2020年4月19日日曜日
薬師丸ひろ子さんを発見
夜、テレビをつけると、薬師丸ひろ子さんのコンサートが流れていた
彼女が10代の頃は知っていたが、それ以後は視野の外にあった
お顔を見るのもほぼ半世紀ぶりくらいではないだろうか
聴いたのは最後の数曲だったと思うが、じっくり聴いたのは初めてのこと
声が生のままという感じではなく、オプラートに包まれたように(ファルセットと言う?)柔らかい
声に質量があり、濃密な感じがした
また、歌と歌の間にあった語りを聴きながら、こんな話し方をする方だったのかという思い
正直で直向きなところがあるお人柄とお見受けし、好印象を持つ
これからの更なる成熟を期待したいものである
ということで、思わぬ発見となった
今日最後に歌っていた曲をもう一度聴くことにしたい
夢で逢えたら
2020年4月17日金曜日
モントルーの山奥に住む95歳の哲学者
興味深い方を発見した
ポール・デュ・マルシー(Paul Du Marchie)さんである
その生活ぶりは上のビデオで伺い知ることができる
1923年にオランダで生まれなので現在97歳
これまで世界中を旅してきた
砂漠でノマドとともに生活したこともある
若くして哲学に興味を持ち、芸術活動の幅も広い
ビデオ撮影時は95歳だが、全く衰えを感じない
現在はスイスはモントルーの山奥に住んでいる
廃屋を手に入れ、自ら手を加えてきた
基本的な考え方は、現在に価値があるというエピクロスの時代からのもので、わたしの考え方にも通じる
未来ではなく「いま・ここ」に美を見出さなければならないという立場であり、生き方である
すべての価値は "transmission" の中にあるという言葉も印象に残っている
「伝染」の意味もあるので今は問題だが、ここでは「伝える」ということ
ポールさんにとって重要な感情は魅了されることで、それを共有することが欠かせないと考えているからだ
「人は考えるところものになる」
これもよい観察になるのではないだろうか
家にとどまらなければならないこの時期、心落ち着く映像であった
2020年4月16日木曜日
「COVID-19 後」へのアイディア
ジョン・キャンベルさんの話は明快で論理的なのだが、それが実に自然に行われている
そこにいつも感心している
このような語りを日本で見ることは極めて稀である
今回は、コロナ後の世界について考えたビデオを紹介したい
コロナ後に「世界の新秩序」が現れるというやや陰謀論めいた話ではない
もっと身近で具体的な変化について展望されている
まず、グローバルな経済基盤に依存しない方向性、地域での自己完結性を模索する必要があるということ
例えば、食料や医薬品などはできるだけ近いところから入手できるように変えていく
世界を飛び回るというライフスタイルを止めること
学会などで世界を移動することなど、ナンセンスだと考えなければならない時代が来るだろう
今やネットを介した会議が技術的に可能になっているのだから
今回のロックダウンが教えてくれたことの一つは、自然との接触の重要性だ
自然を愛でる精神、他の動物と尊敬の念をもって接する態度など
より人間的な生活を発見・構築する機会が訪れるかもしれない
それから、世界共通の問題に対処する際に重要になるのは、真実を語ること
情報の開示性と透明性を如何に確保するのかということである
それが欠けていた国として中国を挙げているが、それだけに止まらないだろう
また、問題を「予測して」対処するという態度も重要になる
2月の段階ではWHOは中国の行き来を認めていたようだが、この態度が欠如していた
早期の対策は問題を早く収め、遅れれば遅れるだけ問題は悪化・長期化する
この当たり前のことがなぜできないのか
今回、キャンベルさんは"short-termism"という言葉を出していた
つまり、目先の利益を重んじるあまり、長期的な成功や安定を失うような態度を採ることを言う
短期的な経済の停滞がないような政策を出し、最終的に経済の回復は遅れ、より多くのものを失うことになるなど
出来るだけ早くワクチン開発ができるように、各国は協力し、その投資をしなければならないとも言っている
