ウンベルト・エーコ著 『ファシズムを見分ける』 を読む(2017.9.21)
2022年4月3日日曜日
やはり基本は敬意を払った話し合いか
2022年4月2日土曜日
これから民主主義国と独裁国家の対立が激化するのか
2022年4月1日金曜日
また新たなプロジェが・・・
先月のまとめを昨日やったばかりなのだが、もうかなり前のように感じられる
同時に、振り返りから1日しか経っていないのに、新たなプロジェを思いつき困っている
もう現在進行形のプロジェが終わったような錯覚に陥っているためかもしれない
さらに、新しいものはエネルゲイアではなく、デュナミスのような感じになるのでよろしくない
体に悪いので、もう少し落ち着いてからアレンジすることにしたい
ところで、最近のこと
その昔アメリカで聴いていた音楽が流れてきた時、当時の期待に溢れていた明るく軽い気分が少しだけ蘇ってきた
本当に一瞬で微かなのだが、当時の感覚を体験できた
それは懐かしさとは違う感情である
2022年3月31日木曜日
3月を振り返って
昨夜はパリからお誘いがあり、Zoomでセミナーに参加した
懐かしい顔を拝むことができたのは幸いであった
テーマは免疫で、できるだけ統合的に見ようとする内容だった
久し振りの科学セミナーだったが、居ながらにしてのZoomで興味深い世界が広がることを実感
これなどはCOVID-19のために見えてきた新たな可能性で、今後も続けてほしいものである
さて、今月も振り返る日が来た
少し長期で振り返れば、こうなるとは知らずに一時帰国したのが丁度2年前の今月であった
あれから知らない間に2年もの月日が流れたことになる
最初の1年は様子を見るのに費やされ、昨年春には当分自由な移動は難しいと判断した
暫くは落ち着くことにして、夏には荷物を引き上げた
そして昨年暮れからはアトリエでの生活が組み込まれた
そのお陰だと思うが、それ以降濃密な時間――そこでは時間が消えているのだが――の中におり、今月も例外ではなかった
そんな中、今月は以下のようなことをやっていた
1)「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本のゲラ校正
3月12日号にシリーズ最終回となる105回目のエッセイが出た
タイトルは「『人類の遺産に分け入る旅』を超えて」とし、これからに向けての大雑把な展望を纏めてみた
10年に亘るシリーズがこれで終わり、これからその解析が可能になった
今回の本は、わたしが根源的に重要だと考えているテーマを中心に纏めることになった
今月はそのゲラの校正を3回繰り返した
対象になっている「ひと・もの・こと」はかなり多岐に亘っている
それらの全体を眺めると、そこに一つの思想の塊が見えてくるように感じる
ただ、それを特徴付けることは自分ではできない
また、これがどのような印象を与えるのかについても同様である
いずれにせよ、これでわたしの手を離れたことになる
あとは見守るだけである
6月には刊行されるとのことなので、お読みいただければ幸いである
2)免疫に関するエッセイのバージョン3.0の作成
これは現在も進行中で、最終段階に来ている
この過程でわたしが考えていたことの全体がより明確になってきた
手薄なところには手を加えたが、全体的な枠組みはそのままとすることにした
このバージョンが完成すれば現段階での最終形になる
終わり次第、次のステップに進むことにしたい
3)テレビのチャンネルを変えた時に偶然聞えてきた言葉のメモ
それは繭山浩司という修復師が発した「時間をかければかけるほど、よい仕上がりになる」という内容の言葉
当然と言えば当然なのだが、今月はある意味で修復師のような細かい最終タッチを加える作業に明け暮れていたので、この言葉に反応したのだろう
言葉として記憶に留め、今後の行動を拘束するように願いたいものである
2022年3月30日水曜日
ハイデッガーの形而上学(40)
2022年3月29日火曜日
エッセイシリーズ本の最終ゲラ校正を終える
2022年3月28日月曜日
飛んでいきたい気分
2022年3月27日日曜日
マルセル・コンシュさん亡くなる
Marcel Conche (1922.3.27-2022.2.27)
singulière, claire, profonde, originale, modeste mais tenace,,,,
2022年3月26日土曜日
ハイデッガーの形而上学(39)
2022年3月25日金曜日
イワン・パブロフの伝記届く
イワン・ペトローヴィチ・パブロフ(Иван Петрович Павлов, 1849-1936)
2022年3月24日木曜日
ハイデッガーの形而上学(38)
2022年3月23日水曜日
