2022年7月20日水曜日

ゲーテの言葉から(26)、そしてパスツール生誕200年記念シンポジウム























今日はズーム会議から始まった

今年はパスツール(1822-1895)生誕に200年に当たる

この機会に、日本パスツール財団(FPJ)が記念の会を計画されており、そのための具体的な相談があった

記念シンポジウムは11月17日(木)午後の予定で、セミナーと座談会の二本立てになるようだ

詳細が決まり次第、改めてアナウンスしたい


さて、今日もゲーテ(1749-1832)である

1829.4.11(土)

「ろくろく才能もないのに、音楽に打ちこんでも、その人はむろん巨匠にはなれる筈がないが、巨匠の作ったものを知り、評価するようにはなるだろうね。私もさんざん努力をしてみたものの、画家にはなれなかった。けれども、あらゆる美術の部門を探索してみたおかげで、一本一本の線を説明できるようになり、ほめるべき点と不満な点を区別できるようになった。これは、けっして小さな収穫とはいえない。じっさい、誤った傾向といっても、何ら得るところがないなどということはめったにないことだ。同様に、たとえば、聖地解放を目指した十字軍は、明らかに誤った傾向ではあった。しかし、それによって、トルコ人がたえず弱体化され、ヨーロッパ支配の野望が妨げられたという結構な結果はちゃんとあったのだ」



1829.9.1(火)

「懐疑の時代は過ぎ去っている。今や神はおろか、自分自身を疑う人もいない。その上神の本性や霊魂の不滅や霊魂の本質やそれと肉体との関係といったようなことは、永遠の謎であって、哲学者もこの点ではわれわれを前進させてはくれないのだよ。現代のあるフランスの哲学者は、大胆にも自分の論文を次のように書き出している。『人間が、二つの部分から成り立っていることは、周知の通りである。すなわち、肉体と霊魂である。したがって、われわれは、肉体から考察をはじめ、つぎに霊魂に移りたい。』だが、フィヒテ(1762-1814)はすでに一歩先を歩いていて、次のような言い方で、もうちょっと賢明にこの問題から身をかわしているよ、『われわれは、肉体としてみた人間と霊魂としてみた人間について論じてみたい。』彼は、これほど密接に結びついて一体化しているものは、切り離そうにも切り離せないことを、よく感づいていた。カント(1724-1804)は、今さらいうまでもなく、いちばんわれわれにとって有益だね。つまり彼は人間の精神がどこまで到達できるかを見定めて、解決できない問題には手をつけなかったからさ」


「ドイツ人が哲学上の問題の解決に悩みぬいている間に、イギリス人の方は、その偉大な実践的知性を発揮して、われわれを嘲笑しながら世界を征服している。奴隷売買に反対するイギリス人の長口舌はみんなも知っている。そしてこういう姿勢の根底にはどんなに人道的な原理があることか、といってわれわれをたぶらかそうとしているが、今や、その真の動機が現実的な目的にあるということは明らかだよ。周知の通り、こういう目的なくしては、イギリス人は決して何もしないのだから。我々の方もこれを心得ておくべきだったのさ」



(山下肇訳)











2022年7月19日火曜日

根拠のない楽観に身を任せて

























今日は銀行に用事があり、街に出た

北の町とは言え、歩いていると結構暑い

先日の東京でもそうだったが、本当にぐったり、げんなりする

時の経過は如何ともし難い


街を歩いていると、若き日の心景が蘇ってくる

なぜあれほど根拠のない楽観に身を任せていることができたのか

未だに分からない

冷静に振り返ると、今まで生き延びてきたことが奇跡にしか見えない

そして、その楽観がこの歳まで続いているというのだから、驚きを通り越して呆れてしまう


さて、銀行では嬉しい言葉を聞くことができた

担当の若い行員さんが『パリ心景』を注文、すでに読了されたというのだ

感想を聞いてみたところ、非常に読みやすく、普段触れることのない世界が開けたように感じたとのこと

もともと哲学や科学には興味があったようで、免疫に関する本にも食指が延びそうな感じであった


これまでの大雑把な印象だが、科学に打ち込み、それ以外に注意が向かわないような方は、この本がなかなか入ってこないという感想を持たれるようだ

語彙や文型の影響かもしれないし、そもそも思考が全く違っているという印象なのだろうか

文系の人、あるいは文化に開かれている科学者の場合には、そんなことはないようである

これからの問題は、この本が人の目に触れるかどうかに掛かっているような気がしてきた

触れる機会があれば、何かが広がる可能性も出てくるだろう



時間があったので、紀伊國屋と丸善・ジュンク堂を巡ってみた

いずれにも『パリ心景』はしっかりと並んでいた

やはりいずれにも、懐かしいクリルスキーさんの『免疫の科学論』(みすず書房、2018)が陳列されていた

しかし、これらは膨大な書籍の海の一滴にしか過ぎないのである

それが掬い取られることは、ほとんど奇跡に近い



































2022年7月18日月曜日

ゲーテの言葉から(25)


























1829.4.7(火)

「これまでアイルランドでは、二百万のプロテスタントが、五百万の優勢なカトリックのお陰で、どんなにひどい状態に置かれていたかは先刻承知の通りだ。たとえば貧しいプロテスタントの小作人などは、カトリック教徒に隣り近所をとりかこまれてひどく圧迫され、痛めつけられ、苦しめられてきたものだ。カトリック教徒は、仲間同士でいると仲が良くないが、いったんプロテスタントに対抗するとなると、いつも一致団結する。ちょうど咬み合いばかりやっているくせに、鹿でも現れたとなると、たちまち一団となって突進する猟犬の群みたいなものだ」



「それ(世界の大事件をやすやすとやってのけたこと)は、偉大な才能には生まれつきのことだよ。ナポレオン(1769-1821)が世界を手玉にとるのは、フンメル(1778-1837)がピアノをひきこなすようなものだった。・・・ことにナポレオンが偉大だった点は、いつでも同じ人間であったということだよ。戦闘の前だろうと、戦闘のさなかだろうと、勝利の後だろうと、敗北の後だろうと、彼はつねに断固としてたじろがず、つねに、何をなすべきかをはっきりとわきまえていて、彼は、つねに自分にふさわしい環境に身を置き、いついかなる瞬間、いかなる状態に臨んでも、それに対処できた。ちょうど、フンメルにとっては、アダジオだろうがアレグロだろうが、バスだろうがディスカントだろうが、演奏に変わりがなかったのと似ている。平和な芸術においても、戦争の技術においても、ピアノに向かっていても、大砲のうしろにいても、真の才能の行くところ、可ならざるはなしだな」


「プリエンヌ氏のこの書物(『ナポレオンのエジプト遠征』)には、ナポレオンがエジプトにたずさえていったいろんな書物のリストがのっているが、中には、『ヴェルテル』もはいっている。ところで、この目録を見て注目すべき点は、書物をさまざまな項目に分類する方法だ。たとえば、『政治』の項目には、『旧約聖書』『新約聖書』『コーラン』などがあげられている。このことから、ナポレオンが宗教的なものをどういう観点から眺めていたかが、わかるね」




1829.4.10(金)

