2022年10月31日月曜日

10月を振り返って




今月も纏めの時期となった

何をやっていたのか、早速振り返ってみたい


1)まず、月初めに3年ぶりにカフェ/フォーラムを再開したが、一昨日の札幌の会で無事に終えることができた

再開に当たっては心身の立ち上げが大変であったが、終わった今、開催してよかったと思っている

一つには、参加者の皆様との交換により、わたし自身に新たなエネルギーが注入されたように感じていることがある

二つ目として、カフェ/フォーラムが少しずつ変容を始め、有機体としての生命を持ちつつあるように感じられることである

更に進化することを願いたいものである

改めて参加者の皆様に感謝しながら、それぞれの会を振り返っておきたい


  第6回ベルクソン・カフェ+ 第8回カフェフィロPAWL(2022.9.28)

   テーマ: アラン・バディウ: 『真の幸福の形而上学』を読む


   矢倉英隆: シリーズ・科学と哲学 ①「ソクラテス以前の哲学者」
   渡邊正孝: 変性意識と無意識
   岩永勇二: 『免疫学者のパリ心景』発刊記念トークセッション!


   テーマ: パスツールのやったことを振り返る


   テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を語り合う


ところで、これまで年2回の開催だったが、来年は年3回の開催とすることとした

最初のシリーズは、以下の日程で行う予定である


 ● 第9回サイファイ・カフェSHE札幌 2023年2月25日(土) 15:10~17:20

 ● 第7回ベルクソン・カフェ+第9回カフェフィロPAWL 2023年3月1日(水) 18:00~20:30

 ● 第8回サイファイ・フォーラムFPSS 2023年3月4日(土) 13:10~17:00

 ● 第16回サイファイ・カフェSHE 2023年3月8日(水) 18:00~20:30


それぞれのテーマについては、決まり次第お知らせしたい


2)免疫に関するエッセイの校正が始まった

4月には書き終えていたので、半年間寝かせておいたことになる

編集者のコメントとともに読み返しながら、言いたいところをより明快に表現しようとしているところである

それと、先日も触れたが、文献の扱いを考えなければならない

ディジタル本であれば、そのまま使えるのだろうが、紙の場合にはそうもいかない

これからの課題である


3)今月もコリングウッド(1889-1943)による「自然」の分析を読んでいた

また、その中に出てきたプラトン(427 BC-347 BC)の『ティマイオス』にも目を通し、貴重な時間となった

コリングウッドに関しては、これからも続ける予定である





2022年10月30日日曜日

法隆寺展を覗く



























今日が最終日だという法隆寺展に出かける

まず、緑に包まれた朝の庭が新鮮だ

暫くの間、そこに配置された彫刻を味わってから中に入る

最終日のせいか人が多いようだ

硝子に張り付くように列を作っている

今回はざっと観るだけに終わった

帰りに来年のカレンダーを買って会場を後にした

もう新しい年に向けてのモードに入っているのだろうか










































2022年10月29日土曜日

第8回サイファイ・カフェSHE 札幌、無事終わる




















今回のSHE札幌は、「『免疫学者のパリ心景』を語り合う」というテーマで開催した

最近気づいたのだが、このテーマは世の中の人がすでに拙著を読んでいることを前提としたものであった

その辺の感覚のずれは、3年に及ぶお休みが齎したものだろう

そのため逆に、この本を読み込んだ方が参加されることになった

会の進行は、最初に全体的な印象を伺った後に、それぞれが感じた個別の問題について話すことにした

以下、アトランダムに会での会話をピックアップしてみたい


A氏は、次のような印象を語った

表紙やパリを感じされる全体の雰囲気に編集者のよい嗜好が感じられた

さらに、エッセイシリーズを読んでいた時よりは本書の方が全体に流れが出ていて、非常に読みやすくなっていた

10年に亘って書かれたものだが、文体の揺れがないので、すでにある程度出来上がってから書き始めたのではないか

ただ、第3章の科学者を扱ったところが引っ掛かった

それから、索引があるとこの本を使う上でよかったのではないだろうか

若い人にも読んでほしいが、どれだけ話が通じるのか分からない

やはり、死を意識した人に、より受け入れられやすいのではないか


B氏は、第1章で科学から哲学に入る過程が語られていたが、そこに著者の勇気を感じたとのこと

C氏は、自分が本を見る時に重視している美しさがこの本にはあった

例えば、紙が真っ白で質が良く、作りが非常に丁寧であることが分かった

また、写真のレイアウトなどにもセンスの良さを感じた

内容に関しては、思考が手に取るように分かり、流れがあるため、楽しく読むことができた

自分が思考していることを語っているので、押しつけがない点も目に付いた

すでに60歳を超えているので、この著者のように考えていきたいと思わせてくれた


A氏も読みながら、自由なものの見方が示されているために楽しくなったとのこと

この効果は、狭い見方をしている若い人の気持ちを楽にすることに繋がるのではないか

この本には宝物になる言葉が溢れていた

B氏は、7ページにある「残りのすべての時間をこの世界をできるだけ統合的に理解するために費やそうと決意することになった」という言葉は、物理学者の目指すところと通じるところがあることを指摘

C氏は、251ページの図3について、右側の科学の中に哲学的な要素が入り込むイメージと絶対的真理との繋がりについて考えていたとのこと

 これは、絶対的真理に至るには哲学の関与が欠かせないのかという疑問だろうか

 わたし自身は、その問いにOuiと答えるだろう

それから、著者はいろいろなものを読み込んでいるため、全体に厚みがあるという印象で、良い言葉にも溢れている

ただ、本から離れている若い世代がこの厚さに耐えられるのかどうか分からないところがある


そのことともどこかで関係しているのだろうが、A氏から次のような発言があった

仕事を離れて face to face で話し合う機会が、特にコロナが始まってからは激減している

その点からも、このような会には意味があるのではないか

C氏は、トルストイの『人生論』から論を進めている個所(202ページ)についてコメントされた

それは、意識の第三層での精神活動だけでは不十分で、そこから他者との関係の構築へと進めなければならないという議論であった

これも真剣に他者との会話を構築すること、さらにそれはこのような会の意義にも繋がることを指摘するものになっているのではないか


A氏は、エネルゲイアという時間の捉え方(82-87ページ)を掴みつつあり、これまでの見方が良い方向に変わりつつあることを指摘

これなども実際の生活に役立つ知恵が鏤められていることの一例ではないかとのこと

また、今準備が進んでいるという免疫に関する本にも期待しており、それはこの本を補完することになるのではないか

つまり、この本を読んだ人が免疫の本を読み、逆に免疫の本を読んだ人がこの本に戻ってくるという具合に

そうなれば素晴らしいのだが、


最後に、C氏がラッセル・アインシュタイン宣言(275ページ)に絡めて、軍事研究をどう扱っていけばよいのかという現実の問題が提起された

意識の第3層までを動員せよとは言われるが、具体的にこのような問題をどのように考えて行けばよいのかという問いである

これは月初めのFPSSでも出された、現実の問題にどう向き合うのかという問いに繋がるものであった

今日はこのあたりで終わりを迎えた

じっくり読み、議論に参加された皆様に改めて感謝したい































2022年10月28日金曜日

免疫に関する本の打ち合わせ、終わる
















現在、免疫に関するエッセイの校正を行っている

本日、編集者とズームでの打ち合わせがあった

一つの問題は、最初の原稿に入れた論文をどのように扱うのかであった

原稿を書いた時の方針は、記述にある事実がどこから出てきたのかをできるだけ詳しく引用することであった

これは自分の参考のためということもあった

そのため、参考文献が膨大になる

その中には、一般の読者には必要ないものまで含まれているはずである

その扱いをどうするのかということであった


極端な選択は、文献を一切使わないということである

このオプションを考えた時、体が軽くなるのを感じた

これまでは実験事実に基づいて書いていたため筆が重くなり、学術書のような感じになっていたと思われる

過去の報告に縛れていたのである

それが解けると思うと、もっと自由な書き方ができるような気がしたのだろう

今日のところ、現在の形と最も自由な形の中間になりそうである

ということで、文献の選択をしなければならなくなった

一冊の本を出すということは大変な作業なのだということを、改めて思い知らされた


ところで明日は今季最後のカフェ、サイファイ・カフェ SHE 札幌である

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております







2022年10月27日木曜日

コリングウッドによる自然(32): ルネサンス期の自然観(8)





