より身近なこととして、病院のベッド間の距離を広げること、窓を開けて外気を入れることなどを推奨していた
実は今カフェにいるのだが、席の数は半分以下になり、それぞれの距離が広がっている
このことである
今日も頭の中がすっきりする内容であった
キャンベルさんの話は精神衛生にも良いことが分かってきた
COVID-19 の無症候例について
日本が進む方向に関しては相変わらず揺れ、未だにいくつもの方針が出されている
なぜ有効だと論理的に言える(過去と現在進行中のデータ、将来予測などを考慮した)方針が決まらないのだろうか
その前提は、現実をどのように認識するかという問題になるだろう
そこが非常に甘いのではないだろうか
ということで、久し振りにジョン・キャンベルさんの話を聴くことにした
今日のお話は、症状を示さない感染者についてであった
これまでに、次のような数字を出してきた
感染者の80%は軽症で、16%は重症で入院が必要となり、5%程度が危険な状態になり、1%は亡くなる
感染者のどれくらいが免疫を持つのかは分からないが、5%(~10%)くらいは持つ可能性がある
アメリカの免疫学者ファウチ博士によれば、感染者の約半分は無症状だという
そのうちのどれくらいが感染を広げるのかは分からない
中国の研究では、4月1日に感染が確認された166人のうち78%は症状がなかったという
対象とした人数は少なく、信頼できるかどうかは分からないが、British Medical Journalに発表されている
ファウチ博士の数字よりかなり高い
表に出ないが感染している人はかなり広がっていることを想像される
北イタリアの3,000人を対象とした研究によれば、感染した人の大部分が無症状だったという
つまり、症状はないが感染している人は感染拡大を考慮して隔離しなければならないだろう
どうしても検査が欠かせないのである
WHOは、感染を広げるのは発症している人で、無症候の人は感染を広げる主役ではないと言っていたようだ
キャンベルさんは、WHOは間違っていると判断している
2020年4月15日水曜日
サイファイ研究所ISHEの春の予定について
先にお知らせした春の予定ですが、COVID-19の影響を考慮して、すべて延期することにいたしました
- 第8回サイファイ・カフェ SHE 札幌(4月25日)
- 第15回サイファイ・カフェ SHE(5月13日)
- 第7回サイファイ・フォーラム FPSS(5月16日)
- 第8回カフェフィロ PAWL(5月20日)
- 第6回ベルクソン・カフェ(6月4日、11日)
ご理解いただければ幸いです
COVID-19の影響ができるだけ少ないうちに収束し、秋には開催できることを願っております
2020年4月14日火曜日
フランスのCOVID-19対策について
大使館から連絡が入った
4月13日、マクロン大統領が演説を行い、外出制限措置を5月11日まで延長する等の発表を行ったようである
その概要は以下の通りである
1)ここ数日、患者数減少等の希望が見えてきたが、医療施設は飽和状況にあり、努力を継続する必要がある
5月11日(月)まで、今と同レベルの厳しい外出制限を維持する
仏国内全土において同様の措置が必要になる
2)5月11日から、託児所と小中高校は段階的に再開する
高等教育機関は夏までは引き続き遠隔での開講となる
3)5月11日になってもレストラン、バー、映画館、劇場、博物館等は引き続き閉鎖する
イベントや集会などは7月中旬までは禁止
5月中旬以降、毎週、状況をみて措置を適応させていく
4)5月11日から、症状のある全ての人に対しテストを実施できるようになる
陽性者は隔離され、治療を受ける
5月11日から、大衆用マスク(masque grand public)を全ての国民に配布する
5)今後15日以内に、5月11日以降の計画を発表する
6)EU国境は新たな決定まで閉鎖を継続する
7)更なる経済政策が必要である
観光業、ホテル業、飲食業等、経済的打撃の大きい部門に対しては、特別な措置がとられる
4月15日の閣議以降、必要な措置を決めていく
8)ワクチン開発を目指し、研究に一層の投資を行う
フランスは欧州で最大数の臨床実験をしているが、治療法を見つけるために継続していく
