2022年4月3日日曜日

やはり基本は敬意を払った話し合いか

























一夜明け、昨日の番組で語られていたことを少し思い出したので追加しておきたい

一つは、プーチンは就任当初は民主主義という言葉を口にしていたが、その後反対の方向に歩むようになったということ

それは西側がしっかり向き合っていなかったからではないかという指摘があったことについては昨日触れた

西側のロシアに対する見方で思い出すのは、『西欧の没落』のシュペングラーの言葉である

彼は西欧の白人と我々のような有色人種の違いを挙げているが、ロシア人は後者に入ると見ていたことである

これは西欧白人の一般的な見方(意識的あるいは無意識的を問わず)になっている可能性がある

このような視線にプーチンも晒されていた可能性がある

ただ、それによって今回の侵攻が正当化されることはないが、このような侵攻を避けるには日頃から話し合いや相互理解ができる状態にしておくことが欠かせない

そこから二つ目として、独裁は戦争に繋がるということ

それは我が国も経験していることなので理解可能だろう

従って、その兆候を見逃してはならないということ

それから第三に、これはアタリ氏ではなかったかと思うが、アメリカは敵を必要としているということ

その背後に軍産複合体があるという

今回もバイデンはロシアの侵攻を知りながら放置していたように見えるのだが、気のせいだろうか

以前に、関連する記事を書いたことを思い出した

ご参考までに












2022年4月2日土曜日

これから民主主義国と独裁国家の対立が激化するのか































夜テレビを付けると、現実世界の生々しい状況の背後にあるものについての議論が流れていた


スベトラーナさんは、戦争を始めるのは政治家であり、一般の人ではないことを確認

ブレマー氏は、ロシアが今回の侵攻に出た背景に冷戦後西側がロシアのことを真面に考え、相手にしてこなかったことがあると指摘

ただアタリ氏は、冷戦は終わっておらず今がその断末魔であるとの見方を採っていた

いずれにせよ、ロシアに対する西側の態度に問題があったと考えていた

要するに、相手を侮辱しては駄目だということ

そう言えば、プーチンも民主主義や自由というような西側の価値を押し付けてくるというようなことを言っていた

プーチンの取り巻きの哲学者もこの見方を採っていて、ロシア独自の価値を重視しなければならないと考えている

相互理解が成立していなかったということになる

アタリ氏は、民主主義国間で戦争は起こっていないと言っていた

さらに、ロシアの文化(文学や音楽など)をボイコットするのではなく、寧ろ理解するようにしなければならないとも

最近の風潮に対する異議と見てもよいだろう

これから民主主義国と独裁国家との対立が激化するのか、民主主義が独裁制に浸透していくのか

前者の場合、核戦争の可能性を完全には排除できない時代に入ったという認識は共通していたように思う



皆さんの話を聴きながら、重要なことは基本に戻ることだと再確認した

その基本とは、知ること、理解すること、そのことを語ること、対話すること

つまり、哲学が欠かせないということ

それを日頃から怠らないことが重要になり、これは国際政治にも、我々の日常にも当て嵌まる

とすれば、政治家にも哲学が求められることになるが、現状はお寒いものである

この基本となる点については今回エッセイシリーズを纏めた本でも取り上げているが、さらに深める必要がありそうだ











2022年4月1日金曜日

また新たなプロジェが・・・















先月のまとめを昨日やったばかりなのだが、もうかなり前のように感じられる

同時に、振り返りから1日しか経っていないのに、新たなプロジェを思いつき困っている

もう現在進行形のプロジェが終わったような錯覚に陥っているためかもしれない

さらに、新しいものはエネルゲイアではなく、デュナミスのような感じになるのでよろしくない

体に悪いので、もう少し落ち着いてからアレンジすることにしたい


ところで、最近のこと

その昔アメリカで聴いていた音楽が流れてきた時、当時の期待に溢れていた明るく軽い気分が少しだけ蘇ってきた

本当に一瞬で微かなのだが、当時の感覚を体験できた

それは懐かしさとは違う感情である







2022年3月31日木曜日

3月を振り返って















昨夜はパリからお誘いがあり、Zoomでセミナーに参加した

懐かしい顔を拝むことができたのは幸いであった

テーマは免疫で、できるだけ統合的に見ようとする内容だった

久し振りの科学セミナーだったが、居ながらにしてのZoomで興味深い世界が広がることを実感

これなどはCOVID-19のために見えてきた新たな可能性で、今後も続けてほしいものである


さて、今月も振り返る日が来た

少し長期で振り返れば、こうなるとは知らずに一時帰国したのが丁度2年前の今月であった

あれから知らない間に2年もの月日が流れたことになる

最初の1年は様子を見るのに費やされ、昨年春には当分自由な移動は難しいと判断した