 Pierre Gassendi (1592-1655)




今日は、精神と物質、唯物論についての議論である

ガリレオ(1564-1642)と共に近代科学が成熟に達する

彼がやったことは、自然を科学の対象とするために、質的なものを排除し、諸量の複合体だけ制限することであった

ガリレオが考えた科学においては、計量的なものを除けば認識不能なものであった


ここまでを纏めると、第1に、自然は最早有機体ではなく、機械になり、自然の変化は目的因ではなく作用因によって生み出されている

つまり、努力とかまだ存在しないものに向けた傾向とかではなく、既存の物体の作用による運動に過ぎないのだ

第2に、質とか精神とかいうものは自然から排除されたので、どこか形而上学的理論の中に足場を見出さざるを得なくなった

ガリレオのこの見解は、デカルト(1596-1650)とロック(1632-1794)にも採用され、17世紀の正統となったのである

精神は自然の外に在り、質は精神に現れるものとされる

精神と物質の二実体説である

ただ、デカルトの場合、2つの実体は神と同一視した共通の源泉を持たねばならないことを主張

さらに「実体」は、それ自身以外のものを必要としない存在なので、神だけに適用される述語であり、神の創造物は神を必要としているので実体とは言えないのである


ルネサンスの汎神論的傾向は変化を遂げていた

自己創造的で自律的な自然という観念は、機械としての自然という観念と結びつき、唯物論的理論を生み出した

この流れの主唱者は、新エピクロス派のピエール・ガッサンディ(1592-1655)であった

ルネサンス汎神論を受け継いだ唯物論は、18世紀だけではなく19世紀においても生き続けた

そして、その唯物論は汎神論的刻印を残していた

唯一の実在である物質に対する態度が、宗教的だったのである

神を否定するが、それは神の属性を物質に移したからであった

唯物論者が物質的世界を語る時、キリスト教的敬虔な形式を用いるのであった

科学的に言えば、唯物論は達成よりも抱負であった

唯物論の神は、神秘的な流儀で奇蹟を行い、いつの日か自然の神秘を見破るであろう希望を抱いていた

実験の確証がないため、胆嚢が胆汁を分泌するように、脳が思想を分泌するというような言い方もしたのである










2022年10月26日水曜日

「考えるとは、考え直すことである」との再会




















今朝、携帯でニュースを見ていると、どこかで聞いた言葉を発する人がいることを発見し、驚く

哲学者の柄谷行人(1941- )氏である

その言葉は、新刊『力と交換様式』についてのインタビュー記事の冒頭にあった

「考えるとは、再考することですよ」という言葉である

 哲学者・柄谷行人さんが新著 資本と国家を乗り越える「力」への希望:朝日新聞デジタル


驚きの理由は、もう7年前に書いたエッセイのエピグラフとしたフォルミュールが「考えるとは、考え直すことである(Penser, c'est repenser.)」だったからである

 「わたしの真理」への道、あるいは人類の遺産と共に考える(医学のあゆみ 2015.12.12)

思索についての専門家が同じような認識に至っていたことを確認するのは、格別な瞬間であった

柄谷氏の著作には触れたことがないので、この機会に少し覗いてみようかという気分になっている






2022年10月25日火曜日

コリングウッドによる自然(31): ルネサンス期の自然観(7)
































今日はガリレオ・ガリレイ(1564-1642)である

ケプラー(1571-1630)は、「質的変化を生み出す活力という概念を、量的変化を生み出す機械的エネルギーに置換すべきだ」と言った

しかしケプラーにとって、それは脚注のようなものであった

ガリレオにとって、それは明晰に把握された原理であった

彼はこう言っている
哲学は、宇宙という我々の眼前に広がる巨大な書物に書かれている。しかし、我々がその言語を学び、書かれている文字を知らなければならない。それは数学の言葉で書かれており、文字は三角とか円とか他の幾何学的図形である。その手段がなければ、一言も理解できないのである。
その意味は明快である

自然の真理は数学的事実の中にある

自然において実在的で可知的なものは、測定可能で量的なものである

色や音などの質的差異は、自然界には存在しない

それは我々の感覚器に自然物が作用した結果、我々の中に作り出された変化である

ここに心に依存する二次的な性質が花を咲かせる

イギリスの哲学徒は、それがジョン・ロック(1632-1704)の発明だと思っていて、遠い昔にガリレオが教えていたことに気付かない


ガリレオにとって、二次的性質は単に一時的性質に依存するだけではなく、客観的な実在を欠いている単なる見せかけなのである

従って、ガリレオの世界は純粋な量の世界である

そこに生あるものや感覚されるものが侵入することにより、多様な質的側面が現れるのである

そのように見られる自然は、一方では創造者の神に対し、他方では人間に対して立っている

ガリレオによって、神も人間も自然を超越していると見られている

もし自然が量だけから成り立っているのであれば、質的な側面は外からやって来る

それは人間の心によって自然を超越するものとされることによって

しかしもし自然が生きる有機体と見做されないならば、それは自己創造的ではなく、それ自身以外の原因を持たなければならない












2022年10月24日月曜日

コリングウッドによる自然(30): ルネサンス期の自然観(6)





























 William Gilbert (1544-1603)




本日は、ウィリアム・ギルバート(1544-1603)とヨハネス・ケプラー(1571-1630)である

自然についての一般理論が次の段階に踏み出したのは、イギリスの医者で物理学者であり、自然哲学者でもあったギルバートが1600年に刊行した『磁気について』(De Magnete)であった

因みに、この本はフランシス・ベーコン(1561-1626)に拒絶されている

磁力の研究をしていたギルバートは、引力が自然全体に浸透し、全ての物体は他のすべての物体に同様の力を及ぼしていることを提案した

ケプラーは17世紀初頭に、この提案を発展させ、含みのある帰結を齎した

ケプラーの主張は、全ての物体はたまたま居合わせたところに静止し続けようとする傾向があるというもの

これは、慣性の原理を述べることにより、ギリシアや初期ルネサンスの運動についての見方を断固として否定するものであった

ただ、一つの物体が他の物体に近づく時はいつも、全ての物体が近くにある物体と引き合うので、静止状態が乱されるとも言っている

従って、石は地球の引力により落下し、潮の満ち干は月の引力によるとケプラーは示唆している

ケプラーはまた、自然現象を扱う時には、霊魂(anima)という言葉ではなく、動力(vis)という言葉を使うべきだと提唱し、重大な一歩を踏み出したのである

換言すれば、質的変化を生み出す活力という概念を、量的変化を生み出す機械的エネルギーに置換すべきだという主張である











2022年10月23日日曜日

コリングウッドによる自然(29): ルネサンス期の自然観(5)
































今日は、フランシス・ベーコン(1561-1626)である

昨日見たように、ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は二元論を克服できず、内在性と超越性の二元論として残った

