2022年2月10日木曜日

ハイデッガーの形而上学(4)
























今日は「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めるプロジェのための打ち合わせがZoomであった

全体は見えてきたのだが、まだ細かい点の調整が残っていた

そして何よりもどんなタイトルにするのかという問題があった

前もっていくつかの案が提示されていた

一般受けがよさそうなものは、こちらが恥ずかしくなる

一番自然なのはこれまでタイトルとして使ってきたようなものだが、それはある前提を理解している人向けにしかならない

ということで、少し開かれてはいるが、こちらも恥ずかしくならないものに落ち着きそうである

これは当初考えていたものとは違ったが、それだけに自分にとっては新鮮な感じがする

いつも感じるのは、第三者の目が加わることによって全く新しい姿が現れるということである


ということで、今日も休まずにハイデッガーを続けたい


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我々は準備の評価段階にある

これは仕事を我々に近づけ、全体の方向性を明確にすることを意味している

形而上学が何かを問う時に、それを科学や世界観の宣言であるとしたり、芸術や宗教と比べたり、歴史的な方向性から決めようとすると回り道になる

かと言って、形而上学を直接把握することはできないし、問われているものと共にいることは特に難しい

そのため、便宜的にノヴァーリスの言葉に戻ったのである

そして、ホームシックになるということは、あらゆるところを住まいとして、全体としての人々(これは世界としてよい)の中にいることであった

そこで問題になるのは人間の有限性である

そして、有限になるときに起こるのは、人間の究極の孤独である

ノヴァーリスがホームシックと名づけたものは、結局は哲学することとの基本的な調和である

形而上学は、限られた分野について思考の技術を用いて得られる知の領域ではない

形而上学は人間の中の根源的な出来事である

形而上学の概念は、これは家、これは灯篭というような類のものではない

科学的な種類のものではないのである

形而上学とは全体としての存在に踏み込み、そうすることにより、我々が問いの中に組み込まれる問い掛けである

全体の概念は、存在を哲学することを理解しなければ得られない

形而上学的思考は包括的な思考である

全体を対象として、存在を徹底的に把握することである


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今回は第1章のまとめのようなところだった






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