暫くは落ち着くことにして、夏には荷物を引き上げた

そして昨年暮れからはアトリエでの生活が組み込まれた

そのお陰だと思うが、それ以降濃密な時間――そこでは時間が消えているのだが――の中におり、今月も例外ではなかった

そんな中、今月は以下のようなことをやっていた


1)「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本のゲラ校正

3月12日号にシリーズ最終回となる105回目のエッセイが出た

タイトルは「『人類の遺産に分け入る旅』を超えて」とし、これからに向けての大雑把な展望を纏めてみた

10年に亘るシリーズがこれで終わり、これからその解析が可能になった

今回の本は、わたしが根源的に重要だと考えているテーマを中心に纏めることになった

今月はそのゲラの校正を3回繰り返した

対象になっている「ひと・もの・こと」はかなり多岐に亘っている

それらの全体を眺めると、そこに一つの思想の塊が見えてくるように感じる

ただ、それを特徴付けることは自分ではできない

また、これがどのような印象を与えるのかについても同様である

いずれにせよ、これでわたしの手を離れたことになる

あとは見守るだけである

6月には刊行されるとのことなので、お読みいただければ幸いである


2)免疫に関するエッセイのバージョン3.0の作成

これは現在も進行中で、最終段階に来ている

この過程でわたしが考えていたことの全体がより明確になってきた

手薄なところには手を加えたが、全体的な枠組みはそのままとすることにした

このバージョンが完成すれば現段階での最終形になる

終わり次第、次のステップに進むことにしたい


3)テレビのチャンネルを変えた時に偶然聞えてきた言葉のメモ

それは繭山浩司という修復師が発した「時間をかければかけるほど、よい仕上がりになる」という内容の言葉

当然と言えば当然なのだが、今月はある意味で修復師のような細かい最終タッチを加える作業に明け暮れていたので、この言葉に反応したのだろう

言葉として記憶に留め、今後の行動を拘束するように願いたいものである






2022年3月30日水曜日

ハイデッガーの形而上学(40)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈(つづき)


もし文化の哲学が提示する我々の状況の解釈というものが間違った道に導くとすれば、「我々はどこに立っているのか」と問うのではなく、「ものことは我々とともにどのように立っているのか」と問わなければならない

もしものことが我々とこのようにかあのように立っているのだとすれば、これは空の中で起こっているのではなく、我々はまだどこかに立っていることになる

従って、我々はまず我々の状況をはっきりさせなければならない

おそらく、前述の解釈とは違うように特徴付けしなければならない

しかしそれは全く必要がない

そのような解釈に入ることなく我々の状況についてはすでに十分に知っているからである

それらの解釈が間違っているとして拒絶する必要もない

これらの解釈が存在し、それらが我々のDaseinを多くのやり方で決めていること(それを正確には言えなくとも)を確認することにより、我々の状況について十分に知っているからである


我々は新らたに問う

これらの文化の診断が我々の中に支持者を見つけるという事実が、ここで起こっていることについて何を我々に告げるのか

この高度なジャーナリズムが我々の精神的空間を制限し満たしているという事実の中で、何が起こっているのか

これらすべては単なるファッションなのか

我々がそれを流行りの哲学と特徴付けて矮小化すれば何かが乗り越えられるのか

我々はそのような安っぽい方法に訴えることは望まない


文化の哲学は我々の状況について何が同時代的であるのかを明確にするが、我々を把握することはないと言った

さらに、我々を把握できないだけではなく、我々に世界史における役割を与えることにより、我々を我々自身から引き離す

我々の逃避、混乱、幻想と喪失感はさらに深刻になる

決定的な問いは、我々がこの役j割を我々自身に与え、それをやらなければならないという事実の背後に何があるのか

我々が我々自身にとってあまりにも取るに足らない存在になり、役割を必要としているのか

なぜ我々は我々自身の意味を見出さないのか

ただ、我々は我々自身の役割を求めるのである

ここで何が起こっているのか

新たに問う

我々は再び、我々を我々自身にとって興味深いものにしなければならないのか

なぜそうしなければならないのか

おそらく、我々自身が我々に飽きたからなのか

人間は自分自身に飽きるものなのだろうか

なぜ

ものことは結局のところ、深い退屈がDaseinの奈落で静かな霧のように行ったり来たりしながら我々とともにあるのだろうか


我々は我々の状況を確かめるために、文化の診断や予測を必要としていない

なぜならそれは、我々を発見するのを助ける代わりに、我々に役割を与え、我々自身から引き離すからである

しかし、どのようにして我々自身を発見するのか

無駄な自己省察で?