「いつの時代にもくり返し言われてきたことだが、自分自身を知るように努めよ、とね。しかしこれは考えてみると、おかしな要求だな、今までだれもこの要求を満足に果たせたものなどいないし、もともと、誰にも果たせるはずはない。人間というものは、どんなことを志しても、どんなものを得ようとしても、外界、つまり自分をとりまく世界に頼るものだ。そしてなすべきことといえば、自分の目的に必要な限り、外界を知り、それを自分に役立たせることだ。自分自身を知るのは、楽しんでいるときか、悩んでいるときだけだ。また、悩みと喜びを通してのみ、自分が何を求め何を避けねばならぬかを教えられる。だが、それにしても人間というものは、不可解な存在であって、自分がどこから来てどこへ行くのかもわからず、世の中のこともろくろくわかっていないし、ましてや自分自身のことになると何よりもわからないのだ。私もやはり自分を知らないし、また知ることなど真平御免だね」



(山下肇訳)












2022年7月17日日曜日

ヘルベルト・ブロムシュテットという音楽家





























Herbert Blomstedt  ⒸHesekiel




今日は朝から雨模様

アトリエに行くのを止め、暫く雨音を聴いていた

午後、手持ち無沙汰になったのでテレビのスイッチを入れる

すると、何とものどかな田園風景が出ていて、足元が覚束ない老人の後ろ姿が映し出されていた

少しして、指揮者のブロムシュテット(1927- )の特集であると分かった

御年95の最長老と言ってもよい指揮者である

これまでドイツ人だと思っていたが、スウェーデンのご出身

スウェーデンは長い間離れていたが、僅かな時間でもそこに戻ると心から寛げるという



湖のほとりで、こんなことを言っているのを聞き、この方の内的生活の一端を見たように思った

それは、「スコアはイデアの世界、景色は現実の世界」というもの

"meditieren"(瞑想する)という言葉も聞こえてきたので、自らに向き合う時間を意識して取られていることを想像させる

おそらくそれ故、内面が静寂の中にある

ルツェルンの書斎でスコアを研究している様子を眺めていると、どういう生活がそれを生み出しているのかが見えてくる

それは日常から離れて音楽に浸りきるという哲学的生活と言ってもよいものだろう

その空間から、そしてそこにある存在の中心から我々に語り掛けているのが分かるのである

ただ、こんなことも言っていた

いつも自分と向き合っていると病気になる

人間は自分のことだけを考えては生きていけない



今は人生のすべてを振り返りながら音楽に向き合い、勉強し直しているように見える

昔はスコア第一だったが、最近はその演奏家がどういう人間なのかに興味が出てきたという

年を取るとともに、他者を共に感じる(感じたいと思う)ようになってきたが、この感傷はやはり老化現象なのだろうかとも言っていた

メンデルスゾーン(1809-1847)の「音楽家に必要なことは、他者の偉大さを認めることだ」という言葉もよく入ってきた



今回初めて、ブロムシュテットさんの内面を知ることになった

ブロムシュテットさんが言葉を大切にしていることの証なのだろうが、わたしの胸に届く言葉に溢れた番組であった

おそらく、それ故、幸福な時間となった

雨音はまだ聞こえている









2022年7月16日土曜日

ゲーテの言葉から(24)















1829.4.3(金)

「大衆の人気を得るためには、偉大な統治者は、その人に偉大さがありさえすれば、他にどんな手段もいらないのだ。その努力と活動によって、国家が内では繁栄をとげ、外では尊敬を受けるということになれば、ありったけの勲章をぶらさげて、立派な馬車におさまろうが、熊の毛皮にくるまり、口に巻煙草をくわえて、お粗末な貸馬車に乗ろうが、何をしようと国民の愛を獲得し、つねに同じ尊敬を受けている点では全く変わりない。けれども、君主に個人的な偉大さが欠けたり、善政を施いて国民に愛されるすべをわきまえないとすれば、他の統一の手段を考慮せざるをえないのだ。それには、宗教とその儀式をともに楽しみ、ともに行うこと以上にすぐれた効果的な手段は存在しない」


「『ヴェルテル』が出ると、早速イタリア語の翻訳がミラノで出たよ。ところが、じきに初版全部が一冊残らず売り切れてしまった。司教が手を回して、教区にいる聖職者たちに全数を買占めさせたというわけさ。私は腹も立たなかったね、それどころか、『ヴェルテル』がカトリックにとって悪書であるといち早く見抜くような具眼の士のいることを知って嬉しくなり、即座に、もっとも有効な手段をとって、それを極秘裏にこの世から抹殺した点に、感服せざるをえなかったよ」


1829.4.6(月)

「もちろん、彼の人格はずばぬけたものだったよ。けれども、大事なことは、人々が彼を指導者と仰いでいれば、自分たちの目的がかなえられると確信した点にある。だから、彼のものになってしまったのさ。だが、そういった確信をおこさせる人なら、相手えらばすそうするわけさ。俳優たちにしても、いい役につけてくれると信じれば、新しい舞台監督でも、いうことをきくじゃないか。これはお古い話だが、相変わらずむし返されている話だね。人間の本性とは所詮そんな仕組みになっているのだ。誰も、自ら進んで他人に仕える者はいないよ。だが、そうすることが結局自分のためになると知れば、誰だって喜んでそうするものさ。ナポレオン(1769-1821)は、人間を十二分に知りつくしていた。それで、人間のこの弱点を存分に利用することができたのだね」


「私は、彼(フランソワ・ギゾー、1787-1874)の講義を読みつづけているが、相変わらず卓抜なものだな。今年のは、およそ八世紀まで行く。彼は、どんな歴史家のばあいにも、これほどまでに偉大ではなかったと思われるほどの深い読みと透徹した目を備えている。人がとても考え及ばないようなことが、彼の目にとらえられると、重要な事件の根源として、この上なく大きな意義を帯びてくる。たとえば、ある種の宗教上の意見の優勢が、歴史にどんな影響を及ぼし、原罪や恩寵や善行などの教義が、時代時代に応じて、さまざまな形態をとったのはどういう理由によるのかなどという問題がはっきりと解明され、立証されていることがわかる」


「ギゾーは、昔のガリア人が他の民族から受けた影響について述べているが、とくに目についたのは、ドイツ人の影響を論じていることだ。『ゲルマン人は』と彼はいっている、『個人の自由という理念をわれわれにもたらしてくれた。これこそ、何にもまして、この民族に個有のものであった。』この言葉は、まことに立派ではないか? 彼の言うところは、まったく正しいではないか? またこの理念は、今日に至るまで、われわれのあいだに生きていはしないか? 宗教改革も、ヴァルトブルクの学生組合の蜂起も、賢明なことも、愚劣なことも、みなここから起こったのだ。猫も杓子も新生面を開拓しなければならぬと思いこんでいることも、同様に、わが国の学者が隔絶孤立して、自分の立場を守り、その立場から、自分の本領を発揮しているのも、みなそこから来ているのだ。それと反対に、フランス人やイギリス人は、はるかに堅く団結し、たがいに他人を見ならっている。服装や態度にも共通したものがある。彼らは、人目に立ったり、いい笑い者にされたりしないように、他人と違ったことをするのを恐れている。しかし、ドイツ人は、めいめい自分の考えを追い、自分自身を満足させようとする」


(山下肇訳)





2022年7月15日金曜日

ゲーテの言葉から(23)































今日、帝京大学の歴史学者フランク・ミシュランさんから以下のツイッター投稿があったことを知った





このように『パリ心景』を紹介、推薦していただき、感謝に堪えない

フランスに渡る前、旧日仏学院にあった留学センターでミシュランさんからフランス留学についての貴重な助言をいただき、心を強くしたことを鮮明に記憶している

そのことにも改めて感謝したい


さて本日も、ゲーテ(1749-1832)を読むことにしたい


1829.2.17(火)

