2022年2月14日月曜日

ハイデッガーの形而上学(8)
































哲学知が数学的なものではなく、絶対的な確実さも持たないと提案する時、別のより鋭い反論に見舞われないだろうか

哲学が科学でも絶対的に確実な知でないと断固として言う時、絶対的なものはないと絶対的な口調で言うという自己矛盾に陥るのではないか

この議論は歴史の中で何度も現れたもので、確実なものはないという確実性はあると言うところに落ち着く

使い古されていて有効でもない

ここでは二つのことを考えたい

1)この議論はいつでも持ち出されるので、本質的には何も言っていない

  中身が空っぽで、人間を拘束もしないので、哲学とは関係のない議論である

2)哲学が科学ではなく絶対的な確実性も持たないという我々の提示を粉砕したいこの議論は、適当ではない

  我々はそう主張しているのではなく、この問題を曖昧なままにしてしておきたいのである

  哲学が科学であることが明らかになるかもしれないからそうするのではなく、この議論において我々が哲学しているかどうか分からないからである


我々は哲学することに関して確信が持てないのである

この事実は偶然そうなっているのではなく、哲学が人間の活動であるとすれば、哲学そのものに属しているのである

哲学的真理は本質的に Dasein の真理である

哲学することの真理は部分的に Dasein の運命に根ざしている

Dasein の存在に属するすべては、哲学の真理に属している

もしそうであれば、絶対的な確実性をもって哲学の真理を知ることはできない


哲学は慰めや確信の対極のあるものである

それは混乱であり、そこに入ることによってのみ Dasein を錯覚なしに理解できる

常に最高の不確実性の隣に居合わせるのである

このことを理解しない人は、哲学することの意味を暗示されることもなかった

このことを理解していなければ、いくら哲学論文を書いても哲学している対立は起こらない

哲学に忙しく哲学していない人の間では、哲学している対話には至らないのである


デカルトは哲学を絶対知にしようとした

彼は哲学することを疑うことから始めた

しかし、Dasein(わたし)が問われることはなかった 

この傾向は現代哲学にまで及んでいる

それは科学的には重要であっても哲学的に重要な姿勢ではない

デカルト的やり方では、証明されることをあらかじめ知っているものについて扱われる

そのためには人間的拘束がない危険も及ばないやり方が採られる

我々がこのような姿勢を採る限り、哲学の外に置かれることになる








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