9)アフリカがコロナウィルスに効率的に闘えるように支援すべきである
経済面でもそれが必要であり、負債の帳消し等が考えられる
2020年4月13日月曜日
精神と魂と身体(8)
付随性(Supervenience)
ドナルド・デイヴィドソンは現代のこころの哲学に最も多くのものを齎した哲学者の一人である
彼は心身関係の問題に対する解決を提案している
すべての心的出来事は物理的出来事であるとしても、心的領域と物理的領域を結ぶ厳密な法則はない
一つの(物理的な)ものしか存在しないが、個人XとYに対してできる物理的描写と心的描写は同じではない
この還元不可能性は、心的描写のために物理法則と同じ種類の法則を示すことができないということが原因である
「非法則的一元論」(anomalous monism)と呼ばれている
我々は2種類の相互に還元できない概念(物理的なものと心的なもの)を持っている
デイヴィドソンにとって、心的特性(痛みがある、愛している)は物理的特性に付随する
彼は次のように言っている
すべての物理的側面は似ているのに心的側面が異な二つの出来事はあり得ない。このような依存性あるいは付随性は、法則や定義を介する還元可能性を意味しない。もしそれを意味するとすれば、道徳的特性を描写特性に還元できることになる。非法則的一元論は心的概念の還元不可能性を保証する
それは「心的なもののホーリズム」の枠組みの中で理解されるべきものである
一つの信念、一つの欲求、一つの意図は、他の信念、他の欲求、他の意図に依存する
また、命題的態度は論理的関係を維持することを前提とする
それは命題について適用される心的態度で、と考える、ことを知る、を主張する、を望む、を欲するなどである
それが植物であり動物でないとXが信じているとすることなしに、それが花であるとXが信じていると私は思わない
我々は他者が信念や欲求や意図を持っていると思うのは、この合理性である
従って、個人の心理描写は我々が合理性の基準を用いていることを前提としている
(XはYを愛しているので、Xは花を買った)
我々が取る態度は、合理的でホーリスティックな(ネットワークを作る)構造を持っている
これらの合理性の基準により、我々は言語的で社会的な次元に入るが、それは物理学への還元を阻害する
従って、脳とそこで起こっている精神物理学的過程を完全に知ることは、心的なものを完全に知ることではない
デイヴィドソンは、心的なものの物理的なものへの還元性をアプリオリに認めないが、二元論に陥ることはない
心理的出来事の描写は物理的描写に随伴するが、物理的なものには還元されない
我々が人間の心理的態度を描写する概念に特異的に還元できない何かがある
これらの概念は、行動の解釈に不可欠な合理性や評価の基準と結び付いているのである
2020年4月12日日曜日
精神と魂と身体(7)
反二元論(4)
ある心的状態が痛みの心的状態であるために重要なことは、その物理的性質ではなく、それが果たす役割である
ここで厳密な意味での唯物論を離れる
なぜなら、心的過程は外形上のものだが、物質的なものではないからである
例えば痛みは、物理的傷害を検出する機能である
検出する役割を担うメカニズムは、その機能より重要ではない
しかし、機能主義は行動主義ではない
行動主義は次のことを主張するものである
感覚、感情、信念、欲求、希望、願いなどについてのすべての言説は、観察できる行動に関する言説に「翻訳すること」ができる従って、「Xは痛い」、「XはYを愛する」という陳述は、Xのある状況での行動様式に応じて解析されるべきである
しかし、行動だけを記述する陳述から心的状態を記述する言葉を排除できるかのは、全く不明である
それから、心的状態が因果関係を持たないのかについて問うこともできる
「Xは彼が愛する女性に贈りたいと思ったので花を買う」
行動の記述のために「花を贈りたい」という心的状態が削除された場合、どのように原因となる機能を持つのだろうか
機能主義は現実主義である
たとえ心的状態が物理的状態と同一ではなくとも、心的状態という現実を拒否しないのである
二元論が消去主義、同一説、機能主義、行動主義によって一向に打ち負かされないとすれば、精神は生き長らえる