「この哲学(インド哲学)は、イギリス人(コールブルック、1765-1837)の報告が真実だとすると、別段変わったところがあるわけではないね。その中にはむしろわれわれ自身がみんな一度は通る時代がくり返されているにすぎないのだ。われわれは、子供のころは、感覚論者だ。恋をして、恋人に、現実には存在しない性質を見るようになると、理想主義者になる。この恋もぐらつきだして、誠実さというものを疑うようになると、いつのまにやら懐疑主義者になる。そうなると、あとの人生はどうでもよくなる。われわれは、なるがままに任せるようになり、ついにはインドの哲学者たちみたいに、静寂主義になるというわけさ」



1829.2.18(水)

「人間の到達できる最高のものは、驚異を感じるということだよ。根源現象に出会って驚いたら、そのことに満足すべきだね。それ以上高望みをしても、人間に叶えられることではないから、それより奥深く探求してみたところで、なんにもならない。そこに限界があるのさ。しかし、人間はある根源現象を見ただけではなかなか満足しないもので、まだもっと奥へ進めるにちがいない、と考える。ちょうど子供みたいに、鏡を覗きこむと、その裏側になにがあるのかとすぐ裏返して見ようとするようなものだ」


メルク(1741-1791)のような人間は、もうぜったいにこの世に生まれてこないだろうな。よしんば、生れてきたところで、世間の方が別の人間に育て上げてしまうだろう。要するに、私やメルクが若かったころというのは、とてもいい時代だったわけだ。ドイツ文学にしてもまだまっさらな板みたいなものだったから、われわれは嬉々としてそこにすばらしいものをたくさん描きたいと願った。今ではいっぱいに書きこまれ、塗りつぶされてしまって、そんなものを見るのもうんざりだし、利口な人間なら、自分がこれからどこに描いたらいいものやら、皆目見当がつかない始末さ」



1829.2.19(木)

「詩人として私がやってきたことなど、どれに対しても少しも自負などもっていないさ。優秀な詩人が、私と同時代にはいたし、前の時代にはもっと秀れた詩人がいたし、これからもそういう人は生まれてくるだろう。しかし、今世紀になって色彩論という難解な学問において、正しいことを知ったのが私ただ一人だということは、私のいささか自慢にしていることがらだ。だからこそ、私も多くの人よりすぐれているのだという意識を持っているわけなのさ」



1829.3.23(月)

「私の性分は、そういうもの(豪華な建物や部屋)にまるっきり向いていない。カールスバートに持っていたような豪壮な邸宅にいると、私はたちまち怠け者になって、なにも仕事をしなくなる。ところが、今われわれがいるこの粗末な部屋(書斎)みたいに、一見雑然としているようでいてそれなりにちゃんとおさまりのついた、若干ジプシー風な趣もあるといった、見すぼらしい住居の方が、居心地がいいのだよ。ここにいると、私の精神は自由奔放になれるので、活動的になって進んで仕事をするようになるのさ」



(山下肇訳)



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今日の言葉の中では、最後のものが自らに重ねることができ、最も共感できた










2022年7月14日木曜日

ゲーテの言葉から(22)














カレンダーを見ると、今日はフランスの革命記念日になっている

もうかなり遠くに行ってしまったという印象が拭えない

さて、ゲーテ(1749-1832)である


1829.2.12(木)

「彼(ラグランジュ、1736-1813)は、じつに善良な人間だった。まさにそれあるが故に偉大だった。なぜなら、善良な人が才能に恵まれると、かならず世の中の救済のために道徳的な影響を及ぼすにちがいないからね。芸術家だろうが、自然研究者だろうが、詩人だろうが、あるいはどんな道を進もうが、そのことに変わりはない」


「厳格なもの、偉大なものとは、どういうことかをイタリアで学んだ」


「およそ偉大なものや聡明なものは、この世の中に少数しか存在しないのだ。国民にも国王にも反対されながら、自分の偉大な計画を孤立無援で貫徹した大臣たちがいた。理性がポピュラーなものになるとは、とても考えられないことだ。情熱や感情なら、ポピュラーになるかもしれないが、理性は、いつの世になってもすぐれた個々の人間のものでしかないだろうね」


1829.2.13(金)

「このようにして、ある民族はその英雄を生み、英雄は、汎心みたいに、先頭に立って民族の守護と救済にあたるのだ。同じように、フランス人の詩的な能力はヴォルテール(1694-1778)に集約されたのだよ。こういう民族の旗頭は、彼らが活躍する時代においては、偉大だ。後世まで、影響をあたえる人物もいるにはいるが、大部分は、他の頭にとってかわられ、次の時代には忘れられてしまうのさ」


「私にしても、もし自然科学で苦労しなかったら、あるがままの人間を知らずに終わったにちがいない。他のことはどれをとっても、あんなに純粋な直観や思考ができる筈がないし、感覚や悟性の誤謬とか、性格の弱さ強さなどを見つけ出すこともできないよ。つまりすべてのものは、多かれ少なかれ、屈折しており、揺れ動いており、多かれ少なかれ、人の意のままになるものだ。しかし、自然は、けっして冗談というものを理解してくれない。自然は、つねに真実であり、つねにまじめであり、つねに厳しいものだ。自然はつねに正しく、もし過失や誤謬がありとすれば、犯人は人間だ。自然は、生半可な人間を軽蔑し、ただ、力の充実した者、真実で純粋な者だけに服従して、秘密を打ち明ける」


「悟性は、結局、自然には到達できないのだ。神性に触れるためには、人間は自分を最高の理性にまで高めるだけの力がなければだめだ。神性は、自然と人倫の根源現象の中に顕われている。神性は根源現象の背後にひそんでいる。もともとそれは神性から出発しているのだ」

「しかし、神性は、生きているものの中に働いており、死んだものの中には働かないのだ。生成し変化するものの中にはあるが、生成の終わったもの、固まってしまったもの、の中にはない。だから、神性へ向かう傾向のある理性は、もっぱら生成しつつあるもの、生きているものだけを相手にする。悟性は、生成の終わったもの、固まってしまったものを相手にし、利用しようとするのだ」

「したがって鉱物学は、悟性のための学問、実生活のための学問といえる。つまり、その対象はもはや生成を止めた死んだものであって、そこでは綜合(ジンテーゼ)は考えられないからね。・・・われわれは仮説という想像の島々に向かって舟を漕ぎだすが、おそらく真の綜合は、おそらくいつまでも未知の大陸に留まるだろう。植物や色彩のようにきわめて単純な事態においてすら、何らかの綜合に到達するということが、どんなに難しかったかを想起すれば、それも別段不思議でもなんでもないのだよ」


(山下肇訳)








2022年7月13日水曜日

ゲーテの言葉から(21)































昨日、『パリ心景』についての感想にあった「楽しそうな語り口」という言葉がどこかに残っていたのだろう

今朝目覚める時、それ以前にいただいた「心や思考がダイナミックに躍動している」という感想と繋がった

もしそういうものがあったとすればであるが、別の人がそれを見て「楽しそう」だと思ったのではないか

そこにある実態は一つだが、それをどう見るのかは人によって異なってくる

という、ありふれたことになるのだが、第三者の言葉は多くのことを教えてくれる


さて、今日もゲーテ(1749-1832)である

まず、霊魂の不滅についての考えが開陳される

これは『パリ心景』でも触れたテーマである

彼の考えを聞いてみたい


1829.2.4(水)

