかけてあった新刊に目がとまった。『免疫学者のパリ心景』。もしやと手に取ったら、昔私が在籍していた研究所におられた免疫学の研究者の著書。当時の颯爽とした風情で、今もパリを闊歩されているご様子のようだ。

15年振りくらいなので早速反応したところ、A氏から丁重なメールが届いた

ツイートにあるように、図書室で白地に青の何か他と違う気配を感じて思わず手に取ってみたところ、拙著だったという

その場で少しだけ読んだ時の感想が書かれてあった

まず、文章が読みやすいこと

活字ばかりのページでも、すっと読み進めてゆける不思議な感覚を持った

本でそのような感覚を得たのは、岡本太郎(1911-1996)の『今日の芸術』(こちらの方は平易な文章だが)を読んだ時以来である

これから購入してお読みいただけるとのこと、有難い


実は、A氏からは以前にもコメントをいただいたことがある

退職時に小冊子を作り、研究所の皆様に配布した

その中に以下のコラム(プチ・エッセイ)を載せた

ダニエル・バレンボイム vs スペシャリスト(2005.3.10)

われ観察す 故にわれあり(2005.8.31)

フランス語資格試験を受験して(2005.11.13)

太陽のもと新しきもの ・・・(2005.12.30)

イメージ、時間、現象学(2006.4.28)

今なぜ「科学精神」なのか(2006.9.26)

時空を超えたやり取り(2006.10.14)

科学すること、賢くなること(2006.12.15)

パスカルによる「私」の定義(2007.1.29)

過去の自分を現在に引き戻す(2007.1.30)

全的に考える(2007.2.12)

そしてこれから(2007.6.30)


そして、その読後感が送られてきた

印象に残っているのは、次の2つである

まず、日頃の印象とは違っていたのか、わたしの中身はすべてが芸術なのですね、ということ

それから、なぜかル・コルビュジエ(1887-1965)を想起させたとあり、驚いたのである

それ以来のコメントであった







2023年1月6日金曜日

永遠の中で、これからの道に思いを馳せる





昨年の終わりあたりから、曜日の感覚が薄れてきたようだ

それまではウィークデーの感覚はあったのだが、それが消えている

これは非常に良い傾向で、永遠の空間を進んでいるように感じている

実はそこでは、進んでいるという感覚さえも薄れている

新年はこのような新しい感覚の中で始まっている


ところで今年は、例年のように目標としてのプロジェのようなものを設定しないことにした

お金を貰っているとそうはできないのだろうが、その心配はない

改めて言うまでもなく、人間は刻々変化している

1年の初めの状態と年末の状態が同じなどとは言えない

昨年を例にとっても、大きく変わっている

季節で区切ってみても同様であり、昨日と今日でも違い、一瞬前ともまた違う

ということで、年の初めにその年の自分を縛ることを止めることにした

丁度それができるタイミングにあったこともその理由になるのだろう


今日の午前中は、昨年書いたものの中にあった「これからやりたいこと」のリストを読み返していた

それを整理するのに3時間ほどかかったが、その後、頭の中がスッキリしたのを感じた

どれをとっても一筋縄ではいかない時間が掛かりそうなものばかりである

暫くは、それらを弄んで過ごせそうである

この段階が一番楽しいのかもしれない









2023年1月5日木曜日

コリングウッドによる自然(76): 現代の自然観(18)自然の有限性(1)
































まだ、物質と空間の二元論が残っている

寧ろ、物質の存在において時間が一つの因子となっているので、物質と時空の二元論と言うべきだろう

物質は、空間の中で進行し時間が掛かる活動である

この活動が占める時空と時空を占める活動との関係はどのようなものか


ニュートン(1642-1727)とは異なり、現代の物理学者は空虚な空間を認めない

物質は活動であり、一つの物体はそれが作用するところである

物質のあらゆる粒子は宇宙全体で作用するので、あらゆる物体はどこにでもある

この学説もまた、ホワイトヘッド(1861-1947)から明確に教えられたものである

それは、物質の延長――それは、物質のすべての部分は他のすべての外に在ることを含意するものだが――をあからさまに否定するように見える

しかし、実際にはそうではない

なぜなら、重複し相互に侵入する活動は、それぞれが自身の中心を持っており、その自己維持的側面において、問題の物体は中心に在り、それ以外にはないからである

従って、現代の学説はニュートンの空虚な空間を否定するのだが、その反対やすべての空間は物質で満ちているとするデカルト(1596-1650)の学説を主張するものではない

