これまでの解析から、哲学することに潜むいくつもの曖昧さを見てきた
哲学することに希望がないという印象を少しでも薄めようとして、最後は好転するだの、哲学は人類史の中で多くのことを成し遂げてきただの指摘するのは誤解になるだろう
それは哲学から遠ざかることに過ぎない
我々は寧ろその中で持ちこたえなければならない
なぜなら、その中に哲学的理解についての本質的な何かが顔を出すからである
すなわち、全体としての人間が攻撃を受けているということである
攻撃しているのは人間ではなく、日常や知識の至福という疑わしい主題である
寧ろ、哲学することの中で、人間のDa-seinが人間に攻撃を仕掛けるのである
その本質の根底にいる人間が、彼自身であるところのものによって攻撃される誰かである
この状況は、問い掛けや存在の乗り越えがたい曖昧さに対する戦いなのである
哲学の中に、使い古された絶望的な活動や何か陰鬱で悲観的でネガティブな方向に向かうもの見るのはひねくれた見方で、間違っているだろう
この評価が哲学することから引き出されたものではないからで、昔からあるものだ
それは、正常なものが本質的であり、平均的なものが普遍的に有効であり真理であるという社会的な空気から生まれる
我々は哲学することそのものを把握しようとして、二つのやり方を採った
一つは、ノヴァーリスの「哲学とはホームシックで、どこにいてもくつろぎたいという衝動である」という言葉から考えた
もう一つは、哲学することに特有の曖昧さについて解析した
そこから、哲学とは自分自身で立つ何か自律的なものであると結論できるだろう
それは科学ではないが、哲学がある時にだけ科学は存在する
科学の基礎を築くことだけが哲学の主要な仕事ではない
寧ろ、哲学は科学がない時にも人間の生活のすべて(Dasein)に浸透する
哲学することは、Da-sein の根源的な在り方なのである
哲学するとは、自然や文化について後から省察することでも、可能性や法則を考えることでもない
これらは哲学から職業やビジネスを作る見方である
これに対して哲学は、全ての職業の前に存在する何かであり、Dasein の根源的な出来事なのである
古代の哲学者はこのことを知っていた
ヘラクレイトスは「哲学とは他のすべてから切り離された何かである」と言った
「切り離されたもの」をラテン語で言えば absolutum で、それ自身の場所にいる何か、より正確に言えば、それ自身のための独自の場所を最初に作る何かである
プラトンは『国家』の中で、哲学する人間としない人間の違いは、目覚めているか寝ているかであると言っている
哲学しない人間は科学者として確かに存在するが、彼らは眠っているのである
哲学する人間は、他のすべてから離れて自分自身で立っている
ヘーゲルは、哲学とは逆転した世界であると言った
その意味は、普通の人間にとって正常であるものと比較すると、哲学は上下が逆で、Dasein に特有の方向性を持っているということである
哲学は原初的な何かであるが、それ故に隔離された何かではない
問題は、もっと素朴に、もっと生き生きと、そしてもっと持続的にすべてのことを見るために、哲学することの中に元々ある側面を取り戻すことである
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なかなか印象的な言葉が続いていた
これで第2章「哲学(形而上学)の本質の曖昧さ」が終わったことになる
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