ヘーゲル(1770-1831)と同じように、彼(クリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト、1739-1791)もキリスト教を哲学の領域へ引きずりこもうとしているが、そんなことをやってみたところで毒にも薬にもならないよ。キリスト教は、それ自体強力なものであり、むしろ時には落ちぶれたり、悩んだりする人類は、いつも、キリスト教によってみずからを立ち直らせてきた。キリスト教にこうした働きのあることを認める以上、それはあらゆる哲学を超越したものであり、哲学の力を借りる必要など毛頭ないわけだ。同様に、哲学者の方も、ある種の説、たとえば霊魂不滅説のようなものを証明するために、宗教の名声に頼る必要などないのだ。人間は、不死を信じていいのであり、人間は、そうする権利をもっているし、それが、人間の本性にかなっているのであり、宗教の約束するものを期待していいのだよ。だが、哲学者がわれわれの霊魂の不滅を、伝説を用いて証明しようとしたら、それはじつに説得力がとぼしく、たいして意味のないことになる。私にとっては、われわれの霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくるのだ。なぜなら、私が人生の終焉まで休むことなく活動して、私の精神が現在の生存の形式ではもはや持ちこたえられない時には、自然はかならず私に別の生存の形式を与えてくれる筈だからね」


それから嬉しいことに、17世紀オランダの画家オスターデ(1610-1685)について語っているではないか

もう13年前になるが、この画家を発見した時の悦びが蘇ってきた

この記事にあるいくつかの絵をご覧いただきたい

兎に角、素晴らしいのである

ゲーテはこんなことを言っている

「それは、感性に訴えてくる魅力だ。いかなる芸術も、この感性的魅力を欠くわけにはいかないが、この種の題材では、それが充溢している。これと反対に、芸術家がいっそう高い目標を描こうとして観念的なものに入っていくと、十分な感性をかねそなえることが難しくて、無味乾燥になりやすいのだ」


(山下肇訳)








2022年7月12日火曜日

ゲーテの言葉から(20)































昨日、『パリ心景』を読了されたという方から感想が送られてきた

この本は基本的にオムニバスである

しかし、恰も書下ろしのように全体が有機的に繋がっていて、思索の道筋がよく分かるとのことであった

さらに、著者の「楽しそうな語り口」が印象に残ったという言葉を読み、驚いた

自分では想像もしていなかったからだ

もし考える楽しさが滲み出ているとすれば、思索を希求している方には伝染する可能性があるかもしれない

そんな期待をしたところで、今日もゲーテ(1749-1832)に当たりたい


1828.11.18(火)

「イギリスの批評家たちが今日どれほど高いレベルに達しているか、どれほどすぐれた才能をもっているかを知って、たのしいよ。以前の杓子定規の傾向はもうすっかり影をひそめて、それに代わって偉大な特性ができてきている。最新号(『エディンパラ評論』)に掲載されたドイツ文学に関する一論文中、次のような意見がある。『詩人たちの中には、他の人が忘れたがっているようなことにいつも首をつっこみたがる傾向の持主がいる』とね。さて君はどう思うかね? これで、われわれの状況は一目瞭然だし、最近のわが国の文学者たちのほとんどはどう分類すればよいかもわかるというものだ」



1828.12.16(火)

「ドイツ人というのは、俗物根性から抜けきれないね。だから、彼らはシラー(1759-1805)の作品の中にも、私の作品の中にも、印刷されているいろんな二行詩のことを、いまだにぶつぶつ論争したり、どっちが本当のシラーの作であり、どっちが私の作なのか決着をつけるのが大事だ、などといっているよ」

「シラーと私のように、長年の間つき合い、同じ関心をもち、毎日のように顔を合わせてはおたがいの意見を交換していると、お互いに水魚の交わりができるので、個々の思想についてそれがどちらのものなのかといったようなことは、どだい、話にも話題にもなるはずがない」


「だいたいこの世界は、現在では老年期に達していて、数千年このかたじつに多くの偉人たちが生活し、いろいろと思索してきたのだから、いまさらあたらしいことなどそうざらに見つかるわけもないし、言えるわけもないよ。私の色彩論にしてからが、完全に新しいものだとはいえない。プラトン(427 BC-347 BC)やレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)や、その他たくさんの卓越した人々が、個々の点では私よりも前に、同じことを発見し、同じことを述べている。しかし、私も、またそれを発見し、ふたたびそれを発表して、混迷した世界に真理の入っていく入口をつくろうと努力したこと、これが私の功績なのだよ」

「それから、真理というものはたえず反復して作り上げられねばならないのだ。誤謬が、私たちのまわりで、たえず語られているからだ。しかも個人個人によってではなく、大衆によって説かれているのだからね。新聞でも、百科全書でも、学校でも、大学でも、至るとことで誤謬はわがもの顔をしている。自分の見方が大勢いると感じるから、いい気になっているわけさ」


「じっさい、ヴォルテール(1694-1778)のような偉大な才能ともなれば、書くものは何を書いてもたいしたものだ。あの厚顔無恥だけはまったくいただけないが」

「彼は高貴な人間だった。それほど自由で無鉄砲だったにもかかわらず、礼儀作法の限界をいつもわきまえていた」


(山下肇訳)


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12月16日の3つ目の言葉

わたしがフランスで感得したことと完全に重なっており、パリ心景』でも取り上げている

ゲーテがどんどん近くに寄ってくるようだ

その上で、どんなことでも自分で発見する(=自分が重要だと思うことを掬い上げる)ことが重要なのである

そして、それは「わたしの真理」となり、その先の真理への一つの材料となる

人類の遺産に対する態度がこのように固まってきたようである











2022年7月11日月曜日

第7回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内





新型コロナの影響で2019年秋からお休みしておりましたサイファイ・フォーラムFPSSを再開することに致しました

予定は以下の通りです

今回は開催できることを願っております



第7回サイファイ・フォーラムFPSS

日時: 2022年10月1日(土) 13:20~17:00

会場: 恵比寿カルフール C会議室















プログラム: 

(1)13:20~14:00 矢倉英隆  シリーズ「科学と哲学」 ① イントロダクション

(2)14:00~15:30 渡邊正孝  変性意識と無意識

(3)15:30~17:00 岩永勇二  『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!


詳細は、こちらのサイトをご覧ください

なお、フォーラム終了後には懇親の会も予定しております

興味をお持ちの皆様の参加をお待ちしております

申し込みは、矢倉英隆(she.yakura@gmail.com)まで

よろしくお願いいたします











2022年7月10日日曜日

ゲーテの言葉から(19)
































1828.10.7/6(火/月)

なぜこの地球上には、黒人、褐色人種、黄色人種、白人という雑多な人種が住んでいるのか、そして、全人類はたった一組のアダムとイヴから発生したという話は認められるのか、について

「むしろ私としては、自然というものはつねに豊かであり、それどころか浪費をもいとわないものである、と言いたいくらいだ。つまり、たった一組のあわれな夫婦どころか、自然はいっぺんに何ダースも、いや何百人も、人間をこの世に送り出したと考える方が、はるかに自然の意にそっているといいたいのだ」