そのため、17世紀には二元論が噴き出した

例えば、形而上学においては心と体、宇宙論では自然と神、そして認識論では理性主義と経験主義の二元論である

これらの二元論はデカルト(1596-1650)と共に出現したが、フランシス・ベーコンにおいてはまだ意識されていなかった

ベーコンは理性主義と経験主義ともに否定し、経験主義者は蟻、理性主義者は蜘蛛のようなものだが、真の科学者は花から得たものを新しい物質に変える蜂のようなものだとした

彼は物質の均質性や法則の同一性を信じていた

しかしその理解は不十分で、物理科学における数学の重要性については気付いていなかった

理論上、自分自身をそこから厳密に遠ざける科学的方法における経験主義的な傾向と彼を同一視とするのは間違いだが、実際には彼は常に質的な差異の分類を量的な説明に置換するという経験主義的なところに陥っていた










2022年10月22日土曜日

コリングウッドによる自然(28): ルネサンス期の自然観(4)

































今日は、ルネサンス宇宙論の第2段階、ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)について

カトリックもプロテスタントもコペルニクス(1473-1543)の理論を異端として排斥した

コペルニクスに続く、例えばティコ・ブラーエ(1546-1601)のような人も、天文学的意味ではコペルニクスを受け入れなかった

ただ、これまでに説明した哲学的重要性――すなわち、地球と天体の物質の均質性や法則の同一性――については、新しい思想家たちも直ちに受け入れ、ルネサンスの第2段階に関与した

その中で最も重要なジョルダーノ・ブルーノに絞って話したい


彼は1548年に生まれ、ドミニコ会の修道士になったが、30歳を前にして異端の烙印を押され、イタリアを離れざるを得なくなる

そして、ジュネーヴ、トゥールーズ、パリ、ロンドン、ヴィッテンベルクなどを転々とした後、ヴェネツィアの元首ジョヴァンニ・モチェニーゴ(1409-1485)の庇護の下、居を構える

しかし捕らえられ、ローマで7年に亘る(1593-1600)異端審問の末、火炙りの刑に処せられた

ブルーノの自然理論についての最も重要な貢献は、コペルニクス主義の哲学的解釈である

彼は、新しい天文学が地球と天体の物質の質的な差を否定したことを理解していた

彼はさらに、この否定をコペルニクスもやらなかった太陽系から恒星へと拡大した

全ては同じ法則で動くと考えたのである

物質世界は無限の空間だが、空虚なのではなく、後に言われるエーテルのようなものが満たし、我々のような世界は無数に存在しているとした

このすべてを包み込む不変の本体は物質であり、形相や精神や神でもあるが、アリストテレス(384 BC-322 BC)の言う神のような超越的な不動の動者ではない

従って、ブルーノによれば、全てのもの、全ての動きは、それ自身の中にある源泉である原理であり、その外の源泉である原因である

神は自然の各部分に内在する原理であり、自然の各部分を超越する原因である


この汎神論的宇宙観は、イオニア学派あるいはスピノザ(1632-1677)を想起させる

アナクシマンドロス(c.610 BC-546 BC)は、我々の世界を無限の空間に広がる均質な物質の中の無数の渦の一つだと考え、その物質を神と同一視した

ギリシア思想が発展するにつれ、アナクシマンドロスの汎神論は、世界は神そのもではなく神の創造物であるという考えに道を譲った

同様に、ブルーノの汎神論も、世界は神的なものではなく、機械的なものであるという考えに道を譲ったのである

この考えには、その機械を設計し構築した超越的な神が内包されていた

機械としての自然という考え方は、一元論にとって致命的となった

そして、有機体としての自然という見方も消えていったのである


他方、ブルーノの考えは多くの点でスピノザのものと酷似していた

ただ、スピノザが機械論的理論を前提としていたのに対し、ブルーノはそれを考慮していなかった

また、スピノザの偉業は、デカルト(1596-1650)が別々に議論した物質の世界と心の世界を纏めたことだが、ブルーノはその違いをまだ区別していなかった

ブルーノは原理と原因を統合したように見える

彼の原理とは、内在性の原因、すなわち自己原因(causa sui)である

また原因とは、自己を超えて外に作用を及ぼすものである

汎神論においては、神でもある世界は、全体としてみればそれ自身の原因であるが、個別の出来事の原因は全体としての世界ではなく、他の個別の出来事である

なぜなら、全体は個別の部分を超えず、そこに内在するからである

ある部分を超えるものは他の部分なのである

この混乱を避けるためには、ブルーノは有機体としての自然という考えを捨て、機械としての自然という考えを発展させなければならなかったのである




*以前にブルーノに関するエッセイを書いたことがあるので、以下に貼り付けておきたい









2022年10月21日金曜日

コリングウッドによる自然(27): ルネサンス期の自然観(3)




























 Nicolaus Copernicus (1473-1543)




近代の宇宙論の転機は、1543年にコペルニクス(1473-1543)の『天球の回転について』が死後に出版された時に訪れた

この本では、地球を世界の中心から排除し、惑星の運動を太陽中心説(地動説)で説明している

コペルニクスの発見の真の意義は、世界の中心を地球から太陽に置換したことではなく、世界に中心があること自体を否定するものだったところにある

物質的世界は中心を持たないということであった

このことは、自然界を有機体と見做すすべての理論を破壊したという点で、革命だったのである


有機体は分化したいろいろな器官を含んでいる

ギリシアにおける球形の有機体は、大地が中心に在り、その次に水、さらに空気、火と続き、そして最後には、アリストテレス(384 BC-322 BC)によれば、外被としての第5元素があった

コペルニクスの理論は、有機体としての世界を否定し、引力の法則はどこにでも適用されることになる

星も神的実体を持つことを止め、地球と同質のものになる

ニュートン(1642-1727)が万有引力の法則を確立し得たのは、コペルニクスが地球上で確立された法則は星空全体に有効であることを教えたからである

新しい宇宙論では、質に関する自然的な差異はなく、質的に一様である唯一の実体があるだけである

その上で、唯一の差異性は量についてのものであり、幾何学的構造の差異なのである

この見方は、プラトン(427 BC-347 BC)やピタゴラス(582 BC-496 BC)だけではなく、この世界には原子と空虚以外に存在しないとする原子論者たちをも思い起こさせるところがある









2022年10月20日木曜日

コリングウッドによる自然(26): ルネサンス期の自然観(2)






今日はルネサンス宇宙論の第1段階と題されたところを読むことにしたい

16、17世紀には、2つの主要な時期がある

この2つは、アリストテレス(384 BC-322 BC)への敵意、目的論の拒否、形相因と作用因が自然に内在することへの執着という点では同じである

それは、質的相違の基礎に数学的構造があるという新プラトン主義新ピタゴラス主義に似ている

しかし、2つの時期は心身関係についての見方が異なっている

初期の段階では、所産的自然Natura naturata)と呼ばれるようになった自然界は、生きている有機体として考えられていた

しかし時が経つにつれて、始めからあった数学的傾向が優勢になり、「有機体としての自然」は「機械としての自然」に取って代えられた

この過程に関わったのが、コペルニクス(1473-1543)であった


形相因、作用因の内在性を説く初期の流れは、形相因、作用因をこの世界の外に置く古代ギリシアのものとは異なっていた

これらの因子の内在性は自然に尊厳を与え、そこに自己創造性を見、自然を神的なものとして捉えるようになり、自然現象を注意深く正確に観察するよう促したのである

アリストテレスの宇宙論が斥けられると、科学者は自然のどんな些細な声も聞き逃すことなく観察するに価値があると考えるようになった

このような態度は、15世紀終わりのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の時代にはしっかり確立されていた

