b)形而上学の伝統的な概念の混乱した状態:超感覚の存在に関係する超えて在る「メタ」と存在の本質に特徴的な非感覚の「メタ」が結び付いている
形而上学の伝統的概念は内在的に混乱している
アリストテレスにおいては、超感覚の知である神学の横にもう一つの問いの方向性があった
それは元々、存在そのもの「オン」の知に関する問いに属していた
トマス・アクィナスはアリストテレスの2番目の方向性を引き継いだ
存在一般が「第一哲学」の対象になったのである
したがって、存在そのものに関してわたしが問う時、必然的に個別の存在を通り越していくことが明らかである
単一性、他と異なっていること、差異、対立などに向かう
ただ、個別のものを超えて存在していることは、特定の存在を超えて在る神とは全く異なっている
このように根本的に異なる種類の超えて在るものが一つの概念に結び付けられている
問題はそのことについて問われないことである
より一般的に言うと、
第1の神学の知の場合、存在そのものとして感覚を超えて在るという意味における非感覚的なるものの知である
第2の場合、単一性、他と異なっていること、差異、わたしが味わうことも重さを測ることもできないものをわたしが強調する時はいつも、超感覚ではなく非感覚な何か、感覚からは近づけない非感覚な何かのことである
このように見ると、アリストテレス哲学の中にあった問題が引き継がれた限りにおいて、形而上学の概念そのものは混乱しているのである
c)形而上学の伝統的概念の問題とはならない性質
形而上学の伝統的概念はこのように矮小化され混乱しているので、形而上学そのもの、あるいは適切な意味における「メタ」は問題にされない
逆に言えば、人間が完全に自由な問い掛けをすることとしての哲学は中世では不可能であったので、アリストテレス形而上学を2つの方向性に則り引き継いだことは、最初から信仰の教義だけではなく第一哲学そのものの教義が生まれるように体系化されたのである
古代哲学がキリスト教の信仰へ、そしてデカルトで見たように近代哲学に引き継がれるという奇妙な過程は、適切な問い掛けを確立したカントによって初めて断ち切られたのである
カントは初めて形而上学自体を問題にすることを試みた
ここでそのことを詳細に論じることはできないが、詳しく知りたい人はわたしの『カントと形而上学の問題』を読んでいただきたい
そのすべてを理解するためには、19世紀のドイツ観念論などを通して生まれ、標準になっているカントの解釈から完全に自由にならなければならない
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