「つまり、地球がある成熟の段階に達して、水が流れひき、乾いた土地が緑におおわれたときに、人類の発生期が訪れたのだ。全能の神の力のおかげで、住める土地ならどこにだって、たぶん最初は高地に、人間は生まれ出たのだよ。こうしたことが実際起こったのだと認める方が、私は理性的なことだと思う。しかし、それがどうして起こったか、などと思い煩うことは、無駄な話だよ。そんなことは、解決できない問題にかかずらって喜んでいて、ほかのこととなるとからきし駄目な連中に、勝手にやらせておけばいいのさ」



1828.10.8(水)

「あんな善良な人(イェーナ大学の文献学者)が、イタリアのことをあんなに有頂天になってしゃべるのを聞けば、私も悪くとるわけにはいかない。実際私自身がどういう気持ちを抱いていたか、よく覚えているからさ! たしかにこう言っていい、私はローマにいたときだけ、人間の真の姿を感じていた、とね。あれほどの感情の高揚、あれほどの幸福な感情には、その後二度と達することはなかったよ。ローマにいた時の私の状態とくらべれば、実際その後は、もう心たのしくなったことは決してないね」



1828.10.11(土)

「彼(カーライル、1795-1881)が評論するときの信念は、とくに貴重なものだ。それに、じつにまじめだよ! われわれドイツ人をじつによく研究している! 彼は、われわれ自身も及ばぬくらいドイツ文学を自家薬籠中のものにしているね。少なくとも、われわれのイギリス文学研究の程度ではとても彼にはかなわない」


「君にうちあけておくのだが、これは、すぐにでもいろんなことに役に立って、生涯君のためになるはずだからね。私の作品は世にもてはやされるようなことはなかろう。そんなことを考えてみたり、そのために憂身をやつしたりする人間は間違っているよ。私の作品は大衆のために書いたものではなく、同じようなものを好んだり求めたり、同じような傾向をとろうとしているほんの一握りの人たちのためのものなのだ」



1828.10.20(月)

「ひとかどのものを作るためには、自分もひとかどのものになることが必要だ。ダンテ(1265-1321)は偉大な人物だと思われている。しかし彼は、数百年の文化を背後に背負っているのだよ。ロートシルト(ロスチャイルド)家は、富豪だ。けれども、あれだけの財宝は、一代にして築き上げたものではない。こういうことには、どれ一つとっても、人が想像するよりももっと深い根があるものだ。古代ドイツにかぶれたこの国の美術家連中は、こんな事情をまるで知らないのさ。個性もひよわで、美術家としても無能なくせに、自然を模倣して、一人前の美術家だとうぬぼれているのさ。彼らは自然の下風に立っている。しかし、何か偉大なものを創ろうとする者は、自分の教養を向上させ、ギリシャ人みたいに、自分よりも劣っている現実の自然を自己の精神の高みにまで引き上げ、自然の現象の中では内部的な弱さやあるいは外部的な妨害のために単なる意図にとどまっているものを、現実に創り出さなければならないのだよ」


(山下肇訳)








2022年7月9日土曜日

ゲーテの言葉から(18)

























1828.9.11(木)

「ここに描かれているシラー(1759-1805)も、例の通り、高貴な天性を完全に失わないでいるよ。・・・何ものにも制約されず、あの思想の翼をひきおろすようなものは何一つない。彼の心の中に生きている偉大な見識は、遠慮会釈なくいつでも自由に口をついて出る。これこそ本当の人間だったのだ、みんなもあのようにならなければだめだよ!――ところがだ、われわれはいつだって何かしら制約を感じている。自分たちを取り囲む人とか物とかに影響をうけている。・・・こういった次第で、いろいろと気兼ねをしているうちに、いつしか心も麻痺してしまい、われわれの天性に備わっているかもしれない何か偉大なものを自由に表現するまでにはいたらないのさ。われわれは、外界の事物の奴隷にすぎず、事物がわれわれを委縮させるか、のびのびさせるかに応じて、われわれは、つまらない人間にも見えれば、偉い人間にも見えるのだよ」



1828.10.1?(水)

アリストテレス(382 BC-322 BC)は、どんな革新的な学者よりもよく自然を見ていた。しかし、自分の意見をまとめるのに性急すぎた。自然から何ごとか得ようとするなら、ゆっくり時間をかけて自然を探求しなければだめなのだ」

「私が、自然科学の対象を研究して、ある見解に到達したとしても、ただちに自然が自分の意見の正しさを認めるべきだなどと望んだことはなかったね。むしろ私は、観察や実験を試みながら、自然の後に従っていき、自然が時として私の意見を好意的に実証してくれるようなことがあれば、それで満足だった。そうでないときにも、自然は、私を他の着想へ導いてくれたので、私はそれに従った。おそらく自然の方でも、それを確証することを、どちらかというと、望んでいるようだったね」



1828.10.3(金)

「人間には、明るさと晴朗さが必要なのだから、かつて秀れた人びとが完璧な教養に達したような時代、その結果、彼ら自身快適であり、さらに彼らの文化の恩恵を他の人びとにも及ぼすことのできたような芸術や文学の時期に、どうしても目を向けることが必要なのだ」


「そんな偉大な外国作家たち<ヴォルテール(1694-1778)やウォルター・スコット(1771-1832)>とくらべれば、もちろん、ドイツの近代作家など相手にならないね。しかし、君がだんだんと内外のすべてに通ずるようになり、詩人の必要とする高度の世界的教養というものが一体本来どこからもたらされるべきかをわきまえるようになるのは、結構なことだよ」

「結局、君はウォルター・スコットのどんなところを読んでも、その描写にじつに安定感と完全性があるのに気づくだろうが、そういったものは、彼の現実世界に対する包括的な知識から生まれているのだ。一生をかけて研究や観察を怠ることなく、重大なことを日ごろから十分に検討していたからこそ、あれほどの域まで達したのだ。しかも、彼は、偉大な才能をもち、包容力のある人物だった! 君は例のイギリスの評論家(カーライル、1795-1881)が、詩人を歌手の声にたとえたことを思い出すがいい、人によってはほんの僅かしかいい音を思うように出せないのに、一方では高音から低音まできわめて幅広い音を完全にあやつれる人もいる、というのだ。ウォルター・スコットは、後者に属するな」


(山下肇訳)








2022年7月8日金曜日

ゲーテの言葉から(17)

























今朝、出かける前にテレビを付けると、何とも懐かしい方が出ていた

熊田千佳慕(1911-2009)

フランスに渡る前にテレビで観て感動したことを思い出す

その番組が今日のものと同じかどうかは定かでないが、その時のメモが残っている

その後、一時帰国した時の記事も見つかった

立ち読みで熊田千佳慕さん(2010.8.12)


ほんのりした気持ちになってからアトリエへ

今日もゲーテを読みたい


1827.7.15(日)

「フランス人たちはどうも事実にとらわれすぎて、観念的なものを思いえがくことが不得手だ。ところが、ドイツ人の方は、観念的なものを自家薬籠中のものにしている。インドのカースト制度について、この人(ハインリヒ・レオ、1799-1878)はきわめてすぐれた見解を有している。貴族主義と民主主義の話をいつもよく聞かされるが、ことはきわめて簡単だ。つまり、若い頃は、われわれは何も所有していないか、所有というものの安らぎの有難味がわからないので、民主主義者となる。ところが、人生を長く生きているうちに、財産がたまると、これを守りたいと願うだけでなく、子供や子孫にも自分の手に入れたものをのんびりと享受させてやりたいとも願うのだ。したがって、たとえ若い頃に他のいろんな思想にかぶれていても、年をとると、いつも例外なく貴族主義者になる。レオはこの点について聡明に語っている」

