2021年8月12日木曜日

瞬間瞬間が意味を持つ緊張感溢れる道行の条件
























昨日はこのブログに驚いた

今朝、そのことについて、パリの院生時代とその後の生活という視点から一つの考えが浮かんできた

昨日、学生時代は感覚器が異常に興奮していたと書いた

いつどのような形で終わるか分からないものの、学生でいる間、その全体が頭の中に納まっていた可能性がある

その全体の中で、「いま・ここ」が位置付けられていたのではないだろうか

「いま・ここ」を自らの歴史の中でしっかりグリップしていたと言えるかもしれない



しかし、院生を終えた後はそのグリップが失われていたのではないだろうか

つまり、学生に代わる新たな全体がないまま歩んでいた可能性である

そのため「いま・ここ」が自分にとって意味付けされないままになっていたのではないか

これまで、例えば、翻訳を二つ終え、現在2つのプロジェに当たっている

これらにしても大きな枠組みの中で捉えられていなかった可能性が高い



ただ、院生を終えてすでに5年が経過し、これまでの時間を振り返る機会が増えている

その中で、いくつかの結晶化しつつある考えが生まれている

その一つは『わたしの方法序説』とでも言えるもので、一方のプロジェはそれを綴っていると見ることもできる

さらに言えば、もう一つのプロジェはそれを元にした最初の試みと捉えることができる

このように、これからの歩みの基本が手に入った状態にあるとも言えるだろう

もしその歩みの全体を頭に描きながら進むことができれば、これからの「いま・ここ」も立ち上がってくるのではないか

瞬間瞬間が意味を持つ緊張感溢れる道行になるのではないか



こんな考えが浮かんだ朝であった








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