あるいは、我々が在るところのものになるという務めを与えられることにより我々自身を発見するのか

我々のDaseinに我々自身を縛り付けることによって、我々自身を発見しなければならないのである

誰もが最初は知らなかった「深い退屈」の兆候を通して、我々自身を発見することになるのだろうか

この疑わしい深い退屈が、求めていた呼び覚まされなければならない基本となる気分なのだろうか








2022年3月29日火曜日

エッセイシリーズ本の最終ゲラ校正を終える

























昨日・今日と「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本の最後のゲラ校正に当たっていた

今回で3回目になるが、やればやるだけ改善点が見つかる

これで本文の校正が終わったことになる

350ページに近い分量になりそうである

最初、横書きの原稿が縦書きになるだけで印象が変わった

そして、校正を繰り返しているうちに段々自分が書いたものとは思えなくなってきた

もう自分の手を離れようとしているのかもしれない











2022年3月28日月曜日

飛んでいきたい気分



























テレビを付けると今のパリが流れているではないか

街は落ち着いた感じに見える

若き日にフランスで学んだという加古隆さんの自作の演奏が流れている

春を迎え、なぜか気持ちも軽くなる

すぐにでも飛んでいきたい気分だ

これまでパリの映像を見て、こんな気分になったことはあっただろうか








2022年3月27日日曜日

マルセル・コンシュさん亡くなる




















16年前に初めて出会ったフランスの哲学者が亡くなっていたことを知った

Marcel Conche (1922.3.27-2022.2.27)

これまでいろいろなものを読んできて、哲学に対する見方を教わったと思っている方である

昨年から今年にかけても彼の『形而上学』を読んできた

今纏めているエッセイ・シリーズの本の中でも取り上げていて、100歳になったことを確かめるつもりでウィキペディアを開いて驚いた

2月27日(日)に亡くなっていたのである

ひと月前にも確かめたのだが、その時は気付かなかった

あとひと月で百寿だったので、残念である

今年の1月にはこれまでの作品を纏めた1,000ページを超える L’Infini de la nature という本を出したばかりであった


フランスの追悼記事にも当たってみたが、すべて好意的であった

目に付いた彼の哲学を特徴付ける形容詞を以下にいくつか
singulière, claire, profonde, originale, modeste mais tenace,,,, 
Le Monde の記事を張り付けておきたい


ところで、10年以上前に「マルセル・コンシュ」で検索したことがあるが、出てきたのがわたしの記事ばかりで驚いた

今回も同じことをやってみたが、状況は変わっていないようだ

地味に見えるだけに日本人の興味を惹かないのだろうか








2022年3月26日土曜日

ハイデッガーの形而上学(39)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈(つづき)


もし我々が基本となる気分を呼び覚まそうと努めているのであれば、我々が提示されているだけの「表現」から前に進まなければならない

おそらく、基本となる気分の呼び覚ましは、確かめることのように見えるが、提示や確認とは別の何かである

従って、もし我々が言う全てが我々の状況の提示のように見え、この状況の底にある気分を確かめ、その状況の中で表現しているように見えるという事実から逃れることができないとすれば、そしてもしこの類似を我々が否定できないとすれば、それは曖昧さが初めて始まったということを言っているに過ぎない

これは驚くべきことだろうか

もし我々が哲学することの本質的な「曖昧さ」についての予備的な特徴付けが中身のない常套句であったとすれば、「曖昧さ」は「始まり」においてその力を加えるはずである

前もって、我々の精神的状況を提示することと基本となる気分を呼び覚ますこととの間に理論的な違いがあると宣言することによって、そのような曖昧さが軽減されることになるとは信じたくはない

そうすることによって我々は何ものからも解放されないのである

我々の始まりが適切なものであればあるほど、我々はこの曖昧さをそのままにし、各個人が自分自身で本当に理解しているかどうかを決めることが益々難しいものになるだろう



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今日の部分を自己流に解釈して一般化すれば、次のようになるだろうか