「たしかに美学の分野において、わが国はもっともおくれているようだ。だから、われわれの中から、カーライル(1795-1881)のような人物が登場してくるには、仮すに時をもってしなければなるまい。しかし、現在では、フランス人やイギリス人、ドイツ人の間で親しく交渉することで、おたがいに補正しあえるようになってきているのは、まことに好ましいことだ。これは世界文学にとっては大きな利点となり、この利点はますます現れてくるだろうね。カーライルはシラー(1759-1805)の伝記を書き、全体として、まずドイツ人にはちょっとまねできないような批評を下している。ところが、われわれも、シェークスピア(1564-1616)やバイロン(1788-1824)に通暁し、その業績をおそらくイギリス人自身より見事に評価できるだろうよ」

 

1827.7.21(土)

「このような不安を、マンゾーニ(1785-1873)は駆使して、しかもすばらしい成功をおさめている。つまり、彼は不安をときほぐして感激に変え、感激によってわれわれを驚歓させるにいたるからだ。不安という感情は元素のようなもので、読者ひとりひとりの胸に生じるだろう。しかし、驚歓は、作者がその場面場面でいかに見事に腕をふるっているか、を理解してはじめて生じてくるものであり、したがって、目ききの人だけが、これを感じとる能力にめぐまれているわけだね」

「フランス人は、われわれほどには純粋に愛着を感じながら作品を受け入れるようなことはめったにない。彼らは著者の立場に立って考えることがおっくうなのだし、どんなすぐれた作品に対してさえも、彼らの心にそぐわないところ、著者がもっと違ったように書いてもよさそうなところを見つけ出すのが、いつもうまいというわけさ」

「四つのことがマンゾーニに有利に働いて、彼の作品をじつにすぐれたものにすることに役立っている。第一に、彼が卓越した歴史家であり、そのため、彼の文学は大きな威厳と説得力にめぐまれ、それが、通常小説ときいてすぐ思い浮かべるようなもののすべてから、彼の文学を一頭地を抜いたものにしている、ということだ。第二に、かれがカトリックであることが有利に働いており、もしプロテスタントであったら、得られなかったろうと思われるような詩的な状況がいろいろと生じている。同様に第三として、著者が革命の軋轢にひどく悩まされたことが、彼の作品に役立っている。彼自身はその渦中にまきこまれなかったにせよ、彼の友人たちはそれに出くわし、そのうちのある者はとうとう身を滅ぼしてしまったのだ。そして最後に、第四にだが、この小説に幸いしたのは、これがコモ湖畔の魅力的な地方を舞台に展開されており、しかもこの地方の印象は、若い頃から詩人の心ふかく刻みこまれているので、この地方をすみずみまで知りつくしていることだ」


(山下肇訳)






2022年7月7日木曜日

ゲーテの言葉から(16)


























1827.6.20(水)

「人間が事前や遺贈やあたたかい寄進によって罪をつぐなうことができ、またそもそもそれによって神の恩恵に浴するまでになれるという善行の教義は、カトリックのものだ。しかし、宗教改革者たちは、これに反対する立場のために、この教義をしりぞけ、代わりに、人間はひたすら、キリストの功績を認識し、彼の恩寵にあずかるよう努力すべきであり、そうすればまちがいなくそのまま善行にも通じることになる、という教義をうちたてた」



1827.7.5(木)

「私は何千年もの歴史を学びながら生きてきたので、立像や記念碑の話を聞くと、いつも妙な気がする。功労者のために建てられる彫像のことを考えると、必ず心の中に、それが将来軍人の手で倒され破壊されている光景がすぐに浮かんできてしょうがないのだ」


「現代のドイツの美学者たちはたしかに、対象が詩的であるとかないとか、さかんに論じている。それもある点では、全然まちがっているわけでもないだろうが、ひっきょう現実の対象で詩的でないものなど何一つないのであって、要は詩人がそれを適切に用いるすべを知っているかどうか、というだけのことだよ」


「フランス人ならば、悟性が邪魔するから、彼らには、想像力というものが、固有の法則をもっていて、悟性もそれに手出しはできないし、また手出しすべきではない、ということがわからないだろう。悟性にとっては永遠に解決できないようなことが、想像力によって生み出されるのでなければ、そもそも想像力などというものはあまり大したものではないよ。ここが詩と散文の分かれ目で、散文ではつねに悟性がわがもの顔をしているが、それで差しつかえないのだし、またそうでなければいけないのだよ」



1827.7.9(月)

「私はフランス人については、どんな点でも心配していない。彼らは世界史的観点からは、じつに高い位置を占めているので、彼らの精神はもはやどんなやり方をもってしても抑圧することはできない。この制限法(1827年6月24日、ブルボン王家が出版の制限を強化)は、よい方向にだけ働くだろう。ことに制限が本質的なものには何ら関係なくて、ただ個人個人に対してだけ加えられるのだ。何ら制限のない反対は、あさはかなものになる。しかし制限が加えられると、反対するにも、いやでも機智に富まざるをえなくなる。これはじつに大きな長所だよ。自分の意見を直接あらっぽく述べるのも、その人があらゆる点で正しい場合にかぎって許されるし、よいことでもあろう。しかしながら、党派というものは、それが党派であるというまさにその理由によって、全く正しいということはありえないのだよ。したがって、党派には間接的な表現方法が適しているわけで、この点では、フランス人は昔から偉大な模範になっていた。私が召使にずばり『ハンス、長靴をぬがせてくれ!』といったとする。それで彼にはわかるのだ。しかし、友人が居あわせたからといって、そういう用事をたのんだりするときは、これほど直接的にいえるわけがないし、あたりの柔らかい、親しみ深い言いまわしを考えなければだめなわけだ。こうしてはじめて、彼の心を動かし、親切にしてもらえるというわけだろう。何かを強いるということは、精神を刺戟する。だからこそ前にもいったように、出版の自由を制限することも、私はむしろ好ましいことだと思うのだ。フランス人はこれまでつねに、機智に富んだ国民であるという名声を維持してきたし、その名に値するだけのことはある。われわれドイツ人は、とかく自分の意見を率直に述べてしまう傾向があり、婉曲に言いまわせるまでにはいたっていないのだよ」


(山下肇訳)










2022年7月6日水曜日

ゲーテの言葉から(15)































今日は不在者投票に出かけた

兎に角、頭の中が濁ったままの政治ではどうしようもないので、変化を求める方向で投票した

日本の政治は本質的には変わらないというのが基本的な見立てだが、せめて表層のところだけでもスッキリさせないと精神衛生によろしくない

それが天空からの眺めである


昨日、その昔お世話になった先生から『パリ心景』についての感想が送られてきた

まず、これまでエッセイを一遍一遍読んできた時の印象と全く違うことに驚いたとあった

今回の本では、それらがある流れで繋がっているためか、著者の心や思考がダイナミックに躍動している様子が見て取れるという

嬉しいコメントであった

そして、装丁の素晴らしさが永久保存に相応しいとも書かれてあった

さらに、表紙のイラストが一体何を意味しているのかに興味を駆り立てられたという

先日のランデブーで出ていたのは、例えば、ドン・キホーテや Knight-errant、あるいはケンタウロスなどなど

しかし、正解には至っていなかった

これは、次回お会いする時までのお楽しみということにしたい

さて、本日もゲーテ(1749-1832)である



1827.4.11(水)

