形而上学の伝統的な概念に内在する不一致
形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている
この言葉の歴史を通してその答えを探した
その歴史は何を我々に語ったのか
それは2つあった
最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である
最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える
超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた
形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している
ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである
実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた
これは我々の仮定とは異なっているかもしれない
我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである
つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである
このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している
そのための2つの根拠を示さなければならない
1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか
2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである
最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である
その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない
ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい
形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する
1)形而上学は矮小化されている
2)形而上学は内在的に混乱している
3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない
▣ これら3つの点については次回以降に論じる
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