ある現象や問題について明らかにしようと思ったとする

そのことについて考えた時、Aのようにも見えるし、Bのようにも見えるということが起こったとしよう

これは、そこに曖昧さがあることを意味している

その時、AとBはそもそも違うものなのだと言い募っても、そこにある曖昧さが消えることにはならない

問題の解決にはならないのである

問題に正面から向き合うということは、このような曖昧さを抱え込んで考えることを意味している

最初にこの点を胡麻化すと大きな問題が残されたままになる


さらに一般化すると、次のようになるだろうか

問題に対する時には、最初に感じたものをすべて受け止めて歩み始めなければならない

真の解決にならない条件を付けて、問題を狭めないことである

大きく難しい問いを開いたままにして始めることである


この解釈が間違っているのかいないのか、今後明らかになるかもしれない







2022年3月25日金曜日

イワン・パブロフの伝記届く
































免疫について調べている時、新しい光の中に浮かび上がってきた人物の伝記が届いた
イワン・ペトローヴィチ・パブロフ(Иван Петрович Павлов, 1849-1936)
勿論名前は知っているが、それに結び付く条件反射以外は全くの闇の中であった

ノーベル賞を貰っていることも知らなかった


このように、それまで何の意味もなかったものが突然意味を持ってくるという経験はこれまでにもあるが、なかなかいい感じである

この本は注を除いても700ページを超えている

どれだけお付き合いできるのか分からないが、ハイデッガーさんのものよりはお相手しやすいのではないだろうか

折に触れて、パラパラとやりたいものである











2022年3月24日木曜日

ハイデッガーの形而上学(38)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈(つづき)


いずれにせよ、我々は今立っているところを見るための指標を必要とするだろう

確かに「文化」は我々の魂の表現であり、文化と文化の中の人間の両者は、哲学的にだけ表現や象徴の概念を通して理解される

今日、文化の哲学は表現、象徴、記号的形に関係している

魂と精神としての人間は内的意味を持つ形で表現され、この意味を基にして存在(Dasein)に意味を与える

大雑把に言えば、これが現代の文化の哲学のスキームである

ここでもまた、殆どすべては本質に至るまで正しい

ただ、我々は新たに問わなければならない

人間のこの見方は本質的なものだろうか

これらの解釈――それは文化の哲学による文化における人間の分類からはかけ離れているのだが――では何が起こっているのか

人間はこのようにその人が成し遂げたものの表現として提示される

ただ、問題は残る

このように人間を提示することは、「その人の Dasein に関わり捉えることになる」のかという問いである

このように表現することに向けて提示することは、事実として人間の本質を逃すだけでなく、全ての美学に関わらず必然的に本質を逃すはずである

すなわち、そのような哲学は単に人間を提示するだけで、その Dasein に達することはない

なぜなら、それは本来的に Dasein への道を阻害するからである








2022年3月23日水曜日

ハイデッガーの形而上学(37)
































18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

c)文化の哲学が提供する我々の状況の解釈の隠された基本となる気分としての深い退屈


これらすべての問題は我々にとって二次的である

我々はこれらの解釈が正しいのか正しくないのかさえ問うていない

しかし、それを言うことは重要である

これらの解釈で何が起こっているのか

それは、前述の生命と精神という範疇の助けを借りた文化の診断であると我々は主張している

我々自身は全く気に掛けていないし、我々がどこにいるのかという世界史的な決定に影響を受けることなどない

反対に、全体の出来事がセンセーショナルなもので、常に認められていないことを意味している

文化的な診断というアプローチは、発展され予測へと再構成されることにより、もっと興味深いものになる

何が来るのか知りたいと思わない人はいるだろうか

文化の世界史的診断と予測は我々に関わらず、我々を攻撃することもない

反対に、我々自身から我々を解き放ち、世界史的状況と役割の中に我々自身を提示するのである

この文化の診断と予測は「文化の哲学」と言われるものの典型的な現れである

この哲学は我々の同時代の状況の中で我々を把握することはなく、せいぜい我々のいない同時代性を見るだけである

それは永遠の昨日以外の何ものでもない

もし、文化の哲学が我々の同時代状況の解釈において我々を把握することもできないのだとすれば、我々の基本となる気分を理解するためにはまず我々の状況を確かめなければならないと考えたことは間違っていたことになる