しかし、この時期の自然はまだ生きる有機体で、自然と人間の関係は占星術や魔術で考えられていた

これを攻撃したのが、15世紀終わりのピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)であり、それに続いたジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)やジャン・カルヴァン(1509-1564)であった

彼らの努力にもかかわらず、15、16世紀はオカルト学が優勢で、なかなか死に絶えなかったのである









2022年10月19日水曜日

『免疫学者のパリ心景』に見るメッセージ





















免疫学者のパリ心景』の最終章は「『現代の超克』のためのメモランダム」となっている

そのエッセンスは、エピグラフとした2つの文章の中に凝縮されている

1つは、ヘーゲル(1770-1831)の次の言葉である
「真理は知識の中にある。しかし我々は思考(ナハデンケン)するかぎりでのみ真なるものについて知るのであって、我々が歩いたり、立っていたりするかぎにおいて、そうなのではない。真理は直接的な知覚や直観においては認識されない。それは外面的感性的直観においても、また知的直観においても同様である。・・・ただ思惟の努力によってのみ真理は認識される」(武市健人訳)
真なるものを知るためには、日常生活の中にいるだけでは駄目で、思惟しなければならないと言っている

もう1つは、ハイデッガー(1889-1976)の言葉である
「このように、それぞれが正当で不可欠な計算する思考瞑想する思考という2種類の思考がある。しかし、人間が思考から逃げていると言う時に我々が見ているのは、この2番目の思考である。・・・瞑想する思考は時に大変な努力を要し、常に長い訓練が必要になるのである」
このように、ハイデッガーは2つの異なる思考があることを指摘した

1つは、科学の中で行う思考で、彼は「計算する思考」と言っている

もう1つは、「瞑想する思考」である


これらの対比に反応したのは、わたしが「意識の3層構造」に気が付いたからである

復習すれば、第1層は日常生活の意識の層、第2層は仕事(科学)で使われる事実を確認するだけで終わる層、そして第3層が領域を超えた瞑想的思索が行われる層である

その上で、第3層まで入らなければ真に考えたことにならず、真理にも辿り着けないと結論した

これは先達の思索の跡とよく重なり、わたしの真理を超えてより普遍的な真理になると考えている

わたしにこの章を書かせたものは、現代に生きる我々にこの思考が著しく欠如しているという観察であった

つまり、「現代の超克」のための重要なヒントは、真理に至るために思惟しなければならず、そのためにはやり方があるということである

その成否は、日常生活、職業生活から離れた時間をどれだけ確保できるのかにかかっている

この問題について考えていただきたいというのが、この章の大きなメッセージであった



ところで、免疫から生の哲学に向かうエッセイの校正作業が始まった

春から眠っていたものなので、新鮮に感じる

さらに明快なものになるよう努めたいものである










2022年10月18日火曜日

コリングウッドによる自然(25): ルネサンス期の自然観(1)

























これから暫くは、16、17世紀の流れを振り返ることになる

第1回は、反アリストテレス主義について

古代ギリシアに次いで宇宙論に大きな動きがあったのは、16、17世紀である

この動きは、部分的にはアリストテレス(384 BC-322 BC)により、また幾分かはキリスト教により触発された中世の思想に対するネガティブなものとして捉えることができる

攻撃の標的は、目的論、目的因に対する理論、まだ存在しない形相を実現しようとする努力が浸透しているものとしての自然であった

フランシス・ベーコン(1561-1626)は、アリストテレス主義者がある結果を説明するために、その原因がその結果を生み出す傾向を持っていたと言うのは、説明したことにならないと批判

それは、科学本来の課題である原因の構造ないし性質の発見を遠ざけるものである

目的論に対して、作用因により自然を説明するよう主張した

この説明は、変化の起源において、既に存在している物質の活動によるものであった

近代経験主義の先駆者とも言われるベルナルディーノ・テレジオ(1509-1588)は、次のような見方を採っていた

自然は形相を模倣するように外部の何かによって誘導されるのではなく、それ自身の固有の活動性により運動を生じ、自然界の構造を生み出す

ルネサンス期の自然主義哲学は、自然を神的で自己創造的なものと考えていた

そして、存在物としての所産的自然Natura naturata)と、それらに生命を与える内在的な力としての能産的自然Natura naturans)とに区別された

この構想は、アリストテレスよりはプラトン(427 BC-347 BC)に近い宇宙論であった

プラトンは自然的事物の行動様式を、数学的構造の結果として説明した

それに対してアリストテレスは、神的自然の模倣の精巧な連鎖によって説明しようとした

近代科学の真の父であるガリレイ(1564-1642)に至るまで、ルネサンス期の哲学者はプラトンに従った

ガリレイは、自然は神によって数学の言語で書かれた書物であると宣言することにより、プラトンの教説、より厳密にはピタゴラス(582 BC-496 BC)の教説を立脚点にしたのである









2022年10月17日月曜日

コリングウッドによる自然(24): アリストテレス(6)物質
































アリストテレス(384 BC-322 BC)を去る前に、彼の物質概念について一言残しておきたい

しかし、それは非常に難しいことである

なぜなら、『形而上学』の用語辞典においても何の説明もないからである

神あるいは精神は思惟するものであろうと、永遠なる対象である形相としても物質を含まない

感性は物質の中に具体化された形相だけを感覚するので、アリストテレスの物質概念なるものを期待できない


現代科学が物質論と呼ぶ原子、電子、放射能などは、構造や律動運動の類型を記述したものである

従って、ギリシア的に言えば、これらは形相についての理論ではあるが、物質の理論ではない

アリストテレスにとっての物質は無規定なもので、しばしば可能態(デュナミス)と同一視される

『形而上学』には、物質を次のように否定的に定義しているところがある(1029a20-)
物質(質料)という言葉でわたしが意味するものは、存在を決定する質とか量とかその他の属性を何一つその内に含まないものである

自然においてはすべてが常に発展しつつあり、可能態であったものが現実態(エネルゲイア)へと生成している

物質とは、可能態の無規定性に他ならないのである

可能態にあるものは、形相に向かう衝動が存在する

しかし、それを妨げる何らかの力も存在している

これこそ、アリストテレスの物質なのである

つまり物質とは、いまだ実現していない可能態のことを意味している

物質が完全に消失するのは、形相が実現し、可能態が現実態の中に解消するときだけである

そのため、純粋な現実態は全く物質を含まないのである

ところで、神であり得るが神でないものは存在しない

 神は純粋な現実態であり、物質を全く含まないのである



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アリストテレスによれば、エネルゲイアに在る時には物質がなくなっているという

エネルゲイアの状態を感じることが多くなっている日常だが、それは物質が消え、精神だけになっているということなのか

あるいは、精神だけにならなければエネルゲイアには至らないということなのか

そう考えるとよく理解できる

それは形相が実現している状態である

あるいはまた、神に近づいている状態と言えるのだろうか

いずれにせよ、そこで感じているのは永遠である

それは純粋な形相の世界と言えるのかもしれない

想像だにしなかった何とも恐るべき展開である








2022年10月16日日曜日

コリングウッドによる自然(23): アリストテレス(5)不動の動者の複数性





免疫学者のパリ心景』を読んだという方からコメントが送られてきた

そのポイントを以下に書き出してみたい

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定年後の第二の人生をいかに生きるかという大命題に真摯に立ち向かった経緯を知り、感嘆した