なぜなら、この学説における物質は活動やエネルギーではなく、粗大な物質だからである










2023年1月4日水曜日

コリングウッドによる自然(75): 現代の自然観(17)新しい物質論(6)



















このように、現代の物質論は3つの二元論をすべて解決した

すなわち、衝撃と引力の二元論、エーテルと粗大物質の二元論、そして物理的量と化学的質の二元論である

しかしわたしは、ニュートン物理学を悩ましてきた物質と運動の二元論、物体から物体への運動の移動、物質と空間の二元論という問題についても触れた

これらの問題を解決することも現代物理学に課せられており、我々も現代の物質概念が問題解決できるかどうかを問わなければならない


物質と運動の二元論は消える

この二元論は、物質をある瞬間においてその完全な内在的特徴を持つものとし、運動は事故のようなものとして捉えることによっている

ここから、物質には動かなければならなかったり静止しなければならない本来的理由がないことになる

どの瞬間においても自らの完全な性質を実現しているので、他の瞬間に存在する理由がないのである

これが、デカルト(1596-1650)が神は瞬間瞬間に新しく世界を創造しなければならないと言った理由である

しかし現代の物理理論は、物理的であろうと化学的であろうと、物質をそれ自体の特徴――動くものである――を持つものとして見ている

従って、時間がその存在にとって一つの因子になり、存在するということは根本的に運動になる


個体から個体への運動の移動も消失する

全ての個体はいつも動いている

この運動は活動なので、内在的活動とか超越的活動という形は自ずと消えなければならない

従って、全ての物体はそれ自身を動かすものとして自らに働きかけると同時に、他の物体にはそれを動かすものとして作用しなければならない






2023年1月3日火曜日

コリングウッドによる自然(74): 現代の自然観(16)新しい物質論(5)





























 James Jeans (1877-1946)




年は明けたが、昨年からのつづきになるコリングウッド(1889-1943)を読むことから始めたい



もし、電子や光子がある時は粒子のように、またある時は波動のように振る舞うとすれば、状況は深刻だろう

しかし、このような行動の違いを支配している法則がある

イギリスの物理学者ジェームズ・ジーンズから引用したい

電子や光子は、空間の中で自由に行動しているときには粒子として振舞い、物質に出会うと波動として振る舞う

さらに、こう言っている 

このようなすべての場合に、どのようにして粒子や波動としての図が同じ現実の二つの側面であるのかを示す完全な数学的理論がある。光は時に粒子として時に波動として振る舞うが、一度に粒子と波動であることはない。それは電子と光子についても同じである。