2022年3月22日火曜日

人生の基本となる考え方

























昨夜、フランスに向かう前の最初のブログを何気なく眺めていたところ、驚きの発見をした

20代後半から30代前半までの5年間をマンハッタンのスローン・ケタリングがんセンターで過ごした

その時に感じ取り、その後の歩みのベースになったと15年前に考えていたことがブログに書かれてあったのだ

それは「自分の外のことは気にせず(邪心を捨て)、そのもののためだけに打ち込むこと」、「生きることが仕事の世界」を理想とすることであった

別の記事には、余分なものを削ぎ落した「純粋な形の人生」という言葉も見える

これらの考えはわたしのものではあるが、古代ギリシアから考えられてきたことでもあるのだ

重要なことは過去人により考えられているのである

エッセイシリーズでも触れ、今回の本にも取り入れた哲学になる

アメリカ生活においても重要なことを掴んでいた証左になるだろうか

と同時に、人生のフェーズが変わったと思った後は、それ以前のことを完全に忘れる傾向があることも分かる

しかし、それでは人生の豊かさを失うことに繋がるだろう

これも今回の本で取り上げているが、そう気付いたのはフランスに渡る少し前であった









2022年3月21日月曜日

藤沢和雄という調教師
























最近、アトリエに通うのが日課になっているが、毎朝コンビニその他でコーヒーを買ってから出かける

それを持って歩いている時、その昔マンハッタンの癌病院で働いている時のことが思い出された

当時も毎朝のように院内の廊下に出ているスタンドでコーヒーとデーニッシュを買って研究室に向かうのが日課だった

その時の姿と重なったのである

微かな充足感を運んでくれる時間となった



ところで先日、日本競馬会をこの春に退職することになった調教師藤沢和雄さんの特集が流れていた

鞭を使って馬を厳しくトレーニングするのではなく、馬の意志?に任せる馬なりのトレーニングを始めたらしい

当時は顧みられなかったが、実績が出るようになり受け入れられるようになったようだ

何かを成し遂げた人の言葉には哲学が宿っている

その番組では次の言葉が印象に残った

自分にも当て嵌まると思ったからだろう

一つはトレーニングに関して、毎日少しずつ貯金するようにしなければ効果は出ない

お金が貯まった時だけ貯金しても駄目

それから、今勝てばよいというのではなく、その馬の一生のことを考えなければならないという哲学

以前に、その時の勝ちを優先して無理をさせ、その馬の競技人生を台無しにした経験があったからだという

そこから「一勝より一生」というフォルミュールが生まれ、トレーニングセンターにその碑が建っている

若き日に留学したイギリスで基本となる考え方を学んだようだ

もう一つだけ

それは「馬は我々の心を知っているが、我々はなかなか馬の心が分からない」というもの

この共感に溢れる言葉は何を意味しているのだろうか

考えさせられる







2022年3月20日日曜日

ハイデッガーの形而上学(36)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

b)我々の同時代の状況の4つの解釈の源泉としてのニーチェのディオニュソス的なものとアポロ的なものの基本的な対立(つづき)


それから、ニーチェがこの対立をおそらく最も美しく決定的な形であり、その源泉と結び付けるものの中で解釈している段落が続く
「ディオニュソス的」という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実在を越えでて、消滅の深淵を越えでてつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましく溢れでるはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力をもつもの、等しい浄福をめぐまれているものとしての、生の総体的性格へと狂喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共歓と共苦であり、生産への、豊穣への、回帰への永遠の意志であり、想像のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である。

「アポロン的」という言葉で表現されているのは、完全な孤立への、典型的「固体」への、単純化し、際立たせ、強め、明確ならしめ、一義的ならしめ、典型的ならしめるすべてのものへの衝動、すなわち、法則の下での自由である。

これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく、必然的である。権力の充実と抑制、冷ややかな、高貴な、とり澄ました美しさにおける自己肯定の最高形式、すなわち、これがギリシア的意志のアポロン主義にほかならない 。

そして、この解釈の起源についての彼の特徴付け、すなわちギリシア世界の最も深い分析が続く
ギリシア人の魂内におけるディオニュソス的なものとアポロン的なものとのこの対立性が、私がギリシア的本質に当面して心ひかれる想いを感じた大きな謎の一つである。私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がディオニュソス的地底から発育せざるをえなかったのかを見ぬくことにおいてほかにはない。ディオニュソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。言いかえれば、物すごいもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへのその意志を、節度への、単純性への、規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。節度なきもの、荒涼たるもの、アジア的なものを、ギリシア人は心の底にもっている。だから、ギリシア人の勇敢さはそのアジア主義との闘争にある。美はギリシア人にとっては贈与されたものではなく、論理も、慣習の自然性もそうではない、――美は、征服され、意欲され、戦いとられたものであり――それはギリシア人の勝利なのである。
この対立が「ディオニュソスと十字架にかけられた者という二つのタイプ」にどのように変容したのかを示すための最後のポイントである
ここから私はギリシア人の神ディオニュソスを立てる。すなわち、生の、否認され折半された生ではなく、全き生の宗教的肯定を。(典型的なのは――性的行為が、深みを、秘密を、畏敬を呼びおこすということである。)