「すごい」と思ったのは、単身でパリに乗り込んで、修士から博士課程を修了して学位を取られたのちポスドクを経験されたこと

それから、その時その時に的確な指導者を見つけ出せたことで、運の強い人だと思った

大学卒業してすぐに哲学の世界に入ってもうまく行ったのではないか

今、第二の人生の前半を終了され、これからの後半をどのように考えて、何をされるのかという点に興味が湧いている

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わたしの歩みに感嘆されたとのことだが、わたしの中では最も自然なことだったので特別な感情は湧いてこない

ただ、この本が第二の人生の歩み方という視点から読まれる可能性があることが分かり、その点からは存在価値がありそうだ

一方、多面的に読むことができる本だとも思っているので、他の視点が指摘されることも願っている

また、最初から哲学に入っても問題なかったのではないかという指摘もあったが、これに関しては科学を終えたからでよかったと思っている

18歳くらいで哲学に入ってもエネルギーはあるが、考える材料も経験もないと思われるので、かえって大変だったのではないかと想像している

これはロッテルダム大学の哲学教授と話した時にも指摘されていたことである



この話題はこれくらいにして、コリングウッド(1889-1943)アリストテレス(1889-1943)に入ることにしたい

アリストテレスの神は、我々を愛するものではなく、我々が愛するものであった

それでは、神への愛によって作りだされた自然の過程は、どのように説明されるのであろうか

タレス(624 BC-546 BC)は、磁石も虫も水に過ぎないと言った

しかし、磁石がそのように行動し、虫がそのように行動するのはなぜなのかについては答えられなかった

アリストテレスが、すべてのものは神の生命を模倣しようとしていると言っても、多様な存在を説明しきれない

存在者には階層が存在し、それぞれの階層がそれ自身の目的を持っているとしか考えられない

そのためアリストテレスは、不動の動者の数は複数であるとしたのである

その一つは第一の動者=神である

その非物質的な動因の絶対的・自足的・自己依存的な活動(純粋な自己認識)は、物質的動因の活動(運動)によって模倣される

このように、第一の動者の魂は、神の愛によって発動され、可能な限り神の生命に似た方法で自身の物体を動かす


この活動は2つの方法で模倣される

1つは物体によって、もう1つは物質の中に具現しない精神あるいは叡智(ヌース)によってである

ギリシアにおける物体とは、魂を与えられた生きた物体で、努力とか欲望、愛によって発動させられる有機体のことである

神は自らを思惟・観想し、その他の叡智的存在者は神を思惟・観想する

つまり、その他の叡智的存在者は神的本性を分有するが、それは部分的であり、不完全な分有である

アリストテレスによれば、第一の動者の斉一な円環運動は、神の不動なる活動を再現する努力を表している

この円環運動は、神の活動を物体との関わりの中で直接模倣したものである

これに対して、惑星という叡智的存在者の思惟は、理性との関わりの中で神の活動を直接模したものである

叡智的存在者の完全な社会は、非物質的な永遠の手本から成り、宇宙的運動の複合態はそれを手本としている

これは『ティマイオス』をアリストテレス流に言い直したことになる

神は物質的・時間的世界を創造する際、永遠なる非物質的形相の世界を手本とした

重要なことは、自然界に存在する多様な活動の分化は、永遠なる実在の世界に存在し、論理的に先行する分化過程に依存するということである










2022年10月15日土曜日

コリングウッドによる自然(22): アリストテレス(4)その神学


























今朝テレビを付け、さて今日の日美は何かなぁなどと思いながらチャンネルを変えた

しかし、違う番組をやっている

暫くして、今日は土曜だったと気が付いた

かなり前から感じていることだが、時の流れが悠々としているのだ

先日のカフェ/フォーラム・ウィークなどは、ひと月ほどに感じられた

これは非常にうれしい感覚であるが、その理由は分からない

想像にしか過ぎないが、FPSSで聞いた変性意識(瞑想による)の中に長い間いるせいかもしれない

ところでこの変性意識、英語では "altered state of consciousness" となる

この言葉であれば、40年以上前からわたしの中にあった

マンハッタンに住んでいた1980年、Altered States という映画を観ていたからだ

こちらは幻覚剤などを使っての変性意識ではあったのだが、、

今朝は思わぬところから過去と繋がってくれた



さて今日も、コリングウッド(1889-1943)によるアリストテレス(384 BC-322 BC)である

プラトン(427 BC-347 BC)は『ティマイオス』において、永遠の思惟者、主体、精神としての神と、永遠の非物質的な形相を区別した

プラトンの神は形相を思惟する

アリストテレスによれば、神と形相は一つのものである

形相とは神が思惟するための方法であり、神の思想の明確な表現である

プラトンにおいては、精神活動から分離された純粋な客観物として形相を捉えているが、それに対する議論がある

しかし、アリストテレスによる思惟する神と形相の同一化は、この問題を回避する

『ティマイオス』のプラトンは、神をその創造的な意志の行為によって自然の作用因とし、形相をその静的な完全性のために目的因とした

これに対し、アリストテレスは神と形相を同一視したので、自らを認識する自足的活動を持つ不動の動者(unmoved mover or prime mover)を想定する

その活動は、それ自身の思惟の範疇である形相を思惟することで、最高にして最上のものであり、全てのものにそこに向けての願望と努力を吹き込むものである


アリストテレスの神は世界を愛さず、むしろ世界が神を愛する

世界を動かす愛は、我々に対する神の愛でも、我々相互の愛でもない

一方的な神に対する愛なのである

アリストテレスの愛は「エロス」であり、プラトンの『饗宴』で論じられたところである

すなわち「エロス」とは、不完全なものがそれ自身の完全性を求める憧憬を意味している

より優れたものに対して、より劣っているものが感じる上向きの志向を持った愛なのである

これに対して、キリスト教徒の愛は優れたものがより劣ったものに感じる下向き、あるいは恩恵的な愛である「アガペー」である

つまり、アリストテレスは神が世界を愛さないとすることによって、神はすでに完全で、より善きものへ向かう志向を持たないことを言おうとしたのである


さらにアリストテレスは、神が世界を認識することを否定し、神が意志をもって世界を創造したとか、摂理を持っているというようなことを否定する

そうすることにより、神は見守るものであり、許すもの、さらに責め立てるものと考える必要がなくなる

しかし、神は世界の生命を見守り、歴史の過程を支持し、最終的には彼自身との一体化に至ると考えることも可能で、それなしには神というものを考えることもできない

アリストテレス神学における神の自己認識が神の理性(ヌース)の認識を意味し、それは形相という構造を持っている

我々も理性的存在であり、ヌースに関与しているかぎり、我々の自己認識や形相認識は神の生命に関わることで、我々を神の自己認識の圏内に導くものである









2022年10月14日金曜日

コリングウッドによる自然(21): アリストテレス(3)その認識論





























今日は、アリストテレス(384 BC-322 BC)の認識論について解説している

非常に興味深く、心を整える上でも参考になるところ大である

生きることに直接関係してくるのである

早速始めたい


アリストテレス以前のギリシア人は、聴覚の本質をすでに発見していた

音というものは、物体によって掻き立てられ、空気を伝わって聴覚に達するリズミカルな振動であるというものである

このようなリズミカルな振動を我々の中で再生することと音を聞くことは同義であった

しかし、例えば鈴を構成している銅は我々の中には入って来ず、来るのは振動の律動だけである

この律動は、ピタゴラス(582 BC-496 BC)あるいはプラトン(427 BC-347 BC)的形相であり、非物質的なもの、あるいはアリストテレスのロゴスである