ジーンズが言っている数学理論とはハイゼンベルク(1901-1976)の波動力学のことだが、わたしの理解を完全に超えている

ただ、その形而上学だけには関心がある

その視点から見れば、この理論は理解不能とは程遠いのである


精神と生命だけではなく物質も内在的、本質的に活動だとする現代の見方を真剣に受け取ることにしよう

また、物質世界を構成する活動とは空間に分布し、時間の中で展開するとする見方についても真剣に受け止めることにしよう

そうすると、我々が物質の粒子と呼ぶものは、活動の中心ということになり、それは同様の他の中心と空間的に関係している

その活動は必然的に、2つの特徴を持っている

第一はそれ自身との関係において、そして第二には他の所謂粒子との関係において

それ自身との関係について言えば、自己発展的で自己を維持する過程である

それは、自己充足的で永続的な何か、実体についての古い形而上学的概念を適応できる何かである

この自己を維持する活動においては、現代物理学の電子をライプニッツ(1646-1716)のモナド(単子)になぞらえることができるかもしれない

他の電子との関係においては、外から他の電子に加えられる活動であり、環境における乱れに過ぎなくなる

電子とはそれがするところのものであり、その実体は活動に過ぎないことを思い出せば、電子の実体が2つの性質を持つに違いないことを理解できるだろう










2022年12月30日金曜日

12月を振り返って

























あと1日で今月も終わりになるので、このあたりで振り返っておきたい

今月は以下のようなことをやっていた



1)免疫に関する本のゲラ校正に当たっていた

今月上旬には初校ゲラの校正は終えていた

これから編集者の校正ゲラと突き合わせを行わなければならない

年を越すことに間違いはない

1月上旬には終えたいものである

二校、三校とあるので、来年1月は第4コーナーを回ってラストスパートとなるのだろうか

いつも思うことだが、本を出すということは、なかなか大変な作業である



2)来年1回目のカフェ/フォーラムの構想を練っていた

2月末から3月上旬に開催予定の会だが、その大枠が見えてきた

新年早々には案内を公表できるようにしたい

よろしくお願いいたします



3)今月もコリングウッドの自然に関する考えを読んでいた

自然についての一つの見方を学んでいるという印象である

同時に、哲学の歴史を眺めるようなところもあり、これから読み進む上で参考になるだろう

この本が終わった後も、このような営みは継続したいものである



4)これからのテーマのようなものを考えていた

今月の下旬に入り、これからやりたいことが少しずつ見えてきたように感じている

ただ、所謂プロジェとして具体的なステップを思い描けるようなものではなく、長いスパンで共にいることができるような少し大きなテーマが浮かんでいる

これからどのような展開を見せるのか、今は全く想像できない

経過を注意深く観察していく予定である









2022年12月29日木曜日

コリングウッドによる自然(73): 現代の自然観(15)新しい物質論(4)


















Albert Michelson (1852-1931)



この後、大きな物質とエーテルの二元論を再考する必要が殆どなくなった

なぜなら、各瞬間において同一な物体から構成され、内在的な延長と質量を持つ物質が消えたからである

エーテルも、マイケルソン=モーリーの実験により消えることになった

この実験は、光が静止した媒体の中を伝達する乱れではないことを最終的に証明したのである

しかし、古い二元論の奇妙な遺物は、現代物理学の中に未だに生きている

光線だけではなくすべての電子は不思議にも、曖昧に行動することを現代の物理学者が証明した

時には粒子のように、時には波動のように動くのである

次に問われるのは、本当はどちらなのかということである

両方であるということは殆どあり得ない

なぜなら、もし電子が粒子ならば波動のようには振舞えないし、波動であれば時に粒子として振舞えないからである

そこで、ある物理学者は自らの心の状態をこう表現した

月水金には粒子説を信じ、火木土には波動説を信じている、と

粒子説は古典的な物理学の大きな物質という考えの幻影であり、波動説はエーテルという考えの幻影であることが明確になる

考えが死んだ時、幻影は歩き出すが、永遠にではない

現代の物質論では、電子は粒子ではあり得ない

なぜなら、粒子とはそれが成すこととは関係なく在る物質のことだからである

また、電子は波動でもない

波動というのは弾力性ある媒体における乱れのことで、その媒体は乱されていることとは関係なく、延長と弾力性を持つものだからである






2022年12月28日水曜日

コリングウッドによる自然(72): 現代の自然観(14)新しい物質論(3)



























ここでもまた、物質の根本的な概念が大きく変化していることが明らかになる

古い考えでは、1個の物質はそれがそれであるものである

そのため、永遠に変わらない性質を持っているので、様々な機会に様々に振る舞う

1つの物体が衝撃あるいは引きつける際に力を及ぼすのは、それ自身の中にある質量を持っているためである

しかし今では、物体に属するエネルギーがその振舞を説明するだけではなく、各物体の質量や延長をも説明する

1立方インチの鉄がその大きさであるのは、鉄を構成する原子の引力と斥力の平衡によるが、鉄の原子はそれを構成する電子の引力と斥力のリズミカルなパターンによっている

従って、化学的特性だけではなく、物理的、量的性質さえも活動の関数として考えられているのである

ここで再び、化学だけではなく、物理学の基礎的な領域においても、物質と精神・生命との新しい類似性が現れた

物質は、存在が運動と独立し、運動に先立つ領域にあるものとして精神や生命と対比されるものではないのである

このような意味を科学的にトレーニングされた哲学者によって明確に認識されていたことを示すために、初期の数学者、物理学者としてのキャリアが哲学者として仕事で見事に継続されているホワイトヘッド(1861-1947)の『自然と生命』の一節を引用してみよう

古い見方は変化を取り出して、ある瞬間の自然の全実在を考えることを可能にする。ニュートン(1642-1727)の見方によれば、そこで省かれたものは近接する瞬間における空間内での物質の分布の変化であった。しかしそのような変化は、ある瞬間における宇宙の本質的実在とは無関係なものとされたのである。移動は偶然であり、本質的ではなかった。同様に本質的なのは、持久であった。・・・現代的な見方では、過程や活動や変化は事実の本質なのである。ある瞬間には何も存在しない。各瞬間は事実を集める方法に過ぎない。従って、単純な根本的範疇とされる瞬間はないので、ある瞬間には自然は存在しないことになる。