痛みに戻ってみよう
ある機能主義者にとって、痛みは傷害の検出の原因となる役割を担っている
感覚は、実際には現象に関わる質的な特徴を持っている
哲学者は「クオリア」と言ったりする
我々の生き生きとした生活は、クオリアの祝祭である
例えば、色、匂い、味、音、目覚めてからの多様な感覚
生き物の毛の柔らかさ、コーヒーの匂い、蜂蜜の味など
心的状態に割り当てられた機能的役割は、ある心的状態(クオリア)に在ることを感じさせる効果を説明しない
「クオリアの逆転」の可能性を想像した哲学者がいた
赤いというわたしの経験は、あなたの緑の経験と全く同じかもしれない
つまり、あなたがグリンピースを見た時、わたしがトマトを見た時と同じ経験をするというものである
二つの色の機能的役割は同じということになる
クオリアの逆転にもかかわらず、我々は熟したトマトとそうでないトマトを選り分けることができるだろう
我々の経験は異なっているように見えるのである
どうしようもなく「精神に関わる」ように見えるのは、この質的で現象的な次元である
確かに、還元不能な二つの実体が存在することを肯定する二元論から我々は遠いところにいる
しかし、物理的なもののために心的なものを排除して勝利した還元主義を擁護することはできない
還元主義はどのようにして我々の第一人称の心理的生活すなわち「クオリア」を説明するのだろうか
2020年4月11日土曜日
『近代の超克』、あるいは日本人による日本の科学と知の省察
雑誌『医学のあゆみ』に連載中のエッセイ「パリから見えるこの世界」の第90回が掲載されました
テーマ: 『近代の超克』、あるいは日本人による日本の科学と知の省察
(医学のあゆみ 273: 203-206, 2020)
80年前には存在した知識人による座談会について考えた内容となっております
お目通しいただければ幸いです
2020年4月10日金曜日
精神と魂と身体(6)
反二元論(3)
(2)を続けると、ポストモダンにとっては唯物論は反形而上学になるが、実は一つの形而上学である
それは次のようなことからである
1)精神は存在しない
2)心的性質、あるいは心的状態を語ることは一般的な語りで、自然世界の真面目な(=科学的な)概念を成していない
3)物理的な性質と物理的な状態しか存在しない
従って、心的性質や心的状態はすべての科学的説明から排除されなければならない
しかし、二元論と唯物論の間には他の形而上学的テーゼが存在する
それが同一説で、上の1)と2)は認めるが、3)は拒絶するという立場である
それは次のような主張である
4)心的性質と心的状態は物理的性質と物理的状態と同一である
従って、心的状態は排除されず
雲が浮遊する粒子の集合であり、温度が分子の運動エネルギーであるように、意識はニューロンの状態である
この説はいろいろな問題にぶつかる
その中には、同一性が(心的、物理的)型に関するものなのかどうかという問題がある
これは議論の余地がある
異なる物理的状態を持つ非常に異なったオーガニズムは、ある心的状態を共有できないのではないか
換言すれば、「心的状態の多重実現可能性」は存在しないのではないか、ということである
物理的出来事と心的出来事の間の同一性は、次の同一性を意味しない
それは、物理的状態の型と心的状態の型の同一性、およびある部分の物理的型と他の部の心的状態の同一性である
心理学的同一性の擁護者が答えを探す際に出会う難しさは、「機能主義」という主張を発展させた
そこでは、心的状態の型は原因を示す役割によって定義される
5)心的性質は、個人の観察できる行動を説明可能にする機能的役割によって特徴付けられる
となるのである
(つづく)
2020年4月9日木曜日
精神と魂と身体(5)
反二元論(2)
二元論に対する二つの批判は非常に異なっている
昨日示した(1)は、二元論は何かを隠していると考える
それは適切な解釈によって明らかにできる
このやり方は19世紀終わりから多くの大陸哲学者、特にポストモダン哲学者により引き継がれている
二元論は厳密に物質的ではない現実に訴える
そのため、必要があれば人間を欲求不満や社会的疎外状態に置いたままにするのに役立つ幻想の中で二元論は充足するのである