つまり、鈴の音を聞くことは、自分の中で鳴っている鈴のロゴスをヒュレー(質料)抜きで受け取ることである

ある対象物を感覚するとは、我々自身の中にその形相を再生することであり、物質は我々の外に在る


この見方は、感覚の表象説あるいは模写説と同じではない

これらの説は、我々の頭の中で鳴っている音は、鈴の音と似たものだと言う

しかしアリストテレスは、それはロゴス=律動そのものだと言うからである

外で鳴っているものと同じ音であり、形相なのである

それでは、感覚では捉えられない形相の場合はどうなるであろうか

例えば、善の形相が存在するとしてみよう

その形相は、思惟によって我々の心に受け入れることによってしか把握できない

その時、我々の心をそれに合わせて整える方法として経験する

聴覚の場合、音を出す物体は我々の外に在るが、善の場合、物質は存在せず、形相があるだけである

善の写しではなく、それ自身が我々の叡智の中で再生されるのである

つまり、物体が存在しないような対象を相手にする場合、認識するものと認識されるものは同一なのである









2022年10月13日木曜日

コリングウッドによる自然(20): アリストテレス(2)自ら動くものとしての自然



前回見たように、アリストテレス(384 BC-322 BC)にとっての自然は、イオニア学派プラトン(427 BC-347 BC)と同様、自ら動く事物の世界である

この動きは、17世紀的な慣性によるものではなく、自発的運動による

ある変化が次の変化に繋がるが、それぞれの変化が次の形態の可能態(デュナミス)になる

ただ、これは進化を意味しない

なぜならアリストテレスは、自然の世界の変化は永遠に繰り返す循環的な構造を持っていると考えていたからである


自然が自ら動くものだとすれば、自然の外に作用因を求めることは理に適わない

ただ、自然が存在する以前に時間が存在したとすれば、そのような作用因も想定できるが、アリストテレスはそうは考えない

プラトンの『ティマイオス』と同じ考え方である

すなわち、この世界は自ら原因となり、自ら存在するものである


この考え方は、アリストテレスを唯物論者の仲間に入れるように見える

しかし、『形而上学』では全く新しい議論により「神」が再び宇宙論に導入される

物体は運動の内に在り、何らかの方法で運動するものでなければならない

その方法を自然法則と呼んでいる

それは方法の大体の性格を表現するもので、法則の制定者を考えることにはならない

しかしギリシア人にとっての自然は、熱意とか衝動とか傾向という特徴を持っていた

種子は芽を出し、若い動物は成長、発達し、大人の大きさと形になる

可能態とは、それが現実態(エネルゲイア)に向かう時に力となる衝動の存するところである

この衝動という概念は、自然の過程が目指す目的を想起させる(目的論的含意と持つ)ため、近代科学からは擬人的だとして排除された

種子の衝動を意識的な意志と同一視すれば擬人的だが、無意識にそうしようとしている可能性は否定できない


発達という概念は唯物論には致命的である

なぜなら、発達とは非物質的な原因を内に含むからである

種子が植物へと発達するのは物質的ではない何か、すなわち植物の形相のためであり、植物のプラトン的イデアである

それは形相因であると同時に目的因でもある

ここでアリストテレスはプラトンを超える

イデアに導かれる力を、イデアによって呼び起こされるのではなく、イデアとは独立に存在しているとしたのである

この力が生まれるのは作用因による

また目的因は、それが支配する力の向きを定めるだけではなく、それを引き起こすものと考えている

目的因は同時に作用因なのだが、それは非物質的なものである


種子は植物になることを「欲する」が故に成長する

「欲する」などという言葉を使うことができるのは、植物が知性や心は持っていないものの、魂、プシュケーを持ち、目的を認識してはいないが欲望や願望を持っているからである

形相とは、このような願望の対象である

願望の対象であることによって、他の事物に運動を引き起こすものである

この願望は、事物自身を形相に一致させ、できる限り形相を模倣したいという性質を持っている

形相とは、自らは動かずに自然の世界を最初に動かすものなのである






2022年10月12日水曜日

コリングウッドによる自然(19): アリストテレス(1)ピュシスの意味

























今朝は気持ちよく晴れ上がってくれた

嵐の後には、ススキの穂も萎れていたのだが、今朝は日の光を浴びて綿毛のように輝いている

植物の強さに感心すると同時に、もう少し秋を味わえる喜びがある

庭先にはトンボも寄ってきて、日向ぼっこなのだろうか、近づいても全く動かない

わたしも動かないことにして、ぼんやりと次回のカフェ/フォーラム・シリーズのことを思い描いていた

これまでは、自分の中に蓄積したテーマをあまり関連性を考えずに飛び回っていたような感がある

今回、FPSSで繋がりを持った話を始めることにしたが、他の会もどこかで繋がるようなテーマを選んで進めるのも面白いのではないかという考えが浮かんできた

勿論、それに縛られることはないのだが、、

いずれにせよ、具体化し次第、お知らせする予定である



さて、本日もコリングウッド(1889-1943)で、新らたにアリストテレス(384 BC-322 BC)を論じている

具体的には、『形而上学』の第12巻に展開される宇宙論を論じることになるようだ

この部分については、プラトン(427 BC-347 BC)の影響下に書かれた初期の作品とする意見と、後期の文体と成熟した発展の痕跡が見られるとする見方があるようだ

今日のテーマは、ピュシス(φύσις)の意味である

アリストテレスは、一つの言葉がいくつかの意味を持つことに注目し、だからと言って曖昧とは限らないと考えていた

そして、それらの意味は相互に繋がっているが、その中の一つだけが最も深く真なる意味であるとした

彼は、ピュシスの意味を次の7つに区別する

1)起源、あるいは生まれ

現実のギリシアの文献にこのような意味を持つことはないという指摘があり、コリングウッドも同意する

2)事物がそこから成長する種子

これも文献には出て来ない意味である

3)自然的物体の運動ないし変化の根拠

例えば、石が自然に落ちるなどと言う時の意味で、普通のギリシア語の用法である

4)事物がそこから作られる始原的物質

これはイオニア学派によって強調された意味である

紀元前6世紀の哲学において、事物の本質ないし本性を意味していたが、イオニア学派は事物の本性を事物が構成されている構成要素に関連付けて説明しようとした

5)自然的事物の本質ないし形相

紀元前5世紀の哲学の著作においても普通の用法においても、ピュシスはこの意味で使われていた

しかし、自然を自然的事物の本質と定義することは、自然的事物の定義がないところではトートロジーになる

6)一般に本質ないし形相

アリストテレスは、自然的事物を「自らの内に運動の根拠を持つ事物」と定義することによりトートロジーを回避している

7)自らの内に運動の根拠を持つ事物の本質

これこそ、アリストテレスが真の根源的意味としたものである

それ自身の権限で成長したり組織したり運動したりする原理を持っていることが事物のピュシス(自然)という意味であるとしたのである








2022年10月11日火曜日

コリングウッドによる自然(18): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(4)
































ティマイオスによる世界の魂の創造は、次のようなものであった

魂はあらゆる身体の中に注ぎ込むと同時に、それを外から包んでいる

従って、世界の身体は自身の魂にくるまれている

魂とは、物質的世界(様々な過程の複合態)としての自然と、非物質的世界(様々な形相の複合態)としての自然との間にある中間項である

つまり魂は、世界の中にも世界の外にも存在する

それは恰も、人間の魂が身体を超えたところまで届くように意図されているかのように

この本でプラトンは、以下の2点を示そうとした

一つは、如何にして惑星の運動と距離の体系を演繹すればよいのか

二つ目は、このような運動体系の中に現れる生命が、思想や判断を生む、感じ考える生命たり得るのか


ここでコリングウッド(1889-1943)は分析を止め、現存する最も偉大な哲学者であり、最も偉大な現存の宇宙論の著作家であると彼が認めるホワイトヘッド(1861-1947)の意見を紹介する

