これまでに指摘したように、哲学は科学に基づき、世界観を宣言するものに似ているようだが、それとは別物である
科学でも世界観の宣言でもないという曖昧な両面の中に哲学がある
市場では人を欺くような(哲学のように見えるがそうではない)形で哲学が出回っている
哲学とは、そこで骨を折った者だけによって認識されるものである
哲学が教えられ、試験され、博士号を取るための対象になるのは、哲学の曖昧さをさらに増すことになる
他の教科と同じように扱われる時、そこでは何も起こらない
講義は欺瞞にさえなり得る
哲学教師でさえ、山のような用語を用いて科学的な構築をして聴講生をぎょっとさせることがある
もし彼が哲学をしているのであれば、なぜ孤独を捨て市場を走り回るのか
それこそ、この曖昧さの危険な始まりなのである
我々は大衆を説得するのか
我々が持っていない権威を基に
我々が哲学しているのかいないのかは、明らかになるだろう
あらゆる哲学の講義は、それが哲学しているかいないかに関わらず、科学には分からない曖昧な始まりなのである
証明できるもの、証明しなければならないものは、根本的に殆ど価値がない
しかし、哲学することが何か本質的なものに関わるとすれば、本質的なものは証明できないしすべきではないのか
あるいは、証明できるかできないかで哲学することを議論するのは許されないのか
哲学における真理は科学における証拠とは全く違うのか
ここで我々は哲学の深いところにある曖昧さに触れることになる
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