ディオニュソス対「十字架にかけられた者」、そこに君たちは対立をもつ。・・・十字架にかけられた神は、生の呪詛であり、おのれをこの生から救済しようとする指示である、――寸断されたディオニュソスは生の約束である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう。


ニーチェにおいて対立は生きており、我々の状況について提示された4つの解釈では決して明らかにならず、単に文学的形態として伝えられた材料としての効果しか齎さなかったことが分かる

4つの解釈の中でどれがニーチェの意味においてより正しいのかはここでは決めない

ニーチェ哲学――風変わりな基盤に基づくものではあるのだが――の本質をすべて間違えている限りにおいてどれも正しくないことを示すこともできない

これらの基盤は普通の、形而上学的には非常に疑わしい「心理学」に基づいている

しかし、ニーチェにその資格はあるが、これは白紙委任状(carte blanche)である


我々が知っているのは、ニーチェがすでに述べた解釈の源泉であるということだけである

それを言うのは、これらの解釈にはオリジナリティがないことを責めるためではなく、理解が得られたところからの方向性と、対立の場所そのものがどこにあるのかを示すためである(ゲオルゲ・クライス、精神分析、参照)









2022年3月19日土曜日

ハイデッガーの形而上学(35)

























18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

b)我々の同時代の状況の4つの解釈の源泉としてのニーチェのディオニュソス的なものとアポロ的なものの基本的な対立


ここではニーチェが考えていた詳細に入るのではなく、今問題になっていることを知るために必要な程度に止めて特徴付けを行いたい

ディオニュソス/アポロの対立は早くから維持され、ニーチェの哲学を導いている

それは彼自身が知っていた

古代に取られたこの対立は、文献学と手を切ろうと思っていた若き古典的な文献学者に必然的に現れたのである

しかし、この対立が彼の哲学の中に維持されてはいたが、哲学する中で変容していったことも知っていた

ニーチェは「自分自身を変容される者だけがわたしに関係する」ことを知っていた

完成には至らなかった彼の主著で決定的な作品『権力への意志』の中で行った最終的な解釈を引いてみたい

第四書の第二セクションのタイトルは「ディオニュソス」となっている

ここに一風変わったアフォリズムがあり、全体には本質的な思想、要請、評価が集められている

ニーチェが亡くなる直前に、この対立が早い時期から彼にとって決定的であったと見ていた証拠を示したい

彼は博士号を取る前の1869年に、24歳で特別教授(Professor Extraordinarius)としてバーゼル大学に呼ばれている

彼はこう書いている(以下、引用はすべて原佑訳による)
一八七六年ごろ、いまやヴァーグナーがどこへ到りつこうとしているのかがわかったとき、私のこれまでの全意欲が危険にさらされているのを見てとって、私はぞっとした。だが私は、深く一致した欲求のあらゆる紐帯によって、感謝によって、掛けがえのないものを失い、絶対的な窮乏しかのこらないという私の見とおしによって、彼ときわめて固く結びついていた。

ちょうどそのころ私には、私が文献学と教職とにがんじがらめに縛られていると思われた――私の生涯の一つの偶然や応急策に――。私はもはやどうして逃れでたらよいかも知らず、疲れはて、精魂もつきはてた。

ちょうどそのころ私には、私の本能はショーペンハウアーのそれとは反対のことをめざしているということがわかった。すなわち、生が、最も恐るべき、最も曖昧な、最も欺瞞的なものであるときですら、その生を是認することをめざしているということが、――そのために私は「ディオニュソス的」という定式を手中にしたのである。

後の方には、こうある

アポロンの迷妄とは、美しい形式の永遠性のことにほかならない。「つねにかくあるべし」という貴族主義的立法のことである。

ディオニュソスとは、官能性と残酷性のことにほかならない。 移ろいやすさは、生産し破壊する力の享楽であると、不断の創造であると、解釈されうるかもしれない。



 