ハイデッガーの形而上学(37)
2022年3月22日火曜日
人生の基本となる考え方
アメリカの恩師のこと MON MENTOR AUX ETATS UNIS(2007.7.4)
2022年3月21日月曜日
藤沢和雄という調教師
2022年3月20日日曜日
ハイデッガーの形而上学(36)
「ディオニュソス的」という言葉で表現されているのは、統一への衝動であり、個人、日常、社会、実在を越えでて、消滅の深淵を越えでてつかみかかるはたらき、すなわち、より暗い、より豊満な、より浮動的な諸状態のうちへと激情的に痛ましく溢れでるはたらきであり、あらゆる転変のうちにあって変わることなく等しきもの、等しい権力をもつもの、等しい浄福をめぐまれているものとしての、生の総体的性格へと狂喜して然りと断言することであり、生の最も恐るべき最も疑わしい諸固有性をも認可し神聖視するところの、大いなる汎神論的共歓と共苦であり、生産への、豊穣への、回帰への永遠の意志であり、想像のはたらきと絶滅のはたらきの必然性の一体感である。
「アポロン的」という言葉で表現されているのは、完全な孤立への、典型的「固体」への、単純化し、際立たせ、強め、明確ならしめ、一義的ならしめ、典型的ならしめるすべてのものへの衝動、すなわち、法則の下での自由である。
これら二つの自然の芸術的威力の敵対関係に芸術の発達が結びつけられているのは、人類の発達が両性の敵対関係に結びつけられているのと同じく、必然的である。権力の充実と抑制、冷ややかな、高貴な、とり澄ました美しさにおける自己肯定の最高形式、すなわち、これがギリシア的意志のアポロン主義にほかならない 。
ギリシア人の魂内におけるディオニュソス的なものとアポロン的なものとのこの対立性が、私がギリシア的本質に当面して心ひかれる想いを感じた大きな謎の一つである。私が骨折ったのは、根本において、なぜまさしくギリシア的アポロン主義がディオニュソス的地底から発育せざるをえなかったのかを見ぬくことにおいてほかにはない。ディオニュソス的ギリシア人こそ、アポロン的となることを必要としたのである。言いかえれば、物すごいもの、多様なもの、不確実なもの、恐ろしいものへのその意志を、節度への、単純性への、規則と概念に従属することへの意志でくじくことを必要としたのである。節度なきもの、荒涼たるもの、アジア的なものを、ギリシア人は心の底にもっている。だから、ギリシア人の勇敢さはそのアジア主義との闘争にある。美はギリシア人にとっては贈与されたものではなく、論理も、慣習の自然性もそうではない、――美は、征服され、意欲され、戦いとられたものであり――それはギリシア人の勝利なのである。
ここから私はギリシア人の神ディオニュソスを立てる。すなわち、生の、否認され折半された生ではなく、全き生の宗教的肯定を。(典型的なのは――性的行為が、深みを、秘密を、畏敬を呼びおこすということである。)
ディオニュソス対「十字架にかけられた者」、そこに君たちは対立をもつ。・・・十字架にかけられた神は、生の呪詛であり、おのれをこの生から救済しようとする指示である、――寸断されたディオニュソスは生の約束である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう。
2022年3月19日土曜日
ハイデッガーの形而上学(35)
一八七六年ごろ、いまやヴァーグナーがどこへ到りつこうとしているのかがわかったとき、私のこれまでの全意欲が危険にさらされているのを見てとって、私はぞっとした。だが私は、深く一致した欲求のあらゆる紐帯によって、感謝によって、掛けがえのないものを失い、絶対的な窮乏しかのこらないという私の見とおしによって、彼ときわめて固く結びついていた。
ちょうどそのころ私には、私が文献学と教職とにがんじがらめに縛られていると思われた――私の生涯の一つの偶然や応急策に――。私はもはやどうして逃れでたらよいかも知らず、疲れはて、精魂もつきはてた。
ちょうどそのころ私には、私の本能はショーペンハウアーのそれとは反対のことをめざしているということがわかった。すなわち、生が、最も恐るべき、最も曖昧な、最も欺瞞的なものであるときですら、その生を是認することをめざしているということが、――そのために私は「ディオニュソス的」という定式を手中にしたのである。
後の方には、こうある
アポロンの迷妄とは、美しい形式の永遠性のことにほかならない。「つねにかくあるべし」という貴族主義的立法のことである。
ディオニュソスとは、官能性と残酷性のことにほかならない。 移ろいやすさは、生産し破壊する力の享楽であると、不断の創造であると、解釈されうるかもしれない。

