ルーベンス(1577-1640)の風景画について

「これほど完ぺきな光景は、自然の中ではとうてい見られるものではなく、この構図は画家の詩的精神の産物なのだ。しかし、偉大なルーベンスは、なみなみならぬ記憶力にめぐまれていたので、自然を全部頭の中に入れておき、いつでも自然の細部を思う存分使いこなせたのだ。そこから全体や細部のこの迫真性は来ているわけで、それで、われわれは、すべてが自然そのままの模写だと思いこんでしまうのだよ。今日では、こういった風景画は、もうまるっきり描かれなくなった。こういう感じ方や、自然の見方が完全になくなってしまったのだ。現代の画家には詩が欠けている」


「君たちも私と同じように、五十年来教会史を研究してきたのでなければ、こういったすべてのことのつながりはつかめないだろう。ところが、マホメット教徒がその宗教教育をはじめるとき、どんな教えを用いるかというと、これがきわめて変わっているのだ。人間は、一切のものを導く神によって前から定められた運命以外のものに遭遇することが決してない、という確信を、かれらはまず若者にたたきこんで、宗教の基礎としている。このようにして彼らは安心立命し、それ以上のものをほとんど必要としないわけだ」

「私はこの教えが正しいか、それともまちがっているか、有益であるかそれとも有害であるかといった点を、せんさくしようとは思わない。しかしながら、実のところこういう信仰は、教えをうけたことがないにしても、いくらかはやはり、われわれみんなの心の中に巣くっているものなのだよ。戦場の兵士は、自分の名を書きこまれていない弾丸など、自分には当たらない、というが、もしこのような確信をもたなければ、いつふりかかるかもわからない危険のただなかで、どうして兵士は勇気と明るさをもちつづけられよう!」

「それから哲学の教育では、マホメット教徒は、どんなことでもその反対がいえないようなことは存在しない、ということを最初に教える。いかなる主張が出されても、反対の意見を見つけて発表させることを若者たちの課題にすることで、その精神を鍛えあげるのだ。こうすれば、考えることにも、話すことにも、十分熟達を見るにきまっているからだ」

「ところが、提出されたそれぞれの命題についてその反対が主張されたあとには、いったい二つのうちのどちらが本当に真実なのか、という疑いが生ずる。しかしいつまでも疑いつづけるわけにはいかないので、疑いは精神をはげましてさらに詳しい研究と吟味に向かわせ、これが完全な方法でなされると、そこから確信が生まれるのであり、このことが目的なのであって、そこにおいて人間は完全な安心の境地を見出すのだ」

「この教えには何一つ欠点がないということ、われわれの有するあらゆる体系をもってしてもこれ以上のことは望みえず、またどんな人もこれ以上に達しえないということが、君もわかっただろう」


カント(1724-1804)が最もすぐれている、まちがいなくね。彼はまたその学説の影響が今日にいたるまでやまないことを証明され、現代ドイツ文化の一番奥ふかく滲透した人なのだからね」

「いや、カントは全く私に注意を向けようとはしなかったよ。私は自分の本性から、彼と似たような道をたどるにはたどったのだが。私が『植物の変態』を書いたのは、カントのものを知る以前のことだったが、それにもかかわらず、これが全く彼の学説の精神で書いているのだな。主観と客観との区別、さらには、全ての被造物は、それ自身のために存在し、たとえば、コルクの木は、われわれの壜の栓に使うために生えているのではないという見方、これはカントとわたしに共通のものだったし、この点で彼と一致したのは嬉しかった」


(山下肇訳)








2022年7月5日火曜日

ゲーテの言葉から(14)























 船越 佳(1951- )『私は街を飛ぶ』(2022)



1週間程度のオフであったが、敢えて言えば1ヵ月ほどに感じられる

実際には永遠の中にいたという感覚で、それはまさに至福の中なのだ

これも今に集中するエネルゲイアの効果だろうか

その中で人と言葉を交わすということが加わると、その感覚をさらに増強させる

昨日ご一緒した方からも、至福の時だったというメールが届いていた

またの機会に期待したいものである


さて、すでに大昔に感じられるゲーテの言葉に耳を傾ける試みを再開したい

現代から一気に2 世紀を遡るといったところだろうか

それでは、始めたい


1827.2.1(木)

「私は、自然科学をかなり多面的に研究してきた。しかし、私の研究の方向は、いつもこの地上にあって私のすぐ周りに存在し、私が感覚でじかに知覚できるような対象にだけ向かっていた。だからまた私は、天文学には決して手をつけなかった。天文学では、感覚ではもはや役立たず、そればかりかこの分野ではきっと器具や計算や力学の世話にならなければだめだが、これは、優にそれだけのための一生を必要とするもので、わたしの本分ではなかったからだよ」


1827.2.16(金)

ヨハン・ヴィンケルマン(1717–1768)の『ギリシャ芸術の模倣について』について
「ときどき、彼が一種の手さぐりをしている箇所にぶつかるだろう。しかし偉大な点は、彼の手さぐりがいつでも何かを暗示していることにあるのだ。彼はちょうど、まだ新世界を発見してはいないが、すでにその存在を心の中で予感していたころのコロンブス(c. 1451-1506)に似ているよ。彼のものを読むと、何も学ぶことはないが、何かにはなる」

「さて、マイヤー(1760–1832)はさらに一歩進んで、芸術についての知見の頂点に達した。彼の『美術史』は不朽の作品だ。しかし、もし彼が青年時代にヴィンケルマンによって開眼し、この道を進まなかったならば、とてもこのようにはならなかっただろうね。だから、偉大な先駆者がどんなことを行うか、またこうした人をしかるべく利用することがどれほど意味をもつか、あらためてわかるだろう」


1827.4.11(水)

「私は大気につつまれた地球を、ちょうどたえまなく息を吸い、息を吐いている大きな生きもののように考えている。地球が息を吸いこむと、大気は地球にひきよせられる。そのため大気は地球の表面近くに集まってきて、固まって雲となり、雨となる。この状態を、私は水の肯定と名づけている。この状態が無際限につづけば、地球は水びたしになるだろう。しかし、地球はいつまでもそうさせてはおかない。地球はまた息を吐き出しはじめ、水蒸気を上の方へおいあげる。すると、水蒸気は上層の大気圏のすみずみにひろがって、希薄になるから、太陽の光がさしこんでくるばかりでなく、はてしない空間の永遠の闇までが澄んだ青色にすいて見えるのだ。この大気の状態を、私は水の否定と名づけている。なぜなら、逆の場合には、大量の水が上の方から下降してくるだけでなく、地球上の湿気も蒸発せず、乾燥もしないのに、この状態では、湿気が上の方から下降しないだけでなく、地球上の水分までが放散して上昇していくから。これが無際限につづけば、地球は、太陽に照らされなくとも、乾燥して干からびてしまうおそれがあるからなのだよ」


「君が生涯の信念としてもてることを教えてあげよう。自然の世界には、われわれが近づきうるものと近づきえないものがあるということだ。これを区別し、十分考慮し、それを尊重することだ。この二つの内の一方がどこで終わり、もう一つの方がどこで始まるかを知るのは、たしかにいつも困難なことではあるが、ともかく、そういう区別があることを知るだけでも、必ずわれわれの助けになる。これがわからない人は、おそらく一生涯、近づきえないものに取りくんで苦労し、結局、真理に近づくこともできないだろうよ。ところが、これを知る賢い人は、近づきうるものだけをよりどころにするだろう。そして、この領域内で、あらゆる方向に進んでいき、自分の考えを確立すれば、この道をたどっても、近づきえないものから何ものかをつかむこともできるだろう。むろんこの場合でも、結局は、多くの事柄にはある程度までしか近づくことができないし、自然は、つねにその背後に何かしら間接的なものをひそめていて、それを究めることは人間の能力ではとうてい及ばないということを、認めることになるだろうが」