2022年3月18日金曜日

ハイデッガーの形而上学(34)
































18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する

a)我々の同時代の状況の4つの解釈:オスヴァルト・シュペングラー、ルートヴィヒ・クラーゲス、マックス・シェーラー、レオポルド・ジーグラーにおける生命(魂)と精神の対立(つづき)



我々の状況の最もよく知られた解釈は、「西欧の没落」というキャッチフレーズで表現されたものである

我々にとって重要なのは、この「予言」の基礎となっているものである

フォルミュールに還元するとすれば、精神における、そして精神を貫いている生命の衰退である

特に、理性(ratio)としての精神がテクノロジーや経済や世界貿易や都市によって象徴される存在の再構成において作り上げたものが、今や魂や生命に敵対し、圧倒し、文化を衰退と退廃へと強いている


第二の解釈も同じ方向に進むが、魂(生命)と精神の関係が異なって捉えられている

これは精神を介する文化の没落という予言には落ち着かず、精神を拒否するところに行く

精神は魂に敵対すると見られる

魂を解放するために、精神は祓い清めなければならない病気なのである

つまり、精神から自由になるということは、生命に還ろうということなのである

しかしここで言う生命は、今にも爆発しそうな衝動のようなもの、神秘的なものが育つ基盤として捉えられている

これはルートヴィヒ・クラーゲスによって表明された見方で、主にバッハオーフェン、とりわけニーチェによって決定されたものである


第三の解釈も上の2つの次元に留まるものだが、生命における精神の衰退を認めたり、精神に対する生命の闘いを擁護したりするものではない

その代わり、生命と精神のバランスを見出そうとすることをその責務とした

これはマックス・シェーラーの最後の段階の哲学に代表される

レッシング・カレッジにおける講義「バランスの時代の人間」に明確に表れている


第四の解釈は、基本的に第三の解釈の影響下にあり、同時に第一・第二の解釈を含んでいる

比較すれば、これが最もオリジナリティを欠き、哲学的にも最も脆弱である

この解釈は、レオポルド・ジーグラーの『ヨーロッパ精神』に代表される


これは今日知られ、部分的にはすでに忘れられていることを類型化して纏めたものに過ぎない

我々に関わる基本的なことはこれらの解釈の根本的な特徴で、それは生命と精神の関係になるだろう


生命と精神という言葉を人間の2つの構成要素(魂=生命、精神)を指すと理解するのは誤解である

これは人間の基本的な2つの方向性に関するものである

そう理解すれば、ここで問題になっていることが両者の関係の理論的解説でなく、ニーチェがディオニュソス的とアポロ的という言葉で意味したものであることがよく見えてくる

4つの解釈が共通の源泉ニーチェに行き着くのである

全ての解釈はニーチェの哲学の特定の受容によってのみ可能になる

これは、これらの解釈の独創性を問うものではなく、単に対立が起こるはずの場所と源泉を示すためのものである








2022年3月17日木曜日

ハイデッガーの形而上学(33)

























哲学というものは、精神の中に大きな空間――内なる城塞のようなもの――がなければお相手できないことを確認する

ハイデッガーなどを相手にする時には尚更である

仕事に忙しくしている状況では、その中に入る気分になるわけがないこともよく分かる

「哲学に必要なのは、好奇心と自由と暇である」と言った指導教授の言葉には真理が宿っている

この中の「暇」が最大の必要条件であることをフランスに渡ってから感じ続けてきた

昨日はそのことを再確認した

ということで、今日はお相手できそうである

早速始めたい


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18. この基本となる気分を呼び覚ます前提として、我々の同時代の状況とそこに広がる基本となる気分を確認する


我々がこのことを守るとしても、困難に出会うだろう

それは必然であり、基本となる気分を呼び覚ますことは、例えば花を摘むというように簡単にできることではないことを我々に明らかにするのである



a)我々の同時代の状況の4つの解釈:オスヴァルト・シュペングラー、ルートヴィヒ・クラーゲス、マックス・シェーラー、レオポルド・ジーグラーにおける生命(魂)と精神の対立