ポストモダン哲学者にとっての問いは、二元論が正しいかどうかではない
二元論を非難するのは、それが欲求と身体を抑圧するからである
この批判は多様な形を取り得る
例えば、よく練り上げられたフーコーなどの形や荒っぽいオンフレなどの形がある
結局のところ、この型の批判は二元論に対して議論するというより、物質性の名の下に二元論を悪意で解釈する
この流れにいる多くの哲学者は道を変えた
そして、ポストモダン哲学者がチャンピオンになるのである
昨日の(2)は反対に、二元論に対して真っ向から正反対の立場を取る教義を発展させる
二元論は拒絶すべきイデオロギーであり、間違ったテーゼであることを疑わない
要するに、二元論は非物質の心的現実の存在を正当化できないのである
唯物論は二元論の持つ価値の拒否や破壊を擁護し、生命の迸りや欲求に反対する試みを罵倒する反イデオロギーではない
唯物論はただ単に、生命の正しい説明は非物質の心的現実への参照なしで済ますということを意味している
(つづく)
2020年4月8日水曜日
精神と魂と身体(4)
反二元論(1)
二元論者は次のように考える
1)精神は、物質とは根本的に異なる種類の実在するものである
2)心的性質と心的状態は、非物質的なのものの性質と状態である
3)物質的身体のあるものは精神と密接に関係し、人間は物質的なものと非物質的なものが結び付いたものである
1世紀以上前から、二元論はあらゆる流れの哲学者にとって打倒すべき主張であった
例えば、固有の身体を扱う現象学者、精神分析に傾く哲学者、マルクス主義的唯物論者、認知主義哲学者、物理主義者等
二元論に対する批判的な戦略は多数あるが、主要なものは二つである
(1)二元論は、身体を疎外した形を表しているという考えから始めることができる
抑圧的な中身を隠さない道徳的、宗教的原理を理論的に包み込んだものとしてである
二元論はユダヤ・キリスト教と結び付いている
キリスト教は身体、享楽、快楽、そして生のすべての良いことの敵であると考える人がいる
しかし、多くのポストモダン哲学者は、我々は快楽を求める身体であると言う
古代の唯物論(デモクリトス)に健全な回帰をすることを説き、ニーチェの流れに結び付いていると主張する
これが反二元論の「大陸哲学」版である
(2)心的性質について語るすべてのことは、物理的性質で十分に説明することができる
二元論の主張は役に立たない
この主張は我々を神秘的な実体の存在へ、物質に還元できない精神へと導くことになる
物理学、生物学、神経心理学における科学知の進歩は、少しずつ精神の記述に戻ることを排除している
このタイプの言説は、単純な語りとしてだけ存続するだろう
意図、信念、行動理由、意思、希望、愛について普通の語り方を排除して科学的な記述に至るこのような構想
それは紀元前5世紀のデモクリトスの唯物論と同じくらい古いものである
例えば19世紀の終わり頃のように、それは周期的に戻ってくる
科学の進歩のお陰で、精神の「自然化」は遅らせることができないという大声のアナウンスと同時に
「分析哲学」版の反二元論は、哲学的だが新しい衣装を着け、英語で語られる古臭い考えではないのか
(つづく)
2020年4月7日火曜日
精神と魂と身体(3)

プロローグ:デカルト(2)
しかし精神の現代的概念は、当然のことながらデカルトの二元論に対する反応として理解できる
一方で、フッサールの現象学においてはポジティブな反応、メルロー・ポンティになると多少とも批判的反応である
他方、精神分析(ラカン)、心理学の哲学(ウィトゲンシュタイン)、こころの哲学では多様な批判的反応がある
主体の哲学の検討では、特に現代フランスの哲学者において明確な敵意ある態度が認められる
フーコーやドゥルーズやデリダたちである
デカルトの二元論は二つの世界があると考える
一つは自然科学が研究する物理的世界で、もう一つは公の観察ではアクセスできない、私的な精神世界である
二つの世界は、物理科学によって研究される因果律に還元されないやり方で相互作用する
以下がアンソニー・ケニーが言っていることである