(山下肇訳)



▣ 最後の件などは、『パリ心景』でも取り上げているエピクテトス(c. 50–c. 135)の哲学を想起させる。













2022年7月4日月曜日

学友とのランデブー

























本日は久し振りに雨が降り、凌ぎやすかった

緑が際立ち、どこか静かな空気が流れる湿った道を歩くというのは、気分を鎮めてくれる

そんな中、これも恒例になった「旧交を温める」会に出向いた

同期生の深津、池田の両先生との会食である


今回はわたしの本の出版を祝すという気持ちもあったようだ

早速その本を出し、表紙が素晴らしいということになった

絵の意図を図りかねていたようだが、簡単な説明をすると納得していた

すでにエッセイで読んでいる話なので、ピンとくるのに時間はかからなかった

そう言えば、深津氏は、わたしの最後はその絵の主人公と同じだ(少なくとも外形的には)と言ったご本人であった

池田氏はあまりにも読みやすいので(想定外のお言葉)、すでに読了したとのことで驚いた


今の日本で、この手の本を欲する層がどれだけいるのか分からないとの声も聞こえた

確かに、知のレベル(種類の違い)にはいろいろあり(それは本書のテーマでもある)、どのレベルを求める人が多いのかは想像できる

ただ、ゲーテが指摘していたように、わたしが求めるレベルを欲する人は確実にいると信じたいものである


お二人の著者評は、読者のことは気にせず、自分の言いたいことを言うタイプとのことなので、当世厄介ではある

また、表紙のアイディアを考えた人は、そのあたりのことをよく知っている人ではないのかとの診断

おそらく、誤診ではないのだろう









































2022年7月3日日曜日

6月を振り返って


























6月はリラックスすることが多い月となった

久し振りのことである

具体的には、以下のようなことがあった


1)『免疫学者のパリ心景』が世に出た

  この機会に書店を巡ったり、本を手に入れた方からお話を聞くことになった

  本の装丁がよいという感想が、最も多かったのではないだろうか

  本の制作に関わった方々に改めて感謝したい

  これは全くの個人的な感想になるが、無事に船出をしたと言えるのではないだろうか
  
  これから広く永く読まれることを願うばかりである

  わたしも著者を知るために、折に触れて読み返すことにしたい


2)免疫に関するエッセイについて

  刊行に向けての具体的な作業に入るのは、秋口からになりそうである

  この予定から言えば、刊行されるのは年を越すのではないだろうか

  それまでの間に中身がさらに熟成することを願いたい

  
3)スピノザの小説とゲーテの声に耳を傾けることになった

  スピノザに関しては作者の考えを聞いたところに止まった

  しかし、ゲーテの方は予想外の展開になっている

  これまでゲーテと縁があったとは思わない

  だが今回、彼の日常とその言葉を読んでみて、意外な面白さに目を見張ることになった

  同時代人も含めた人物評を交えながら、わたしも興味のあることについて語っているからだろう  

  「時を超えて」19世紀がすぐそこにあるという感覚である

  これが古典を読む醍醐味になるのだろう

  もう少し読み進むことができるだろうか


4)サイファイ研の催し物の再開について

  今年の秋から少しずつカフェやフォーラムを開いていこうという考えに傾いてきた

  COVID-19の状況次第ではあるのだが、、

  3年ほどのブランクがあるので心と体がなかなか付いていかない

  現段階で開催を予定しているのは、7回目になるサイファイ・フォーラムFPSS

  実際に開催できることを願っている

  
  
  













2022年7月2日土曜日

仙台で旧交を温める
































本日も拷問のような暑さの中、仙台まで足を延ばした

毎年の恒例行事のようになってきた「旧交を温める」ためである

この地も負けず劣らずの暑さで、がっくり、ぐったりである

昨日撮った写真に写っていた我が身を見て、これは相当やられているな、という印象を持った


昔、同じ研究領域で研究を共にした田村眞理先生との会食があった

もうお一方、島礼先生は訪問医療の現場を担うお仕事を始めたばかりとのことで、お忙しく都合がつかなかったようだ

飲み歩いているわたしとはだいぶ違う人生を歩まれている

小堀鷗一郎(1938- )先生の選択を思い出させる


今回も面白い話を伺うことができた

まず、身構えて『パリ心景』を読み始めたが、これまでのところは意外にすんなり入ってくるので驚いているとのこと

文章の流れが自然だという評価であった

フランスに至る過程やフランスでの生活を読んだ感想は、出会いに恵まれているということであった

その通りだと思う

フランス文化、あるいはヨーロッパの面白さについての話がしばらく続いた

わたしも初心者ではあるが、このような話ができる悦びを感じていた


研究分野の流れも大きく変わっているようで、例えば創薬に結び付くような研究でなければ意味がないというのが分野の考えになってきているという

科学は役に立ってなんぼというところに来ているようだ

今の世に生まれていたとすれば、果たして科学に入っていたかどうか分からないと思わせる展開である

感じるのは時の流れである

つい最近まで若手研究者と思われていた人たちも次々に定年を迎えている

研究生活、さらに言えば、人生はあっという間の出来事であることを改めて確認していた


田村先生はまだ週4日は仕事をされているとのこと

頭が下がる

ご趣味は、極上の文章と音楽を味わうことだという

こちらもあやかりたいものである

またの機会が巡ってくることを願っている












2022年7月1日金曜日

人生の指南書としての『免疫学者のパリ心景』
































相変わらずの酷暑

少し歩くと体の芯から熱くなるので危ない

熱中症が大変だというのがよく分かる

今日は、熱中症ではないかと自己診断して、イタリア語講座をキャンセルされた方とのランデブーとなった

大変な時にお時間を割いていただき、感謝である

次第に調子を取り戻されたとのことで安心した


我々の年代になると自分自身だけではなく、連れ合いや周りの人が病に侵されるので大変だというお話

現在だけでなく、将来を考えるだけで気が滅入るということだろうか

話を聞きながら、わたしはある悟りに達しているのではないかと自己診断していた

これは『パリ心景』にもあるテーマになるが、次のようなことである


我々は死すべき運命にある生物である

あっという間に地球上から影も形もなくなる

そのことを明確に、厳粛に、理解できるかどうかがカギになる

それができると生き方は変わらざるを得ない

そこで重要な役割を果たすのが哲学である

これこそが哲学の根源的な役割である

科学ではどうしようもないのである


ほとんどの人間は何らかの病気で亡くなる

それは決まっているのだから、病気になる前にやるべきことをやっておくことだろう

病気になってからでは遅いのである

生きるということは、それまでに何をどのようにやるのかを考えることではないのか

何ものにも囚われることなく

そんな考えが浮かんでいた


さらに、生物のこの有限性から離れる道があるという考えも根強い

肉体が滅びることは論を俟たないが、魂の永遠についての議論である

パリ心景』で取り上げているのは、プラトン(427 BC-347 BC)やトルストイ(1828-1910)の考えなどで、いずれもわたしにとって興味深い議論を展開している

こうしてみると、この本は人生の指南書としても読めるということになる

タイトルの背後に思わぬ世界が広がっている