我々は基本となる気分を呼び覚まさなければならない

すぐに現れる問題は、どの気分を呼び覚ますのかということである

我々に基本的に広がっている気分なのか

そこで言う「我々」とは一体誰なのか

我々とは、この教室に集まった人間を言うのか

あるいは、この大学で特定の科学研究をしている限りの我々なのか

あるいはまた、大学に所属して精神教育の過程にある限りの我々なのか

そして、精神の歴史は単にドイツだけの現象なのか、あるい西洋、ヨーロッパのものなのか

あるいはさらに大きな円を描かなければならないのか

如何なる状況における「我々」であり、その状況にどのような境界を定めるのか


この状況について広いパースペクティブを持てば持つほど、我々の地平はぼんやりし、我々の仕事は益々漠然としたものになる

しかし、広いパースペクティブを持てば持つほど、この状況は情熱的に断固として我々一人ひとりを掴むと感じる


もし我々の中に基本となる気分を呼び覚ますとすれば、そのために「我々の状況を確認」しなければならない

しかし、「今日の我々」のためにどの気分を呼び覚ますのか

この問いに答えられるのは、我々が「我々の」状況を十分に知った時だけである

本質的で究極的な何かは基本となる気分を呼び覚ます際に明らかに問題になるので、我々の状況は可能な限りの広さで見なければならない

この要求をどう満たすのか

事をより詳しく検討すれば、我々の状況を特徴付ける要求は新しいものではなく、多くの意味ですでに行われている

それは我々の状況が提示された纏まったやり方を強調し、広がっている基本的な特徴を保持すればよいだけなのである

我々の同時代の状況を明白に特徴づけているものを見渡すと、4つのものに集中してざっとではあるが知っておくことだろう

その場合、選択は曖昧さを完全に取り除くことはできない

しかし、そのような曖昧さは我々が得るものによって無害なものになるだろう










2022年3月16日水曜日

エッセイシリーズ本のゲラ校正をほぼ終える
























このところ「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本のゲラを校正していた

今日、主要部分の再校正を終えたところである

それなりの量になるので結構大変である

ということで、昨日もそうだったが今日もハイデッガーを読む気にはなれない


今回、2度に亘って一気に読むことになったので、全体の流れを掴むことができるようになって来た

オムニバスにはなるのだが、それほど違和感なく全体が一つの大きな纏まりを作っているように感じた

もう少し時間をおくと、また印象が変わってくるのかもしれないが、、










2022年3月14日月曜日

ハイデッガーの形而上学(32)

























17.気分の暫定的な特徴付け:ダーザインの基本的な在り方としての気分、ダーザインに生きる糧と可能性を与えるものとしての気分.ダーザインとしてのダーザインを把握するものとしての気分の呼び覚まし(つづき)


我々はこれらのことから「気分」と言われるものを正しく理解することの意味を理解しなければならない

それは心理学と反対の立場を採ることでも、感情の経験をより正確に限定することでもない

寧ろ、人間のダーザイン(そこに在る状態)について、全体的なパースペクティブをまず開くことである

気分とは我々自身がそのような状態に置かれていると認める基本的な方法で、そのような状態にあることに基づく"how"のことである

我々はしばしばこれを、「何」をやろうとしているのか、「何」に従事しているのか、「何」が起こるのかということと対比して理解する

しかし、我々がそのような状態にあるということは、我々の思考、行動の結果や副次的なものでは決してないのである

我々が全く注意を払わない気分、我々が恰もそこに気分が全くないように感じさせる気分

これらの気分が最も強力なのである


我々は、喜びや悲しみのような極端に向かう特別な気分によってのみ影響を受ける

全くそこにないと同時にあるのは、我々が機嫌が悪いのでもよいのでもないという気分の欠如である

しかし、この状態でも我々は気分なしではいない

上機嫌な一人の人間が生き生きとした雰囲気を齎すと言う時、それはそのような気分が齎されるということを意味するだけで、それ以前に気分がなかったということではない

気分というのは魂の空きスペースに現れ、そして消えるようなものではない

寧ろ、ダーザインとしてのダーザインは常にすでにそこにあり、それが変化するだけなのである


気分とは思考と行動のための前提であり、環境であると暫定的に言った

その中で我々は初めてそこに在るものとして、ダーザインとして、我々自身に会うのである

まさに気分の本質はその存在の中にあり、単なる副次的なものではなく、ダーザインの基盤に我々を戻すものである

そのため、気分の本質は我々から隠されたままなのである

このことから、気分を呼び覚ますとは、ダーザインを把握する方法を意味していることが明らかになる

ダーザインを在るものとして在らしめる特別な方法で把握することである

このような呼び覚ましは奇妙な企てであり、難しく、殆ど分かり難いものである

我々の務めを理解したとすれば、気分について熟考を始めるのではなく、我々は行動しなければならない