デカルトは並外れた能力を持つ天才であった。彼の主要な考えは、郵便はがきの裏に書けるような簡潔さで表現できる。しかしそれは、非常に革命的であるので数世紀に亘る哲学の流れを変えてしまったのである。もしデカルトの主要な考えを郵便はがきの裏に書きたいとすれば、二つの文章しか必要でない。人間は考えるものである、そして物質は動いている延長である。人間は考えるものであるという最初の主張は正確だろうか
それは「こころの哲学」と呼ばれる領域において、多くの現代哲学者が探しているこの問いに対する回答である
2020年4月6日月曜日
精神と魂と身体(2)
いろいろと寄り道をしたが、久し振りに現代哲学の問題に戻ってみたい
今日は「精神と魂と身体」の2回目となる
1回目は3月25日で、こちらになる
プロローグ:デカルト(1)
デカルトの第二省察のこの一節はよく知られている
わたしは、それなしには存在し得ない身体と感覚にそれほど依存しているのであろうか。しかしわたしは、世界には何も存在しないこと、天も地も、如何なる精神も身体も存在しないことを納得した。従って、わたしが存在しないことも納得したのではなかったのか。とんではない。もしわたしが納得したとすれば、あるいはわたしが何かを考えたとする場合にだけは、わたしはきっと存在したのである。しかし、常にわたしを騙すことにすべての策を弄する、それがどんなものかは分からないが、非常に強力で、非常に抜け目のない騙し屋がいるのである。従って、もしわたしが騙されるとすれば、わたしが存在することに疑いの余地はない。彼が望むだけわたしを騙すようにさせなさい。わたしがひとかどの人物であると思う限り、彼はわたしを何ものでもないようにはできないだろう。その結果、そのことを十分に考え、すべてのものを注意深く検討した後、わたしがそのことを口にし、あるいは精神の中でそれを理解する時にはいつも、わたしは在る、わたしは存在するという命題は必然的に真であることを最後には結論し、不変であるとしなければならないのである。 (拙訳)
このように推論して、デカルトはこころの哲学を考案した
なぜなら、このように存在を確認したところのものは、一つの精神であるわたしであり、それ以外ではないからである
それ以前にはこのことを誰も言っていなかったのか
このように言った人はいなかったようだ
ただ、プラトンやアウグスティヌスのような二元論の哲学者は存在した
彼らは魂と身体を厳格に区別した
ただ、神を除いた自分以外のすべての存在を疑った結果、「自我」が自身の存在を確認できるとは考えなかった
しかし、ある哲学史家は我々に警戒するように促す
デカルトの「自我」は近現代の哲学が語る「主体」ではないと
デカルト的自我は、中世思想に見られる魂の概念を受け継ぐと同時にそれと決別したものである
この自我は、テクストの注意深い読者であれば真のデカルトをそこに認めない概念的漂流の原因であった
*****************************************
(注)デカルトの三木清訳がネット上にあったので、参考までに以下に貼り付けておきたい
いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちにまったく何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
(つづく)
2020年4月5日日曜日
サイファイ研究所ISHEの5月の予定について
サイファイ研ISHEの5月の予定について変更が出ましたのでお知らせいたします
COVID-19の影響が広がる中、5月に予定していた以下の会を延期することに致しました
- 第15回サイファイ・カフェ SHE(5月13日)
- 第8回カフェフィロ PAWL(5月20日)
- 第7回サイファイ・フォーラム FPSS(5月16日)
- FPSSに関しては、6月に日仏会館が開館し、会場が確保された場合には開催する予定にしております
詳細が決まり次第、改めてお知らせいたします
ご理解いただければ幸いです
2020年4月4日土曜日
江成常夫という写真家
テレビをひねると「こころの時代」という番組が流れていて、江成常夫という写真家が出ていた