プラトンもホワイトヘッドも、自然の世界は時空における運動/過程の複合態と、形相の世界を前提として複合態であるとしている

ホワイトヘッドは後者を「永遠的客体」と呼んでいるが、プラトンとの違いが存在している

プラトンにおいては、可視的世界の事物は形相を手本としていたが、形相に近づくだけである

ところがホワイトヘッドの「永遠的客体」は、叡智的世界の近似値ではなく、叡智的世界そのものである

また、『ティマイオス』において、世界の魂は身体に浸透しているが、ホワイトヘッドにとっての精神は現象の一階級に過ぎず、自然の中の特殊な場や時間において現れるものである

この違いこそ、ギリシア的自然概念と近代的自然概念の違いだとコリングウッドは見ている


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これで『ティマイオス』についての考察が終わったことになる

最後のプラトンとホワイトヘッドの違いは、実に興味深い

この世界は「永遠的客体」として叡智的世界が実現したものだというホワイトヘッド

一体、どういうところからそのような考えに至ったのか、興味が湧いてくる

また、ギリシア的自然観では魂は至るところに浸透しているが、ホワイトヘッドはそうは考えないという

こちらもその理由が知りたくなる







2022年10月10日月曜日

コリングウッドによる自然(17): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(3)



























今朝は暴風雨のため、風の音で目覚めた

珍しいことである

この嵐で秋の気配が消し去られたような感じがする


今日もコリングウッド(1889-1943)のお話に耳を傾けることにしたい

昨日の最後にカント(1724-1804)の「自然の形而上学」が出てきた

それで思い出したのが、フランスの学会でお話した高名な科学者から、カントやフッサール(1859-1938)は科学者の必読書だと助言されたことである

こういう言葉が科学者の口から普通に出てくる国の科学を取り巻く文化を思い、なぜか嬉しくなったのである

今日はその記憶が前に進むのを助けてくれそうな予感がする



感覚的世界の存在を説明するために、なぜ創造主たる「神」を持ち出さなければならないのか

ティマイオスにとって、形相の叡智的世界は存在しなければならないし、「神」も存在しなければならない

ただ、その理由を語っていない

後にアリストテレス(384 BC-322 BC)が説明している

形相とは変化の源泉すなわち作用因ではなく、他のところで起こった変化を制御するだけである

形相は基準であり行動の主体ではない

そのため、この世界における生命と運動の源泉は他のところに求めなければならない

それはこの世界には属さない永遠の主体で、「神」という名に相応しい


次にティマイオスは、神がなぜ世界というものを創ったのかと問う

それは、神が善であり、善の本性はその外に流れ出し、それ自身を再生産することだからである

善きものは、その善を独占的に享受することに満足せず、他に分け与えずにはおかないものなのである

であるとすれば、善を分け与えるべき何ものかが存在していなければならない

それは、形相すなわち善を受け取る可能性のある非形相的な混沌に他ならない

ティマイオス』における「神」は、デミウルゴスすなわち製作者、職人のことである

デミウルゴスの創造的行為は絶対的なもの(Creatio ex nihilo)ではなく、手本を前提にしている

手本となる形相が、写し取る行為の前に存在しているとすれば、その相関概念である物質も存在していたと考えられる

とすれば、ものを製作するとは、形相を物質に押し付けることになる

ここで注意しなければならないのはギリシア的創造観念と、キリスト教とともに生まれた絶対的創造とを区別することである

近代的な見方でプラトンを捻じ曲げてはならないということである








2022年10月9日日曜日

コリングウッドによる自然(16): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(2)
































感覚的世界では、ある事物の全体的本性は一度には認識されない

例えば、動物は寝たり起きたりするが、その2つを同時に認識できない

時間を変えなければならないのである

しかし、叡智的世界においては、すべての本性を同時に認識できる

例えば、三角形の特質は如何なる時にも表れているので、一度にすべてを認識できる

無時間的自己充足の「動く影」が叡智的世界を特徴付ける時間の持続になる


もし自然界が時間と同じくらい古く、ある瞬間に存在するに至ったのでないとすれば、なぜ自然界はそれ自身で存在していると見做してはならないのか

なぜその外に創造者を探さなければならないのか

ティマイオス』は、全自然界は成る世界であり過程であるので、原因がなければならないと答える

この議論に対してカント(1724-1804)であれば、それは詭弁であり弁証法的であると答えるだろう

その理由は、ある現象を他の現象と結び付けるための範疇を誤用しているからである

原因と結果は、一つの生成過程と他の生成過程との関係であり、現象の全体と現象(生成)でないものとの関係ではないのである

カントから見れば、すべての生成には原因があるというティマイオスの主張は曖昧である


18世紀のデイヴィッド・ヒューム(1711-1776)は、原因とは結果に先立ち、必然的にそれと関係するものとして確認した

カントの批判は、18世紀的意味における原因の枠組みの中でだけ有効である

しかし、ギリシア人にとっての原因は、「なぜ」という問いに対する答えを与えるものである

周知のように、アリストテレス(384 BC-322 BC)は、質量因、形相因、作用因、目的因の4種を区別した

これらのいずれもが、時間的に先立つ出来事と見做されるものではない

新しい有機体を生み出す作用因は発生という出来事ではなく、行為を行った両親とすれば、現象界の外に原因を求めることが間違いにはならない

カントは、悟性が自然を作るという独創的な解を出した

この問題は、自然が自ら説明せず、説明を要求する事実の複合態として現前していることを感じると、問われなければならないものである

その方法として、事実と事実の関係を示すこと、一つの事実を残りの事実との関連で説明すること

もう一つは、様々な事実はなぜ存在するのかを説明することである

これこそ、カントが「自然の形而上学」と呼んだものであり、『ティマイオス』の方法である










2022年10月8日土曜日

コリングウッドによる自然(15): プラトンの宇宙論『ティマイオス』(1)
















