今日もハイデッガーの続きを読んでみることにした
彼は、哲学の本質は他のものと比べることができるかという問いを出す
比べることができるとすれば、例えば芸術や宗教ではないというネガティブな比較になるだろう
それでは科学との比較はどうか
それは哲学の価値を不当に卑しめるものになる
哲学の本質はこれらの比較による回り道からは掴むことができないだろう
ただ、哲学の道行で芸術や宗教と出遭い、同じレベルで処理されることはあるかもしれないが、、
このような比較により哲学(形而上学)を把握することはできないのである
それではどんな道があるのか
もし哲学(形而上学)が存在しているとすれば、それは昨日出来上がったわけではなく、歴史を持っている
そこで問題が3つある
一つは、形而上学という言葉の由来とそもそもの意味である
二つは、その単純な意味から形而上学と定義されるものが何であるのかに至ることができるということ
そして最後は、その定義により、我々はものそれ自体に突き進むことができることである
我々は形而上学についての意見を知ることはできるが、形而上学そのものは知らない
歴史を知ることにより、我々が求めるものを理解できるという幻想がある
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