初めて知るこの方の語る言葉がよく入ってきて、驚く
対象をしっかり見続けてきたからだろうか
真実を逸らすような誤魔化しの言葉を使わない
言葉とそれが指し示すものとの間にズレがないのである
そのことに気付くほど、他の番組の言葉が記号となっている酷さがあるからだろう
江成氏は、指し示すものを見えなくするような言葉を権力は使うと指摘
国の欺瞞性は先の大戦から現在まで続いていると静かに告発していた
氏のお仕事は結局のところ、正確に「もの・こと」を捉えるということだったのかもしれない
それから、これまでであれば聞き流すような「こころの渇き」という言葉に反応した
新聞社のカメラマンとして仕事をしている時に感じた不全感を表現したものである
それは、わたしが科学者時代に覚えた不全感とも重なるのではないかと思ったからだろう
このような番組が増えると、考える人間も増えるかもしれない
考えるとは、対象を正確に見て明晰な言葉を紡ぐことだからである
先日の穐吉敏子さんとの遭遇もそうだったが、日本で偶に起こる幸運な偶然であった
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mercredi 8 avril 2020
上の記事にある「こころの渇き」という言葉について、今朝、あることに気付いた
それは新しい拙エッセイで取り上げた吉満義彦の言葉と重なるということである
その言葉とは「魂の空虚」
これを感じなければ「近代の超克」は始まらないという文脈で出てきた言葉であった
「こころの渇き」、「魂の空虚」を感じるところから、生き方が変わるのである
この世界の捉え方に変容が起こり、スピノザの言う「知性改善」が始まるのである
「それがいま求められている」
という、より公的な感覚もこの言葉に反応した理由だったのかもしれない
第8回 サイファイ・カフェSHE札幌のご案内
第8回 サイファイ・カフェSHE札幌を以下の要領で開催いたします
日 時: 2020年4月25日(土)16:00~18:00
会 場: 札幌カフェ 5Fスペース(札幌市北区北8条西5丁目2-3)
テーマ: オスヴァルト・シュペングラーの技術論を考える
講 師: 矢倉 英隆 (サイファイ研究所 ISHE)
『西欧の没落』で有名なオスヴァルト・シュペングラー(1880-1936)の『人間と技術―生の哲学のために』(富士書店、1986)を参照しながら、彼が技術の本質をどこに見ていたのか、そこから現代の問題に立ち向かうヒントが得られるのかという点に注目して考察を進めます。また、パンデミックの様相を呈しているCOVID-19が投げかける問題についても考えを広げることができればと思います。
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。
2020年4月3日金曜日
現象学とは(7)
特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)
(3)ドミニク・ジャニコーは、『現代フランス現象学―その神学的転回』で次のことを示した
ルヴィナス以来、フランスの現象学はハイデッガーによって伝えられた曖昧さにより特別な転回をした
「現象学的還元」は超越論的「我」を引き渡したが、現象学的贈与の中心にあるのは超越的なもの(神)である
これはジャン・リュック・マリオン、ミシェル・アンリ、ジャン・ルイ・クレティアンなどにおいてのことである
目に見えるものが目に見えないものや不可視性におののく
存在が呼びかけになる
「復活」や「身体の栄光」という概念が、現象学的解析を神学的に上から決定する
注意すべきは、それは次のものではないことである
神の存在証明の妥当性についての問い、宗教的信仰のエピステモロジー、キリスト復活の信仰の合理性についての問い
また、エティエンヌ・ジルソンがやったようなキリスト教哲学の存在の根拠になるテーゼを擁護することでもない
寧ろ、現象学的描写の中心には、 「啓示」、「超越性」、「神性」が見られることを示唆するものである
しかし、この神学的転回の内に自らを認めない多くの現象学者には、この点への強い躊躇いがある
そして宗教哲学者も同様に、こう考えるかもしれない