今日から、しばらくお休みしていたコリングウッド(1889-1943)の議論に戻ってみたい

これから始まるのは『ティマイオス』の宇宙論で、これまでこの本を読んでいたのはその準備運動であった

この本はプラトンの自説を展開したというよりは、紀元前5世紀後半のピタゴラス学派の教説を述べたものだと考える学者もいるようだ

いずれにせよ、コリングウッドはその内容の説明を始める


まず、感覚的に捉えられる世界は、神によって創造された有機体あるいは動物だと考えられていること

ここにはイオニア思想が表れているが、ピタゴラス(582 BC-496 BC)による物質から形相への転換が見られる

上記学者は、『ティマイオス』の宇宙論は物質抜きで、すべては純粋な形相に解消されたとまで断言しているという

コリングウッドは、それは行き過ぎだと考えている

ただ、『ティマイオス』の物質は幾何学的形相を受け入れることができるもので、それは物質から超越して一つの叡智的世界を構成している

この叡智的世界こそが、神が自然を創造する時の手本とした永遠不変のモデルであった

叡智的世界は、様々な形相が弁証法的関係の力により動的に関係しているため、非物質的有機体あるいは動物であり、生きているとされる

ただ、その世界には時空間がないので、運動により生きているのではない

それでは一体、どのようにして時空のある自然界の特徴を創り出すのだろうか


まず、空間から考えてみたい

『ティマイオス』における空間は、叡智的世界の特徴に照応しない

空間あるいは物質(形相を受け入れるもので、空間と同一視している)から宇宙論を始めている

空間とは、そこから複製が創られるところであり、神が空間を創ったということを示そうとはしていない


時間に関しては、神の創造行為の前提ではなく、神の創造物の一つである

自然と同時に存在することになったものである

従って、創造は時間内の出来事ではなく、永遠の行為とも言えるものである

時間は「永遠の動く影」として創造されたという難解な表現がある

第1に、時間は自然的物質的世界の特徴で、通り過ぎては消えて行く

第2に、この世界の一切のものは叡智的世界の複製であるとすれば、そこには消え行く時間に照応する特徴がなければならない

それは、時間の不在や無限などではなく、変化も消滅も含まない「永遠」であるという

永遠とは、それ自身の存在するあらゆる時間に、それ自身に必要な一切のものを含んでいるものである


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わたしも興味を持っている「永遠」

分かったようなつもりになっていたが、よく分からない

もっとじっくり考えれば見えてくるのだろうか

あるいは・・・






2022年10月7日金曜日

「意識の3層構造」から考える幸福

























カフェ/フォーラム・ウィークを終え、アトリエに戻った

気持ちがリフレッシュしているのを感じる気持ちの良い朝である

これがいつまで続くのだろうか


今日は、今回のベルクソンカフェ+カフェフィロPAWLで取り上げた「幸福」について私見を述ることにしたい

カフェでその概略については触れたのだが、まとめには入っていなかった

それはこういうことである

「幸福」とか「幸せ」というような言葉は、日常的によく耳に入ってくる

しかし、よく聞いてみると、話している人が何を指して言っているのかよく分からない

しかも、人によってそれが違っているように見えることもある

殆どの人が何気なく使っているのである


この春、車を運転している時、次のように考えると「幸福」の問題がスッキリすることに気付いたのである

その元になっているのは「意識の3層構造」理論である

これは、意識を3層に分けて考えるといろいろなことが整理できるだけでなく、我々の日常をより善いものにできるという理論である

以下のエッセイや『パリ心景』に詳しいので、参照していただければ幸いである


これによれば、第1層は日常生活で使われる意識のレベルで、所謂思考が行われておらず、殆どの場合、受容と反応の中にある

第2層は仕事で使われる意識のレベルで、普通は第1層とは区別され、それぞれの領域の中での思考は行われるが、技術的な内容に止まることが多い

第3層は上記2層から離れた状態で働くレベルで、人間として求められる思索や領域を超えた思考、我々の存在を含めた世界(le monde)に関わる観想などが行われる空間である

これはあくまでもわたしの意識を見た時の理論なのでその普遍性は分からないが、その範囲で言えることは、第2層と第3層の間の壁は厚くて高いということである

従って、第3層の思考の重要性に気付けないことが多いのである


この理論から「幸福」を見直すと、次のようになる

世に何気なく言われている「幸福」は、第1層での感情を言っているのではないか

その他に、それぞれの職業における成功が齎す感情があるかもしれないが、これは第2層のお話ではないか

この2つの問題は、持続性がないということだろう

そして、以前にマルセル・コンシュ(1922-2022)の「わたしは幸福ではなく真理を求めてきたが、それにもかかわらず至福の時を過ごしてきた」という言葉を聞いたことがあった

その後、アラン・バディウ(1937- )が「真理に至ることこそ幸福なのだ」と言っているのを聞き、コンシュさんの経験は理に適っていると理解したのである

同時に、この幸福は第3層での活動が齎すもので、持続性を伴うものではないかと考えるようになった

つまり、幸福にもいろいろな質があり、3層構造理論から考えると幸福のそれぞれの局面がより明確になる


古代ギリシアの哲学者エピクテトス(c. 50-c. 135)は、自分に依存するもの(自分がコントロールできるもの)とそうでないものを識別せよと言った

自分や肉親の肉体的な問題(生死など)、社会的、物質的なもの(富や名誉など)は、自分には依存していない

自分がコントロールできるものは、唯一、自らの精神である

従って、その精神を充実させることが幸せに繋がるという考えであった

これは、第3層の幸福を求めよ、そこにしか幸福はないと言っているように見える

今回カフェで取り上げたバディウさんの幸福論もこの理論から見ると、その輪郭がより明確になるのではないだろうか










2022年10月6日木曜日

9月、そしてカフェ/フォーラムを振り返る





9月は、R・G・コリングウッド(1889-1943)の自然についての考えを読み始めた

そして『ティマイオス』についての議論が始まるところで、原典に当たり、つい最近終わったところである

それと並行して、昨日で終わったカフェとフォーラムの準備に追われていた

3年振りになるので、なかなか大変であった

意識のレベルから見れば、底に沈んだ日常から一段上に顔を出す状態を想定して動くということになる

沈んだ状態のままでいる方が楽なのだが、偶にはアゴラに顔を出し、意見の交換をすることも忘れてはならない

哲学の祖の教えがどこかに響いていたのだろう

少しだけ浮き上がることにした


まず準備だが、いつものように、一つずつ片付けていくのではなく、すべてを最後まで開いたままにしておいた

そのため苦しいのだが、最後に全体が大きな纏まりを作ってくるその感覚は何ものにも代え難い

それを感じるのは、それぞれの会の直前なのだが、、、

今回も始める前には見えていなかったことがいろいろ見えてきた

中には、これからのプロジェとしても面白そうなものもあり、わたしにとっては実り多き準備となった


そして実際に会の開催に漕ぎつけたが、今回は3年というブランクにもかかわらず、あるいはそれ故に、想像以上の方に参加していただき、主宰者としては嬉しい限りであった

今回はこれまで以上に、一つの場所に集まり、考えを発し、お互いに交換することによる想定外の効果を感じることができた

まさに、会が有機体の如く動き出し、我々にいろいろなことを指し示してくれるという風情で、交換される意見も熟度が上がっている印象があった

参加された皆様にとっても、これからに繋がる発見があったことを願うばかりである


すべてが終わった今、この試みには積極的に向き合わなければならないという気持ちが生まれている

個人的には嫌いな「使命感」のようなものだが、内発的なもの、必然的にそこに向かうものはその限りではなさそうだ

なぜなら、それをすることによる内的なストレスを全く感じないからである

ということで、来年は「試みに」年3回開催というアイディアも生まれている

もしそうなれば、2月、6月、10月あたりの可能性が高くなる

いずれにせよ、次回の予定が決まり次第、この場に案内を出したい

これからもよろしくお願いいたします











2022年10月5日水曜日

第15回サイファイ・カフェSHE、終わる
























今日は、最初の会が2011年11月にまで遡る「サイファイ・カフェSHE」の15回目であった

思い返せば、第1回から第4回(2012年11月)までは「科学から人間を考える試み」というタイトルで会を開いていた

このこと一つとってみても感慨深いものがある

今日は3名の方が参加できなくなったが、雨の中、写真の8名の方が参加された

中に、わたしがお世話になってきた日本パスツール財団の渡辺昌俊、中村日出男の両氏が含まれていた

皆様には改めて感謝したい


今回は、生誕200年ということもあり、パスツール(1822-1895)を取り上げることにした

個人的には、フランスに15年ほど滞在し、パスツール研究所にはよく顔を出し、図書館やミュゼにも大変お世話になった

しかしこれまで、なぜかパスツール個人について知ろうという気が起こらなかった

ということで、いつもそういうところがあるのだが、今回はすべてが発見という疲れる準備となった

今日の内容はサイファイ・カフェSHEのサイトに掲載予定なので、参照していただければ幸いである



























懇親会でもいろいろな話が出ていた

ここでは一つだけ触れておきたい

それは、最初の会でも出ていたことで、パスツールのアカデミー・フランセーズ受諾演説に見られる教養の深さ

日本の科学者があのような演説をすることはあり得るのかという疑問

そして、最後は科学では解決できない何かが残るのではないかという疑念

それは「無限」というようなところに通じるものなのだろうか