今日もハイデッガーの続きを読むことにしたい
形而上学が何かを理解するためには、比較では駄目であることをこれまで見てきた
形而上学そのものから目を逸らさず、正面から見なければならないのである
しかし、哲学そのものがどういうものであるのかを我々は知らない
それは我々が哲学をする時に存在する
哲学とは、哲学することなのである
あまり参考にならない答えだが、繰り返すうちに方向性が見えてくる
哲学することとしての形而上学、人間の活動としての形而上学
我々は我々が何者であるのかを知っているのか
人間とは何かを
哲学とはどうでもよいこと、単に知識を集めることなどではなく、全体に関することである
ノヴァーリス(1772-1801)は、哲学とはホームシックである、どこにいても家にいるように促すものであると言った
詩人の不思議な定義である
現代の都会では、ホームシックなどという言葉は根絶されて久しいのではないか
それが哲学の定義だという
どこにいても家にいるとは、単にどんな場所にいても、ということではなく、全体の中に常にいることを意味している
その全体とは世界である
我々は常に何かを待っている
全体としての何かに我々は求められているのである
これが我々がホームシックに駆り立てられる場所である
我々はすでに旅立ち、そこに向かっている
と同時に、我々は逆方向に引き裂かれてもいる
この状態が不安をもたらす
それは有限性であり、単に我々にくっ付いている性質などではなく、我々の存在の根源的な在り方である
我々が我々であるところのものになろうとするならば、この点を胡麻化してはいけない
内面から有限な存在になるということは、人間が個別化されることであり、それは孤独のことである
そこで人間は本質的なものの近くに身を置くことになる
世界、有限性、個別化という問題にホームシックとしての形而上学が導くのである
決定的に重要なことは、この問いを知ることではなく、実際にこの問いを最後まで問い続ける力を持つことである
そのためには、概念による理解力を持つことが求められ、それが道を開くのである
形而上学の概念は、単純に学ぶことができる科学的なものからは永遠に閉ざされたままである
そして何よりも、これらの概念は我々自身が実際に虜にならなければ理解できない
概念的理解や哲学することは、何かの脇でやるどうでもいいことではなく、人間(Dasein)の基礎にあるものである
形而上学をそれ自体として見るということは、結局は形而上学が人間の本質の闇の中に引きさがることであった
形而上学とは何かと問うことは、人間とは何かを問うことだったのである
勿論、その答えを持っているわけではない
その神秘的な存在の本質の中で、哲学は起こるのである
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