「宗教的体験」という概念は、一般的な「体験」の概念より信用できるものではない
2020年4月2日木曜日
現象学とは(6)
特に現代フランスの現象学についてのコメント(つづき)
(2)現象学はしばしば、他の哲学的アプローチを排除するもののように見える
それは次のように理解される
もし現象学者が正しいとしたら、哲学における適切な方法は現象学の方法以外には存在しないことになる
例えば、意識生活の記述 、我々が知覚できるすべての基礎、「もの・こと」の理解など
現象学者は「現象学的還元」によって真の哲学的態度に入り、そのようにして現象の意味に近づくと考える
対象を取り間違えた探索の素朴さと不確実性を断ち切った方法なしに、一体誰が済まそうというのだろうか
本来の対象は、我々にとっての現実の意味を構成するものとしての意識の中身で、外部にあるものではない
これは次のようなことが言われたことを説明している
「形而上学が目的を見つけて以来、哲学は現象学の下でだけ真に追求できた」⧪
「本質的な部分において、現象学は20世紀の哲学の役割そのものを担っている」⧪
分析哲学者は、形而上学は終わるどころか非常によくやっていると考えている
なぜなら、多くの哲学者が形而上学の論文や本を書き、世界の殆どすべての大学で形而上学が教えられている
この流れの哲学者として、ピーター・ストローソン、デイヴィド・ルイス、デイヴィド・アームストロング、
ジョナサン・ロウ、ジョン・ホーソン、ピーター・ヴァン・インワーゲン、フレデリック・ネフ、他多数
しかし現象学者の中には、そこに見方の間違いがあると考える人がいる
形而上学が終わる時、ある者は不幸にもまだそれをやっていると主張するかもしれないのである
しかし今日、現象学だけが「哲学的意図を哲学自体の完成へと到達させるのである」⧪
このようなコメントによって、分析哲学と現象学の間を溝を計ることができる
それが哲学的テーゼ間の論争ではなく、乗り越えることが難しい分裂に関するものであることも分かる
分析哲学者から見れば、現象学者は意識行為の重要性を強調し、問題の多い観念論へと向かうように見える
結局は月並みで難解な語彙と基礎的であるという思い上がりによる心理的描写に満足しないのではないか
現象学者にとっての分析哲学者は本物ではなく、真の哲学との関係を結び直すことができる転回をしなかった
対立するものの和解は非常に危ういように見える
⧪ ジャン・リュック・マリオンの言葉
(つづく)
2020年4月1日水曜日
現象学とは(5)
フッサールにより導入され、現象学者が発展させた根源的なテーマの一つは、「生活世界」(Lebenswelt)である
現象学の務めの一つは、科学とすべての人間的活動が生活世界からその意味をどのように引出すのかを示すことである
人間的活動の中には、芸術、宗教、文化的・身体的実践などが含まれる
生活世界の根本的な構造を記述し解析するのが、現象学本来の不可欠な仕事である
今日の、特にフランスにおける現象学とは何かをよく理解するために、三つのコメントが役立つだろう
(1)分析哲学と現象学の対立は明白である
ただ、分裂の起源に立ち還り、その妥当性及び分裂を乗り越える可能性を自問しようとしてもよいだろう
ブレンターノが現象学と同時に、分析哲学のある局面の源にいることに注意しよう
しかし、元々の親近性が100年以上前に形成された方法論的溝にあるものが何であれ、どの点で変わったのか見えない
現象学者と認知主義哲学者の対話が可能であるということは、認知科学の特定の理論について何かを語っている
しかしそれは、分析哲学と現象学の間に和解が進行中であることを意味しない
哲学的統合運動は多元的で包括的に見えるという点で好感が持てる姿勢である
今日において、この二つの姿勢は一般的に推奨されることでもあるからである
しかし、適用される哲学的テーゼと方法には疑義を呈しながらも、人間を完全に尊重することができる哲学
そこにおいては、二つの間の融和が広がることを望むことは、おそらく不可欠ではないだろう
(つづく)
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